第八話 アーティの提案
「そんなところに居ても無駄ですよ」
高級感漂う一等地の一角、フォーゼル邸の近くの物陰に身を潜め、張り込んでいたラクトスとティアラに声をかけてきたのはアーティだった。ちなみにルーウィンは交代して宿屋で休息を取っており、そのタイミングを見計らってのことだった。
ティアラは驚いて声を上げる。
「アーティ先生! どうしてここへ」
「フリッツさんはもうこの屋敷には居ません。あなた方が来るのと入れ違いになったのでしょう。昨日の明朝にはここを連れ出されましたよ。そんなことも知らなかったのですか?」
「そうだったのですね……」
叱責まじりの言葉に、ティアラは目に見えて肩を落とした。
ラクトスはディングリップに来てから、アーティとはまともに言葉を交わしていなかった。荒野の診療所での一件で食って掛かり、あまり良くない別れ方をしたためだ。しかし、ここで意地を張るほどラクトスも子供ではない。
「それで? フリッツは今どこにいる?」
「ディングリップ城ですよ」
「なんだと?」
ラクトスの声は思わず上ずった。ティアラも目をぱちぱちとさせる。
「お城、ですか? でもまた、どうして」
「こんなところで立ち話もなんです、わたしの部屋へ行きましょう。誰かに聞かれてしまっては都合が悪いわ」
アーティは踵を返し、さっさと歩き始める。ラクトスとティアラは互いに顔を見合わせ、頷くとアーティの後を追った。
アーティの現在の住まいは、一行の宿とフォーゼル邸の中間地点ほどの位置にあった。ディングリップの街は広く、通りの周囲には所狭しと建物が並び、おまけに人口も多い。そのために同じ都市にいても、アーティとルーウィンはお互い鉢合わせせずにいた。小さな街では、そうもいかなかっただろう。
アーティは表通りから一本中の道に入り、ひっそりとした古いアパートの一室に二人を案内した。とはいっても、ティアラがアーティの部屋を訪れるのはこれで二度目だ。
薄暗い廊下にすすけた壁、小さな部屋。荒野の診療所のような、開放的で悠々自適な暮らしとは大違いだ。しかし、くすんだガラスの窓辺に活けられた花の小ビンや、壁の隅に吊るされたポプリなど、随所に彼女らしさも窺える住まいだ。
二人に茶を出し、自分も腰を落ち着けると、アーティは話し始めた。
「わたしの知る限りでは、マティオスさんは叔父であるドルチェット公爵と手を組み、フリッツさんの身柄を皇帝陛下に差し出したと思われます。フリッツさんは漆黒竜団幹部のお兄さんがいるそうですね、おそらくはそのためです。このディングリップ帝国は、長い間漆黒竜団に悩まされてきましたからね」
「そうなのか? そんな様子には見えないが」
ディングリップの街は南大陸の街よりもずいぶんと発展しており、とても漆黒竜団の妨害を受けているようには思えない。暮らしている人々も飛びぬけて威勢がいいわけではないが、漆黒竜団に怯えるような素振りは見かけなかった。
「まあ、普通に暮らしていてはわからないでしょう。しかし彼らの存在は、この国の仕組みに重大な影響を及ぼしている、それは確かです。多くの国民が、そんなことは知らずに一生を送りますけれどね」
「で、そんなことをどうしてあんたが知っているんだ? あんたが昔組んでいた、例の地図のパーティが何か関係しているのか? ディングリップによって派遣されたみたいだしな」
「相変わらず鋭いですね。まあ、そんなところです」
ラクトスの切り込みに、アーティはやんわりと言葉を濁した。ラクトスの方も今は突き詰めるつもりはなく、それ以上追及することはない。
アーティは続けた。
「話を戻しますよ。フリッツさんの身柄はしばらくこのままになるでしょう。なぜなら現皇帝陛下はもうかなりお歳を召しており、適切な判断を下せるかどうか危うい状態です。ご自分を取り戻されるのは、良くて三日に一回だと聞いています」
それを聞いてラクトスは顔をしかめ、ティアラは息を呑む。
「それでは、フリッツさんはどうなるのです?」
「おいおい、そんなボケ老人に皇帝が務まるのかよ。とっとと退かして、次の皇帝を立てりゃいいじゃねえか」
悲壮な空気を漂わせる二人に、容赦なくアーティは現実を突き付けた。
