(後編)第六話
たもとの村で一晩を過ごし、夜が明けた。
吹きさらしでない場所で眠るのは久々だった。古代橋での野営は遮蔽物が無いのが一番堪えていた。やはり人間、眠る際にはどこか物陰に隠れていたいものだ。空き家に泊まったため寝台の数は限られており、ある分を寄せ集めて女性陣に使ってもらった。しかし床での雑魚寝でも、そこそこ調子は良い。
目を覚ましたフリッツは一番に外に居るジベタリュウのもとへ向かった。
「あ、フリッツさん! おはようございます!」
「おはようミチル。元気いっぱいになったね」
「ええ、お陰様で!」
今までの旅の疲れなどどこへやら、ミチルはにこにこと満面の笑みでフリッツを迎えた。それと対照的に、気恥ずかしそうな様子のチルルがぺこりと頭を下げる。
「すみません、ミチルがわがまま言って」
「全然大丈夫だよ。それよりごめんね、本当にぼくたちだけ中で寝ちゃって」
「いいんです! わたしは野営慣れてますし、パタ坊にくっついているとあったかいので。ほんとにもう、恥ずかしい……」
チルルは顔を真っ赤にしておさげを揺らした。
昨晩のこと。いつものように男女分かれて眠ろうという流れになったのだが、ミチルがチルルとパタ坊と三人、もとい二人と一匹で寝たいと申し出たのだ。パタ坊と一緒、というとそれは外で眠ることになる。言い出したミチルはいいが、女の子のチルルを差し置いて男共が室内で寝てもいいのか、と少々話し合うこととなった。
「きょうだい仲が良くていいじゃない。ミチルもしばらくチルルと離れてて寂しかったんだよ。ぼくたちは何とも思っていないから大丈夫」
「みなさんにご迷惑おかけしませんでしたか? 足手まといになりませんでした? 本当に自分勝手な兄なので……」
「よく助けてもらったよ。機転も利くし頼りになるし、弱音なんて一つも言わない。すごいと思うよ」
フリッツがそう答えるとチルルは安心したような、それから少し誇らしいような顔をした。そしてミチルがすっ飛んできた。
「チルル! ちょっと見ないうちにそんなことが言えるようになったんだ! すごいすごい、成長したんだね!」
「ミチルはいちいちうるさい! 前から思ってたもん、声が出なかったから言えなかっただけで!」
「そう、声! ろくに聞かずに出て行っちゃったもんだから、聞きたくて聞きたくて! チルル、もっとたくさん喋ってごらん! なんなら歌ってもいい!」
「あぁもう、うるさいなあ!」
顔が真っ赤なままのチルルが多少気の毒だが、本人がまんざらでもないのもわかっていた。チルルも久しぶりにミチルに会えて嬉しいのだ。パタ坊が隣で優しい瞳で見守っている。
旅の間、ミチルは脚として頼りにしているパタ坊が居なくとも、一つも弱音も不満も漏らさなかった。戦う術こそないものの、皆と同じように歩き進んだ。それが今、妹であるチルルを目の前にしてやっと歳相応の顔をしていて、フリッツはほっとしたような寂しいような気分になるのだった。
ミチルに絡まれながらも、チルルがフリッツに訊ねた。
「昨日ゴンザレスはどうでした? あの子、少し気難しいところがありますけど」
「そう、ゴンザレス! ぼくゴンザレスにちゃんと挨拶をしようと思って……」
言った時には遅かった。
何かじっとりとした嫌な視線を感じると思ったら、それはゴンザレスからだった。他のジベタリュウから少し離れたところに居り、そこからフリッツに物言わぬ視線を向けている。
「おはようゴンザレス。今日も背中に乗せてもらえるかな?」
ゴンザレスは長い首ごとふいと顔を逸らした。それはもうあからさまに。
「あれ……怒ってる? なんで」
「怒ってますよ。別のオンナの匂いがするって」
チルルが答えるにしては不穏な言い草だが、フリッツはしばし考える。
別の、何だ。一つだけ思い当たったが、まさかという思いが胸をよぎる。
「ひょっとして、あのドラゴンに乗ったことを言ってるの?」
