第二十二話 終わる戦場
ラクトスは窓の向こうの戦場を見つめていた。
立っている兵士の数はごく僅かとなり、残っているのは四、五人ほど。自らを奮い起こす雄叫びも、かち合う刃の音も聞こえなくなり、目を閉じれば戦いの空気など感じられない。
そろそろ終わりだ。
グラッセル兵の先頭で戦っているのがエドワード隊長だということは、その体躯と鎧とから遠目にも見て取れた。長く近衛隊長を任されていただけのことはあり、安定感のある戦い方をする。だがその力強い剣捌きも、徐々に重くなっているのがわかる。
不意に、兵士たちの頭上に何かが煌めいた。
兜が飛んだのだ。
誰かが首を刎ねられたのだろうか。だが鮮血が飛び散らないことからも、兜だけが弾き飛ばされたようだった。運のいいやつがいるもんだと、ラクトスは窓から視線を外す。
しかし思うところがあり、再び戦場を見た。
兜を弾き飛ばされた兵士はよくよく見れば他の者よりいくらか小柄だった。露わになった、萌黄色の髪。遠くからでもわかる、嫌というほど見慣れたその風貌。
ラクトスは奥歯を噛んだ。知らず拳に力が入る。
その様子を、サルマは数歩後ろから見つめていた。
「フリッツくん!」
エドワード隊長の声が戦場に飛ぶ。
「兜が弾かれただけ、平気です!」
身を低くかがめたままフリッツは答えた。
首を持っていかれないためだったが、そのまま脚のバネを使って上方に突きを繰り出す。狙い違わず、剣先は不死身の化け物の胸を貫いた。剣が肉と骨にとられてしまい、相手の腹に脚をかけて一気に引き抜く。鮮血ではない、じゅくじゅくとした何かが飛び散る。生理的にフリッツは顔をしかめた。
「頼む、肝を冷やしたぞ」
エドワード隊長は目の前の敵を薙いだ。力強い長剣が何体もの化け物を切り裂く。敵の腕を、脚を、胸を、重く深く斬る。化け物共の身体は吹き飛び、背後に控えていた者も派手に倒れた。隙が無く緻密な、それでいて豪快さも兼ね備える、手本のような剣だ。
だが。
「我々にはもう、余裕がない」
斬れども斬れども、敵は何度も倒れては這い上がり、こちらへと向かってくる。
多くの兵士はすでに虫の息になっていた。今では力尽きた兵士たちを庇うようにして戦える者が前線に立ち、不死身の化け物たちがそれを取り囲んでいる。もはや犠牲者を増やさぬための後手後手の戦いで、とても攻めるどころではない。
次第に腕は重くなり、疲労は兵士一人一人にまとわりつくように重くのしかかる。
対して敵は、平気な顔をして次から次へと立ち上がる。
「ん、あー? んんー?」
静観していたゴルヴィルが一人気の抜けたような唸り声を上げる。
そして何かに思い当り、派手に手を打つとしたり顔で叫んだ。
「どこかで見たことがあると思ったら、お前はあれか! 鬼神の弟かァ、こりゃあいい!」
フリッツとエドワード隊長とは虚を突かれた。気づかれたのは、鎧が吹き飛びフリッツの顔が露わになったせいだ。
二人の顔には僅かな動揺が表れ、目敏くそれを見たゴルヴィルはにやりと笑う。
「あの時俺様はよく見ちゃいなかったが、どうにも手も足も出なかった兄弟喧嘩だったらしいなあ」
挑発しているつもりだろうか。フリッツは口を噤んだ。何も答えるつもりはない。
しかしゴルヴィルがそのまま放っておくわけもなかった。
「弟よォ、お前こっちに来ないか? そうだ、お前が俺様のところに来たらこの不毛な戦いを止めてやる、街に居る化け物共も引き上げさせてやるよ」
その言葉に、フリッツもエドワード隊長も思わず顔を上げる。今まで敵の戯言どころではなかった兵士たちも、今度ばかりは反応せずにはいられなかった。
敵が停戦を持ち掛けてきている。この絶望的な、手も足も出ない状況で。
戦いの手は止めずとも、兵士たちはエドワード隊長の動向に注意している。