「ですから、貴族たちは必死になっていますよ。誰を次の皇帝にすべきか、そして自分は誰につくべきか。基本的に彼らは自分の利益にしか興味がありませんから、たった一人の少年の人生など何とも思っていないでしょう。最悪の場合、フリッツさんを牢に入れたことなどこのまま忘れてしまうかもしれませんね」
「そんな……」
「最悪だ。あの屋敷でも連れ戻すのが難しいってのに……」
ティアラは顔を両手で覆い、ラクトスはずるずると背もたれから滑り落ちる。
その様子を見、アーティの口元は弧を描いた。
「いえ、むしろ好都合です」
その言葉に、ティアラは心細い顔のまま首を傾げる。
「それはどういう意味ですか?」
「この街で顔が効くのは、なにもマティオスさんだけじゃないのよ。あの人のような権力はわたしにはないけれど、ある程度の根回しなら可能です。あなたたち、いらっしゃい」
アーティの呼びかけで奥の部屋からやって来たのは、二人の若い女性だった。
一人は白い肌に、髪をふわりと巻いた愛らしいドレス姿の少女。もう一人は一歩下がった場所に控え、きゅっと髪を結った生真面目そうな少女だ。
突然の見知らぬ少女二人の出現に、ティアラはきょとんと、ラクトスは訝しげな表情を浮かべる。豆鉄砲を喰らったような二人をよそに、アーティは少女二人に目で合図した。
「彼女たちは、わたしの知人の娘さんです」
「お初にお目にかかります、ソフィアと申します。こちらは侍女のルイーザです」
「……初めまして。ティアラと申します」
優雅にスカートの裾をつまんで挨拶するソフィアに、戸惑いながらもティアラは礼をとる。一方ラクトスは腕を組み、しかめっ面のまま口を開かない。ラクトスからの睨むような視線にも、アーティはひるまなかった。
そして、ティアラに向き直る。
「あなた方がわたしの診療所に滞在していた時、急患を乗せた馬車がやって来たのを覚えていますか? ティアラさん、あなたも彼を看取ったでしょう? 彼女は、あの伯爵のご息女です」
ティアラは息を呑んだ。
あの老人の、痛々しい姿がありありと思い出される。そして目にしてしまった事実と、老人の安らかな顔を。明らかに動揺したティアラに気付き、ラクトスの眉間の皺は一段と深くなる。
「大丈夫、彼女は何もかも知っているわ。彼が何を望んでいたのかも、わたしが彼に何をしたのかも」
「あなたが先生と共に、父を看取ってくださったのですね。最期の父の顔、とても安らかでした。感謝いたします」
「あの……でも、わたくしは……」
頭を深く下げる少女を前にして、ティアラはただ戸惑うしかない。自分はそんな大層なことはしなかった上に、あの時のアーティのとった行動は、やはりまだ理解できずにいる。
複雑な表情を浮かべるティアラに、アーティは首を横に振った。
「あなたの中であの一件が消化出来ずにいるのはわかっています。わたしの下した判断が正しいとも言えません。でも、まだそれは心の中にとっておいて。ソフィアさんがどういう経緯で協力を申し出てくれているか、それをあなたがたに知ってもらいたかったの」
「協力……ですか?」
ティアラは目を瞬かせ、ラクトスもぴくりと反応する。
「さて、本題に入りますよ。彼女たちは、明後日ディングリップ城に赴くことになっています。ディングリップでは月に一度、城に貴族たちを招く風習があるの。ソフィアさんはこの名誉ある、かつ彼女にとって初めての招待を、あなたがたに譲ってもいいと言ってくださっているわ」
ティアラはまだ目を白黒させ、頭に疑問符を浮かべている。ラクトスの方は、アーティの言わんとしていることが徐々に飲み込めてきたようだった。
「わかるかしら? 城に侵入する、チャンスだということよ」
その言葉に、ティアラははっとし、ラクトスは目を細める。
アーティは微笑んだが、すぐにその表情を引き締めた。
「彼女たちに迷惑はかけられない。だから侵入の際は万が一の場合に備え、ソフィアさんたちには完全なる被害者を演じてもらいます。あなたがたが彼女たちを連れ去り、成り代わって侵入した。正体が知られてしまったときには、その筋書きを使います。もちろんその時はあなたがたに危険が及びますが、彼女たちの身はある程度保障される。まあ、何事も起きなければ問題はないのですけれども」
協力者である彼女たちの身の安全を最優先する保険をかけての、城への侵入。
