第十一話 城内に蠢く影たち
夕闇がすっかり辺りを包み、都に夜がやってくる。
ディングリップ城のいくつもの窓からは煌々と明かりが漏れ、星たちは遠慮がちに瞬く。
城の正面にある広場には、主人を待つ夥しい数の馬車が待機していた。
「悪かったな。巻き込んじまって」
ラクトスは馬車にもたれかかり、御者席で姿勢を崩している男に声を掛ける。働き盛りの中年男性で、ソフィアお抱えの御者だった。
「いや、気にすることはない。それに万が一の時は、自分はあんたに脅されたと言えばいいんだろう?」
「ああそうだ。物わかりが良くて助かる」
ラクトスは苦笑する。
頃合いを見計らって状況を探るつもりではいたが、城の入り口にはしっかりと兵が控えていた。現時点ではとても潜り込める気配はない。兎にも角にも、しばらくは時間を潰すしかなさそうだった。
城の入り口に目を向けながら、ラクトスはふと御者に言葉を投げかける。
「主人のこと、恨んでないのか?」
その問いに、御者は目を見開いた。
聞けばアーティの診療所にやって来た馬車は、この男が御していたという。それならば当然、アーティの行った安楽死まがいの現場にも居合わせていたはずだ。それでどうして今回の申し出に繋がるのか、ラクトスはずっと疑問に感じていた。
意外にも御者は、落ち着いた口調で答えた。
「あの最期は、旦那様の希望だったからな。先生が荒野に居を構えて、自分のように泣きを見る御者はそう少なくはない。なにせ医者を求めて命がけで荒野へ出向かなければならなくなった」
その口調に、言葉ほどの恨みがましさは出ていなかった。
「あの婆さん、何者だ?」
すると今まで穏やかだった御者は、わずかに目を尖らせる。そこには明らかな不快感が現れていた。
「あの方をそんなふうに言うんじゃない」
「……おっと、悪ぃ」
内心、ラクトスは舌を巻く。御者の気分を害してしまったようだ。
しかし御者は気を取り直し、口を開いた。
「彼女は代々医者を排出する名門、セスター家の令嬢だ。それが強力な治癒術の才を持って生まれたというから、鬼に金棒だよ。まあ、彼女も色々大変な人生を送っているがね」
「さてはあんた、若い頃気があったな?」
ラクトスはにやりと口元を歪める。
御者は当時を思い出すように言った。
「自分だけではないさ。あの方は自分たちの憧れだった」
「でも、あんたよりかなり上だろ? ずいぶんと年上好みだったんだな」
アーティはすでに大きな孫がいてもおかしくはない年齢だ。少なくとも、ラクトスはそう思っている。
御者はしばし、黙った。そして不意に話題を変える。
「実を言うと、あんたたちの申し出は好都合だった。城で開かれる夜会に関しては、あまりいい噂がなくてな。まだうら若いお嬢様を行かせてもいいものか、屋敷の連中も考えあぐねていたんだ」
「なんだ、その噂ってのは?」
御者の反応を不審に思いつつも、ラクトスは耳に飛び込んできた不穏な単語を無視できない。
しかし御者は言いにくそうに頭を掻いた。
「なに、あまりにも突拍子がないんでな、噂には違いないと思うんだ。しかしあの会場が魔の巣窟であることには変わりないだろう。貴族なんて、ほとんどが魔物みたいなものだ。自分の地位を高めるための策謀、略奪、貶めあい。うちの旦那様も、そういった輩に命を削られた」
「金持ちなんかロクなもんじゃねえからな。なあ、あいつらが帰ってきたら話を聞けばいい。あんたらのお嬢さんを行かせていいものかどうか……」
そこでラクトスの言葉は途切れる。
暗闇の向こうに、蠢く気配を感じたのだ。御者もそれに気づいたようだ。
気配は一人ではない、複数人だ。それもぞろぞろと列を為し、順に連れて行かれているように見える。
こんな時間に、こんな場所で。
ラクトスは眼鏡越しに目を細めた。
「なんだ? あの人の列」
「……おそらく、囚人だ。まさか本当に」
「囚人? ここは城だぞ、なんでそんな奴らがいる?」
御者の呟きに、ラクトスは眉を潜める。
王族貴族が出入りするディングリップ城に、囚人の存在はあまりにも不自然だ。しかもこの様子では、かなり大勢の人間が連行されている。