「おーい、しらばっくれんなよ。そこの兜無しのボウズに俺様は言っているんだが? 隊長サンも人が悪いなァ、その様子じゃそいつの素性もわかってたんだろ? 国家反逆の大罪人の弟をこの場に連れてくるなんざどうかしてるぜ。なあ、その他の兵士サンたちよぉ」
エドワード隊長はやられたと奥歯を噛んだ。兵士たちがゴルヴィルの言葉に動揺しているのが空気でわかる。
いよいよ他の兵士にもゴルヴィルが誰のことを指しているのかわかってしまった。そして皆、得体の知れぬ新参が誰の弟か、知った上でこの作戦に引き入れている。
まずい。
「おい、何とか言ったらどうなんだァ?」
ゴルヴィルの声音が不機嫌に潰れる。
これ以上無視はできなくなり、フリッツは口を開いた。
「ぼくがそっちに行くことに、なんの意味があるっていうの」
フリッツの反応にゴルヴィルは満足げな笑みを浮かべる。
「意味ならある。お前はアーサー=ロズベラーの弟だ、そうだろう? お前さんの存在意義なんてそれだけありゃあ十分よ。逆に聞くが、他にどんな価値があるってんだ?」
アーサー=ロズベラーの弟。
それだけが、フリッツの価値。
フリッツはゴルヴィルに目を向けたまま、飛びついてきた不死身の化け物を斬り払った。だがわずかに、手元が狂う。剣は空を突き、敵の剣の切っ先はフリッツの腕を捉えた。左腕の薄皮が切れ、わずかに血が滲む。すぐに踏みとどまり敵を斬り返したが、自分にも限界が近づいてきているのだと思い知らないわけにはいかなかった。
身体が重い。動きが鈍い。昨日からずっとまともに寝ていない。動き続けた身体はいよいよ悲鳴を上げ、これ以上の稼働を拒む。
まだやれる。まだ戦える。やらなきゃ。
そう思っているのに、体がついてこない。
呼吸が乱れる。足がふらつく。頭も朦朧とし始めていた。
「お前さん、あの鬼神のアキレス腱なんだってな?」
「それは違う。そんなことは絶対にない!」
思わず応えてしまい、しまったと口を噤む。ゴルヴィルの揺さぶりに乗ってはだめだ。
「いいや、わからねえよ。あの女が言ったことだからな、多少の信憑性はある。まあ、俺様としちゃあお前を半殺しにして餌にするよか、立派な殺人鬼に仕込んで鬼神と戦わせるほうが面白そうだとも思うわけだ。ま、敵うわけないだろうがな。だが、俺様は結果よりも過程を大事にする主義だ。最近はそういうのがいいんだろ? それよか、どうする? さっきの俺様の慈悲深い提案は」
そんな馬鹿な話に乗るわけがないと、フリッツは心の中で吐き捨てる。グラッセル王国を掲げた兵士たちが誇りを捨て、悪党との取引に応じるなどあるはずがない。
そもそもこのゴルヴィルという男が約束や取引を守るはずがないのだ。仮にフリッツが向こうへ下ったとしても、不死の軍勢を引き下げるわけがない。そのままなぶり殺しにするのが関の山だろう。そしてフリッツも無事ではいられない。
しかし、亀裂は入り始めていた。
「エドワード隊長、これはどういうことです!」
剣を振るいながら、一人の兵士がエドワード隊長に向かって声を上げた。
「国家反逆って何なんですか。アーサー副隊長はいったい」
「すまない、その話は後だ」
「嫌です、今話してください!」
そのやりとりを見下ろし、ゴルヴィルはいかにも愉しそうにクツクツと喉で嗤った。
「言えるわきゃねえよなァ。王国一の腕を持つ近衛隊副隊長だった男が、王宮の機密を持ち逃げして悪の組織の幹部に成り下がったなんざ、とても部下には言えないわなァ」
フリッツは唇を噛む。
エドワード隊長の様子を見かねて、別の兵士が怒声を上げた。
「お前、こんな時にいい加減にしろよ! 隊長が好きで黙っていたはずがないだろう」
「こんな時だからこそだ! そんな重要なこと、黙っていたんだぞ隊長は! それを知らされずにおれたちは命を預けて、ここに居てこのザマさ! こんな気持ちで、わけのわからない状況でこれ以上戦えるかよ!」
「戦わなかったら死ぬだけだぞ! 都は、この国はどうなる!」
「だって奇跡でも起きなきゃ無理だろう! もう終わりだよこの国は!」
