第四話 放棄
午後の昼下がりの、宿屋の一室。
穏やかな日差しと僅かに揺れるカーテン。サイドテーブルには積み上げられた本の山。
読んでいた一冊を戻し、別のもう一冊を手に取る。
「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが」
「で、今度は何を拾ってきたの?」
欠伸混じりの物言いに出鼻をくじかれ、フリッツは本から顔を上げた。
「出だしから口を挟む人、きみくらいだよ」
「だってその話始め多くない? おじいさんとおばあさんはもういいわ、強靭な若者が出てくる冒険活劇がいい」
「いや、そういう話も無くはないけど。童話じゃなくて小説になるとさすがに長いというか……ぼくが読み疲れる前にルーウィンが飽きるんじゃない?」
「失礼ね、そんなのやってみないとわからないじゃない。他にもっと面白そうなのはないの? お姫様がドラゴン狩りに行くようなのとか」
「残念ながらそういうのは今手元に無いです」
マティオスからの差し入れで、使用人経由でいくつか本が届けられたが、ルーウィンが楽しめるようにと配慮されたそれは大体が童話だった。それはいいのだが、お姫様と王子様が出てくる話はラストに接吻があるのがどうも読み聞かせづらい。
これもダメあれもダメ。では何にしようかとフリッツが思案していると、ルーウィンが薄く微笑んでいた。
「どうしたの?」
「あんたがここまでスラスラ文字が読めるとは思わなかった」
「師匠が教えてくれたから。ルーウィンだって、文字は読めるし書けるじゃない」
「ヘッタクソな字だけどね。読むのは店先の看板とメニューくらいだし」
なるほど、それは頑張って覚えるわけだ。
マルクスが自分に教えてくれたように、きっとルーウィンもダンテが教えてくれたのだろうと、ぼんやり思う。
穏やかな時間だ。こうして二人きりでゆっくり過ごすのも悪くはない。
フリッツがルーウィンに物語を読み聞かせるなど、少し前には考えられなかったことだ。ここ数日、フリッツは何冊もの本を彼女のために開いていた。今の自分に出来るのは、退屈という苦痛を与えないよう、絶え間なく寄り沿うことだと思っていた。
だがまた一つ小さな欠伸が出て、フリッツはルーウィンの顔色を窺った。
「疲れた?」
「ごめん。またちょっと横になる」
「わかった。ご飯の時間になったら呼びに来るね」
ルーウィンはごそごそと横になり、フリッツは毛布をかけてやった。
そしてそっと、部屋を後にした。
味を感じなくなって数日が経ち、ルーウィンは以前より横になることが多くなっていた。
食べ物はなんとか腹に収めているが、美味しいと感じられないのが相当苦痛なのか、食事の席についてもほぼ無表情のまま機械的に口に運んでいる。そのため活力が湧かないのか、身体を鍛えるようなこともしなくなった。
チルルの髪いじりも編み込みなどかさばるものは出来ず、いつでも寝られるようにおさげにするか首の下あたりで軽く結わえるかになってしまった。
ルーウィンは寝台に座ったまま、ぼうっとしていることが増えた。
その視線の先には何も見えていないのだと思うとゾッとする。
何処かへ行ってしまいそうな気さえした。今の彼女ではどこにも行けないはずなのに。
頬の肉も落ちた。腕も細くなった。
元々細かったが、適度な筋肉がついているのは伺い知れた。だが今は違う。弓はまだ構えられるだろうか。
「……さん、フリッツさん!」
何度もミチルに呼びかけられ、フリッツはようやく目を瞬かせた。
「ごめん」
「フリッツさんもティアラさんも、あまり思い詰めないでください。何度も言っていますが、こういうのは長期戦です。そうなると、こちらもそれなりに体力が必要ですから」
一番年少のミチルに窘められて、フリッツもティアラも項垂れた。
「フリッツさんはよくやっています。でも、あの図太いルーウィンさんに空いた風穴を、どうしてフリッツさん一人で埋めれると思うんです?」
「……ごめん。ぼく、思い上がってた」
一段と声を小さくしたフリッツを見て、ミチルは息を吐く。
「意地悪な言い方してますよね。でも、だめですよ。この世の不幸を全部一人で背負ってるみたいな顔をして。わかってます、フリッツさんが自分の手でどうにかしてあげたいと思ってるのは。でも幸いここには人手があるんですから、一人で背負おうとするのは野暮ですよ。もっとぼくらを頼ってください」
ミチルもチルルも、もう十二分に頼りにしていた。
自分とティアラとだけでは、上手くいかずに思い詰めて堂々巡りになるのは目に見えている。居てくれて良かったと、心から思っていた。
不意にミチルはいたずらっぽく微笑んだ。
「と、自分のことを棚に上げて、ちょっと前までチルルのことを一人でどうにかするつもりになってたぼくだから言います。偉そうなことを言ってすみません」
