第五話 絶交
「もう我慢できません!」
ある日のこと、フリッツは宿屋の廊下にてティアラに詰め寄られていた。
「ルーウィンさんが体調を崩されてからもう何日経ったと思います? 七日ですよ、七日! こんなに顔を合せなかったことはありませんでしたし、いい加減にフリッツさんお一人で看病されるのは限界だと思います。いくらルーウィンさんご本人の頼みとはいえ、これ以上は待てません!」
「ちょっとティアラ、落ち着いて!」
少ないとはいえ、他の客のこともある。珍しく怒鳴るティアラをフリッツは必死になだめた。
すると言いたいことを言って少し落ち着いたのか、一変してティアラはしゅんと元気をなくしてしまった。
「ミチルさんは、ルーウィンさんが仮病なんじゃないかって言うんです。話している気配はするし、フリッツさんと一緒になって何か隠し事をしているんじゃないかって」
内心ぎくりとする。壁越しに会話は漏れ聞こえていないようだが、それでもなんとなく気配はわかるのだろう。ダンデラが大人しくてよかったとつくづく思う。
「それならそれでいいんです。お二人の間の隠し事でも。でも、それはわたくしたちにはお話出来ないことなのでしょうか? わたくし、そんなに信用がありませんか? それとも、わたくしなにかルーウィンさんのお気に障るようなことをしたのでしょうか」
ティアラは今にも泣いてしまいそうな様子だった。フリッツの胸が痛む。同時にルーウィンへの苛立ちが湧いた。
ティアラがこんなにも心を痛めているのに、ルーウィンときたら部屋に籠ってダンデラと共にのんべんだらりと日々を送っているだけなのだ。
「ごめんねティアラ。もう少しだけ時間が欲しい。あと三日、あと三日のうちになんとかするから」
ティアラはうつ向いていた顔を上げ、確かめるようにフリッツの目を見た。
「……三日ですね、わかりました。どうか無理だけはなさらないでくださいね」
「うん、約束する」
フリッツは部屋に戻り、ドアを閉めて深くため息を吐いた。
やはりもうこれ以上は無理だ。ダンデラの存在を隠し通せても、みんなの不安を拭い切ることは出来ない。どうにかしなければ。
「ああ、もう我慢できない!」
寝台の上で天井に向かってクッションを投げたルーウィンに、単純に腹が立った。
「ティアラ、泣きそうだったよ。このままでいいの?」
「というわけで、ちょっと出てくるわ」
「話聞いてる? あと三日だよ。三日でなんとかするんだよね?」
「はいはい、なんとかするわよ」
先ほどティアラとの会話で三日と答えたのは、昨晩ルーウィンと話し合った結果だった。しかしこの様子ではどこまで本気かわからない。
「今外に出るとティアラと鉢合わせるかもよ」
「大丈夫よ、窓から出るから」
「ああそう。ダンデラさんもそろそろ外、出たいんじゃないかなあ」
「聞いてみたけど別にいいって言うのよ。窓から見てるだけで充分なんだって」
不機嫌な口調で返していたが、その言葉にフリッツは面食らう。
「ダンデラさん、ルーウィンとは話すの?」
「話さないわよ。でも目を見ればある程度わかるでしょ? じゃ、あとは頼んだわね」
「ちょっとルーウィン!」
言うなりルーウィンは窓から猫のように飛び出していった。部屋は二階だが、一階部分の屋根があるため足場には困らない。あっという間に姿を消したルーウィンに、フリッツは思わず床を踏みつけた。
ダンデラを置いて。勝手が過ぎる。
「なんなんだよ、もう……」
静寂を取り戻した部屋に、フリッツはダンデラと二人きりになった。
本当に目を見れば考えが分かるものか。試しに真顔でじっと覗いてみたが、分からない。
ダンデラは本当に話さなかった。くぐもった声で時折ルーウィンを呼ぶ以外には。意思疎通の出来ない身元不明の中年男性を最初は気味悪く思ったが、害がないとわかってしまえば不思議とすんなり受け入れてしまった。そこが自分の甘いところだとは思うのだが。
ダンデラは窓の外の行き交う人々の様子を見ていた。その間に、フリッツは寝台に道具を広げて剣の手入れを始める。
