(後編)第九話 知らないほうがいいこと
「ティアラさん。あなた、どこでそれを」
「ティーラ=ミストの聖堂の文献です。あそこはディングリップ帝国領ですが、聖堂はクシュールムの信仰を持ってきたもののようでした。どういう経緯でそうなったのかはわかりませんけれども」
ティアラはテーブルの真ん中を見詰めた。
「ディングリップ帝国はずっと昔から漆黒竜団に圧力をかけられているのですよね? それを振り払えないのはなぜか、わたくしなりに考えてみたんです。もちろん、彼らの本拠地が荒野の真ん中で、軍隊を送り込むことが難しいのが原因の一つだとは思います。帝国の上層部で彼らの取引に応じ、利益を享受している人もいるかもしれません。けれど、それ以外にも反撃を諦めざるを得ない何かが……弱みのような何かがあるのではないかと、思いました。帝国やそこに暮らす人々の生命すら脅かす、振り払うことの出来ない何かがあるのではないか、と」
一同は面食らった。
正直、フリッツは語られた内容よりもティアラがここまで考えていたことに驚いていた。ラクトスとマティオスの様子を伺うと、二人もそれは同じらしい。しかしアーティの神妙な顔つきから、ティアラの考えが的外れでないと読み取ることが出来た。
「ね、ねえ。根を張ってるってどういうこと? ちょっと想像がつかないんだけど……」
「モンスターだと思うとわかりづらいと思いますが、木のようなものだと思っていただければよいのかと。おそらく、あの聖堂の下にも延びているはずです。地下で根っこのようなもの見かけたりはしなかったでしょうか?」
そう言われて、フリッツは思い出した。ティアラが亡霊に憑りつかれていた際のことだ。ティーラ=ミストの聖堂の地下に眠った、おびただしい数の棺桶。周りには木の根のようなものがあちらこちらに伸びていた。
あれが、そうだったとしたら。
「ティアラさんの言う通り、神と呼ばれるそれは大陸のあちこちに根を伸ばしています。そしてその根は業を求め、人々が集い暮らす街の下に根を張り巡らせる」
「街の下だと? 守護鉱石はどうした、地層があるだろ」
ラクトスの問いにアーティは首を横に振った。
「守護鉱石はモンスターこそ寄り付きませんが、あれにはそんなものは通用しません。純度が高いものならともかく、不純物の多い地層くらいなんということもないでしょう。特に密に根が集中しているのは王宮などの中枢です。業が集まりやすいからですね」
「あの、それ、南大陸のほうは……」
恐る恐る尋ねたフリッツに、アーティは続けた。
「北大陸ほどではありませんが、もちろん南大陸も同様です。グラッセル王家も知らないわけではないと思います。ただ前王は突然の逝去で、現女王が早々に後を継いだのは想定外のことだと聞いていますから、もしかしたらしっかりと伝わっていない可能性はあるかもしれませんね」
「なんてこった……」
ラクトスが額に手を当て息を吐いた。この話が本当なら、両国は敵に中枢部を握られているということになる。
ミチルが小さく手を挙げ、アーティが頷いた。
「なんとなくわかる気はするんですが。王宮に業が集まりやすい、というのはどういう理由ですか?」
「そもそも業とは何か、なぜ神に捧げるものを命ではなく業と呼ぶのか、というところからですが」
アーティは小さく息を吸った。
「もともとそれを業と呼ぶのは便宜上のことで、実際にそれが業そのものであるかは確かめようがありません。ですが人間の背後に広がる、黒い影のようなもの。古来よりそれを視ることの出来る人間が稀にいて、神と呼ばれるものがそれを摂取しているのだ、ということは明白とされています。
その濃さや大きさは人それぞれで、年齢に比例することはなく、性別も関係ない。相関性があるとしたら、家柄や権力。権力者の元に生まれた赤子はその時点で影が濃いことが多い。そして罪人、特に人を殺めた者はこれが特に濃い。しかしそれは軍人も同じです。それがどういうことかわかりますか?」
腕を組んだラクトスが即答する。
「罪かどうかは関係がない」
「そういうことです。問われるのは命を殺めたかどうか、その一点のみ。次いで影が濃いのが医者や治癒士で、ここから推察されることは他の命の存続を左右する立場、可能性のある者であるということ。これらの性質を加味して、背後の影のようなものは、人で言うところの業という概念が当てはまるなのではないか、と仮定し、それが定着したことからこう呼ばれているわけです」
医者や治癒士も業が多いと聞いて少なからずフリッツは驚いた。しかしティアラは微動だにせず、アーティの話を聞いている。おそらく彼女自身、業が視えているためにその事実は察していたのだろう。
ミチルは話を聞きながら何度か小さく頷いていた。
「だから国を治める人の集まる王宮などの中枢部に業が集まり、根も伸びてくる、と」
神と称されるモンスターがこの世界に根付いているという事実。
不意に、ぞくりと悪寒が走る。フリッツの腕にぷつぷつと鳥肌が立った。
自分が立っている足元に、得体の知れない何かが潜んでいる。息をして、あるいは脈を打って。地中の深い深い場所でうごめいて、じっと獲物がやってくるのを待っている。