「ですから、捕まればただでは済まないわ。それでもやると言うのなら、わたしは協力を惜しみませんよ」
「信用できねえ」
低い声が、小さな部屋に響く。
鋭い視線のまま、ラクトスは言った。
「おれはあの日あの馬車の中で何が起こったかは知らないが、さっきのティアラの顔を見りゃだいたい想像はつく。その娘が完全なる善意で、あるいはあんた自身が下心なく協力を申し出ているのか疑わしいところだ。情けねえことに、おれたちはあんたの提示した案以外に城に潜り込む手立てはない。だが、それを鵜呑みにするかどうかはまた別の話だ」
「あら、ずいぶんと慎重になっているのね。マティオスさんに手の平を返されたのが効いているのかしら」
すぐに信じられなかったのが面白くなかったのか、アーティはラクトスの心を突く的確な言葉を放った。疑いを向けられたソフィアの表情は哀しそうに曇り、侍女は主人の受けた屈辱に肩を怒らせる。
だがラクトスの目は真っ直ぐ、そして探るようにアーティの瞳の奥に向けられた。
「ばれればあんただってただじゃ済まないぞ。フリッツなんてあんたにとっちゃ、数日間滞在しただけの客に過ぎない。なぜここまでする必要がある?」
ラクトスとアーティは、しばし睨みあった。
ティアラはその様子を、固唾をのんで見守るしかない。
アーティを疑うなど申し訳ない気持ちもあったが、荒野の診療所での一件を鑑みればラクトスの猜疑心も仕方のないことだった。ラクトスはアーティの人間性を疑っているのだ。
それにティアラとて、アーティのあの行動を理解しきれているわけではない。万が一にも、父親の命を奪われたソフィアが自分たちを陥れようとする可能性も、無くはないのだ。
しかし、ティアラにはわかっていた。
アーティが、次に口にする言葉が。
「フリッツさんには、ルーウィンがお世話になっていますからね。助けたいと思った……これではいけませんか?」
あまりにも単純な、答え。
しばし二人の探り合いは続いた。
だがようやく、ラクトスは深く息を吐く。頭に手をやり、くしゃりと前髪を掻き上げた。
「疑って悪かったな。おれはもう、……これ以上失敗できねえんだ」
「わかっていただけて嬉しいわ。では、さっそく段取りといきましょうか」
アーティがにこやかに微笑むと、場の空気はようやく和らいだものとなる。ティアラをはじめとし二人の少女も、ほっと肩の力を抜いた。
そしてティアラは、ラクトスの横顔を盗み見る。
彼の台詞に責任感以上の何かを感じてしまったのは、思い過ごしだと考えることにした。
「人は見かけによらぬものだな。あの小僧、まさかそんなに業を背負っていたとは。警備を厳重にして正解だった、そうでなければこちらが殺されていたかもしれん」
フォーゼル邸の執務室の椅子にもたれ、ドルチェットはくつろいでいた。
だが、特に返事はない。
ドルチェットは部屋の中央で突っ立っている甥に向かって言葉を投げた。
「どうした? 珍しく同情しているのか? 確かに多少気の毒だが、罪を犯してきた者ならばこれも仕方がない。帝国のための尊い犠牲など、身に余る光栄ではないか」
「……皇帝陛下がなにもなさらず、あのまま放置されるということは」
マティオスが言いかけると、ドルチェットはそれを笑い飛ばす。
「おいおい、冗談はよせ。皇帝陛下はそのようなことをなさるお方ではない。我々は陛下の言うとおりに彼を召し上げたのだ、それから後のことなど考えなくともよいだろう。しかしあの老婆、お前の業のことは何も触れずにいたな。言う相手を選んでいると見える、まったく小賢しい老人よ」
自慢の髭を撫でながら、ドルチェットは可笑しそうにくつくつと笑う。
「お前も、つくづく大したものだ。人を騙すことにかけては、そこらのペテン師など足元にも及ばない。持つべきものは仕事が出来る、物わかりの良い甥だな」
マティオスは視線を絨毯に落としたまま、尋ねた。
「叔父上。今日も、母には会いましたか」
「ああ、会ったとも。具合は良さそうだった」
「では唄は? 今日は、何の唄を」
「……さあ、わからないな。よく、憶えていない」
ドルチェットは不意に立ち上がり、マティオスに背を向けた。懐を探り、パイプを取り出す。
これは、これ以上話す気が無いという、合図だった。
マティオスの端正な顔が、不意に陰る。