しばらく作業に没頭していたフリッツだったが、いつの間にかダンデラが食い入るように剣を見ているのに気が付いた。
「ダンデラさん、剣に興味があるんですか? よかったら見ます?」
フリッツがナマクラを掲げると、ダンデラはしげしげと剣を見つめた。しかし見るだけで満足らしく、手に取ってみようとはしなかった。
「四六時中こんな場所に居たら身体も鈍っちゃいますよね」
せっかくの恵まれた体が、こんなに部屋に籠っていたのでは衰えてしまう。それに外の空気を吸えないのは気の毒だ。かといって散歩に連れて行くのもリスクが高い。
「ダンデラさんはこのディングリップの出身なんですよね? ご家族は?」
ダンデラは僅かに眉を寄せたように思えた。聞こえていないわけではないが、喋れないのか言いたくないのか。フリッツも最初から返事は期待していなかった。会話は出来なくとも、話しかけることでコミュニケーションがとれたらと思ったのだ。喋らない相手だからと言ってお互いだんまりでは空気が重い。
「正直あなたのこと、みんなに打ち明けて承諾してもらえたらそれでもいいと思うんです。今は隠しているから、こんな部屋に閉じ込めるみたいなことになってますけど。ダンデラさんと一緒に居られるなら、ルーウィンも旅を終えられる。きっと、いい形で」
フリッツは緩く微笑んだ。ダンデラと一緒に居られたら、ルーウィンの毒気も抜けるだろう。無理にゴルヴィルに復讐などせず、危険を冒さず終止符を打てる。
「ダンデラさんがもしこの街に未練が無いなら、南大陸に行きませんか。ぼくたち、南大陸から来たんです。ここは色んな意味で本当に安全とは言えないし……。それにほら、空が狭い。建物の背が高いから、なんだか落ち着かなくって。それに通りは全部石畳かレンガで舗装されていて、土の匂いが全然しない」
みんなはそれぞれにやらなければならないことがある。となると南大陸に戻るのは自分とルーウィンだけになるので荒野を行くのは無理だろう。
次の船が出るのはいつだろうか。そろそろ季節風の影響は無くなる頃だろうか。フリッツは思いつくままに話した。
「南大陸はいいですよ。ぽかぽか陽の当たる場所で、草の上を風が転がっていくのを見てると気持ちがいい。ダンデラさん、ここよりも絶対南大陸の方が合ってると思います、きっと暮らしやすい。最初のうちは小さい村だと余所者はあれこれ言われるかもしれないけど、ちゃんと畑を耕していればそのうち仲間に入れてもらえる。ダンデラさんも腕っぷしは強そうだし、練習したらすぐに出来るようになりますよ」
思い出したら、だんだん南大陸が恋しくなってきた。朝露で緑が洗われた匂い、草原を駆ける風、心地よい木陰。そろそろマルクスにも会いたい。元気にしているだろうか。
「そうだ、ルーウィンも特に行く当てがないならフランあたりまで南下しちゃえばいいんだ。ルーウィンとダンデラさんとで暮らして、ぼくは師匠がいるから、たまに顔が出せたらいいなあ……」
はっと気が付くと、ダンデラは優しい眼差しをフリッツに向けていた。
「今の聞かなかったことにしてください! ぼくが勝手に考えて勝手に喋っただけなので……。そうだ、飲み物貰ってきますね! 少し待っててください」
フリッツは赤くなった顔を誤魔化すために部屋を出た。
階段を下りながら、とりとめのない妄想を口にしてしまったことを恥じる。ダンデラが黙って聞いていてくれるのをいいことに、つい自分に都合の良いことばかり話してしまった。ダンデラはどこまで理解しているだろう。
ただ紛れもなく、そうなったらいいなあとは思った。きっとみんな平和に暮らせる。
ロビーより少し奥まったところにある食堂で新しい水差しを貰い、足早に階段を駆け上った。
「ダンデラさん、お待たせしま……」
フリッツは水差しを取り落とした。床に水の染みがどくどくと広がっていく。
部屋のドアは開け放たれたまま、そこにダンデラの姿はなかった。目を離した、ほんの少しの間に。
フリッツは走り出した。
