第六話 天変地異
明らかな異常事態に、身体が警告を発している。早鐘を打つ胸を無意識に手で抑え、フリッツは空を見上げた。
昼日中に、ここまで暗い空を目にすることがあるだろうか。
ディングリップ城上空を中心に渦巻く暗雲。そう見えているのは、おびただしい数のドラゴン。これほどまでの数が大挙してやって来るのは異常だ。ましてや、それが城を目当てにしているとあれば。
意図的に、操っている者がいる。
刹那、暗い空が閃いた。ほぼ同時に、耳を塞ぎたくなるほどの轟音が響く。
稲妻の落ちた先は尖塔で、空中でぼろぼろと崩れ落ちた。一瞬、何を見ているのかわからなかった。子供の作った砂城が、あっけなく壊されるかのようだった。塔の下でつんざくような悲鳴が幾多も上がる。
続いて、もう一撃。別の尖塔に光が走り、運悪く火の手が上がる。そしてまた次。落雷は瞬く間に四つの塔を崩落させた。
さっきまでは普通だった。空は晴れていたし、雲も風もなかった。自分の状況はともかく、外には穏やかな時間が流れているはずだったのに。
こんな僅かな間に、こんなことがあるだろうか。
「はぁい、こんにちは。賑やかになってきたわね」
突然湧いて聞こえた艶やかな声に、愕然とする。
目の前に現れたのはルビアスだった。
すらりとした長身に輝く黒髪を揺らし、まるで知人に声をかけるような気安さでそこに居る。紅い唇が、愉快そうにゆっくりと弧を描く。
襲撃に気を取られ、ルビアスに全く気が付かなかった。それは皇帝も同じで驚愕を隠しきれていない。
城の警護をかいくぐり、混乱に乗じて気配も音もなく現れた。この混乱を臨むバルコニーへ、唐突に。
ルビアスは真っ直ぐに皇帝だけへ目線を遣る。
「ご挨拶よ。ウチの幹部が二人欠けたのはご存じでしょ? 変な気起こしてないか心配で様子見に来ちゃった」
「なんだ、取り返しに来たのか? 頭が二つも欠けては、さすがの漆黒竜も心許ないというわけか」
「あれはもう要らないわ。好きにして。中途半端な人材は欲しくないの」
冷たい声音で放たれたその言葉は、ルビアスの真意だとフリッツは察した。
「あなたたちは思い違いをしてる。ゴルヴィルが死んで、サルマが捕った。で、それが何だっていうの?」
ルビアスの言わんとしている事。脅しではなく、それは事実だ。
この天変地異を作り出しているのは、おそらくたったの四人。
見せつけに来たのだ。ありあまる力を誇示するために。下手なことは考えないほうが身のためだと、警告するために。
「ほうら、始まった」
ルビアスが視線を向け、皇帝を促す。警戒しながらも、皇帝は進み出て下の様子を伺った。フリッツも、同様に。
城門から、真っ直ぐ上へと伸びる階段。その最下段の広場で、ひしめく兵士が一掃された。統一された白銀の鎧が、たった一振りでなぎ倒される。まるで麦の穂を払うように、それよりも容易く。黒い外套が閃くと、辺りの兵士がどっとなぎ倒れる。そしてその場に立っている者は誰も居なくなる。
フリッツは固唾を飲んだ。
これはなんだ。悪夢か。
黒いマントが進んでくる。
あれは人じゃない。人であるはずがない。化物、いやそれ以上の畏怖。
鬼神。
「悪いことは言わない。あなたたち凡人は、あまり思い上がらないほうがいい。今までみたいに漆黒竜団のお願いを聞いてくれればいいの。反旗を翻すなんてバカな真似はしないほうが身のためよ。でないと多くの兵力と人材、そして築いてきた文化と暮らしを失うことになる。この北の無慈悲な大地にここまで根付いたあなた方を、我々のボスは高く評価している。あとは……おわかりかしら?」
鬼神が次から次へと兵隊を打ち破り進んで来るのを、皇帝は呆然と眺めていた。それを見て満足げに微笑むと、ルビアスはおもむろにバルコニーの手すりに足をかける。
「忠告はここまでよ。じゃあ、帰るわね」
その場で軽やかに飛び上がり身を翻す。と、次の瞬間にはもう居なかった。小型のドラゴンがルビアスを連れ去り、宙から皇帝に向かって手を振っているのが見えた。
ルビアスが行ってしまっても、脅威が去ったわけではない。黒いマントはまだ兵をなぎ倒し、進み続けている。
アーサー=ロズベラーはこちらへ向かっている。
「何をぼうっと突っ立っている! 来い!」
皇帝はフリッツの手首を強く掴むと、足早に連れ出した。
フリッツを引きずりながら、皇帝は屋外へと出た。
城門から伸びた長い階段の左右には、広場や踊り場を挟みながら様々な建物が軒を連ねている。先ほどまでフリッツと皇帝が居た部屋も例外ではなく、少し行けば城門から城へと続く階段が現れた。その踊り場の一つらしい場所にフリッツは連れていかれた。四角い広場で、ぐるっと周りを高く繊細な彫刻の枠に囲まれている。
