第三話 ぼくと彼女とおじさんと
寝返りを打った拍子、壁に頭をぶつけてフリッツは目を覚ました。
寝ぼけ眼で目をこすり、大きく伸びをする。寝ているのは床だったが、毛布を敷き詰めたので身体が痛いなどということはない。正直、屋根があって床があって毛布があれば、寝台などなくとも十分だった。
窓の外はほのかに明るくなりつつある。椅子に座ろうと思って立ち上がり、そして瞬間硬直した。
目の前の寝台には、眠っているルーウィンの姿があった。
楽な寝間着で身を横たえ、その身体はゆっくりと上下している。袖から伸びた腕や脚はしなやかでありながらどこか艶っぽく、シャツの下からわずかに素肌が覗いていた。鮮やかな髪は白いシーツの上で遊び、あるいは彼女の首筋に流れ落ちている。同じ色の睫は柔い頬に影を落とし、少し開いた唇からは健やかな寝息が漏れる。
その無防備さに、胸がおかしくなりそうになる。やっとのことで顔を背けた。
野営では各々毛布に包まって雑魚寝しているし、そもそもみんなが一緒では寝姿を眺める機会などない。旅の序盤、ルーウィンとラクトスと三人で旅をしていた頃は同室で寝泊まりすることもあったが、その頃は気にしていなかった。
見てはいけないとわかっているのに、どうしても惹きつけられる。
「……ん」
鼻にかかった甘い声。耳の奥が、くすぐられるような。
ぎしりと、寝台が鳴る。おそらく寝返りを打った音。
誘惑にどうしても勝てず、フリッツは振り返った。
ほどよく筋肉のついた上腕。投げ出されるたくましい脚。伸び放題の髪と髭。
視界に飛び込んできたのは、ルーウィンの隣で眠るおじさんの巨躯だった。
フリッツは悲鳴を上げた。
「どうかしましたかフリッツさん!」
隣の部屋からミチルが駆けつけ、フリッツは一瞬で部屋の外に飛び出した。
「いや、あの、ほら! 名前を言ってはいけない例のあの虫がね、ほら黒いやつ! 朝っぱらから出ちゃったもんだからつい驚いて……」
「ああ、アレですか。フリッツさん苦手ですもんね。まだそのへんカサカサしてます? よかったらぼくやっつけましょうか?」
なんて頼りになる子だろうと、フリッツは内心感動した。だが、今はそれどころではない。
「もうルーウィンが倒してくれたから大丈夫だよ。朝から大声出してごめんね。みんなは起きちゃってない? 大丈夫だった?」
「ティアラさんは相変わらずなんで。モーネさんも似たようなものです。チルルは少し起きかけましたが、ぼくが様子を見てくると言ってまた寝かせました」
「それと……部屋変わってくれだなんて、わがまま言ってごめんね」
フリッツは心から申し訳なく思った。わがままを言っているのはフリッツではなくルーウィンだが。しかしミチルはからりと笑った。
「全然大丈夫ですよ。女性陣の部屋で寝泊まりするだなんて後にも先にもない経験でしょうけど。年上の女性に囲まれてどっきどきです」
全くどきどきしていない様子が窺えてフリッツはほっとした。チルルも居るので心配はなかったが、この様子ならいよいよ安心だ。
「でも、アレを倒せるようなら良かったですね。安心しました」
「え?」
「ルーウィンさんです。たまに話してる気配もしてましたし、思っていたより元気そうで良かったです。今朝は食堂に降りてこられそうですか? ルーウィンさんの食べっぷりを見られないとなんだか張り合いが無くて」
しまったと思った。やはり自分は嘘を吐くのが苦手なのだと、フリッツは痛感する。
「みんなと一緒に食べるにはもう少しかかりそうかな。心配かけてごめんね」
「いいえ。チルルも寂しそうにしているので、元気が出たら顔を見せてくれると嬉しいです。フリッツさんも無理はしないでくださいね、いつでも看病交代しますから」
「うん、ありがとう」
