第四話 上空での遭遇
心臓に手を当て、フリッツはぐったりしていた。
気流に乗るだかなんだか知らないが、ドラゴンは時折なんの前触れもなく高度を上げる。その逆で突然降下することもあり心臓に悪いことこの上なかった。
お陰で話が進まず、肝心なことはまだ何も訊けていない。
「追い詰められているって、どういうこと?」
息も絶え絶えにフリッツが尋ねると、ティアラは視線を下げた。
「……わかりません」
「わからないって、そんな」
「すみません、不甲斐ない答えで。ただ、あんなラクトスさんは絶対におかしい。何か理由があるに違いないんです。おそらくはグラッセルで何か起こっているはずです。ラクトスさんは、グラッセルからの召集で南大陸に戻られたのですから」
肩すかしの答えに、正直フリッツは戸惑いを隠せなかった。
「グラッセルの様子は? どこかおかしかったの?」
「いいえ。今は、まだ……」
自分がどれだけあいまいなことを口にしているかわかっているのだろう、ティアラはやや恥じ入った様子で口を閉ざした。
不確定だからこそ、皆に詳しい話もしなかった。すべてはティアラの予感なのだ。そんなことでドラゴンに乗せられてはたまらないと内心思ったが、ティアラの様子が普通でないことも事実だった。
しかしこうなってしまった以上、やるべきことは明白だ。このままグラッセルへ行ってラクトスに会い、話をする。そうすればティアラの怪我の仔細もわかるだろう。
前向きに考えれば、フリッツとしては船を待つ手間が省けたのだ。ドラゴンには乗りたくなかったが。
真上からやや傾きかけた陽を見て、フリッツは尋ねた。
「グラッセルへはあとどれくらいなの?」
正確には、あとどれだけこのドラゴンに乗っていればいいの、だ。
「夕方には着けると思います。わたくしが向こうを出てきたのが明け方でしたので」
「じゃあティアラは、たった一日でグラッセルとディングリップを縦断したことになるの!」
「そういうことになりますね。この間に状況が変わっていなければいいのですが」
このドラゴンたちは半日で南大陸と北大陸とを行き来できる。人が一月以上もかけ、無事に成し遂げられるかどうかわからないことを、ドラゴンたちは平気な顔をしてやってのけるのだ。
行けども行けども海と空ばかりで、追い越すものなど何もなかった。時折雲が出ていると、そこで初めて、あっというまにそれらを通り越して行くのがわかる。いまいちどのくらいの速さか体感できずにいたが、どうやら相当なものらしい。
「こんなに速く飛んでるなら、みんなとは話せないね」
きっとフリッツの声など風に掻き消されてしまうだろう。こんな場所で声を張り上げようとも思わなかったが、意見や情報の共有がままならないのはかなり歯がゆい。
「そうですね、どうしても風が邪魔をしますから。実はこれでも、フリッツさんとわたくしが話せるようにシールドが張ってあるのです。何もないままではおそらく息も出来ないでしょうから」
話をしていて、フリッツはだんだんティアラが心配になってきた。負傷したままドラゴンに乗り続け、三頭にシールドを発動し続けている。だが本人が大丈夫だと言い張る以上どうすることもできなかった。治癒士はティアラ自身であり、残念ながらフリッツが術を施してやるわけにはいかない。
この所業が本当にラクトスのものかどうか、フリッツはまだ半信半疑だった。ただ彼が自らの足でディングリップから出て行ったことは疑いようのない事実だ。
「ラクトスはどうして黙って行ったのかな」
「……後ろめたいことがあったからではないでしょうか」
「後ろめたいこと?」
ティアラは顔を上げ、フリッツを見据えた。
「フリッツさん。ラクトスさんがわたくしたちと共に旅をしていた理由を、知っていますか?」
「そんなの、クリーヴに持ち出されて漆黒竜団に渡った古文書を取り返すことでしょ」
「その理由を疑ったことはありますか。そんな上手くいくかわからない仕事をラクトスさんが受けると思いますか。別の目的があるのではと、考えたことはありますか?」
それは普段のティアラからは想像し難い、険しい表情だった。フリッツは問いかけのものよりも、彼女の様子に驚いた。
「ないよ。どうしたの? 疑うなんて、ティアラらしくない」
「ええ、自分でもそう思います。だからなのでしょう。事がここまでこじれてしまったのは……」
そう言うと、ティアラは再び口を閉ざした。それ以上訊ねるのがためらわれ、フリッツは彼女の言葉の意味を考えた。
確かに言われてみれば、漆黒竜団に持ち去られた古文書を一人で追うなど、雲をつかむような話だ。王宮魔術師内定の話が出た際、無理難題を突き付けられて勢いで飲んでしまったとも考えられるが、そんな不確実な命を下したところでグラッセル側に何一つ益はない。
しかしそれもティアラの憶測にすぎないのだ。現にティアラ自身も確証を持てずにいる。
ラクトスに会ってみればいい。話はそれからだ。そのために、こうしてグラッセルへ向かっているのだから。
「そろそろゼリアです。あと半分というところでしょうか」
ティアラがほっとしたように言い、そこで初めてフリッツは眼下の景色を覗いてみる気になった。