「きみの仲間、確か捕まったんだったな。ないとは思うが、まさかあの中に居るってことは……」
「ちょっと行ってくる」
ラクトスは御者に言い残し、馬車の中に隠していた杖を持ち出す。
そして植え込みの陰の向こう、頭を垂れた人々の気配に、静かに近寄っていった。
一方、夜会会場。
とっくの昔に酒が行き渡り、来客はほどよく酔いはじめていた。もちろん、隙あらば格上の貴族に取り入ろうと目を光らせている輩もおり、全ての人間が浮かれきっているわけではない。だが会場の雰囲気は、明らかに砕け始めている。
あちこちの人の輪から、どっと談笑が湧く。貴婦人は扇で口元を隠しながらも、高らかに笑っている。お付の者たち同士が困ったように視線を合わせる様子も垣間見えた。
そろそろ、潮時だ。ルーウィンはそう判断する。
ボンボンの若造に見下され、太ったおやじに尻を触られ、まったく散々な目に遭った。しかしティアラとその若者が話し始めてからは、少し離れた壁際からその様子を見守っている。お蔭であれ以上の不愉快な思いはしなくて済んだ。ティアラもなんとか会話を続けており、若者はすっかりその気になっていた。
ルーウィンは壁にもたれながら、そっとティアラに視線を送る。にこやかに話しているティアラが、それに気が付く。
互いに目が合い、ルーウィンは首でドアを指した。その合図にティアラも小さく頷く。
「おや、どうかしましたか? 何か向こうに面白いものでも?」
「えっ? あの、その……」
若者が振り返りそうになり、ルーウィンは内心ぎょっとする。ティアラなどはそれがすっかり声にも出てしまっていた。動揺が見え見えだ。
そして隠しきれない、決定的なミスが起こる。
ティアラは思わず若者の顔を、がしっと両手で取り押さえた。
(ちょっと……!)
ルーウィンは思わず声を上げそうになる。これではあまりにも不自然すぎだ。
両頬を挟まれる形になった若者は、何事かと怪訝な顔をする。一方、ティアラももう引くわけにはいかなかった。
ティアラは両手で、若者の頬を包み込むようにして言った。
切実な声音と、哀願に満ちた潤んだ瞳で。
「あの……しばらくわたくしのことだけ、見ていてくださいませんか?」
言葉の意味は、至極ストレートなものだ。
向こうを見るんじゃない。こっちを見ていろ、と。
しかし若者はその言葉に鼻息を荒くした。おそらく、ティアラの焦りから真っ赤に染まった頬が、淑女としてあるまじき行動を恥じているのだと解釈したのだろう。
「よ、喜んで!」
若者はティアラの手を取り、ティアラは内心ほっと胸を撫で下ろす。
その様子を見ていたルーウィンは、天然って恐ろしいなと、つくづく思うのだった。
会場から抜け出したルーウィンは、先を急いだ。
途中通路で、飲み過ぎで気分が悪くなったらしい主人と、それを介抱する付き人に数組ほど出くわす。しかし足を緩め、何食わぬ顔をして通り過ぎた。
ちらほらと人がいることで、逆にルーウィンの存在が自然に映る。主人を捜しているらしい使用人を、見張り兵は気に留めなかった。おそらく、夜会ではこのようなことが日常茶飯事なのだろう。
徐々に通路の灯りの感覚が広くなり、薄暗い影溜まりが増える。ここから先は本来、来客が踏み入っていい場所ではない。
万が一見つかって咎められても、どうにでも言い訳はできる。
だが出来るだけ、見つからないに越したことはない。
ルーウィンは周囲に注意を向け、足早に進む。
すっかり静かになった回廊で、ふと思った。
「あたし……なにやってんだろ」
見下され、不愉快な思いをし。こんなにしてまで、こんな場所で、自分はなにをしているのか。
パーティなら、ダンテを失ってからも一時的に誰か彼かと組んでいたことはある。利用するだけ利用し、相手が窮地に陥れば捨て置きもした。時にはそのしっぺ返しも受けた。
だが今回は、どうだ。
自分はこのまま、フリッツを見捨てることもできる。フリッツはこの国に滞在している事実すら抹消され、どうしようもなく分が悪い。救出したところで、上手くこの国から逃げ出せるかも定かでない。
