第十四話 混乱の渦
街外れの廃れた教会。
ティアラがゆっくりと立ち上がった。僅かな動作だが、普段の彼女とは違い酷く重たげだ。少し休んだくらいで熱はすぐに下がるものではない。壁伝いになんとか体を持ち上げているが呼吸は浅く荒く、その顔には熱っぽさが見て取れる。
「……行きましょう」
「行くって、どこへ?」
フリッツは口に出したが、その先の答えはわかっていた。だから実質、この状況でも行くのか、行けるのかという問になる。
ティアラは頷いた。
「王宮へ。ここでこうしていても仕方がありません」
「でも、そんな身体で」
「わたくしは大丈夫です」
もうこの日何度目のやり取りだろう、大丈夫なはずがない。
それにここを出れば、兵士に追われる。捕らえられることを承知の上で向かわなければならないのだ。猿轡を嚙まされなければ、グラッセルに迫る危機を訴えることが出来るだろうか。少しでも話を聞いてくれるだろうか。グラッセルのために伝えようとしているのに、そのグラッセルに裏切られたようで腹立たしいような悔しいような思いが、フリッツの中に渦巻き始めていた。
しかしこのままにしておけないことはわかっている。あの古代橋を渡っていた漆黒竜団が都になだれ込んでからでは遅いのだ。
そしてこんなにボロボロになっているティアラにその覚悟があるのに、自分が腹を決めないわけにはいかなかった。
「……わかったよ。行こう、ここを出よう」
「ありがとうございます」
ティアラは微笑んだようだったが、目尻が少し細くなっただけだった。
自分たちは夜通し馬を飛ばし、急いでやってきた。漆黒竜団を見かけたのは南大陸の最南端だ。あの軍勢であの位置からならば、今日明日に辿り着くということもないだろう。今なら、まだ間に合う。
ふらつくティアラの身体を時折支え、フリッツは彼女と共に教会を後にした。
だがその考えは甘かったのだと、後に思い知ることとなる。
鈍い空砲を合図に、都の様子は一変した。
通りに押し寄せる、人、人、人。人の波。
おかしいと思い始め、様子を見ているうちにあれよあれよと人々が殺到し、ルーウィンたちは混乱の渦に飲み込まれた。
背の低いルーウィンは人の波に溺れて視界が確保できず、水面から顔を出すように何度も跳んだ。なんとかメアリとモーネの腕を掴み引き寄せ、揉みくちゃにされながらも通りの端へと抜け出す。メアリは赤子をしっかりと抱えていたが、目を白黒させていた。
「いったい何が起こったの? 今度こそ何かのお祭り?」
「さあ。人気パン屋の看板メニューが焼きあがって、お客が殺到してるんならいいわね」
軽口を叩いたルーウィンだったが、その口調は酷く苦々しい。
露店に陳列されていた商品はひっくり返り、散らばって無残に踏みつけられる。設置されていた日除けの布が人の波に攫われていく。路傍でただならぬ空気に吠える犬、親を見失い泣き叫ぶ子供。老若男女関わらず、皆我先にと逃げていく。
悲鳴を上げ取り乱す者、警告しながら避難を促す者。状況を知って逃げている者と、そうではなく恐慌の波にただ揉まれ流される者。紛れもない恐怖と焦燥とが、人々の顔に浮かんでいた。
「賊だ! 早く逃げろ!」
「漆黒竜団だ! 正門から攻めてきたんだ!」
逃げる人々の中から、やがて悲鳴が聞こえ始めた。賊はそこまで来ているらしく、ルーウィンは辺りに注意を払う。
「はあ? ここは都よ?」
「でも、こんなことって……」
ただならぬ様子にメアリは赤子を一層強く抱き、じりじりと後ずさった。
そして悲鳴を上げた。
ルーウィンが振り向くと、路地の奥にはすでに黒衣の男がいた。漆黒竜団だ。腰を抜かしてしまったメアリに、男はかざした刃を容赦なく振り下ろす。メアリは再び、つんざくような悲鳴を上げた。
ビシャッ、と狭い路地の壁に鮮血が飛び散る。水っぽい音に続き、ゴン、ゴロゴロと間の抜けたような落下音。
メアリが恐る恐る目を開けると、路地裏に倒れた男の身体と血だまりとが見えた。その先に何か丸いものが転がっているが、何となく察し、本能が働いて焦点は合わせなかった。
そして傍らに大鎌を振りかぶっているモーネを見て、さらにまた悲鳴を上げた。
敵に背後を取られた以上あまり強いことは言えないルーウィンだが、モーネのやり方はあまりにも配慮に欠ける。
