第一話 神官の手記
草原の民の追手もなく、針葉樹の暗い森を抜け、一行は拍子抜けするほど順調にティーラミストへの道のりを戻っていた。
辿り着くと、一行の姿を見とめた集落の人間がすぐにティアラを呼びに行く。そして間もなく、法衣の裾を翻してティアラが駆け寄って来た。
「みなさん! お元気そうでなによりです! ご無事でしたか? お怪我などは?」
「大したケガはしてないよ。ちょっと深いのはラクトスが治してくれたし。ティアラこそ元気だった?」
「ええ、もちろんです!」
フリッツの手を取り、ティアラは満面の笑みを浮かべる。
「本当に、またお目にかかれてうれしいです。旅に出てから、みなさんとこんなにも離れたのは初めてでしたもの。あら、ミチルさんとチルルさん!」
フリッツの後ろからミチルとチルルがひょいと顔を覗かせた。
「色々あってついてきちゃいました。しばらくの間、ご一緒させてください」
「ティアラさん、お久しぶりです」
「まあチルルさん、声が! 戻って来たんですね、良かったです!」
晴れやかな顔をしたチルルを、ティアラは感極まって抱きしめた。
「あら! パタ坊さん、ちょっと雰囲気変わりましたか? まあ、お友達もたくさん」
ティアラはフリッツたちの背後を見て目を丸くした。パタ坊を含めて七頭のジベタリュウがいるのだ、驚くのも無理はない。こちらに気付いたティーラミストの人々がざわついているのがわかる。
ティアラはそこで一呼吸置き、一行を一瞥した。ラクトスとマティオス、ルーウィンとモーネ辺りで視線が行ったり来たりする。
「……仲良くなったりならなかったり、でしょうか?」
「なんのことよ?」
「いいえ、なんでもありません」
訝しむルーウィンに、ティアラは首を振って微笑んだ。
「こんなところで立ち話もなんですし、荷物を解いてゆっくりお話を聞かせてくださいな」
その申し出を断る理由など無く、フリッツたちはティアラの案内に続いた。
以前ティーラミストを訪れた際にあてがわれた小屋に、フリッツたちは再び腰を落ちつけた。勝手知ったる様子でティアラが茶を用意し、それぞれに振る舞う。
フリッツはティアラの注いでくれた茶に口をつけた。正直渋すぎる気もしたが、ティアラにしては上出来なもてなしだ。
「もうすっかりここの住人みたいだね」
「そんなことありませんわ。でも、ここのみなさんは本当に良くしてくださいます」
ティアラは控え目にそう言ったが、実際彼女はかなりティーラミストに溶け込んでいるようだった。小屋に案内されている間、ティアラは誰かしらに声をかけられ、朗らかに受け答えしていたのだ。
フリッツはその光景を見てほっとしたのと同時に、少し寂しいような気にもなった。ティアラは自分たちと離れても、もう十分一人でやっていけるのだ。
「黒い霧も収まりましたし、体調を崩されていた方も皆さん落ち着いてきました。わがままを言ってごめんなさい。その上、こうしてちゃんと迎えに来てくださるなんて」
「まったくだわ。あんたが居ないと大変だったのよ、色々」
「ルーウィンさん……!」
ティアラは瞳を感涙に潤ませてルーウィンに飛びついた。治癒師の不在で回復が心許ないのはもちろんだが、ルーウィンが本当に手を焼いていたのはモーネの扱いだ。それを察してフリッツは苦笑した。
そして草原の神の一件を話し終えると、ティアラは気遣わしげにミチルとチルルに声を掛けた。
「ずいぶん大変だったのですね。ミチルさんとチルルさんも、お疲れ様です。どうぞゆっくりしていってくださいね」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
ミチルは言って微笑んだ。
話が一段落着いたのを見計らって、すかさずラクトスが身を乗り出す。
「で、どうなんだ? ここの連中と慣れあってただけじゃないんだろ」
「もちろん、収穫はあります。聖堂の中から神父の手記と教典を見つけました」