それに、もう当てもなく旅をする必要も、フリッツたちと共にいる理由もない。
仇であるゴルヴィルの居場所はすでに割れているのだ。
腕を磨き、再び侵入の機会を待つ。ゴルヴィルを狙う以上、ルーウィンはディングリップに留まる必要がある。
その危険を冒してまで、フリッツを救う意味は、果たしてあるのか。むしろマティオスに滞在の許しを乞うべきで、機嫌を損ねるようなことはするべきでない。
見捨てるべきだ。マティオスに取り入り、目的を果たす。それが正しい答えだ。
頭ではわかっている。
しかし。
『だってぼくは一緒に居る。ぼくたちは一緒に旅をしてる仲間じゃないか』
思い出す。
負傷してベッドに座る自分と、その傍らに立っていたフリッツを。
みっともなく上ずった声。
隠しきれていない赤い耳。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった、汚い顔。
『無事で、よかった……』
胸の奥が、詰まる。
明かりが落とされた渡り廊下で、ルーウィンは立ち止まった。
この感覚を、自分は知っている。思わず胸に、手を当てる。
同じだ。ダンテと。
口先だけでなく、大切にされているのが否応なく伝わってくる。
こちらが気恥ずかしいほどに、相手の気持ちが溢れ出す。
痛くて、苦くて、とても暖かく込み上げる。
ルーウィンは静かに、目を閉じた。
あの情けない顔を思い浮かべると、自然と自分の表情もほころんでいく。気持ちが穏やかに凪いでいく。
この不思議な感覚を、人は何と言うのだろう。
いや、なんだっていい。
自分には、今、やらなければならないことがある。
ルーウィンは唇を引き結び、顔を上げた。
「さて、行きますか」
両頬を軽く叩き、気合を入れる。そして再び、歩き出す。
助け出した暁には、こんな目に遭わせたフリッツに嫌味を言い、散々たかってやろうと心に決めた。
「ねえ、あなた。いい夜ね」
うとうとしかけていた警備兵は、その声にはっとする。そして慌てて姿勢を正し、目の前の人物を見て口を開ける。
目も覚めるような、とはまさにこういうことを言うのだろう。そこにいたのは、妖艶な美女だった。
黒く艶やかな黒髪は肩口で揺れ、きめ細やかな白い肌が際立っている。しなやかな身体に沿ったドレスは深い赤で、女が動くと煌めくように揺れた。大胆にも腿まであるスリットから白く美しい脚が覗く。
「酔い覚ましをしていたら、道に迷っちゃったみたいなの。ねえお兄さん、会場まで案内してくれない?」
女は溶けるような微笑みを浮かべた。
熟れた果実のような紅い唇が蠱惑的で、零れ落ちんばかりに豊かな胸もとに思わず目がいってしまう。その細い肩に、脚に、腰に。今にも手を伸ばしたくなる。
匂い立つ、色香。
思わず兵士はゴクリと唾を呑んだが、しかし今はあくまで仕事中。そこは理性で欲求を押しとどめた。
「そうしたいのは山々ですが、自分にはここを守る仕事があります」
「あらぁ、つれないのね。いいじゃない、こんな夜よ? あっちで貴族がバカ騒ぎしてるっていうのに、あなただけが真面目に仕事をするなんて不公平だわ。ねえ?」
女は兵士にしなだれかかった。兵士の体に、緊張が走る。
黒髪から漂うふわりと甘い香りと、女の匂い。白く柔らかな肢体を絡ませ、女は愛おしむように兵士に触れた。腕を兵士の首に回し、まるで踊るような仕草で、女は上目づかいに兵士を見つめる。
唇と唇が、今にも触れてしまいそうな距離で。
「わたしね、まだ酔ってるみたいなの。だから……」
しかしその吐息に、酒臭さは微塵もない。
兵士が不審に思った時には、もう遅かった。
「……う、……がっ」
鋭く走る痛み。そこからみるみる滲み出る、赤い染み。
腹には深く深く突き立てられた短剣。兵士は小さく痙攣しながら、その場に静かに崩れ落ちた。
「あら、つい手元が狂っちゃったわ。ごめんなさいね」
女―――ルビアスは兵士の腰から鍵束を抜き取ると、指先で弄ぶ。
そして牢へと続く階段に、ゆっくりと足をかけた。