「……今日のところは、これで下がっても?」
「構わん。久々の謁見で疲れただろう、ゆっくり休め」
踵を返し、マティオスは執務室を出た。
心が静かに、冷えて行くのを感じながら。
ぱたぱたと軽やかな足取りが聞こえる。タオルやシーツを腕一杯に抱えたメイドがリネン室に向かい、こちらの方へとやってくるところだった。
メイドがノブに手を伸ばそうとして、マティオスは先にドアを開けてやる。主人の親切な振る舞いに、メイドは顔をほころばせた。
そして彼女が礼を言おうとした、その時。
「きゃ……!」
メイドは小さく悲鳴を上げて、リネン室に引きずり込まれた。
月明かりに薄青く浮かび上がる、狭く小さな部屋。
これが知らない男の仕業であれば、メイドは即座に悲鳴を上げただろう。だが、相手は主人であるマティオスだ。
何よりこのメイドは幼いころから屋敷に仕え、マティオスが少年の頃からの付き合いだった。驚きこそしたが、怖いなどとは思わない。
狭い密室に押し込められ、仕事の邪魔をされて、メイドは唇を尖らせた。
「マティオス様! 久々に帰って来たかと思えば。あまりこのような悪戯をされると……」
メイドはそこで、口を噤む。
様子がおかしい。主人の肩が、小さく震えている。
マティオスの額はメイドの肩に置かれており、彼女からはその表情は読み取れない。抱かれるような体勢で密着していることに慌てながらも、メイドは優しく言葉をかけた。
「どうされたのです? お手がとても冷たい。なにか暖かい飲み物でも」
「……要らない。きみが温めてよ」
端正な唇から紡がれる、甘く低い声。
メイドはみるみるうちに頬を染めた。
「ご冗談を。もう、いったいその台詞、何人のお嬢様方に使ってこられたのやら。その手には乗りませんわ」
「メイアン。きみ、式はいつだっけ?」
メイドの体が、ぴくりと震える。
通った鼻と唇が、彼女の細い肩から首筋をなぞる。蒼銀の髪が、動きに沿ってさらさらと流れる。
月明かりに照らされ、マティオスは一層美しく、そしてどこか儚げだった。途方に暮れた少年のような、どうしようもなく心細い表情をしている。
唇が、吐息が近い。
場に流れる空気が、妖しく変化する。
それを感じ取り、思わずメイドは声を上ずらせた。
「あ……の、あと十日後に控えております。マ、マティオス様。よしてくださいませ、こんなお戯れは」
「そう、十日後に人のものになるんだね。……じゃあ、まだいいね?」
マティオスは彼女の両手を左手で抑えた。そして空いた右手で器用にボタンを外していく。
首筋が、鎖骨が、胸元が。
月明かりに白々と露わになっていく自分の肌を見て、メイドは小さく身じろいだ。
「ダメです……。こんなこと……」
「そんなこと言って。本当に嫌なら、人を呼べばいい」
毒を含んだ、甘い囁き。
メイドは羞恥心に打ち震え、一瞬で耳まで赤く染まった。式を控えた娘が、こんな場面を見られれば破談は確実だ。
虫たちの奏でる涼やかな音が、窓越しに聞こえる。そしてかすかな、衣擦れの音。
マティオスは彼女の頬にそっと触れ、額に優しく口づけを落とす。
「大丈夫、これから起こることは全部夢だ。夢の中なら、何をしたっていいだろう?」
「……ん、マティオスさ……ま」
メイドはマティオスの下で逃げ出そうと身をよじった。しかし観念したのか、ついには潤んだ瞳でこちらを見返す。触れられる度、甘く乱れた吐息を漏らす。
そんな姿を見られるのを恥じらい、声を出すまいとしている様子が、また健気でいじらしい。
「きみの一生のうちで、最高の夜にするよ。絶対、後悔させないから」
沸き起こる支配欲。
だが同時に、その状況を冷ややかに見ている自分もいる。
彼女もまた、自分にこうされるのを望んでいるのではないだろうか。つまらない家庭に入る前に、見目良い男に強引に組み敷かれ、胸の高鳴りと共に体がゆっくりと開かれていくのを。
そんな自分の妄想を、マティオスは鼻で笑い飛ばした。
どんな理由をつけても、自分のしようとしていることは下劣な行為だ。
マティオスは自分のシャツのボタンに手をかけながら、彼女の耳元に、囁いた。
「……忘れさせてよ。おれもきみに、何もかも忘れさせてあげる」
そうでなければ。
自分が、何もかもが。
音を立てて、壊れてしまう。