隣に座っていたチルルが、もう、と言ってミチルを小突いた。
「やれることはやったと思います。ですから次は、もう少しルーウィンさん自身の力を信じてもいいかもしれませんよ?」
「そう、ですね。わたくしたちはいつも通りにしていないと。ルーウィンさんが、元気になりたいと思えるように」
ティアラが微笑み、ミチルは頷いた。
ルーウィンを信じる。彼女の生きる力を、信じる。
だがその希望は、すぐに覆されることとなった。
フリッツとティアラ、モーネは夜のディングリップの街並みを息を切らして駆け抜けていた。
夜半も回る頃、目を擦る宿屋の主人と役人が部屋を訪ねてきた。普段は目覚めの悪いティアラだが、さすがに話を聞いて青ざめた。三人とも寝間着のまま上着だけを羽織り、チルルとミチルにはそのまま部屋に残っているよう言づけると、案内を申し出た役人を振り切って飛び出した。場所なら知っている。
暗い夜道にポツポツと浮かぶ街灯を頼りに、走った。
今更走ってもどうにもならない、歩いて行っても変わらない。しかし一刻も早く辿り着きたかった。
ディングリップの街と荒野とを隔てる門。荒野に赴く際、フリッツたちも何度か通過している場所だ。
そこに併設された門兵の詰め所に、彼女は居た。
「……ルーウィン」
ノックもせず、飛び込んだまま開け放された扉を門兵が静かに閉める。
肩で息をするフリッツが見たのは、力なく椅子に座り込むルーウィンだった。
「なんで……。どうしてこんな時間に。いったいどこに……」
「荒野だよ」
壁際にもたれていたマティオスが答えた。
フリッツはそこで初めてその場にマティオスとラクトスも居るのだと知った。グラッセルへの出入りの取り締まりはマティオスの管轄下だ。部下から一足先に報せを聞いて、二人も飛んできたのだろう。
しかしわからない。なぜこんな時間に、こんな場所に彼女が居るのか。
「荒野って……?」
「理由はそこに居る馬鹿に直接聞いたらどうだ」
乱れたままの浅い呼吸で、フリッツは自分の目を疑った。
これがあのルーウィンなのか。
背中を丸めて首を垂れ、下ろしたままの長い髪から僅かに除く瞳は虚ろだ。フリッツの知っているルーウィンとは違う。彼女はもっとはつらつとしていて、誰より元気で、いつ何時も堂々としている。
だが、それはいつのルーウィンだろう。
色んな場所を壁伝いに探り探り歩いたのか、垂れ下がった腕や手にはかすり傷と汚れが目立つ。着ているのも汚れてしまった薄物の寝間着だけで、とても荒野に赴くような恰好ではない。
動けないでいるフリッツの横を、静かな足取りでティアラが進んだ。ルーウィンの傍らにしゃがみ込み、傷ついた手を優しく取って包み込む。そして安心させるように語りかけた。
「ルーウィンさん、帰りましょう。帰って、ゆっくり寝ましょう……?」
その声の揺らぎに、ティアラの動揺が感じられた。平静を装いたくても、上手くいかない。
しかしルーウィンは微塵も動かなかった。
「なんて面してんだよ。お前はもっと上から目線で高慢ちきな減らず口の穀潰しだろうが」
ラクトスの声は明らかに苛立ちを抑えていた。その矛先はすっかり変わり果てたルーウィンへのものか、はたまた何も出来なかった自分自身の無力さにか。
「せっかく拾った命、無駄に捨てるような真似するんじゃねえ!」
石造りの堅牢な部屋に、この場に似つかわしくない怒号が響く。
無防備なまま、誰にも知らせず一人で抜け出し、荒野に向かう。
命知らずな行動のその意味は。
つまりは、そういうこと。
「誰も」
乾いた唇から細い声が漏れる。聞き逃すまいと、全員が耳を聳てる。
「生き返らせてくれだなんて頼んでない」
フリッツは自分の心臓が止まったかのような錯覚に陥った。
恐れていた言葉だった。
ティアラが僅かに身じろいだ。ラクトスが何か言いかけ、それをマティオスが静止する。
「ルーウィンちゃんはしばらくうちで預かるよ」
「どうして……そうなるんです? わたくしが居るのに、どうして……」
目を見開き震えた声で、ティアラはマティオスに食って掛かった。マティオスはティアラの視線を受け止め、努めて穏やかに答えた。
「ルーウィンちゃんが、これ以上きみたちの手を煩わせたくないと思う気持ちがわからないでもないからだ。少し離れた方がいいと、そう思うよ。特に、今のきみは」
刹那、ティアラの瞳から大粒の涙が流れた。嗚咽をあげまいとするがそれは到底堪えられるものではなく、手で顔を隠したままティアラは詰め所から飛び出して行った。
力なく項垂れたままのルーウィンと、ラクトスとマティオス、そしてフリッツが取り残される。
モーネは何も言わず、ただルーウィンを見つめていた。