もう、終わり。
だれもが頭によぎりながら、口には出さなかったその言葉。
終焉。滅び。
かつて生者だった屍の上を跋扈する不死の化け物共。灰色の街。死の蔓延る都。
そんな様子が脳裏に浮かび、フリッツは思わず頭を振り払った。絶望に取りつかれたらお終いだ。
だが兵士の何人かは、すでに戦う気力を無くしつつあった。先の見えない戦況と、指揮者であるエドワード隊長への不信感。
それに加えて。
「おいお前! 本当は何しにここに来た!」
突然の罵声に、フリッツは目を見開く。
異物の排除。焦りと不安は、得体の知れない者へと牙を剥く。
「今の話が本当なら、お前はなんでここにいる? 最初から何もかも知っていて潜り込んでいたんじゃないのか」
今の話の流れでこちらに疑いが来るのも無理はないがフリッツはそれを予期していなかった。突然のことに頭が回らず、上手い言葉も出てこない。
僅かな時間だが共に戦ってきた兵士からの欺瞞は、それほどにフリッツを動揺させた。
「そんな! そんなことは……」
「おれは古代橋からお前を見てたが、ただの冒険者がおかしいだろ! 何にも感じないような顔で人を斬って。おれは見た、あれは人殺しの剣だった!」
「いい加減にしろ!」
最後の怒声はエドワード隊長のものだった。
普段温和なことで知られるエドワード隊長の怒りは、兵士たちを黙らせた。しかし、それだけだ。敵の攻撃が止むこともなければ、疑念も晴れず、目の前には絶望が立ちはだかっている。
しばらくして、誰かが呟く。
「そんな……。あのアーサーさんが敵だなんて、おれたち」
「勝てるわきゃねぇよな?」
兵士の言葉を拾って、ゴルヴィルが意地悪く繋げる。
フリッツはゾクリとした。
残りの兵士たちの心が、折れた。ポキリと、音が聞こえたような気さえした。
ゴルヴィルは待っていたのだ。絶望的な状況を。
フリッツが居ようと居まいと、アーサー=ロズベラーが逆賊である事実を突きつけ、兵士の心をへし折るこの瞬間を。
「勘違いするなよ、お前の選択でこの戦いの采配が決まるわけじゃねえ。お前らが生きて明日のお天道様を拝めるかどうか、それだけが懸かってるんだ。まあ、どちらにしろもうグラッセルは終わりだが!」
「貴様、降りてこい! 得物を抜け!」
エドワード隊長の叫びに、ゴルヴィルはわざとらしく指を振って見せる。
「だからよぉ、勘違いするなよ隊長サン。俺様は戦いたいわけじゃない。血が見たいだけなんだよ、戦闘狂の鬼神サマと違ってな。隊長さんよぉ、お前が怒り、猛り、剣を振り上げたところで俺様は痛くも痒くもない。その無力感と絶望感に苛まれて、勇敢な魂が砕け散っていくところが見てえのよ。こんな手強くもなんともない、腐乱した肉塊に、お前さんたちグラッセル兵は手も足も出ず蹂躙され、死んでいく。なんて無念! なんて惨め! なんてザマだよ! なあ?」
腹の底からゴルヴィルは嗤った。重苦しい雲が垂れこめた暗い空に、下卑た笑い声はいやに響く。兵士の折れた心に追い打ちをかける、こんなに愉しいことはないと言わんばかりだ。
ついに兵士たちは剣を取り落とし、膝をついた。
絶望が、勝ったのだ。
「で、ボウズの答えは? どっちだ、ん? 決めるのは隊長さんでもいいんだぜ」
思わずフリッツはエドワード隊長を見る。
怒りでどうにかなってしまいそうだろうに、エドワード隊長は冷静に首を横に振った。行くなと言っているのは、すぐにわかる。
そしてそれはゴルヴィルにも直接伝わり、いやらしくニィと口を歪めた。
「残念、お前らここまでだ! あの世で無能な上官を呪うんだな!」
ゴルヴィルの雄叫びと共に不死身の化け物共が一気に遅いかかる。
フリッツは構えたが、あろうことか今度は剣を弾き飛ばされた。しまったと思ったが、もう遅い。
得物はない。
「フリッツくん!」
エドワード隊長が叫ぶ。
その時、背後の通路の扉が勢いよく開いた。
