第十四話 貴族の遊戯
暗く湿った、部屋の中。鉄格子の窓から差し込むわずかな月明かりが、かろうじて内部を照らしていた。
闇にうっすらと浮かび上がる、奇妙な光景。
手枷を付け、揃いの簡素な麻の服を着せられて繋がれた人々。彼らは頭を垂れ、ある者はすすり泣き、ある者は虚空を見つめている。これから自分たちはどうなるのかと怯え、ひそひそと囁き合う声が響く。
葬式よりも酷い空気だと、フリッツは思った。
状況は、まだ呑み込めていない。しかしまた捕まってしまった。この事実だけは変わらない。
冷たい床に尻をつけ、両膝を抱えてうずくまる。
どうして、あんな無茶をしたのか。
ルーウィンを見て、フリッツは思ったのだ。
ここで捕まれば、日の目を見られなくなるのは自分だけではない。彼女を自分のせいで薄暗い場所に引き込むわけにはいかない。それだけはどうしても避けなければならない。
月明かりに凛と佇む彼女に、そんな末路は似合わなかった。彼女を逃がすことだけ優先した。
その愚かな行動の結果が、これだ。
不思議と後悔はない。
いや、全くないと言えば嘘になる。自分が剣を持っていれば、彼女が弓を持っていれば、あるいは別の結果が待っていただろうか。
でも、あの場で自分が下した判断は間違ってはいない。そう言い切れる自信はあった。
目を閉じれば、ルーウィンの姿が瞼に浮かぶ。
きれいだったな。もうこれで、会うこともないのかな。
そう思うと、途端に胸が締め付けられた。膝を抱える手に力が入る。
「おい、兄ちゃん。あんた一体何したんだ」
突然話しかけられ、フリッツは目を瞬かせた。気づけばすぐそこに、いかにもゴロツキといった男がしゃがみこんでいる。男は馴れ馴れしく顔を寄せた。
「どうせケチな盗みでもしたんだろ? それかあれか、よくある家賃滞納か?」
「家賃滞納? それでだけで、どうして捕まるの?」
「なんだ、あんた珍しく余所者か。そりゃ運が悪かったな」
不審そうに眉を寄せるフリッツに、男は囁く。
「なあ、おれと組まないか?」
「組む?」
意味が分からず、フリッツは訝しんだ。男は口元に手を当て、一際声を小さくする。
「これから先、あの噂が本当なら……今のうちに誰かと手を組んでおいた方がいい。あんたはずいぶんと人が好さそうだ、誰も警戒しないだろう。だから相手を油断させて、そこを」
「おい、そいつに何吹き込んでる?」
ドスの効いた声が響き、男は肩をビクつかせた。
目の前の人影に、フリッツは顔を上げた。そして次第に顔をほころばせ、思わず声を弾ませる。
「ラクトス!」
そこにはラクトスが立っていた。
ラクトスは男を鋭い視線で一瞥する。睨まれた男は舌打ちし、フリッツのもとから離れて行った。
男が部屋の隅に行ってしまったのを見届け、ラクトスは振り向きざまににやりと笑った。
「よぉ、案外元気そうだな」
「どうしてここに? もしかして、助けに来てくれたの?」
その場にあぐらをかいたラクトスに、フリッツは目を輝かせた。しかしラクトスはあさっての方向を向き、ばつが悪そうに頭を掻く。
「あー、そう見えるか?」
「……えっと。あんまり、見えないかも」
「悪ぃ、下手こいた」
「うん……そうみたいだね」
直面した事実を確かめ、二人は揃って深々とため息を吐いた。
立てた膝に顔を埋めて、フリッツは恨めしそうに呟く。
「杖を持たないラクトスなんて、ただの目つきの悪い不良だよ」
「そういう剣を持たないお前は、見たまんま通りの何の意外性もない貧弱野郎だけどな」
「うう、どうしよう」
「さあ、どうすっかなあ」
そして再び、二人同時に息を吐いた。肩を落とすタイミングまで揃う始末だ。
「それよりお前、なんでこんなところに居る? 特別設えの牢にぶち込まれてるって話だったが」
「実を言うと、さっきルーウィンに会ったんだ。逃げ出そうとしたんだけど、誰かがぼくたちの隠れている方に逃げてきて、それで今こうなってる。ラクトスこそ、どうしてここへ?」