自慢げに胸を張るティアラにフリッツは蒼ざめた。
「えっ、あの聖堂にまた入ったの?」
「あれからもうおかしなことは起きていません、安心してくださいな。それだけでなく、霧が晴れて茨も枯れたおかげで、聖堂の先にも行くことが出来るようになったんです」
「開発計画が頓挫になった例の街だね?」
マティオスの言葉にティアラは頷く。
「元々は街を建設する作業員の方々が寝泊りする仮の住まいを、そのまま使っているのがこの集落なんです。本当は奥に、しっかりとした石造りの建物が幾つもあるんですよ」
「道理で話に聞いていたより簡素だと思っていたよ」
「晴れた日には子供たちと奥の街を探検しに行ったりするんです。人が住んでいないので少々物悲しいですが、造りはまだまだしっかりしています。ここからあちらにお引越しも検討していて、それでも余ってしまうくらいですが……」
ティアラは何かを思いついたようで、椅子が倒れそうになるほど勢いよく立ち上がった。
「奥の街に、草原のみなさんが一時的にお住まいになるというのはどうでしょう? 少し片づけて、屋根を直せば十分に使えます。人も増えて、ティーラミストも一気に活気づきますわ!」
この思いつきに興奮しティアラは頬を上気させた。だがミチルは、やんわりと断った。
「お言葉はありがたいんですが、それは難しいと思います。移住生活からの突然の定住はなかなか慣れませんし、ジベタリュウたちもいます。なによりぼくたちは追放された身なので、もう話を持っていくことも出来ません」
「そうだね。もう、戻れないもんね……」
ミチルの言葉に、チルルはしゅんと項垂れた。追放という言葉が今更ながら身に染みたのだろう。ティアラも我に返り、すとんと腰を下ろした。
「そう簡単にはいきませんわよね。ごめんなさい、わたくし深く考えもせず……」
「それにティアラ先生。あそこには今迷子のドラっ、むぎゅ!」
背後からの突然の声に一同は驚いた。特にティアラは飛び上がるほどで、すぐさま声の主の口を塞いだ。
「マリアちゃん、いつからそこに!」
「んー! むー!」
ばたばたと手足を動かすマリアに、ティアラははっとして手を離した。
「ごめんなさい、つい。大丈夫ですか?」
「もう、先生ひどい。今来たばっかりだよ、長老がそろそろ夕食どうか聞いて来いって言われて」
「あら、もうこんな時間!」
突然現れたのはマリアだった。両親が聖堂に消え本人も捕まってしまっていたが、今ではすっかり元気そうだ。
フリッツはティアラに尋ねた。
「ティアラ、先生って呼ばれてるの?」
「嫌です、お恥ずかしい! 治癒術のせいで思い違いをされているんです。マリアちゃん、先生はやめてください」
「どうして? みんなそう呼んでるよ?」
マリアがこともなげに言ってのけ、ティアラは顔を赤らめた。
「迷子のドラ、なんだって?」
「はい?」
耳聡く訊き返したラクトスに、ティアラは明らかに声を裏返した。その視線はしばらく宙を彷徨う。
「えっと。そう、どら猫です! いたずら猫ちゃんが迷い込んでしまって困ってるんです。マリアちゃん、お食事でしたね? そろそろお願いしますと伝えてくださいな」
「助かるわ。食糧切れそうでここ最近まともなもの食べてなかったから」
ルーウィンが言うと、ティアラは微笑んだ。
「では、わたくしも腕によりをかけて何か」
「あー、それはいいわ。大丈夫、間に合ってる。うん」
ルーウィンはさらりと危機を回避し、それを聞いていたフリッツたちもこっそりと胸を撫で下ろす。
兎にも角にも、久方ぶりのティアラとの再会だった。
ティーラミストの人々は一行を丁寧にもてなしてくれた。
霧が晴れ、作物の出来が良くなったこともあるだろうが、なによりもティアラへの人々の信用がそうさせているのだ。久々に満足のいく食事となり、ルーウィンは大きく膨れた腹をさすっている。
テーブルの上を早々に片づけ、ティアラは何やら古めかしい書物を持ち出してきた。
「これです」
