第六話 内側と外側
「……そうですか」
アーティはティアラの前に温かな飲み物を差出した。
フリッツがいなくなった。そしてそれには恐らく、マティオスが関係している。
この簡潔な事柄だけを聞き出し、アーティはティアラを落ち着かせることに専念した。
「しかしどうして、マティオスさんがフリッツさんを攫うことになるのです? それで何か、彼に利益がありますか?」
ティアラは暖かいカップを手に持ったまま、神妙な顔つきになる。
「ラクトスさんが言うには、フリッツさんのお兄様のせいではないかと。ここだけのお話ですが……フリッツさんのお兄様は、漆黒竜団の幹部なのです。弟であるフリッツさんを、マティオスさんは何らかの形で利用するつもりなのだと」
それを聞き、アーティは驚きに目を見張った。
「まあ、そうだったの。お兄さんを探すためだと言うのは聞いていたけれど……」
ティアラはカップの縁に視線を落とす。
甘かった。
彼が本物の漆黒竜団でないとわかった時点で、なぜ潜入していたのか、その目的はなんなのかを、はっきりと問い詰めるべきだったのだ。
実際ラクトスはそうしていたが、漆黒竜団に戻ることの出来ないマティオスでは、もうフリッツを利用することもないと油断したのだろう。
「フリッツさんはお兄様を説得するために、ここまで旅をされてきました。でも、最近それも限界が見えてきたようで……おそらくは、これからどうするべきか迷っているところだったと思うのです。そんな矢先に……」
自分自身の不甲斐なさに、ティアラは次第に俯いた。皆が警戒を怠った。いつまでもマティオスを疑い続けるラクトスを、神経質すぎると思っていた自分を恥じる。
アーティは立ち上がると、ティアラの肩に優しく手を置いた。
「わたしは、マティオスさんの居所を知っています。彼の本当の姿も。それを知っていれば、フリッツさんを連れ去った目的もだいたいの見当はつくわ」
その言葉に、ティアラは弾かれたように顔を上げる。
すがるようなティアラの視線に、アーティは安心させるように微笑んだ。だがすぐに険しい顔つきになり、ティアラを見据える。
「ですが実際に行動するのはあなた方です。何が起こっても、自己責任でお願いしますよ」
ティアラは唇を引き結び、頷いた。
「で、本当にここなの?」
「はい、間違いありません」
ルーウィンとティアラは、整えられた植え込みの陰に隠れていた。
ティアラがアーティから教えられたのは、ディングリップの一等高級住宅街だった。
ディングリップの街は台地に築かれており、中心にいくほど土地が高くなっている。そしてそのど真ん中に居を構えるのが皇帝であり、ディングリップ城が堂々と聳え立っているのだ。実際、二人の目にはディングリップ城の一部がかなり近くに見えている。
現在地は真の意味で城下町と呼ぶべきものだが、どうもこの国にはルーウィンやティアラが思い描くような城下町は存在しないのだと知った。
城の周りは貴族たちの邸宅が整然と並び、美しく整備されてはいるが、露店や市が幅を利かせる賑やかな場所ではない。あるとすれば、いかにも貴族御用達といった洒落た店ばかりだ。
「なんかこの街嫌なのよね。このあたりは特によ、すましてる感じがいけ好かない」
「雰囲気はロマシュの街に似ていますね。同じ都でも、グラッセルとは大違いです」
あとは好みの問題だ。だからといって、すこしばかり人々に活気が無くとも、決して悪い街ではない。
その時、あからさまなため息が聞こえ、ルーウィンは眉を寄せた。
「ちょっと、いつまで自己嫌悪してるのよ。うっとおしいわねぇ」
植え込みの陰には、どんよりとした空気を纏うラクトスがいる。彼はルーウィンを一瞥すると、また一つ息を吐いた。
フリッツがいなくなり、今度はあいつかと散々荒れ狂った後、ラクトスは面白いほどに落ち込んだ。
つい最近ルーウィンがいなくなったばかりであるのに、まさかまた、それも今度はフリッツが姿を消すとは。いつも仲間を捜す側に回るラクトスだからこそ、さすがに気が滅入るというものだ。
そして今回のことに、責任を感じているのもまた確かだった。
「……宿代だけぶんどって、あいつを追い出していればこんなことには」
「タカったことに後悔はないのね」
「反省すべき点が違うと思います」
昨晩フリッツとマティオスの帰りが遅くとも、それを誰一人気に留めなかった。先日、夜遊びで二人の帰りが遅かったためだ。またかと言って、三人とも腰を上げようとはしなかった。
そして翌朝になっても、昼を過ぎても戻らず、事態を察して慌てて街中を探し回ったのだ。
あの夜遊びも今回のことを実行する足掛かりだったのだとすると、マティオスはどこまでも用意周到だ。
「とにかく、マティオスさんはあのお屋敷にいらっしゃるという話です」