「おれは外で待機してたところに不審な影を見て、様子を窺いに来たら後ろから殴られてこのザマだ」
フリッツはきょとんとし、その意味を飲み込むと苦笑した。
「それ、一番かっこ悪いやつだね……」
「言うな。へこむだろうが」
ラクトスは地べたに座る姿勢こそ崩しているが、その顔は何か考えている様子だった。
「弱いな、おれたち」
突如零れた言葉に、フリッツは顔を上げる。いつもは鋭いラクトスの目はやや下がり、声音もどこか元気がない。
「杖も剣もねえ、手を拘束されてる。これだけで途端になんにも出来なくなっちまう。荒野でモンスター倒して来たのが嘘みたいだな。人は人の社会の枠の中に嵌ると、途端にくだらない生き物になる。まあもともとくだらねえのに気付かず、錯覚をしてただけなんだろうな」
「ラクトス?」
嘲笑交じりの言葉に、フリッツはラクトスを見返した。
「なあ、力ってなんだろうな。お前は思わないか、力が欲しいって。力さえあれば自分を護れる。すべての理不尽な厄介ごとが降りかかる前に払い除けられる」
フリッツは黙り込んだ。
それは、否定できない。剣が手元にあったらと思った。剣さえあれば、事態を切り抜けることが出来ると。
ふと、血だまりに倒れた兵士を思い出し、フリッツは目を強く瞑った。
そして、考えるのを止めた。
「ねえ。杖なしじゃ、魔法は使えないの」
「使えなくないが、かなり消耗する。多分、使ったらすぐ倒れるな。お前、おれを抱えて逃げ切れるか? まあ、お前の逃げ道だけを作ってやることはできるが、おれは自分を犠牲にしてそこまでしねえよ」
「うん、それは要らない。逃げるなら一緒がいい」
それは正直な気持ちだ。ラクトスを犠牲にしてまで逃げ延びたいとは思えない。
それよりもフリッツの胸には、別の想いがあった。
「今、ぼくたちには何の力も残ってないけど。でも、ぼくはきみがこうして居てくれるだけですごく心強いよ」
ラクトスはハトが豆鉄砲を喰らったような顔をした。そして目が合うのを避けるように、ふいと視線を逸らす。
「魔法使えねえぞ」
「うん、使えなくても。ここ最近、ずっと一人だったから」
フリッツの表情は、次第に緩んでいく。
「でも、違ったんだ。ぼくは一人じゃなかった。みんな危険を顧みず迎えに来てくれたんだね。嬉しいなあ」
ラクトスは、何も言わない。
だが、それでも良かった。みんなが自分のために城へ来てくれたこと。
それがとても、嬉しかった。
「嬉しいんだけど、情けなくて、申し訳ない。せっかく来てくれたのにごめんね。みんなの頑張り、無駄にしちゃって」
「……いや。こんな形でも、お前と合流できて良かった」
ラクトスは闇を見つめたままだ。フリッツの顔を見ようとはしない。
変なことを言ってしまったかと思ったが、感謝の気持ちを伝えただけだ。気分を害すことはないだろうと、フリッツはその沈黙を気に留めなかった。
やがておもむろに、ラクトスが頭を掻いた。
だが徐々に搔きむしるように頭に手を突っ込み、何事かとフリッツは目を丸くする。
「何? どうかした?」
「フリッツ。おれはお前に言わなきゃならねえことがある」
フリッツは首を傾げた。
ラクトスの視線は、冷たい石床に落とされたままだ。
「おれな、実は……」
「休憩は終わりだ! さあ立て、向こうへ移動しろ!」
ラクトスが何か言いかけるのと同時に、兵士が大声を張り上げてやって来た。
突然開いた扉からは煌々と光が漏れ、囚人たちは眩しそうに目を細める。兵士たちは槍を構え、囚人たちを追い立てた。
「おしゃべりはそこまでだ! とっとと移動しろ!」
兵士に睨まれ、ラクトスは口を閉じた。
その拳が強く握り締められたことに、フリッツは気づかなかった。
眩しい。
