第三十八話 経緯と結果
格子越しに、牢の三方の壁にぎっしりと書かれた白い文字を見て、フリッツは唖然とした。
「何ですか、これ」
「わがグラッセル王家に伝わる忠誠呪文の術式の問題の提起と改良点、だそうだ」
そう言われても、フリッツには何が書いてあるのかわからない。時折魔法陣らしき図解も混じっているのでかろうじて魔法の関係だとは知れるが、エドワード隊長も同じく理解は出来ていない様子だった。
「最初は羊皮紙とペンを寄こせというんで、自害でもされてはかなわんから石灰にしたんだが」
「チョークでも飲み込めば危ないんじゃ……?」
「それを失念していた! きみは顔に似合わず怖いことを言うなあ」
再び白い文字で埋められた壁を見やり、エドワード隊長は頭を掻く。
「恥ずかしながら、うちの魔法使いにも完全に真偽を確かめられる者が居なくてな。しかし騒動の後、たまたまキャルーメルから魔術の権威が来てたんで確認してもらったところ、どうやらこれに間違いはないらしい」
「はあ。また都合よくそういう人がいたものですね」
正直、その辺りのことはフリッツにはどうでも良かった。ぽかんとしているフリッツの表情を見て、エドワード隊長はからからと笑った。
「はは、そういう顔が見たかったんだ。あいつの知り合いにこれを見せて、いったいどんな反応をするか。タダでも起き上がらないとはやつのことだな。まったく、面の皮の厚さに驚かされるよ。疑いをかけられている身でありながら、グラッセル王家にこんな形で喧嘩を売って来るとは。しかも私たちを呼びつける暇つぶしにだ」
聞いたところによれば、全部を話すと言ったラクトスは、あろうことか女王陛下かエドワード隊長を呼びつけたそうだ。マーチン大臣はサルマに術をかけられ、体調不良であったために多少の遠慮はしたのだろう。しかし囚われているにも関わらず、その要求は横柄を通り越して不敬以外の何物でもない。
「まあ、あいつは微妙な立場にあるからな。直属の上司と言えば私になるから、間違いではないんだが。事情を知らない人間からすればとんでもない話ではある」
「あの、思い違いだったらすみません。ひょっとして隊長さんたちとラクトスとは、ぼくが思っている以上に、その……」
仲良しなんですか、では語弊があるし失礼だ。どう伝えたものか、言いにくそうにしているフリッツにエドワード隊長は笑った。
「水鏡の術、というらしいな。ああ見えても連絡はまめに寄こす性らしい。七日と空けずに報告してきていたよ、顔を見て話をしていたんだ。近場に水が無かったりティアラ殿に感づかれそうになったときは、仕方が無く手紙を飛ばしてきたりもしたんだが。鳥の形に折られた手紙が飛んでくるんだ、見たことあるかい? あれには驚いたな!」
そんな手段で連絡を取っていたとは初耳だった。確かに、南大陸に居た頃ならまだしも、北大陸では郵送のやりとりなど気軽には出来ない。そんなにまめに連絡を交わしていたにも関わらず、気が付かなかった自分も自分だ。
フリッツが何も言えずにいるのを、知らなかったのだと察したエドワードは続けた。
「そうだ。きみたちに知られないよう我々はあいつとやりとりをしていた。ここだけの話、内緒だぞ、あいつは姫様の相談相手だったんだ」
「相談相手? ラクトスがですか?」
フリッツは思わず素っ頓狂な声を上げた。エドワード隊長はシッと指を立て、フリッツは口を自分の手で押さえる。
「正確には……あまり大きな声では言えないが、愚痴の相手だ」
「ぐち? 愚痴って、あの愚痴です?」
信じられない思いでフリッツは聞き返した。
あのラクトスに、愚痴。しかも相手は女王だ。
「あいつは相手が誰であろうと歯に衣着せぬ物言いをするからな。姫様としては、それが心地よかったのかもしれない。一国の主ともなると、誰かと本当の意味で対等に話すなどということはあり得ないのだ。我々家臣が心を尽くしても、言いにくいことはあるだろうし」
その声音にはやや寂しさのようなものも感じられた。だがそれを振り払うかのようにエドワード隊長はフリッツに向き直った。