ゼリア群島帯といえば美しい海が思い出された。色々と大変な思いをした記憶も蘇ったが、あの海を上空から見ることが出来たらさぞかし美しいに違いない。高度への恐怖よりも好奇心が勝って、恐る恐るフリッツはドラゴンの肩越しに海面を覗き込む。
その美しさに思わずため息が漏れた。
今まで漠然と広がっていた単一の青であった海に、瑠璃色や青碧やエメラルドグリーンなど、色とりどりのきらめきが散りばめられている。まるで海に宝石箱をひっくり返してしまったかのような光景だ。船からの景色も良かったが、こうして鳥のように高い視点からの眺めは格別だった。
怖かったのも忘れ、しばらく景色に見入っていたフリッツだったが、きらめく海上に何かを見つけて目を凝らす。
「ねえティアラ、あれ何だろう?」
おかしなことに、それは海の上をまっすぐ走っている線だった。それは南北に整然と伸びている。大自然の中に現れた直線は異様で、目がおかしくなったような錯覚に陥った。しかしその造形に見覚えがないわけではない。
「なんだか橋のように見えるけど」
自分で口にしておきながら、フリッツはそれが信じられずにいた。こんなに長い橋が存在するはずがない。そんなものがあったとすれば、さすがに自分の耳にも届くだろう。
「北大陸と南大陸とを繋ぐ橋、古代橋……」
「それって、ゼリアの浸食窟に行ったときの」
うわごとのようにティアラが呟き、フリッツは目を瞬かせた。
「漆黒竜団が探していたものです。確かあの時は、橋の支柱がゼリアにあるのだと言っていました……フリッツさん!」
「うわっ!」
ティアラの鋭い声と共に、突如ドラゴンが激しく羽ばたいた。
今までとは違う激しい揺れだ。突然のことで、縄で体を固定していなければ危なかった。ほどなくして揺れは収まり、ドラゴンは姿勢を安定させる。何が起こったのかとティアラに尋ねようとしたが、フリッツの口は空いたまま塞がらなくなった。
目の前には、一匹のブラックドラゴン。
そしてその背の上に、見知った人物が立っていた。
「久しぶりだね、弟くん」
ティアラのものではない声が響く。柔らかな、心をくすぐるような少女の声だ。だがその甘さに騙されてはならない。警戒せよと、体中が警鐘を鳴らす。
フリッツは思わずその名を叫んだ。
「シア! ジンノ!」
そこにいたのはシアとジンノだった。
シアは金の髪を風に遊ばせ、愛らしい顔に笑みを浮かべている。可憐な容姿にふわりとした服を纏う姿は、黒く固い鱗で覆われたドラゴンには不釣り合いだった。その細い肩に乗せている小さなドラゴン、ミケはくつろいだ様子で羽を収めている。
隣には、相変わらず押し黙り、杖を構えているジンノがいた。冷めた瞳の中に、フリッツに対しての敵意が渦巻いている。
「名前覚えててくれたんだね、嬉しいな。でもまさかわたしたち以外にも空中散歩をする人が居るなんて。ねえジンノくん」
シアの問いかけにジンノは特に答えなかった。
忘れたくても忘れられるはずがない。北大陸に着くなり、フリッツたちはこの二人に手ひどい洗礼を受けたのだ。
フリッツは唇を噛み、ティアラの表情が曇る。
「びっくりした? この声ね、シールドを振動させて伝えてるの。そっちの声も拾えるからおしゃべりも出来るよ」
こともなげに言ってのけるシアに、ティアラの表情はわずかながらに不快の意を表した。自分たちの身を守るために張っているシールドに、いとも簡単に干渉されたことへの危惧だ。
シアはゼリアの海に視線を落とした。
「あの橋が気になる? そう、古代橋だよ。確か、前にルビアスがゼリアへ支柱を捜しに行ったときに会ってるんだっけ。わたしとジンノくんと初めて会ったのも、北大陸側からの下準備の時だった。なんだかずいぶん昔のことみたいだね、懐かしいな」
「あの橋は、あなた方が架けたのですか?」
警戒と緊張のために、ティアラの口調はひどく固い。シアはふわりと微笑んだ。
「架けたというより、復活させたというのが正しいのかな。クシュールムの、古代文明の賜物だよ。ねえ、これで南と北は繋がったの。仲良くやっていけるといいね」
「どういうこと?」
「フリッツさん、橋の上です!」
ティアラの声に、フリッツは橋に視線を向けた。じっと目を凝らす。橋の上を、何かが動いている。
列だ。人が列を成して進んでいるのだ。その整然とした進行の様子は軍隊を思わせた。全員が黒衣に身を包んでいる。
漆黒竜団の一団だった。
南へ、向かっている。それが意味するところは。
フリッツが考えを巡らせるのとほぼ同時に、再びドラゴンが激しく動いた。
瞬間、目の端に光の玉が映り込む。横を何かが勢いよく通り過ぎる気配がし、背後の海でドンと鈍い音がした。振り返ると、そこには水柱が立っている。
そしてフリッツとティアラは、美しいゼリアの海の一部が抉られ、そこだけ不気味に濁った海水が揺らめいているのを見た。
「海が!」
「……よそ見」
挨拶代わりにジンノは攻撃魔法を投げて寄こしたのだ。ドラゴンが避けていなければ二人とも木っ端みじんになっていた。しかしそのために、ゼリアの海に痛々しい跡が残されてしまったのだ。
もっと海面に近ければ、殺された海が目に入ることだろう。瞬く間に、海は殺されてしまった。
まるでいたずらを企む子供のように、シアはかわいらしく舌を覗かせた。
「まだ誰にも知られちゃまずいの。だからここで沈んでくれる?」




