第五話 空と海との間には
シアが不穏な台詞を口にするや否や、彼女の肩に乗るミケが喉を反らし、高らかに一声鳴いた。小鳥のような鳴き声がキィキィと、静かな空にやけに響く。
仔が親を求める、それに似ていた。
「フリッツさん、また来ます!」
遠くに見えた小さな黒点は、みるみるうちに距離を詰めドラゴンの形を成した。どこからか黒いブラックドラゴンが二匹、恐ろしい速さで飛んできたのだ。
騎手はいない。二匹はそれぞれ、ルーウィンとモーネのドラゴン、マティオスとミチルの乗るドラゴンに相対した。もちろんフリッツとティアラの前には、シアとジンノが乗るブラックドラゴンがいる。
ドラゴンには、ドラゴンを。
グラン=ドラゴンたちも緊張している様子だ。ブラックドラゴンは目に剣呑な光を帯び、喉元で低く唸っている。広々とした大空にも関わらず、場の空気が異様に張り詰めていく。
シアとジンノのブラックドラゴンの口が、カッと開いた。ずらりと並んだ鋭い牙や暗黒の口腔、そんなものが見えたのは一瞬だ。
「避けてください!」
ティアラが叫ぶと同時に、目の前が真っ赤になった。頬をかすめた熱の塊と、鼻をつく生臭さ。
炎だ。グラン=ドラゴンめがけて渦を巻く火柱が吐き出された。
そして瞬く間の、急降下。
落下が止まるのも突然だった。攻撃を受けたのではなく、身を翻して避けたのだ。次第にグラン=ドラゴンは態勢を水平に戻していく。
上半身を起こすことも出来ず、ドラゴンの背に伏したままティアラは風に掻き消されぬよう声をあげた。
「大丈夫ですか?」
「焦げてはないよ! 心臓が口から飛び出たけど」
フリッツも半ばやけくそで叫び返す。心臓が一回り縮んでしまったかのように思えた。あまりのことに悲鳴を上げることすら出来ない。
ドラゴンにとっての急降下はフリッツにとってはただの落下だ。しかし幸か不幸か、吐き出された火炎放射をまじまじと目にする時間はなかった。よくある伝説のように、竜は本当に炎を吐き出すのだ。
ドラゴンの鳴き声がし、フリッツとティアラは上を見上げた。他の二匹も攻撃を仕掛けたらしく、ルーウィンたちの乗るドラゴンも必死に回避しようとしている。
「今はこのままグラッセルに向かって飛ぶしかありません! フリッツさん、振り落とされないでください!」
風を切り蒼穹を舞う六頭のドラゴン。
そして命がけの、空の追いかけっこが始まった。
グラン=ドラゴンたちは攻撃を仕掛けなかった。
こちらから仕掛けるとなれば、その分背中に乗っているフリッツたちの足場は危うくなることをわきまえているようだ。ティアラが召喚術ではないと言ったように、どうも直接彼女の言うことを聞いているのではない。
回避しながら、グラッセルを目指す。それがグラン=ドラゴンたちの基本姿勢だった。しかしどうしても後手に回ってしまう。ブラックドラゴンたちは自由自在に空を舞い、旋回している。
今のところ、シアとジンノが魔法を仕掛けてくる様子はなかった。あくまでドラゴンだけで勝負をつける気なのだ。
フリッツとティアラはグラン=ドラゴンに身を任せ、振り落とされぬよう必死にしがみつくより他ない。ドラゴンとドラゴンのせめぎあいに人間が手出しできる余地などなく、他の二匹がどうなったのかを確かめる余裕はない。言葉や悲鳴を発する暇さえなかった。
背中の荷に注意をしながら、どれでもグラン=ドラゴンは時折身を翻して攻撃を回避する。予告もなく襲い来る浮遊と落下、加速に伴う風圧。その度に感じる、嫌な浮遊感と、重力。風が頬を切り、耳や髪をさらう。