「だから私としては、あいつがグラッセルを裏切る行動に出るとは思っていなかったのだ。この国に忠誠を誓っていなくとも、姫様の信頼を裏切るような真似はするまい、と。話を聞いたときも、何かの間違いだと思った。まあ、あの時点では私はやつがグラッセルの忠誠呪文にかかっているものと思っていたしね。きみとしては、私がまともに取り合っていないと思ったかもしれないが」
「いえ、そんなことは」
「まあ詳しいことは本人から聞いてくれ。そろそろ頃合いだ」
エドワード隊長はフリッツを連れ立って牢から出た。元々この寄り道は、ちょっとした時間潰しだった。
通路の向こうに人影を認め、エドワード隊長は手を挙げ声を掛ける。
「釈放されて良かったな。そら、身元引受人が来てるぞ」
ラクトスの姿を見て、フリッツは口元を引き結んだ。
ラクトスはまっすぐ、こちらへと向かってくる。すれ違い様、エドワード隊長はラクトスの肩を軽く叩き王宮へと戻って行った。中庭の通路に、フリッツとラクトスだけが取り残される。
数日ぶりの再会だった。
「少し、話せるか」
フリッツは頷いた。
王宮の中庭の片隅の東屋で、二人はどちらともなく向かい合って座った。
奇しくもその場所は、以前グラッセルから出立する際、ラクトスがやって来るのを今か今かと待ちわびた場所だった。柔らかな午後の日差しが緑を淡く照らしている。一見平和そうに見えるが、それはこの空間だけだった。官僚や使用人たちは忙しく働き、このような庭に立ち寄る暇などない。落ち着いて話が出来る場所が欲しかったので、それは好都合ではあった。
ラクトスは多少憔悴していたが、牢の壁にあれだけのものを書き綴る気力があったのだ、心配していたほどではなかった。
前置きも何もなく、ラクトスは口を開いた。
「もう知ってると思うが、おれはお前の見張り役としてグラッセルに雇われた。当時お前の兄貴には、前回の漆黒竜団侵入を手引きした疑いがかかっていた。依頼をされたときは、正直眉唾物だったんだ。アーサー=ロズベラーがお前に接触するなんて、あるはずがないと思ってた。でもそれで王宮への足掛かりが出来るんならって、目の前の餌に飛びついた。まさか本当にアーサー=ロズベラーが現れて、挙句北大陸まで行くことになるとは思いもよらなかったけどな」
ラクトスは視線を落としたまま、フリッツとの視線は合わない。
順を追って、続ける。
「今回の話だが。まあ、一人でこっそり行くはずが、ティアラについてこられた時点で失敗だった。グラッセルに戻ってきたのは、この役目を降りるつもりだったからだ。漆黒竜団絡みのことはこりごりだし、身体がいくつあっても足りねえと思った。それで雇われるときの条件だった忠誠呪文を解除して、もうおれは遠隔の見張り役として使えないことを示して、解任された。その、直後だった。漆黒竜団の攻撃は」
少々、間が開く。
当時の状況を思い出したのか、ラクトスの声音はさらに低くなった。
「あっという間だった。謁見室から出て、本当にすぐだった。サルマの仕掛けた罠を魔法で跳ね返しだんだが……結局捕まったから、ざまあねえが。まあ、それで変に興味を持たれちまって、すぐには殺されなかった。多分クリーヴが動力として使えなくなった後のスペアにするつもりだったんだろう」
フリッツは口を挟まず、黙っていた。その意を汲み取って、ラクトスはさらに続ける。
「捕まって、サルマと取引をした。サルマの忠誠呪文にかかり漆黒竜団側として動くことで、おれの命は保証された。まあ、それもおれの下心を知った上でサルマが飲んだわけだから、完全に馬鹿にされてたんだけどな。それから邪魔なティアラを追い払おうと思った。あの時すでに上層は制圧されてたが、王宮の人間はまだ漆黒竜団の侵攻に気が付いていなかった。ティアラは、来ちまったもんは仕方ねえから、おれの用事が済むまで数日間王宮で待機してた。前のことがあったんで賓客扱いだったんだ。それが仇となったわけだが。……あとはお前らが知ってる通りだ」
確かに、そこから先はフリッツも知っている。
ティアラがラクトスの魔法で傷つき、北大陸まで引き返し、フリッツたちを引き連れてグラッセルへと向かった。
そして漆黒竜団の襲撃。
「終わり?」
尋ねると、ラクトスは頷いた。