迎え撃つつもりだ。
フリッツは考えた。回らない頭で、精一杯考えを巡らせた。
どうしたらこの場を凌げるのか。アーサー=ロズベラーに斬られず、この場を生き延びるには。
皇帝が腰の柄に手を伸ばすのが見えた。納めている鞘は豪奢だが、装飾の類ではないらしい。
ここに来て手を伸ばすということは存外剣に精通しているのかもしれない。自身の腕に覚えがあるのかもしれない。だが。
「剣を捨ててください」
フリッツが言い放つと、予想通り皇帝は目を剝いた。
「何を馬鹿なことを!」
「捨ててください。持っていれば何をされても文句は言えない。捨てて」
フリッツは自分の腰に下がったナマクラを鞘ごと外した。そして敷き詰められた美しいタイル張りの床の上に置くと、躊躇いもなく遠くへ蹴飛ばした。カラコロと、乾いた音を立てて転がっていく。
「今陛下が剣を持っていても無意味だ。なんの意味もない。それならせめて、こちらに戦意がないことを示すべきです。運が良ければ命ぐらいは助かるかもしれません」
フリッツの奇行にあっけにとられていた皇帝だったが、言葉の意味を飲み込むと今にも刀身を抜きそうな剣幕で言った。
「貴様! 私を愚弄する気か!」
「これ以上、目の前で人が死ぬのを見たくないだけです」
皇帝が激昂すればするほど、不思議とフリッツの頭は冷えていく。
「陛下も先ほどご覧になったでしょう。帝国の何人もの兵士が、一瞬で倒されたのを。陛下にはあれだけの兵士を一度に制する技量がありますか。それを上回る剣士と渡り合う自信がありますか。そうでなければ、この場で剣を持っている方がよほど危険です」
アーサー=ロズベラーの前では剣など何の意味も為さない。
剣にも、盾にすらならない。
「まさか貴様、得物を持っていなければあの男から逃れられると思っているのか。あの悪党にそんな分別があると?」
そう言われ、フリッツは黙り込んだ。
剣を捨てたほうがいいと思ったのは、勘だ。冷静な判断というより、心がそうしろと叫んだのだ。
それはなぜだ。得物を捨てれば、戦意がないことを示せば助かるかもしれないと、なぜそんな甘い考えに至ったのか。
自分は、この期に及んでまだ信じているのか。
アーサー=ロズベラーを、無差別に命を奪い取る悪党ではないと。剣士としての矜持がまだ残っていると。
フリッツは目を強く瞑った。
そんなことは今、どうでもいい。目の前に迫り来る脅威から逃げる術を探すだけだ。
自分はこんなところでは死なない、死ねない。帰りを待っている仲間が居る。帰らなくてはならない理由がある。やらなければならないことがある。
「下手な抵抗をするくらいなら、しないほうがいい。今この場で、剣は無意味だ。あちらの今回の目的は威圧と脅迫で、本気で潰しに来たわけじゃない。陛下には手出ししないでしょうし、ここは」
「……剣を捨て尻尾を巻いて、大人しく玉座に戻れと。そう貴様は言うのか」
血走った目で、皇帝はフリッツを見下ろした。
「これ以上あの者どもに好きにはさせん! この歴史あるディングリップ帝国を、このまま踏みにじられてたまるものか! 散々弄ばれてきた! いいように使われてきた! これ以上は最早我慢ならぬ!」
「……陛下」
少しばかり意外だった。
自分の矜持ばかりかと思っていたら、もしかするとそうでもないのかもしれない。皇帝は、漆黒竜団に支配されるディングリップ帝国の未来を憂いている。
このまま言いなりになっても何にもならない、それは正論だ。
「我慢ならぬ……! 私は、必ずこの国を奴らの手から解き放つ! どんな手を使っても……!」
突如強い力で肩を引かれ、フリッツは唖然とした。
皇帝に腕を捻りあげられる。それだけなら動けなくはない。だが問題は別にあった。頸に剣を押し付けられている。
本当に、本気で自分を盾に使うつもりだ。
フリッツは内心舌打ちした。アーサーの脅威ばかりを考え、もう一つの敵を忘れていた。この男に剣を捨てろと進言したところで、聞くはずがなかったのだ。なぜ無事に助けてやりたいなどと思ったのか、心底自分の甘さに吐き気がする。
剣は無い、ナマクラは手の届かないところにある。否、剣などなくても振り払えないことはない。皇帝はある程度鍛錬をしているのだろうが、この特殊な状況下なら、今のフリッツであれば隙を見て抜け出すことも出来る。しかも相手は短剣ではなく長刃だ。やりづらいに違いない。
アーサーが姿を現した瞬間、そこを狙う。緊張の高まるその一瞬、皇帝には必ず隙が生まれる。
「すまないな、もう我々には後がない。どんな汚い手を使っても、己の手を汚そうとも、私はこの国を解放したいのだ。力を貸してくれ、頼む……」
フリッツは目を見開いた。