「ダンデラさん!」
通りにダンデラの姿を見つけて、思わずフリッツは叫んだ。名前を呼ばれたことに気が付き、ダンデラは駆け寄ってきたフリッツを見返した。
「もう、捜しました! 勝手に出て行かれたら困ります」
勢いが止まらず思わずすがりつくような格好になり、ダンデラは少し申し訳ないような顔をした。
ここまで来るのに、フリッツは道中肝を冷やしっぱなしだった。もしもダンデラがディングリップ兵に連行されたらどうしようと、ルーウィンに何と申し開きしたらいいだろうと悪い考えばかりが頭を巡った。
ディングリップの街は基本他人に無関心であるため、フリッツが焦った様子できょろきょろとしていても、なんならこんな人を見ませんでしたかと尋ねてもろくに返事もない。しかしダンデラのどこか浮世離れした様子はやはり街の人々の目を引いたようで、奇特な数人の証言を頼りになんとかここまで辿り着いたのだ。
息も絶え絶えで腰を折ったままのフリッツを、ダンデラは心配そうに見ていた。
「やっぱり外に出たかったんですね。何が目を見たらわかる、だ」
この場に居ないルーウィンに対して毒づく。そうでなければダンデラが勝手に出てくるはずがない。ずっと部屋に閉じ込められて本当はうんざりしていたのだろう。
そして辺りを見渡して気が付いた。
「あれ、ここって……」
広い通りを単純に歩いてきたと言えばそうだ。
見覚えのある景色だった。数日前に来たばかりだ。もう少し行けばアーティの住まいがある。
やきもきしているより、実際に見てもらえばいい。そうすればダンテとどれほど似ているか答えが出るし、なによりアーティならダンデラをどうしたらいいか知恵を貸してくれるかもしれない。同時に渋い顔をされるのも目に見えているが。
フリッツはダンデラの手を引き、アーティの住居へと向かった。
「あら、一昨日ぶりね? 今度はどうしたの?」
この日は来客はおらず、アーティはすぐに応対してくれた。
「アーティ先生に会わせたい人が居るんです。今ちょっとお時間頂けますか?」
そう言うや否や、フリッツが紹介するより先にダンデラがひょいと顔を覗かせる。
その瞬間、アーティは大きく後ずさりし、息を呑んだ。
「……ダンテ」
フリッツは驚いた。まだ自分は、ダンテに似た人だとも何も言っていない。アーティがここまで驚くとは、本当に恐ろしいほど似ているのだ。そうであれば辛い思いをさせてしまうかもしれない。
迷い始めていると、アーティは物凄い剣幕でフリッツを見た。
「フリッツさん!」
「ごめんなさい! まさかそんなに似ているとは思わなくて」
「入りなさい! 早く!」
そう言うなり、アーティは乱暴に二人の手を引きドアを閉めた。短い廊下を抜け、小さな部屋に荒っぽく二人を通す。
「あの……アーティ先生、この人は」
「少し待ってくれないかしら。気が動転しているの、少し待って……」
アーティは眉間を手で押さえ、壁にもたれかけている。それでやっと立っていられるといった様子だった。呼吸を必死に整えようとしている。
「あなた、名前は?」
「それが話せないんです。ぼくたちはダンデラさんって呼んでいます」
「どこで会ったの? どこから来たの?」
「数日前の土砂降りの日にルーウィンが連れてきました。たまたま路地裏でうずくまっているところを見つけたって……」
「そうなのね……」
ついに胸に手を当てて苦しそうにし始めたので、フリッツは慌てて椅子を引いた。
「あの、アーティ先生。本当に大丈夫ですか? とにかく座って」
「ええ、ええ……」
背もたれにすがりながら、アーティはなんとか腰掛けた。
ダンデラはアーティの前にすっとかがんだ。涙ぐんだ眼で、アーティはダンデラの瞳を見つめた。
「あなた、ダンテなの? 本当に?」
アーティはダンデラの頬に手を添えた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……。わたしはすぐに選べなかった。ごめんなさい……」