フリッツは長椅子に深く腰掛け、息を吐く。
「それで全部話したつもり? 回答としては六十点も無いよ。ぼくの知りたいこと、わからないままだし。なにより動機がない」
その言い草に、ラクトスはあからさまに眉を寄せた。
「経緯と結果で十分だろ。それにさっき言った、命惜しさに」
「クリーヴさん、無事だったんだってね」
ラクトスは黙り込んだ。
「これはぼくの憶測だけど、きみはサルマに捕まった時にクリーヴさんを見つけたんじゃないの? 助けたいと思って、取引を持ち掛けた。じゃなきゃきみが、相手の忠誠呪文にかかるだなんて危ない橋を渡るかな。それに見張りの役目を降りたって言っても、女王様や隊長さん不在のグラッセルのことも放っておけなかった。それで敵の手の内を探ろうとしたんじゃない? 少なくとも、一時でも本気で漆黒竜団に寝返ってたらきみは釈放されていないわけだし。申し開きのときはちゃんと言ったんでしょ? そこ、ちゃんとぼくにも伝えなきゃだめだよ」
ラクトスは何も言わない。
だがフリッツも引くつもりはなかった。
「ティアラが怪我したのは、事故だったんだよね?」
「……おれがやった。もういいだろ」
「ちゃんと言う! 本当のこと! 起こった事実はぼくだって知ってるんだ。そうなった事情を、知りたいんだ。きみでいうところの、言い訳を」
こうなったらフリッツも相当面倒くさい部類の人間であることをラクトスは知っていた。額に手を当て、うんざりしたように息を吐く。
「サルマに忠誠呪文をかけられて、間が無かった。うまく魔力の調節が出来なくて、暴発、した」
漆黒竜団に占拠され、これから混乱の渦中となる王宮からティアラを逃がしたかった。だがサルマに忠誠呪文をかけられ行動も監視されている中、事情を話し、穏便に逃がすことは不可能だ。多少荒っぽい手を使ってでも、追い払うつもりだった。
だがまさか、あんなことになるとは。
「ティアラは何を信じたらいいかわからないとは言ってた。でもきみが裏切ったとは一言も言わなかったよ。ぼくたちを呼びに来た時だって、自分が傷つけられたのに、きみがなにかに追い詰められているって気づいてた」
信じられないと言いながら、ティアラはずっと信じていた。だからこそ揺らぎ、迷い、苦しんだ。
それは今のラクトスにとって喜ばしいことなのか。それとも重くのしかかる面倒なものに過ぎないのか。
だがそこで全てをうやむやにしてしまうほど、今のフリッツは甘くはない。
「忠誠呪文は、裏切る裏切らないは自分の心が決めるもので、かけられてる方がかけた方を裏切ったと思ったらだめなんだって聞いたよ。だからサルマの忠誠呪文にかかっている間、ラクトスは自分で自分の気持ちを調整していたんだよね。サルマや漆黒竜団に心からの忠誠を誓うのは難しいけど、サルマの命令を遂行するのに邪魔だったぼくたちを敵視するところまでは、出来たんじゃないのかな。だからぼくやティアラに向けて言った態度や言葉に嘘はなかったと思ってる。そうやって、自分のぼくたちへの敵意を高めた。違う?」
「そうだ」
「けっこう酷いこと言ってたもんね。気持ち悪いとか……」
思い出してさすがに気落ちしてきたフリッツだが、それ以上に目の前にいるラクトスの面持ちは神妙だった。
「何も言わないんだね」
経緯は話した。一通りの話は繋がった。
だからフリッツの言う何も、が何なのかラクトスにもわかっていた。
「そうだろうと思ってた。今回のことで、きみはぼくたちに謝らないだろうって。実際何も悪いことをしていないし、言われたのも本当のことだ。なにより、ぼくたちと関係をやり直すつもりがないんだろうなって。でもぼくはそんなの嫌だ。このままきみと離れ離れになるのはごめんだ」
おもむろに立ち上がり、フリッツは東屋から出て芝生に踏み出した。
「だけどぼくは、怒ってる」
風が木々を揺らし、踏み荒らされたままの花壇の花を撫でる。日差しに温められた芝生の、青くも香ばしい匂い。澄んだ空と白い雲と、能天気にさえずる小鳥。
荒れ果てた、酷く穏やかな昼下がり。
「さあ、行こう。ぼく以上に腹を立ててる、怖いひとたちのところへ」
フリッツに促され、ラクトスは重たい腰を上げた。