ゴンザレスがさらにツンと顔を逸らし、それは決定的となった。フリッツは思わず自分の腕やら服やらを嗅いだ。
「そんな、匂いなんて残るはずがないよ。半月以上前のことだし、その間身体洗ってるし、昨日だってここに着いた後に水浴びたよ? そりゃまあ多少まだ匂うかもしれないけど!」
「うーん、実際の匂いとしてなのかどうかわからないけど。別のメスの気配を感じるって。女の勘、らしいです。他のメスに跨ったっていう事実がダメなんじゃないかな。しかも相手は飛竜だし」
「えええ! ゴンザレスってメスだったの! あ痛っ!」
さっきまで離れた場所に佇んでいたはずのゴンザレスにすごい勢いでつつかれ、フリッツはその場で頭を抑えてへたり込んだ。心配したミチルが覗き込む。
「大丈夫ですか? しっかりしてください、今日もたくさん移動しなきゃならないんですから。騎獣とは仲良くやらないと後が辛いですよ」
涙目になりながら、代弁したチルルをつい恨めしく見上げてしまう。
「それ全部チルルが作ってるんじゃないの?」
「まあ、失礼ですねフリッツさん。こう見えてもわたしはジベタリュウの考えてることなら手に取るようにわかるんです」
「本当に? じゃあどうしたら許してくれると思う?」
「知りません。そこはやっぱり、自分で考えなきゃダメじゃないですか?」
「えええ……」
肝心なところで突き放されて、フリッツの眉尻は完全に下がり切る。
その後出発間際まで、フリッツはありとあらゆる手でゴンザレスの機嫌をとろうと奔走する羽目になった。
その日も淡々と移動を続けた。
ゴンザレスのへそ曲がりもなんとか直し、ジベタリュウたちは快調に荒野を飛ばした。途中モンスターの群れに遭遇したが、それもなんなく避けて進む。ジベタリュウは群れとしての統制がとれており、この群れのリーダーはなんとゴンザレスだった。一番貫禄があるのはパタ坊だが、リーダーの相談役のようなポジションらしく、実際の指揮を執っているのはゴンザレスらしい。
地図を見ながら、時折休息をとり、また進む。
その間も、ルーウィンの刺々しい空気は微塵も和らぐ気配がなかった。
ルーウィンと話すのを楽しみにしていたチルルが気の毒だったが、その怒りはあくまでアーティに向けられているもので、誰もどうすることも出来なかった。
ダンテを見殺しにした。これは許す許さないの問題ではない。ルーウィンにとってダンテがどういう存在だったかわかっているだけに、今回ばかりはフリッツも口を出せなかった。声を掛けようとしても、何をどうしたらいいのか、わからない。結局彼女がちゃんと休んでいるか、水を飲んでいるか、無理をしていないか、遠くから見守るしかなかった。そしてそれはアーティも同じらしく、フリッツがルーウィンを目で追っていると、その先には必ずアーティが居た。
そしてあっという間に一日が過ぎ、夜がやってきた。夜の天蓋に星が瞬く。岩陰で休むことに決め、食事を摂って寝床を確保する。
「さて、ではお話しましょうか」
チルルが疲れて寝てしまったのを見計らって、アーティが口を開いた。マティオスが怪訝そうに整った眉を寄せる。
「こんなに早く話していただけるなんて意外ですね。もっと先延ばしにしてうやむやにされるかと」
「前にあなたが個別で尋ねてきた時とはわけが違いますから。さっさと話して、さっさと手を引いてもらわなければなりませんから。では」
アーティはこほん、と一つ咳払いをする。
「わたしは、何歳に見えますか?」
この状況の、この問いかけ。少なくとも、アーティは面倒くさい質問をするような性格でも、そのような歳でもない。意図を掴みかね、一同は沈黙する。
それを承知しているといった風で、アーティは苦笑した。
アーティは背筋も伸びており、その言動は歯切れがよく、時に多少の毒はあるが物腰は柔らかい。身なりもきちんとしており、髪の毛もきちんと纏められている。ただその顔に刻まれた皺や色素の沈着、そして白い房の混ざる髪からは、やはりある程度の年齢であることが窺える。おそらく同年代の女性よりも、いくらか若く見えるだろうと予想された。初老に差し掛かっているが、そう答えることに抵抗を感じる凛とした佇まいだ。