ずっと捕えられていたフリッツは、明るい場所は久しぶりだった。あまりの眩しさに目を細め、しばらく手で顔を覆う。一方ラクトスは眉間に皺を寄せながらも、辺りをしっかり窺っている様子だ。
そこは円形にくり抜かれた場所だった。上は吹き抜けで、フリッツたちがいる場所はぐるりと囲まれている。随分天井が高いと思ったら、数えてみると七階建ての建物のようだ。
その円を見下ろすように造られたバルコニーに、着飾った人々がいる。囚人たちが出てきたことで、なにやらざわめきが起こっている。
上にいるのは、明らかに身分の高そうな人々。
一方、下には囚人。
そして真ん中に、積み上げられた武器の山。
兵士によって囚人たちの手枷が次々と外されていく。やがてフリッツとラクトスの番になり、二人の両手は解放された。
戸惑う囚人たちに、兵士は声高らかに言った。
「さあ、好きなものを手に取るんだ。早い者勝ちだ! さっさとしないと、いいのがなくなる」
武器の山に、フリッツは目をやる。
囚人たちは言われたとおり、恐る恐る武器の山に近づき手に取った。残念ながら、見たところ魔法使いの杖は無い。主に錆びついた剣や棍棒、ナイフや斧などの類だ。
そのうちの一つ、安物の剣を手に取り、フリッツは目を見開く。
「ラクトス、これ」
「ああ、血がついてる。こりゃ穏やかじゃねえな」
ラクトスが神経質に、唇を舐めた。
嫌な予感が、じわじわとフリッツの背を這いあがる。
一人の兵士が、あくび交じりに言った。
「誰でもいいから、殺せ。一人でも殺した奴はこの場から逃がしてやる。無罪放免も考えるとのことだ、以上」
囚人たちが、固まった。
フリッツとラクトスの顔が凍り付く。
しばらく、囚人たちはざわめいた。兵士の言ったことが理解できない者、理解したくない者。慎重に、その様子を窺う。
今はこう着状態だ。しかし誰か一人が恐怖に飲まれ事を起こせば、一瞬でこの均衡は崩れる。
恐ろしく、危険な状態だ。
ザクリ、バタン。
立て続けに音がした。
フリッツとラクトス、周りの囚人たちも音がしたほうへと視線を走らせる。
そこには腹から血を流し、うずくまる痩せ細った女性。
近くに突っ立った男の手には、赤く染まったナイフが握られている。
「お前、こっちへ来い。ここでは一抜けだ、おめでとうさん」
兵士が手招きし、男は静かに歩き出す。
そして兵士の元まで行くと、男は壊れた笑みで嗤った。
狂気の舞台が、幕を開ける。
「なんですか……これは」
ティアラの顔は蒼白だった。
最下層の舞台には、粗末な服を着た人々。その手には武器が握られ、誰かに襲いかかり、あるいはその攻撃を防いでいる。
しかし彼らは、武芸に秀でた冒険者などではない。多くの者は今まで包丁程度の刃物しか持ったことのない人々であるはずだ。
明らかにひけている腰や、周りをきょろきょろ見回し怯える様子、喚き散らしながら武器を闇雲に振り回す姿。素人目のティアラでさえ、彼らが戦いを生業としていない者でないことがわかる。
「この状況はなんですか! これでは、まるで」
命とプライドを懸けた、猛者たちの戦いなどではない。
一般人の、ただの殺し合いだ。
さして驚いた様子もなく、マティオスは淡々と言った。
「貴族の遊戯、処刑という名の囚人同士の殺し合いさ。隣の席を見てごらん」
ティアラは言われるままに視線を動かす。
その先には、興奮しきって楽しそうに腕を振り上げる男性。口元を扇で隠し、ほくそ笑む女性。
グラスを傾け、談笑し、下々は野蛮ねえと談笑しながら。優雅に流れる音楽に悲鳴はかき消され、血の匂いは届かず、辺りには香水の香りだけが漂う。
倒れていく人々を、刺し合い殴り合う光景を、まるで絵空事のように見ている。
ああほら、また死んだよ。
怖いわね、わたしたちはこの場に居られて幸せね。
左右の席から聞こえてくる談笑に、ティアラは戦慄を覚えた。思わず立ち眩み、後ずさる。
愕然とする。