「しっかしあの軽薄男が、まさか伯爵とはな。世も末だ」
「まったくね」
フォーゼル邸。聞けば伯爵家だという。
敷地はぐるりと塀で囲まれており、ところどころに護衛の兵士が控えていた。
「でもこれ、確かな情報なんでしょうね? いったいどこから拾ってきた話よ?」
ルーウィンは話を持ってきたティアラを訝しむように見る。
「それは……」
「おい、とっととどうにかするぞ」
なんとか気を持ち直したらしいラクトスが助け舟を出し、ティアラは内心ほっとする。
ラクトスにはアーティからの情報だと言ってあるが、ルーウィンには内緒にしてあった。アーティがこの街に居るとルーウィンに知られれば、また厄介なことになる。
三人は改めて、植え込みからフォーゼル邸を見上げた。
伯爵家だけあって、やはりガードが固い。ヒトラス邸の時のように誰かが門番の気を引き、壁を乗り越えるという手はお粗末過ぎる。一定間隔に配置された、何人もの番兵の目をかいくぐるなど不可能だろう。
三人がどう侵入しようか思案していると、
「失礼」
「きゃあ!」
背後から突然、ティアラは肩を叩かれた。ルーウィンとラクトスは身構える。
音もなくそこに居たのは、身なりの整った初老の男性だった。すらりとした長身ながら、白いものが混ざりはじめた髪はきちんと梳かれている。
丁寧に礼を取ると、あっけにとられている三人に告げた。
「わたくしはフォーゼル家の執事でございます。主がお呼びです、ご案内いたします」
三人は驚いた表情のまま、お互いに顔を見合わせた。
豪勢な絨毯。上等なタペストリー。高い天井。扉を入ってすぐ、デザインのために二手に分かれた白亜の階段。
その欄干にもたれかかり、マティオスは頬杖をついていた。
「やあ、丸一日空いたね。ずいぶんと遅かったじゃないか、待ちくたびれたよ」
上から下を、見下す構図。
執事に案内された三人は、上にいるマティオスを見上げた。ルーウィンとラクトスは、早くも睨み上げてるという表現が正しい。
「どいうつもりだ。どのツラ下げておれたちの目の前に現れた」
マティオスは苦笑する。
「きみたちにそんなことを言う権利はないよ。それに、ここに来たってことはわかっているよね。おれがどんな人間か」
マティオス=フォーゼル。
現在のディングリップ帝の弟夫婦の設けた嫡子たちの家系。平たく言えば、皇帝の親戚だ。かつては公爵家であったが前フォーゼル公爵が亡くなり、当時幼かった嫡男が責務を果たせるようになるまで、一時的に公爵位を返上しその位を伯爵としている。
その嫡男こそ、目の前にいるマティオスである。
蒼銀の髪をかき上げ、整った唇を持ち上げてマティオスは微笑んだ。
しかしルーウィンは吐き捨てる。
「あんた、とことんヤな奴ねぇ。金持ちでボンボンって要素が加わると、さらに胡散臭いわ」
「そうかな? 女性としては、おれみたいなのはなかなかの好物件だと思うのが普通じゃないかい?」
背が高く顔が良い上に、金と地位まで持っている。女性にしてみればぜひとも乗りたい玉の輿だろうが、一般男性から見ればいけ好かないことこの上ない。
「マティオスさんお願いです。フリッツさんを返してください!」
ティアラの言葉に、マティオスは肩をすくめてみせた。
「なんのことだい? フリッツくんなら今頃ゼリア行の船上だ。彼は南大陸に帰るんだよ」
「とぼけるのもいい加減にしろ! てめぇの仕業だろ? フリッツが黙って出て行くはずがねえ!」
怒鳴るラクトスに、マティオスは飄々と答えた。
「それはどうだろう、単に合わせる顔がなかったんじゃないかい? 自分だけ尻尾を巻いて、南大陸へ逃げ帰るのが耐えられなかったんじゃないかな。彼、これから先どうするか悩んでいたみたいだったし」
ラクトスは一瞬、言葉を飲み込む。よりにもよってフリッツが、黙って南へ帰ることなど考えられない。だが今後の進退に思い悩んでいたのは確かだ。
代わりにルーウィンが声を張り上げる。
「うだうだ言ってないで、早くフリッツを出しなさい!」
「出さなかったら、どうするんだい?」
マティオスは再び気だるげに頬杖を突き、三人に視線を落とした。
「なんなら調べてくるといい。フリッツくんは確かに船に乗って出国したと、そう記録されているはずだ。入国許可証も返上されている。つまり、彼はもうこの国には居ないんだ。いや、居ないことになっている。なんなら、きみたちも南大陸に帰ったことにするかい?」
言葉に隠れた真意に、三人の表情は凍りつく。
その瞬間、マティオスの瞳は残忍な光を帯びた。
「そうすればすでに出国したはずのきみたちは、あっという間に招かれざる客だ。はっきり言おう。グラッセルからのスパイにでっち上げて処刑、なんて手違いも当然起こり得る話だ。きみたちは不法入国者、おれは伯爵。さて、世の中はどちらに傾くでしょう?」