「フリッツさん、どうかしら?」
「えっと、五十五、六くらいですか?」
「ふふ、少しおまけをしましたね。本当はそれより十くらい上に見えているはずですよ」
「……すみません」
申し訳なさとすぐに否定できない正直さに、フリッツは顔を赤くした。
「いえ、こちらこそ意地悪な問いかけをしました。意図もわからず、困惑させてしまいましたね。では質問を変えましょう。わたしは何年前に、このような姿になったと思いますか?」
質問の意味が、一気に変わる。
誰も答えることが出来ず、アーティはそれを確認して続けた。
「おそらく二十五歳の頃には、この姿に落ち着いていたと思います。この姿で、もう二十年生きてきました。わたしは今、四十五歳です」
フリッツは息を呑んだ。おそらくその場に居た、ほぼ全員がそうだった。
二十代で、初老の姿。それが事実ならば、異常だ。
四十五といえば、フリッツの母親と同じくらいの年齢だ。母もアーサーの一件で荒れ、一気に老け込んでしまったが、それでもアーティよりは実年齢に近い風体を留めていた。一体どれほどのことが起こったら、これほど一気に歳をとってしまうのだろう。
それぞれの憶測が駆け巡り、奇妙な沈黙が続く。アーティはやんわりとマティオスに尋ねた。
「あなたはあまり驚いていませんね、マティオスさん。やはりこのことはご存じでしたか?」
「なんとなくは。あなたと同世代の人間は、口をつぐんでばかりでなかなか喋ってくれませんでした。特に男性は」
「そうでしたか。突然のことでしたから、当時は結構な騒ぎになったものです。今になってもまだ気遣ってくださっているのですね」
その言葉には労りに対する感謝の念と、そして少しの痛みが滲み出ていた。
それを自ら打ち消すように、アーティはフリッツに向き直る。
「急激な老化はわたしだけではありません。マルクスはわたしより二つ上ですから、今四十七歳ですね。どうです? とてもそんなふうには見えないのではないですか?」
またも突然振られて、フリッツは驚いた。しかも海の向こうのマルクスの話だ。皆の視線が一気に自分に向けられ、フリッツはしどろもどろになりながらも答えた。
「師匠はもっと上に見えます。確かに上背はありますが腰が曲がっていて杖をついていますし、顔も腕もしわしわで……とても、五十手前には思えません」
同意はマルクスと面識のあるルーウィンにしか求められないが、相変わらず彼女は皆の輪の外で斜に構えている。
マルクスの年齢がどうあっても、フリッツにとって師であることに変わりはない。だが今まで自分に祖父が居たらこれぐらいかと思っていた人物が、まさか父親と変わらない歳の頃であったとは。にわかには信じ難く、飲み込めずにいる気持ちの悪さがあった。
今まで聞く側に徹していたラクトスがようやく口を開く。
「突然、ってのはどういうことだ」
「あら、耳聡いこと。そう、わたしのこの変化は十日も経たないうちに起こりました」
「きっかけは? 病気でなければ何の影響だ? なにをどうしたらそうなった?」
「ラクトスさん……」
矢継ぎ早に尋ねたラクトスに、思わずティアラが静止をかけた。
「いいのよティアラさん。わたしが自分で決めて話していることですから。今更傷つくこともない。どうもいけないわ、わたしは話し方がまどろっこしくて。わたしたちは、呪いだと解釈しました。見てはいけないものを見てしまった、触れてはいけないものに触れてしまった、その報いだと」
「いつだ。どこで何を」
一息つくと、アーティは背筋を伸ばした。そして神妙な面持ちで、口を開く。
「二十五年前。北の孤島で、わたしたちは神に遭遇った」
岩肌に、火影が躍る。