黒い装丁の書物に蝋燭の灯りが落ちる。
「やっと本題だな。これが神官の手記か」
四隅が折られた箇所がいくつかあり、これはティアラの手によってつけられた印のようだ。ラクトスが手記を開き、そこにフリッツ、ルーウィン、マティオスが上から覗き込む。
ミチルは寝入ったチルルと共に奥へと下がり、モーネは部屋の隅で窓の外を見ていた。もちろん、窓の外は暗闇ばかりで何も見えはしない。
ラクトスは手記のページを繰った。
《 とうとう帝都を離れてこんな荒れ果てた未開の地へやって来てしまった。だがこれもお家と出世の為、致し方ない。
よりにもよってこんな付け焼刃の宗教の神官などに任命されてしまったのは、どうやら私が『業』とやらを視ることが出来るからだそうだ。幼い頃から人の背後に黒い靄を視ることはあったが、いったいそれがなんだと言うのだろう。クシュールムの信仰が基本であるらしいが、とても信じる気にはならない 》
《 この地に守護鉱石の地層があるというのは間違いないらしく、モンスターは踏み入ってこない。『偉大なる勇者たち』の探索、業績は帝国に大きな繁栄をもたらすという。彼らの旅を元にした地図に、いずれこの街も名を連ねることになればいいが。モンスターどころか人も寄せ付けないこの地で、果たして任務が務まるかどうか早くも不安が募る。出来れば私も華々しい成果を持って凱旋したいものだ 》
「そこそこの野心はあるみてぇだ。どうもしみったれてるが」
「親しみ感じる?」
「そこそこな」
フリッツの問いに、ラクトスは苦笑した。
「次、行くぞ」
《 黒い霧が発生している。
『業』の靄とはまた違うものらしく、皆の目にも見えるようだ。いかんせん視界が悪く、作業は一向にはかどらない。それどころか、最近体調不良を訴える者が増えたのはこれが原因ではないかと噂される始末だ。
不思議なことに守護鉱石を近づけると黒い霧は晴れていく。さすがは聖なる鉱石といったところだろうか。しかし数が限られている。その上、気味悪がった上官がほとんどを握ってしまっているそうだ。これでは現場の者にまで行きわたるはずもない。お偉方は椅子にふんぞり返って、いい気なものだ。
我が国には守護鉱石が少ない。ここを拠点とし、北側に眠っているという鉱脈を開発できれば、噂に聞く南大陸のグラッセルなど比べ物にならないほど豊かになるという話だ。正直、眉唾物だと思っているが。しかしクシュールム王朝の繁栄という事実もあったことは確かだ。問題はこの状況を収め、街造りを果たせるかどうかに懸っている 》
「結構書くわね、こいつ。よっぽどこの日記が見つからない自信があったのかしら?」
上官に対する不満などを記すあたりは、肝が据わっているのか計画性がないのか。味方がおらず、こうして手記に書くという手段でしか鬱憤を晴らせなかったのかもしれない。だがここまで読んできて、神官は悪人ではなく、いたって普通の人間であるという印象を受けた。
《 風の噂で耳にしたが、ディングリップ帝の元へ不思議な使いが現れるらしい。その者は漆黒の竜に乗って現れるようなのだ。姿形こそ幼子成れど、人の心を見透かし言葉で惑わす、妖魔のようだという。老人のような白髪に、血のように赤い瞳を持つと聞くが、真だろうか。
このティーラミストの建設にやたらと口を出すそうだ。なぜ皇帝もそのような者の言葉に耳を貸すのか理解し難い。
不安因子はまだ別にある。帝国設立時に離反した者が荒野に逃れ、機会を狙っているという話はどうやら本当だというのだ。ほとんどおとぎ話のようなものだったが、それが真実ならば彼らは一世紀以上荒野に潜伏していたということになる。恐ろしい執念だ。
その一味に物資を運ぶ荷馬車が襲われ、作業の遅れに拍車がかかっている。モンスターに襲われるのならともかく、人の邪魔が入るとは帝国も予想外だろう 》
「その記述なんですが、漆黒竜団ではないかと思うんです」
内容はすでに頭に入っているらしく、ティアラだけは手記を覗き込まず正面に座っていた。ラクトスは頷く。