上と下とで、世界が違う。本当に同じ空間で、同じ世界で起こり得ていることなのだろうか。
それとも、おかしいのは自分の方なのか。人が殺し合って死んでいくのを見て、笑いあうのが正しいのだろうか。
吐き気がした。細い指が、強く欄干を握る。
マティオスはティアラの隣にしゃがみこみ、そっと水の入ったグラスを差し出した。
「おれたちみたいな上流社会の人間はね、毎日が本当にくだらないことだらけなんだ」
蒼い顔を上げ、ティアラはその目をマティオスに向ける。
その青い瞳には、何の感情も映されていない。
「偉い人の顔色見てご機嫌窺ってゴマ擦って。脂の乗ったステーキを食べていつもお腹がいっぱいで、毎日が快適で熱くもなく寒くもない。そうすると、わからなくなる。自分が生きているのか、死んでいるのか」
マティオスは欄干に頬杖を突き、気だるげに言った。
「他人の不幸を見下ろすことでしか自分の幸福を感じられない。他人の死を見ることでしか自分の生を感じられない。そんな人間が、ここには幾らでもいる」
「こんなの、おかしいです! 早く止めないと」
足元に追いすがるティアラに、マティオスは微笑んだ。
「大丈夫、下の彼らは罪人ばかりだ。相応しい刑が執行されているだけで、止める必要はないよ。なんの前触れもなく上げられた税金が払えなくなり、納税の義務を怠ったとして捕まった善良な国民も多々いるけれどね」
「……そんな。そんなの、あんまりです!」
「でもこの一見残酷な行為は、もちろん貴族の愉悦のためだけではない。きみならわかるだろう? 彼らの中に黒い靄が次々と生まれていくのを」
言われてティアラは、座り込んだままで下の光景を覗いた。
確かに、視える。武器を振り上げる人々から、黒い靄が次々と生まれている。
「視えるきみに、特別に教えてあげよう。『業』……これを供給するのが、ディングリップ帝国に与えられた役割さ。おれたちはそうすることで、見逃されている。世界の最果てに、そして漆黒竜団に。だからディングリップは、隙あらば奴らを打倒したい。目の上のたんこぶを払い落とそうと、躍起になっているのさ」
「それは、どういうことですか……?」
「話したままさ。おれにしては珍しく素直にね」
ティアラは再び、眼下を眺める。
下はまるで、地獄だ。その光景を、さも当たり前のように眺める人々。結局、上も地獄だ。
ティアラの目に、みるみる内に涙が溜まる。心が、魂が痛む。人々の悲鳴が、喘ぎが、叫びが、届かないにも関わらずティアラに訴えかける。
ティアラはマティオスのズボンの裾を握り、身を震わせた。
「この事態を止めてください! あなたは偉い人なのでしょう? 権力があるのでしょう? なんでもいいからそれを振りかざして、早く事態を収めてください! こんなこと、許されていいはずがありません! わたくし、何でもします。ですから!」
マティオスはゆっくりとしゃがみこむ。絨毯に手をついたままのティアラは、すがる思いでマティオスを見つめた。
瞳に涙を溜め哀願するティアラの顎に、マティオスは手をかける。
そして鼻先を近づけ、囁く。
「それでおれに、どんなメリットがあるんだい? 止めたら、きみはなにをしてくれるの?」
ティアラの目が、怒りに見開かれる。
反射的に、手が出た。
小気味良い音がし、マティオスの頬は赤く染まった。横を向いたまま、痺れる頬にゆっくりと手をやる。
ティアラは目からぽろぽろと涙を零し、衝撃に痺れる自分の手を握り締めた。
「……最低です」
ティアラは言うなり、脱兎のごとく個室から飛び出した。
一人になったマティオスは、静かに息を吐く。舞台に面したバルコニーに再び足を向け、下を見た。
そして思わず目を疑う。
「あれは……」
視界の端に飛び込んできた萌木色に、息を呑んだ。
小さな、殺し合う人々がひしめく舞台。
居るはずのないフリッツとラクトスが、そこに居た。