「あんたねえ、何も素人の目の前で首ぶった斬ること……」
かと言って、仕留めたのが自分だったなら文句が出ても押し切るのだが。
「違う」
「なにが違うのよ。早くその物騒なデカブツ収めなさい」
「まだ。終わってない」
腰を抜かしているメアリの横で、モーネは大鎌を振り上げたままだ。こういった時のモーネの勘は悪くない。ルーウィンは倒れた男の身体と、生首とを見下ろした。
完全にこと切れている。頭を切り離されて生きていられる人間などいるはずがない。
だが、その時。男の身体がブルブルと震え始めた。
「何?」
ルーウィンは飛び退って矢筒に手を伸ばした。またもメアリは悲鳴を上げ、モーネは大鎌の柄を握り直す。
黒衣の男の身体は、震えながらゆっくりと四つん這いになった。そして自身の血の海をパシャパシャと叩き始めた。指先が首に当たり、髪の毛を掴み乱暴に手繰り寄せる。まるで帽子を被るかのように、男は頭部を首の断面に乗せた。
その奇妙な光景を、ルーウィンはただ見ていた。あまりのことに体が動かない。目の前で起こっている現実ではなく、なにか人形劇を見ているかのような、どこか別の世界で起きている事柄のような、まるで他人事の感覚だった。
これがきっと、怖いもの見たさというものだろう。この先何が起こるかわかっているはずなのに、目が離せない。
男は肩が凝っていると言わんばかりに、肩に手をかけ、二、三度首を傾げた。そしてニィと笑って、血の海に取り落とした得物を拾い上げる。
メアリが絶叫して、ルーウィンは引き戻された。
モーネを制して、素早く身を前に出す。額、首、左胸部への連撃。狙い違わず、矢は真っすぐに男の急所を貫いた。
はずだった、どう見ても。
だが男は薄ら笑いを浮かべたまま、倒れはしなかった。額に刺さった矢を引き抜き、ポキリと折って投げ捨てる。
死なないのだと、瞬時に悟る。
「逃げるわよ!」
引き際が早すぎるとは思わなかった。
応戦の構えをとるモーネを引っ張り、なんとかメアリを立たせてルーウィンは逃げた。
考えなしに路地を曲がって、曲がって、曲がって。
男を振り切り、混乱の喧騒からも遠ざかった。今度は上下左右、警戒することを忘れない。
メアリは息を切らしながら、細い路地の壁にぐったりと背をもたせかけた。
「あなたのそれ、本物だったのね。形は似てると思ったけど、まさか本当に刃が出てくるとは思わなかったわ」
普段目隠しに巻いている大鎌の布は先ほど取っ払ってしまい、人ごみに紛れて敵をやり過ごすという方法はとれなかった。刃をむき出しにしたまま公衆には出ていけないし、何より標的を他所に移すだけだ。
鎌についている血痕には触れず、メアリはモーネをじっと見やる。
「ねえあなた。ちょっとここ、つねってくれない?」
モーネは頷くと黙って手を伸ばし、言われるままにメアリの頬をつねった。
「あ痛たたた……。おかしいわねえ、痛いわ」
「夢だと思いたい気持ちはわかるけど」
ルーウィンだって、そうならどんなに良いかと思う。こうしている今も、自分の正気を疑うほどだ。
赤子と自身の頭を抱え、メアリはうずくまる。
「だってこんなの変だもの。ここは都でしょう? どうして賊が一挙になだれ込んでくるの? どうしてたまたま都に来たばかりのわたしたちが巻き込まれるの? そもそもわたしがこの子を抱いて都にいることも、マリィと離れていることも、あの人が消えたことも普通じゃないのに。それに……」
「死なない」
言いよどんだメアリの言葉の先を、モーネが躊躇なく続けた。
「確かに、仕留めた」
「魔術の類かしら。なんとも言えないけど……」
そう言ってはみたが、ルーウィンにはまるでわからなかった。ここには魔術に精通するラクトスもティアラも、妙なことに詳しいマティオスもミチルもいない。
そしてメアリは相当ショックを受けたらしかった。
「頭が回らないわ……突然、悪い夢のなかに放り込まれたみたい。さっきまで賑やかな通りを歩いて楽しくおしゃべりしていたっていうのに。こんなことになるなんて……」
死なない、漆黒竜団員。自分たちは運よく逃げおおせたが、こんな事態がグラッセルのあちこちで起こっているとすれば。
そう考えて、さすがのルーウィンも身の毛がよだつ。