とうとうアーティの痩せた頬をいくつもの涙が伝った。それは止めどなくあふれ出て、テーブルの上に次々と水溜まりを作る。
しばらくフリッツは何も言えなかった。ダンデラがダンテ本人であるのか、その真偽よりもアーティの贖罪の念に圧倒された。
アーティが落ち着くまで、ダンデラはその大きな手でずっとアーティの頭を撫でていた。
「……見苦しいところを見せてしまったわ」
鼻は赤く、まだ声はすすり泣き混じりのアーティは恥じ入った。フリッツといえばアーティをここまで泣かせてしまったことの罪悪感でいっぱいだったのだが。
「あの、先生。その、ダンテさんは数年前に……」
「ええ、死んだはずよ。ゴルヴィルに殺されたのを、わたしもみんなも間違いなく見ているわ。死亡はわたしが確認しましたから、間違いない。あの時滞在していた村の共同墓地に……そう、カーソンの記憶が後遺症でずっと混濁していて、それで彼の入院している村へ集まることになったの。あそこへ葬ったはず、間違いなく……」
アーティは濡れた白い睫を指で拭うと、フリッツに向き直った。
「フリッツさん、この人のことは誰が知っているの?」
「ぼくとルーウィンだけです。宿屋で匿っています」
「みなさんには知らせていないの? ラクトスさんは……」
「ラクトスは今大事な話し合いをしている最中なので、別行動中です。まだ伝えては……」
なぜここでラクトスの名前が出てきたのかが少し不思議だった。確かに、彼はパーティのリーダー的な役割をしているが。
「この人は間違いなく、ダンテ=ヘリオだわ。でも……」
アーティは言い淀んだ。そしてゆっくりと口を開く。
「中身が同じとは限らない」
「どういうことです?」
フリッツが聞き返したその時。
ドアが勢いよく開いた。いや、ほとんど蹴破られたといっても過言ではない。
入ってきたのは、小柄な身体から恐ろしいほどの怒りを煮え滾らせたルーウィンだった。今まで見たどんな彼女より、恐ろしかった。まるで子を奪われた母親のようであり、恋人を失った女のようでもあった。眼差しだけで相手を石に変える化け物のようだ。
血走ったルーウィンの目がまずダンデラを捉える。そして次にアーティ、フリッツへとその視線は向けられた。
「なんでここに居るの?」
彼女の瞳から、頭から、肩から腕から。憎しみ混じりの怒りが燃え盛る。
それはとても、寝食を共にしている仲間に向けるものではなかった。
「帰ってみたら二人とも居なくなってる。どうしてダンデラを外に出したの? よりにもよって、なんでここへ連れてくるの? またあたしからこの人を奪う気?」
「ルーウィン、これは」
「先生は黙ってて!」
アーティの言葉をルーウィンは遮った。そして怒りは、フリッツただ一人に向けられる。
「あたしがばかだった。あんたはずっとダンデラをどうにかしなきゃって、そればっかり言ってた。いつからこうするつもりだったの? 最初から?」
「そんなに怒るってことはわかってたんだね。ダンデラさんが、ダンテさん本人だってこと」
アーティに会わせてここまで激昂するのがいい証拠だ。アーティに会わせてはまずいと最初からわかっていたのだ。
フリッツはフリッツで、もう怒りも限界だった。ここで気圧されてなるものか。この数日どれだけ周りを心配させ、どれだけ迷惑をかけたことか。これ以上わがままをきいてやる必要も、こちらが引いてやる必要もない。
「わかっててぼくに何も言わなかったの? ぼくを騙したの?」
「もういい」
ルーウィンは低く唸った。ダンデラの手を乱暴に掴むと、踵を返す。
「どこ行くの」
「あんたと先生の居ないところよ。ついて来ないで」
表情の見えないその声は、低く熱く、同時に酷く冷たく感じられた。
「もうあんたとは絶交だから」
床に穴を開けてしまいそうな勢いでルーウィンはダンデラと共に立ち去った。激しい雷雨を伴った嵐が過ぎ去っていったようだった。
後には疲れた様子のアーティと、無表情なフリッツだけが取り残された。
その日の夜、ルーウィンとダンデラは宿屋に戻っては来なかった。