囁かれた声音は、万策尽き果てて疲れ切った男のそれだった。先ほどまで激昂していた人物と同じとは思えない。
フリッツはゆっくりと首を回し、皇帝の目を見た。当てられている刃は、まだ食い込まない。鳶色の瞳と、視線がかち合う。先ほどの、自分を蔑んでいた視線は本物だった。だが今目の前にある、縋るような瞳も本物だった。きっとどちらも本心だ。
フリッツはどうしたらいいかわからなくなった。
自分はここから逃げ出したい。無事にみんなの元へ帰りたい。ルーウィンが居る。ルーウィンを元に戻すまでは、自分は死ねない。
でもこの人は、この帝国のために戦いたいと言っている。そして今攻め込んできているのは、自分の兄だ。
でも敵わない。誰にだって、どうしたって敵わないのに。命を懸ける意味がない。
フリッツは息を吐いた。
つくづく、甘い。どこまでいっても自分は愚かだ。
「……さあ、お目見えだ」
皇帝が唇を舐めるのが見えた。緊張している。
フリッツは手加減なしに強か床に押し付けられた。そして首元に刃が当てられる。なるほど、この体勢のほうが皇帝にはやりやすいだろう。
美しく整備された階段を上って来る。頭が、肩が、その全貌が少しずつ見えてくる。
ほどなくして皇帝とフリッツの前に、アーサー=ロズベラーは現れた。
胸が鳴る。ドクンと脈打つ。
あれだけの人を斬っておいて、さほど返り血を浴びていない。どれほど速く動いていたというのだろう。ほとんど黒に近い深緑の髪が、ぬるい風にわずかに揺れる。整った面立ちは相変わらず、しかしそこには感情というものが何一つ映されていない。
呼吸一つ乱していない。なんと無機質な生き物だろう。
血は通っているのだろうか。
こころは。心は残っているだろうか。
「……これが誰だか、判るか? アーサー=ロズベラー」
皇帝が言う。声は震えてこそいないが、掠れている。緊張の中、絞りだした言葉がこれだ。
どんな台詞だとフリッツは思った。どちらか悪役かわからない。
国を想う皇帝に、少しでも同情した自分の愚かさを恨んだ。どんなに国を想おうが、今やっていることはその辺の下衆と何一つ変わらない。大義があれば何をやってもいいというわけではない。
皇帝は刃をフリッツに突きつけたまま、アーサー=ロズベラーに何かを言っている。フリッツには聞こえなかった。聞きたくなかったし、胸糞悪い想いでそれどころではなかった。そもそもアーサー=ロズベラーがこんな御託に耳を貸すのか疑わしい。
タイルの床がじわじわと体温を奪う。地に伏し、踏みにじられ、頸に剣を突きつけられ。これも自分の弱さと甘さが招いたことだ。こんなに無様なことはない。
やっぱり馬鹿だ、ぼくは。
何も信じるべきではなかった。皇帝も、兄も。
じりじりと肚の底でとぐろを巻いていた想いが、膨らみ溢れて、堰を切る。
父の顔が、母の顔が。孤独に過ごした幼少期の思い出が、よぎる。
アーサー=ロズベラーの弟に生まれて良かったことなんか何一つない。
命を狙われ自由を奪われ。こんなことにかまけている暇はないのに。
―――居なければ。
アーサーさえ居なければ。こんなことにはならなかった。
どうせ死ぬなら、最期に恨みごとの一つくらい。皇帝の交渉がなんだ、そんなものは遮ってやる。
腹ばいのまま息を吸う。
ありったけの、ありったけの恨みを込めて。
「兄さんなんか大っ嫌いだ!」
そして、時が止まった。
否、止まったかのような錯覚だった。
あれだけ隙の無かったアーサー=ロズベラーが、呆けたように立ち尽くしている。
フリッツは目を見張った。
なんだ。なんだこれは。
一体何が起こっているんだ。
「何をしている! 今だ!」
フリッツが理解する間もなく、皇帝の号令が響いた。
四方から、フリッツ目掛けて矢の雨が降り注ぐ。そのための場所だった。
皇帝はすでに退却していた。フリッツもろとも、近距離からアーサー=ロズベラーを狙う作戦だ。
幾多の矢が空を切る。反射的に目を瞑る。
攻撃が止んだ気配を察して、フリッツはゆっくりと目を開けた。
目の前にアーサー=ロズベラーが立ちはだかっている。マントを翻し、矢を振り払ったのだろうか。だがその全ては避けられなかったらしく、数本が腕や腿に刺さっている。
「……にい……さん」
フリッツは無意識に上ずった声を出した。
その時、大柄なブラックドラゴンが急降下してきた。ドラゴンはアーサーとフリッツを回収すると空高く舞い上がった。
瞬く間に、その場から誰も居なくなる。
広場にはなにもなかった。ただ無数の矢が、虚しく転がっているだけだ。
皇帝は呆けたように、ドラゴンの飛び去った方を見上げた。
そこには数刻前と何一つ変わらない空があるだけだった。