「兵士どもは、グラッセルは何してるのよ……!」
未知の敵への言い知れぬ恐怖は、責務を果たせなかった者たちへの苛立ちへと変わった。
「いよいよ始まったな。ずいぶんと安っぽい花火じゃねえか」
空に消えかかった白い煙を見て、漆黒竜団三幹部の一人、ゴルヴィルは愉快そうに口元を歪ませた。
「どうした? 祭りの始まりにしちゃあどいつもこいつも暗い顔だな、盛り上がっていこうぜ。さあ、日頃の訓練の成果を見せてもらうとするか。そちらさんも腕の見せ所だなァ、女王サマよぉ」
ゴルヴィルの視線の先には、グラッセル王国女王シェリア=フェルナンド=グラッセルが毅然とした様子で玉座に腰かけていた。だがその顔色は優れない。
ここはグラッセル王宮内の謁見室。
女王の玉座を中心とし据えられた二つの長テーブルには、右側にマーチン大臣と官僚たち、そして左側はゴルヴィルをはじめとする漆黒竜団幹部の席だった。
グラッセル側の筆頭、マーチン大臣は先ほどから一言も発せず、そして微動だにしなかった。他の官僚たちは顔を青白くし、漆黒竜団と目が合わないよう視線を伏せている。対して漆黒竜団側はゴルヴィルとその隣にもう一人、そして空席が一つ、その背後に黒衣の者共が控えている。
ゴルヴィルは見るからに残忍で屈強だが、もう一人は違った。鬱屈したように背中を丸めた、細面の痩せた男だ。髪には白いものが混じり、生え際はある程度後退している。落ちくぼんだ眼窩だけがらんらんと輝いており不気味だが、とても幹部と言えるような貫禄は持ち合わせていない。
グラッセル王国重鎮たちと、漆黒竜団幹部がテーブルを囲うという、あり得ない状況。
「入れ」
扉をノックし、給仕がやってきた。給仕の少女はまだ若く、彼女の手が震えているのは誰の目にも明らかだ。グラッセルの官僚たちに緊張が走る。
給仕はカタカタと震える細い腕を伸ばし、賓客扱いのゴルヴィルの前に茶を差し出す。ソーサーの上でカップが震え、液面が今にもこぼれそうに波打った。なんとかテーブルに置き、給仕も官僚たちも安堵した。
しかし。
「おっとぉ」
ゴルヴィルが給仕にぶつかった。
給仕はあっと声を上げ手元を狂わせ、湯気を立てていた茶はゴルヴィルにかかった。床に落ちたカップが、ごろんと虚しく音を立てる。
一瞬にして給仕の血の気は失せた。
「熱ぃな、火傷しちまったよ。ほら見ろ、俺様が漏らしたみたいになってるじゃねえか。これがグラッセル王宮のもてなしか。まったく、酷い辱めだぜ」
「も、申し訳ありません! 何卒、何卒ご容赦を……!」
「だめだ」
ゴルヴィルはにぃと嗤うと、給仕の細い腕を一気に掴み上げた。大男に捕まれ、身軽な少女の身体はあっという間に宙に浮く。涙を浮かべ怯える少女に、ゴルヴィルはこれでもかと顔を近づけた。
「悪い娘には罰を与えねえとなァ。戦況報告までしばらく暇になるところだった、丁度いい。サルマぁ、あとは任せた。俺様はちょいと出てるぜ、怪我の手当と着替えを手伝ってもらわにゃならん。こんな加齢臭と黴臭さが充満した部屋なんぞ御免だぜ。来な、嬢ちゃん」
少女は宙で身をくねらせ、なおも細い声で哀願する。
「お許しを。どうかご慈悲を……!」
「それしか言えねえんだな。つまんねえ女はすぐにブチ殺すぞ!」
ゴルヴィルの怒号に、謁見室は静まり返った。
官僚たちは皆給仕から目を背け、悔しそうに膝の上で拳を握る者もいた。だが、それだけだ。
給仕の少女はすすり泣き、ゴルヴィルは満足げな表情を浮かべた。
「壊されたくなかったら、せいぜい俺様を愉しませることだな。おっと、何か気に障ったか、女王陛下?」
「いいえ。僕が大変失礼を致しました」
「僕の不始末はあんたの不始末でもあるなァ? どう埋め合わせてもらうか考えとくわ」
女王はあくまで静かな声音で答えた。荒々しく扉の閉まる音と共に、ゴルヴィルが退出する。
「続きを。女王陛下……」
残ったもう一人の幹部、サルマと呼ばれた男が部下に合図し、下げさせていたゲームの盤を持ってこさせる。シェリアは黙って、盤を見つめる。
悪くなる一方だ。相手の勢いでどんどん追いやられている。シェリアの駒は次々と取られ、王は盤の隅に追いやられていた。
下手な手しか思いつかなかった。