命を、業を、奪い搾り取るために。
フリッツはそっと、床につけていた踵を上げた。この下に根があるのか、こんなことをしても意味などないだろうが、なんとなく地面に足をつけていたくなかった。
どうすることも出来ない事柄。曖昧な、確かめようのないものへの漠然とした不安。
「その神様、クシュールム文明時代の呼び名は何というんだい」
マティオスが尋ねて、アーティが答えた。
「はじまりの神。あるいは混沌の神。ケイオス」
その日の夜、アーティの診療所の一室でフリッツは灯りを消した天井を見上げていた。男四人で、等間隔に並べられた寝台に横になっている。ルーウィンとモーネは野営しており、チルルは戻って来てティアラとアーティと共に眠っているはずだ。
なんとなく、すぐに寝付けなかった。
「根を張っている……か。そんなもん、どうにか出来るのか……?」
不意にラクトスが呟き、それは否が応でも耳に飛び込んできた。
「それってどうにかしなきゃならないものなのかなあ。とりあえず漆黒竜団さえなんとかしたら」
「お前さらっと大それたこと言うな」
「えっ、だってそういう話じゃないの?」
そのためにグラッセル王国とディングリップ帝国とが手を取ろうと、そういう流れで自分たちは今ここに居るはずだ。もちろん、漆黒竜団を自分たちが倒すわけではない。南と北とが協力し、一大勢力となって対抗すれば一つの盗賊団くらい壊滅できるだろう。
そう思っていた。ケイオスの話を聞くまでは。
「仮に漆黒竜団を何とか出来たとして。ケイオスってこのまま放っておいていいんでしょうか。供給を怠ったら、逆に無作為に搾取する、なんてことになりかねませんかね」
「その辺りの確かめようがないから、帝国も手を出せずに言うなりになっているんだろうね」
ミチルとマティオスとが言い、フリッツは鳩尾の辺りが重くなった。
拭いきれない、重苦しい不安。得体の知れない、姿かたちを掴みきれないものへのぼんやりとした恐怖と焦燥。叫びだしたいほどのものではないが、こうして寝転んでいる今でもなんとなくぞわぞわする。
「なあ、そんなに強大な力を手に入れて何をするんだ? 神とやらの管理には労力も危険も伴うだろうに」
「へえ、意外だね。ラクトスくんは、力なんかいくらあってもいいって考えると思ってた」
「そりゃ金も力もあればあるほどいいだろうが、その分面倒臭いだろ?」
二人の掛け合いに、フリッツは引き戻される。
そこまでして、何がしたいかということだ。ありきたりな答えをフリッツは口に出してみた。
「えっと……世界征服、とか?」
「お前、世界征服したいと思ったことあるか?」
「ない」
「だよなあ。わかんねえわ」
マティオスがふふっと小さく笑う気配がした。
「悪の親玉の考えることなんか、おれたちが推し量ったところでわからないさ。それにモンスターよりも怖いのは人間だよ。モンスターと人間、どっちがたくさん命を奪ってきたのやら」
「そうですよ。世の中には人の皮を被っていても、常人には思いつかないようなとんでもないことを考えている輩がたくさんいます。狂った人間の心理や動機なんか、ぼくらが考えるだけ無駄ですよ」
そういうものかもしれない、とフリッツは思った。
力が欲しいと思ったことはある。
思い通りにならない時、なったらいいなと思ったとき。自分は無力だと思い知った時。
生きたいと、強く願ったとき。
どうしてアーサーは漆黒竜団に入ったのだろう。
疑問に思ったことがないわけではなかった。しかしそれは変わってしまった兄への戸惑いと、何故、という憤りでしかなかった。本当の意味で考えたことは、きっとなかった。
両親の愛情を一身に受け、誰からも愛されていたアーサー。人徳も、ずばぬけた剣の才もあり、完全無欠という言葉を具現化したような人だった。
そんな人間でも、普通の生活では満たされないものがあったのか。さらなる名声や力を欲して、漆黒竜団に入ったのだろうか、それとも……。
ほどなくして、フリッツは考えるのをやめた。自分などにアーサーの気持ちなど、推し量れるはずもない。
フリッツは天井を見上げたまま尋ねた。
「ねえ、さっきの話。聞いてどうだった?」
ケイオスは大陸に根を張っている。業を欲する生き物が地中深く蠢いている。
自分は頭から離れないのに、みんなはまるで平気なふうで喋っている。あれだけアーティが慎重になって話した事柄であるにも関わらず。
「まだ実感湧いてねえよ。そのへんになんか居るかもしれないって言われても」
「実際見えると違うんだろうけどね。まだ確かめていないからなんともかな」
「ぼくは気持ち悪かったですよ。この真下に根を張っているかもしれませんし。明日から地面歩くのちょっと嫌です」
ミチルの答えの後の、静寂。
その後、誰も口を開かなかった。それぞれが眠りについたのだと思うことにした。こんな時間まで皆の目が開いているのが、結局のところどう感じたかの答えなのかもしれない。
その日は、夢見が悪かった。
足元から無数に生える根っこのような、手のようなものに、地面に引きずり込まれる夢だった。