目に飛び込んでくる青が、空のものか海のものか。前後不覚どころか天地さえ認識できない。ドラゴンの凹凸を握っている両手は恐怖と寒さとで痺れ、力を入れているのかいないのかさえ覚束ない。手を滑らせれば、その先に待つのは確実な死だ。
歯を食いしばり、ひたすらに耐えた。今この瞬間こそ、ただ時が過ぎ去るのを必死に祈ったことなどなかった。上下もわからずもみくちゃにされ、それこそ体がドラゴンの背から浮いている瞬間もあった。
ブラックドラゴンがのけ反り、口先から怪しい光の塊が見えるや否や、グラン=ドラゴンは早々に回避行動に出る。時折頭上をかすめていく熱の塊の気配で、ブラックドラゴンが炎を吐き出したのがかろうじてわかった。
だが突然の振動が、フリッツとティアラを襲う。
体当たり。
ブラックドラゴンの旋回後、下方向からの攻撃で、フリッツたちもドラゴンも相手が見えていなかった。単純な攻撃。だが、その効果はてき面だった。
ティアラの体が宙へと投げ出される。
「あっ……!」
あまりのことに、間の抜けた声しか出ない。
フリッツは落ちそうになるのも忘れて思わず身を乗り出した。あれよあれよという間にティアラの体は降下していく。
それを見るや否や、グラン=ドラゴンは急降下した。
真垂直だ。翼を畳み、頭を下にして真っ逆さまに落ちていく。息も出来ず、フリッツはドラゴンの首にしがみついた。
落ちていくティアラに追いついた。
目を何とか開けるが、風と空気の塊が当たって痛い。フリッツは無我夢中で、必死に空へと手を伸ばした。風の抵抗で、上手くティアラが掴めない。伸ばしても伸ばしても、それをあざ笑うかのようにティアラの体はするりと腕をすり抜ける。気絶してしまっているのだ。
「ティアラ!」
フリッツは必死に叫んだ。喉の奥に風の塊が入り、せき込みそうになる。
ティアラが気が付き、慌てて腕を伸ばしてきた。落下しながら何度か互いの腕が行き来し、もどかしく宙を掻く。なんとか手を掴んだ瞬間、一気に引き寄せた。
グラン=ドラゴンにティアラが触れたか触れないかの刹那、ドラゴンは一気に上昇した。その勢いでティアラの体はグラン=ドラゴンの背に着地する。
フリッツは声を荒げた。
「ティアラ! 大丈夫?」
「ええ、平気です……」
だが言葉はそう多くは交わせなかった。ティアラが無事と見るや否や、再びブラックドラゴンの猛攻が始まったのだ。
グラン=ドラゴンは徐々に高度を下げ始めた。今度は垂直にというようなことはなかったが、それでもやはり急降下は肝を冷やす。みるみるうちに海面が近づく。高度を落とすなんて、飛ぶ自信が無くなったのだろうかとフリッツが思いあぐねていると、ティアラが言った。
「これなら下からの攻撃は考えなくてすみますね。飛竜は水を嫌いますから」
ドラゴンも頭を使っているらしい。意のままに宙を舞うことが出来ないなら、せめて海面ぎりぎりに飛んで下からの攻撃だけでも無くそうというのだ。先ほど下方から突き上げられた反省と対策なのだろう。
海面に大きくグラン=ドラゴンの影が映る。深く大きな水の塊なのだという認識はあるものの、高速で飛び抜けていく海は一見平面的で、まるで地面のような錯覚を起こさせた。落ちれば溺れる危険があるにも関わらず、足場が出来たような気がしてなんとなくほっとする。
わずかに心に余裕を取り戻し、フリッツは辺りを見回した。前にも後ろにもブラックドラゴンの姿はない。
「振り切った……?」
「見てください! 南大陸です!」
ティアラに言われて目を凝らすと、先の海と空との間にうっすらと切り立った崖が見えてきた。追われながらも、とうとうここまでやってきたのだ。
あと少し。南大陸に着き、空を行けばグラッセルなどあっという間だ。