そこには錫杖を高く掲げるティアラの姿があった。
アーティから貰い受けた錫杖は、自らまばゆいばかりの光を放っていた。同じ光がティアラの手の中に宿っているのを、フリッツは何度も見たことがある。そして今、フリッツもその光を浴びて体が癒えていくのを感じていた。
その、神々しさ。
彼女が一歩進むごとに、不死の軍勢は勢いを無くしていく。不思議なことに、光を恐れて散り散りになるのではなく、どこか恍惚とした表情で見つめているような気さえした。二度と触れることのない生の光に、焦がれているような。
「ほう、気づかれちまったか」
ゴルヴィルが感心するように声を漏らした。
ティアラが辺りをゆっくりと一周する頃には、不死の軍勢は無力化された。あれだけ斬っても斬っても起き上がってきた化け物たちは倒れ伏し、そして身体が黒くなったかと思えば、最後には砂のように崩れた。
ぬるい風が吹き、さらさらと流れていく。それは大地に還ることを拒まれた者たちが、風に運ばれ大気に放たれ、自由な空へ舞い昇っていくようでもあった。
あっという間の出来事だった。
「傷が、治ってる……」
「あの化け物共、どうしたんだ。なんで消えちまったんだ」
「奇跡が、奇跡が起こったのか?」
兵士たちが騒めく中、フリッツは振り返る。
錫杖の飾りが風に揺れ、涼やかな音を奏でる。ティアラが凛とした様子で立っていた。
目が合い、どちらともなく破顔する。
フリッツは嬉々と駆け寄った。
「ティアラ!」
「フリッツさん!」
「……こんの、考えなしのスットコドッコイが!」
フリッツは縮みあがる。そこにはルーウィンとモーネも居た。
言わずもがな、雷を落としたのはルーウィンだ。二人も無事にグラッセルへ辿り着いていたことがわかり、安心したし嬉しい、のだが何やら雲行きが怪しい。
ルーウィンはつかつかと歩み寄り指先をフリッツに突き付けた。
「なんであれだけボロボロになったティアラと別行動してるのよ! 詰め所に残りの兵士はいないし、隠し通路通ってきたら無駄に時間かかるし、なんかわかんないけどあんたはグラッセル兵に混じってこんなところで戦ってるし。グラッセルで落ち合うって話だったでしょ、余計なことに首を突っ込むな!」
「だ、だってグラッセルに着いたらこんなになってるし、その前に古代橋で色々と……」
しどろもどろの釈明を続ける最中、フリッツはルーウィンの表情が変わったのを見た。
一瞬、彼女から表情が消える。
その後の、鬼の形相。
今にも射殺してしまいそうな、視線のその先には。
「……ゴルヴィル!」
身の毛がよだった自分の腕をフリッツは無意識に掴んだ。自分に向けられたものでないとわかっていても、恐ろしいほどの殺意が頭の横をかすめたのだ。
ルーウィンの目の前に、ダンテの仇であるゴルヴィルがいる。
当のゴルヴィルは、まるで近所の子供でも見つけたような顔をして手を上げた。
「誰かと思えばダンテの未亡人じゃねえか。なんだ、やっぱり生きていやがったか。そうかそうか、そうでなくちゃな!」
ルーウィンはすかさず弓を番える。
「そこから降りて来い! 来ないなら引きずり落ろす! 今度こそブッ殺してやる!」
「おお、怖い。だが、残念ながらそれは今じゃねえ」
おどけるように言い放つと、ゴルヴィルはヒュウと指笛を吹いた。
どこからか鳥類モンスターが現れた。一瞬凧かと思ったほど、その体は薄い。だが骨と皮だけで出来たような体に、不釣り合いな頭部がちょんと載っている。
「チッ、試作品は相変わらずだっせえな」
不満げに舌打ちしたが、ルーウィンの方を見やるとゴルヴィルは口の端を吊り上げた。
「そう死に急ぐなよ、もう少し長生きするんだな。そうしたらイイモノ見せてやるぜ、未亡人。じゃあなグラッセルの犬ども! なかなか愉しませてもらったぜぇ!」
そして奇妙なモンスターに肩を掴ませると、笑い声を響かせながら空に去っていった。