ミチルの心遣いにフリッツは思わず涙ぐみそうになった。ミチルは微笑んで踵を返すと、小さな欠伸を一つして部屋に戻っていく。まだ眠っていただろうに、申し訳ないことをした。ため息をついて、フリッツも部屋へと戻る。
寝台の上ではあぐらをかいた諸悪の根源、もといルーウィンが仏頂面でこちらを睨んでいた。
「朝っぱらから何よ、女みたいに甲高い悲鳴上げて。おかげで眠気がふっとんだじゃないのよ、どうしてくれるの?」
「それをきみが言うかなあ……」
再びため息をつき、フリッツは恨めしそうにルーウィンを見た。
「なんでベッドで寝てるの?」
「なによ、あんた快くダンデラにベッド譲ってくれたじゃない。忘れたの?」
「忘れてないよ、寝ぼけてたけど。でもさあ、そうじゃなくて」
どうして二人一緒に寝ているのだろうか。
問題はそこだった。当たり前のような顔をしているルーウィンに気を削がれ、実際に口に出すのはやめてしまったが。
昨晩、フリッツはなかなか寝付けないダンデラに寝台を譲った。知っているのはそこまでだ。いつの間にかルーウィンは寝台と寝台を寄せて、ダンデラと二人で眠っていた。朝からその絵面に耐えられるほど、フリッツの精神は強くないしそこまで強くなりたいとも思わない。思春期の少年はいつだってガラスのハートだ。
当のダンデラといえば何事もなかったかのようにすやすやと眠っている。
「ねえルーウィン。ダンデラさん、このままでいいのかな」
「じゃあどうしたらいいわけ?」
すかさず鋭い視線と棘のある返しが飛んでくる。さっきそこで眠っていた時とは大違いだ。
「自分のこともあんまりよくわかっていないみたいだし。ひょっとしたら家族が心配してるかも。兵士の詰め所とかに問い合わせてみたらどうかな」
「自分がどこの誰かもわからない、喋りもしないおっさんを、よりにもよってディングリップの兵士に身柄を渡せっていうの? ここの兵士が信用ならないことは、あんたも重々承知してると思ってたんだけど?」
フリッツはうっと唸った。承知もなにも、この国で一番酷い目に遭っているのはフリッツ自身で、わからないはずがない。
皇帝がすげ変わり体制が変わったとはいえ、まだまだ油断は出来ないとマティオスに言われていた。フリッツたちがマティオスの屋敷ではなく宿屋に滞在しているのは、そういう意味もあってのことだ。公開処刑は無くなったようだが、だからといってやみくもに浮浪者を捕まえる慣習が無くなったとは言い切れない。不審な行動をしたというだけで問答無用で捕まってもおかしくはないのだ。
そうなると、ろくに弁解もできないダンデラの身柄を兵士に渡すのは確かに躊躇われる。
「じゃあ尋ね人の情報はぼくが確認しに行くよ。そこでダンデラさんを探してる人が居たらすぐに教えるからね。それでいい?」
「はーい」
ルーウィンは頭をぼりぼりと掻いた。口先だけの気のない返事だ。
こんなこと、そう長く続けられるはずがないのに。ルーウィンは一体どこまで本気なのだろうかと、フリッツはため息を吐いた。
ダンデラは不思議な男だった。
藁色の髪に焦げ茶の目。歳は三十後半から四十代といったところだろうか。それだけなら一見どこにでも居そうな風体で目立たないように思えるが、そういうわけにはいかなかった。上背があり、さらに肩や胸が大きいので存在感がある。
そして彼が奇異に思える最大の理由は、身体と精神とが釣り合わず、ちぐはぐに思えるところにあった。
要は中身が体格に伴っていないのだ。これだけの体格は、単に恵まれた環境だけでは出来上がらない。明らかに身体を鍛えていなければ付かない筋肉をしている。それなのに、ダンデラは幼子のように首を傾げるばかりなのだ。
まるで物を知らないわけではない。服を渡せば自分で袖を通し、コップを渡せば口に持っていくし、物の使い方もわかっている。だが水差しから自分で水を注ごうとした際はこぼしてしまい、多少の手先の不器用さが窺えた。怖がったり寒かったりする様子はなくとも、動作の際にわずかに手の震えが見られる。