「少なくとも、その原型である可能性は高いだろうな」
《 ついに私の元へ使いの者がやってきた。噂通りの風貌だ。
そして驚くべきは心を読む力だった。私の信仰心の浅さと、使いの者への恐怖を見事に言い当てられてしまった。あの者の赤い瞳、今思い出してもぞっとする。
自らを、人に非ざる者と言った。常ならば馬鹿なことをと一蹴するが、あながちそれも嘘ではないと信じさせる不気味さがある。これから時折ここへ来て、私に直接指示を出すという。
気が重い。恐ろしい 》
「おや、ずいぶん筆が乱れているね」
マティオスの言うように、神官の筆跡は乱れていた。羊皮紙に書かれたインクがわずかに滲んでいる。書く際に手汗で滲んでしまったのだろうか。
《 神は存在する。
使いの者が言うには、黒い霧はカオス神の活性化が原因だと言う。神の身体の一部がこのティーラミストにまで伸びており、そこから黒い霧が生まれるというのだ。それを防ぐには『業』を捧げなければならない。具体的にどうするのだと訊ねた私に、使いの者が向けた、
あの目が忘れられない。私はこれからも、『業』を集めなければならないのだと、そう使いの者に告げられた。知ってしまったからには、逃げられぬと。
具合の悪くなった者を、祈祷だと言って誘い出し、まずは一人、聖堂の祭壇に捧げた。
とうとう、やってしまった。もう戻れない 》
ページを繰るラクトスの指が止まった。
酷く皺の寄ったページだった。神官は一度破ろうとして、やめたのだ。
誰も何も、言わなかった。神官が何をしたのか、詳しくは書かれていない。だが、ある程度の察しはついた。つい最近触れたばかりの、草原の民の供物の風習が皆にその先を連想させる。
「だいぶ間が空いたんだね」
手記の日付を見て、フリッツは言った。
その後、神官はしばらく手記を書くのを止めたようだった。かなりの間を空けてからまた書き出したようだが、それ以降は特にめぼしいことは何一つ書かれていない。敢えて書くのを避けたのかもしれないが。
多くは当たり障りのない日常が書かれていた。人々は病みながらも街の建設に当たったこと。知らぬ地では、人々は心の拠り所を求め、遠い皇帝よりも神への信仰が勝ったこと。そのため神官はそこそこ忙しい日々を送っていたこと。霧で作物の成長が阻害されたこと。
人々が次々と消えていくことについて噂が立ったと、たった一行だけ、控え目に書かれていた。
続けてページを、繰る。
《 いよいよここから撤退する日も近い。日程こそ決まらないが、私も荷物を纏めなければならない。
故郷が懐かしい。もう疲れた。都に戻っても金輪際、神職になど関わりたくはない。
戻った私を父は喜んで迎えてくれるだろうか、それとも期待外れだと嘆くだろうか。没落した我が家を盛り返す唯一の手段が私だったのだ、きっと叱られるに違いない。
昔は粉だらけの生活など真っ平だと思っていたが、素晴らしい家業だったのだと、今なら思える。人々の生活の糧を生み出すのだから。
この仕事から解放された暁には、実家の粉挽き小業を継ぐつもりだ。それが手馴れて落ち着いたら、パン屋になるのもいいだろう 》
「めでたしめでたし、か。これで終わりだ」
ラクトスが手記を閉じたのを見て、ティアラは口を開いた。
「でもこの方、予定通りにディングリップに帰ることは叶わなかったのだと思います」
「どうして?」
フリッツの問いに、ティアラは頷いた。
「奥の街の建物、おそらく高官の詰所と思われる場所から記録を見つけました。ティーラミストからディングリップに帰還した方の名前と職種が書かれているのですが、神官についてはどこにも記述がありませんでした。ほとんどの方は、ここへ置き去りになっていますし、無理もないかと。でも神官に関しては、元々帰す余裕と予定が無かったのか、あるいは……」
「あるいは知り過ぎたために殺された、かな」
マティオスの声に、蝋燭の炎が揺らめいた。