「わたしたちは二十五年前、北大陸の未踏地帯を制覇する目的でディングリップ帝国から遣いに出された。わたしたちが先行して進み、安全を確保した後、帝国の測量者や地図描きを遣わす方法で、帝国は一、二年ほどで北大陸の全体像を把握したわ。そして大陸最北端の岬からかすかにその姿を臨むことの出来る離島。そこに足を踏み入れて、わたしたちの人生は大きく変わった」
アーティは薪の一点を見詰めていた。薪を舐め、呑み込み燃える、赤い炎。彼女の瞳に、映り込む。
「そこには見たことも聞いたこともない禍々しい生き物が居た。モンスターと呼んでいいか、それ以前に生物と認識していいのかもわからなかった。いえ、生きてはいるの。生命体であることに違いは無いけど……次元が違う。
わたしたちは蛇に睨まれたカエルのように、何も出来なかった。地図も何もなかったあの北大陸を、どんなモンスターを相手にしても、誰一人欠くことなく戦い抜いてきたわたしたちが。手も足も出なかった。肌は粟立ち、心臓が壊れそうなくらい早く脈打って、脂汗が止まらなかった。身体の総てが叫ぶのよ、早くここから逃げろって……」
帝国選りすぐりの、歴戦の戦士たちが、そこで見たもの。
アーティは自分の肩を抱きかかえるようにした。
「神だと思った。直感で、見てはいけないものを見てしまったとわかった。人々が都合よく奉っている偶像ではなくて、この世界の構築すら担っているもの……存在自体が世界に影響を与えているもの。気づいたときには、わたしたちは地獄を見ていた。何をどうして生き延びたかわからないけれど……なんとか船に戻ったのでしょうね。
わたしたちは運が良かった。それだけはわかったの。誰一人身体を欠損することなく逃げおおせた。けれどわたしとマルクスは短期間で恐ろしいほどに老化し、カーソンは気がふれ、ガルシェは次第に魔力を失った。ダンテとゴルヴィル、サルマは無事だったけれど……。
あの孤島での遭遇は、それぞれの心に傷を負わせた。人よりもモンスターよりも上位の、圧倒的な生命体が存在するのだという恐怖。今まで戦ってきたことなど全てが児戯で、わたしたちの培ってきた繋がりなど、何にもならなかったということ。無力さと浅はかさ。それを嫌というほど、思い知らされた」
人よりもモンスターよりも上位の、圧倒的な生命体。
神、と。そう呼ぶことが自然な存在。別の、次元の。
それは決して想像するに難くない、とは言えなかった。あまりにも抽象的で、あまりにも具体性に欠ける。だが今、それ以上をアーティに求めることはこの場の誰にも出来なかった。アーティは戦っている。自らの内にある恐怖の記憶と、必死に向き合っている。それは額に浮かぶ玉のような汗や、奥歯の噛み締めや、震える呼吸に現れていた。これ以上詳細に話せというのは、酷だ。
「ここから先は核心に触れることになる。知らない方が幸せに生きていける。もしこの先を話すことがあるなら、診療所でお話するわ。屋根のある場所で話したい。ここでは、見つかってしまうから」
何に、とは問えなかった。
青い顔を上げ、それでもアーティは取り繕ってみせた。
「知ってしまった代償は大きいわ。突然自分が醜く老いても、持ちうる力を失っても良いと思える人にだけ、お話しましょう。よくよく考えなくともわかりますね? あなたたちは、馬鹿ではないと信じています」
話が終わって、皆横になった。誰もすぐには寝付かなかった。
薪に背を向け地面に転がり、ルーウィンは暗く広がる荒野を見詰めた。
聞いたことのある言葉だ。昔、昔に。知っている言葉だ。
ふと、唇から零れ出る。
「……北の孤島の神サマが、泣いたから」
大きな手が、まだ幼かった自分の小さな頭に乗せられる。ごつごつした、でも優しい手。暖かな、大好きだった手。
そうして言ったっけ。
だから涙の味がするんだ、海は。
余談。
「北の孤島の神サマが泣いた」というのは、フリッツたちが初めて北大陸に向かう際、バローアの港で、なぜ海はしょっぱいのか? というやりとりをした時にルーウィンが口にした台詞です。小さい頃にダンテから聞いた話。