懸念していた耳も聞こえていないのではなく、ただ言葉が上手く出ないらしいとわかった。
「ウーウィン」
「そうじゃない。ル、よ。ルーウィン。もう一度」
「ウ、ウーウィン」
「もう、それでいいわ」
そんなやりとりを、フリッツは一日に何度も見せつけられた。何度やっても上手くいかないが、ルーウィンは始終満足そうに微笑んでいる。
モーネが話さなかった時とは大違いで、あの時は始終仏頂面だったくせに、とフリッツは思う。しかし思い返せばチルルには寛容で、話す話さないよりは相手の出方によるところが大きいのだろう。なんだかんだ言いながら、元々世話焼きな一面はあったのだ。
ダンデラの話し方はたどたどしかった。今のところ、ルーウィンの名を呼ぶ以外には彼が言葉を発するのを聞いたことがない。チルルのように声が出ないでも、モーネのように極端に口数が少ないでもないような気がした。声を出すのが久しぶりで上手くいかないような、あるいは赤子が初めて言葉を覚えようとしているような。口に異常はなさそうなので、もしかすると声帯が傷ついているのかもしれなかった。
ルーウィンは、それはそれはかいがいしくダンデラの世話をした。
最初に着ていた服はボロ布同然だったので捨ててしまい、伸び放題だった髪と髭も整えた。フリッツといえば途中ルーウィンに髭剃りの指南を求められたが、「あんたほっぺとかツルツルだもんね。やっぱり自分でやるからいいわ」という一言で撃沈した。爪も切り、耳掃除までしてやる始末だ。大の男を世話するために動き回る少女という絵面は、傍から見ていてかなり奇異だった。
その間、ダンデラは暴れもせず大人しくされるがままにされていた。ルーウィンを母親かなにかかと思っているのではないかと勘繰ってしまう。初めて見た動くものを親と認識する、鳥の刷り込み習性のようだった。
困ったのは食事だ。具合が悪く食欲がないはずのルーウィンに大量の食事を届けるわけにはいかず、フリッツはこっそり宿の食堂に注文したり、怪しまれないよう外に買い出しに出かけた。ティアラはフリッツの顔を見るたびにルーウィンの容体を尋ねてきたが、モーネと留守にすることが多く、それはフリッツにとって好都合だった。
普段は食べる側のルーウィンが、ダンデラの食事の際は隣で満足そうににこにこしている。そしてうっかり食べこぼしが落ちようものなら、拾って口に入れてやる。
「もう、またこぼしたわよ。はい、あーん」
それが微笑ましくは思えず、フリッツは何かもやもやとした気持ちを抱えていた。
ダンデラはフリッツと目が合うといつもうっすらと微笑んだ。
ルーウィンほどではないが、おそらく自分にもある程度気を許しているのだと知れた。フリッツが言うのもなんだが、中年男性にしては優しく、かわいらしい微笑み方で、それをされるとどうにも憎めなくなってしまう。もっともダンデラに警戒心などというものは皆無でありそうだが。
ダンデラが現れてからのルーウィンの様子は明らかに違っていた。
フリッツはふと思う。
ルーウィンがここまで戻ってきたのは、ダンテの敵討ちのためだ。ゴルヴィルに一矢報いるつもりで、隙あらば再び漆黒竜団に忍び込むつもりでここまで戻って来たはずだ。
しかし今のルーウィンはどうだ。
ダンデラが居れば、ルーウィンはもう復讐するなどとは言い出さないのではないか。
それは彼女にとって良い選択のはずだ。わざわざ無謀で危険な目に遭うこともない。ダンテが空けた途方もない穴を、ダンデラという存在が埋めているのは確かだった。
彼女にとっての最善が、自分にとってはそうではない。
フリッツはその日何度目かの深いため息をついた。