だが、ふと辺りが暗くなったかのように思えた。雲が陽を遮ったとかとも思ったが、気配が違う。
影が、近い。
嫌な予感に顔を上げ、フリッツとティアラは目を見開いた。
頭上だ。いつの間にか、真上にブラックドラゴンが迫っている。
ティアラが悲鳴を上げた。
「フリッツさん、下もです!」
突然、海面が割れた。海からドラゴンの黒い頭が現れ、徐々にその全体が現れる。その背にはシアとジンノがいた。
上のドラゴンに気をとられ、下まで気がつかなかった。ましてや、ドラゴンが海中から現れるなど思ってもみなかった。
一瞬、シアが勝ち誇ったような視線を投げた。ブラックドラゴンの身体には、シアのシールドが張られている。ドラゴンにシールドを張る、ここまではティアラも出来ていた。だがやはり、場数が違う。シールドを海中に潜むために使うなどとは考えが及ぶはずもなく、それ以前に水圧に耐えられる強度を保てるか否かで、術者の手腕が問われる。
上と下。ブラックドラゴン二匹での挟み撃ち。
ルーウィンかマティオスかを追っていたドラゴンが、フリッツたちの攻撃に回ったのだ。その意味するところが、どちらかが振り切ることが出来たのか海に沈んでしまったのかはわからない。
不意を突いた、下方のブラックドラゴンの火炎放射はグラン=ドラゴンを直撃した。
グラン=ドラゴンの体が大きく揺れる。フリッツとティアラの体も飛び跳ねた。
だが、これだけではない。シアはもう一つ罠を仕掛けていた。
「ティアラ、前!」
フリッツは叫ぶ。
南大陸の断崖絶壁がすぐに迫っていた。このままではドラゴンが頭からぶつかってしまう。攻撃を受けながらも、かろうじてそれに気づいたグラン=ドラゴンは急上昇した。
しかし、遅かった。
頭からの直撃は免れたが、間に合わず腹部を強く崖にぶつけ、グラン=ドラゴンは首を反らして痛みに啼いた。
「メデゥサさん!」
ティアラは悲痛な声を上げた。だが治癒術などとんでもなく、振り落とされないようにするので手一杯だ。グラン=ドラゴンはバランスを崩し、おかしな飛び方をしはじめた。高度ががくんと落ち、腹が地面に擦れる。そのまま墜落し、生い茂る木々に突っ込んだ。
ほどなくして、グラン=ドラゴンの動きは止まった。辺りの木々はなぎ倒され、土煙がもうもうと立ち昇る。
その様子を、上空のブラックドラゴンからシアとジンノは眺めていた。
ジンノは静かに詠唱を始める。だがシアはそれを制止した。
「やめて、ジンくん」
「……どうして」
一見何の感情もこもっていないように思える声音だが、その中に確かに非難めいた色がある。シアは苦笑した。
「とどめは刺しちゃだめだって、ルビアスが言ってたし。それにここでジンノくんが魔法使ったら、森が焼けて人がたくさん来ちゃうじゃない。そしたら古代橋のことも、漆黒竜団が迫ってることもばれちゃうでしょ」
納得したかと思いきや、やはり標的を消し炭にしたいという衝動はそう簡単に捨てきれないらしい。
「……だめか、どうしても」
「だーめ!」
「キゥ!」
シアは頬を膨らませジンノを威嚇してみせた。肩に乗るミケにまで畳みかけられ、ジンノはそっぽを向く。
シアは立ち上る砂煙を見下ろした。
「まあ、あそこで墜落しちゃったし。グラッセルには距離があるから、そうすぐに報せは持っていけないでしょ。逃した一匹は別方向に飛んで行ったし、もう一匹は時間の問題、十分に時間は稼げる。弟くんたちのことはなんの問題にもならないよ」
そして顔に似合わない、冷たい声音で呟く。
「もう死んじゃってるかもしれないけどね」
ブラックドラゴンが滞空する羽ばたきが、辺りの空に不穏に響いた。