脅されている。権力を振りかざして。
怒りに燃える目で、ラクトスは奥歯をぎりりと噛みしめた。
「この、クズ野郎……!」
「おっと、言動には注意した方がいい。不敬罪なんてつまらない罪に問われたくはないだろう。話は終わり。ハンス、お客様のお帰りだ」
三人の傍に、すっと控えていた執事が進み出る。するとその動きに合わせて、番兵たちがわらわらとやって来た。あっと言う間に取り囲まれ、三人は羽交い絞めにされる。
「後日また船が出る。きみたちは出国し、それに乗船することになるだろう。その後でもし、このディングリップに滞在しているなんてことになったら……その時はどうなるか、わかるね?」
「マティオス! てめぇ!」
ラクトスは怒鳴ると同時に、取り押さえている男に背中を強く蹴られた。それを見たティアラが小さく悲鳴を上げる。
ルーウィン、ラクトスは恐ろしい形相で上を睨み、ティアラは愁いを帯びた目で顔を上げた。
三人を一瞥し、マティオスは勝ち誇ったような笑いを浮かべる。
「権力は、暴力に勝る。覚えておくといい」
「う……」
小さく唸り、フリッツは目を覚ました。
カビ臭い、よどんだ空気が鼻につく。頭が痛い。疼く頭部を手で押さえながら、フリッツはゆっくりと身を起こす。
寝かされていたのは堅い寝台だった。ところどころ穴が開き、虫に食われている様子だ。なんだか腕がむず痒い。
「ここは?」
フリッツは辺りを見回す。壁にはわずかに明かり取の窓があるだけだ。
そして目の前に広がる、鉄格子。どこからどう見ても牢だった。
痛みに回らない頭で、フリッツは考える。自分は確か昨晩、マティオスに誘われて彼の屋敷へやって来て、叔父さんと食事をして、それから……。
「本当に、きみは学ばないね。学習能力がないのかい? 犬や猫でも、一度噛まれた相手にはもっと警戒する」
甘さの中に毒を含んだ声が響き渡り、フリッツはゆっくりと顔を上げた。
そこには足元のカンテラに照らされたマティオスがいる。この光景は、何も今回が初めてではない。
フリッツはすぐに状況を飲み込んだ。
「……また、ぼくだけ内側なんだね」
自分は牢の内側。マティオスは外側。
前回と違うのは、捕えられているのはフリッツ一人だということだ。
自分は、裏切られたのだ。
フリッツは俯いたまま、尋ねる。
「いつから、こうするつもりだったの?」
「ロマシュで初めて、きみに遭った時から。利用できないかと、ずっと考えていた」
最初から、ずっと。その答えに、フリッツは愕然とした。
マティオスの整った顔に、いつものような笑みはない。そこにあるのは、冷ややかな眼差しだ。
「きみのことは、最初から知っていたんだ。アーサー=ロズベラーの補佐役である、ルビアス嬢が気にかけている存在。まさかヒトラス邸に現れるとは思わなかったから、あの時は驚いたよ。だから何も知らないバカな団員に殺されてしまわないよう、おれが自ら捕え、牢に隔離し、きみたちが脱走してからは逃げる余地も与えた」
フリッツの様子が見えているだろうに、相変わらずマティオスの声音に動揺はない。淡々と、事実だけを述べていく。
一方、フリッツの声は沈んでいた。
「ぼくを利用するために。だから殺さないでいたの」
「ああ。そうだ」
「ぼくは、どうなるの」
「わからない。だけど、身の保証はする。きみが役に立つと判断されれば。次に陽の光を浴びる日は、上がきみの使い道を決めた時だろうね」
使い道。その言葉を聞き、フリッツは吐き捨てた。
「ぼくに使い道なんかない。マティオスだって知ってるはずだ。兄さんはもう、変わってしまった。ぼくを人質に取って兄さんを脅すつもり? そんなことをしたって、状況は何も変わらないよ」
フリッツの言葉はアーサーには届かない。
そんな人間の命を盾に取ったところで、アーサーは痛くも痒くもない。ましてやアーサー=ロズベラーは非道な漆黒竜団の幹部だ。幼少期に数年共に暮らしただけの弟などに何の情も湧くはずもない。
だからフリッツがこうして捕えられていることは、まったくの無駄なのだ。
それだけに、腹も立った。ふつふつと身体の奥底から、理不尽で不当な扱いを受けていることに対する怒りが湧いてくる。
「おれも最初はそう思った。しばらく一緒に旅して話を聞く限り、きみには全く利用価値が無いと。でもこの前の戦いを見て、考えを変えた。アーサー=ロズベラーはきみを殺さなかっただろう?」
「だからそれは、遊ばれていただけで……!」
「彼は普通、そんなことはしない。邪魔だと見なせば一瞬で斬り捨てる。だがきみはこうして、生きている」
フリッツは眉根を寄せた。マティオスは、アーサーが自分を見逃したとでも言いたいのだろうか。
ルーウィンが目の前で殺されそうになっているのに、自分はただアーサーに弄られていただけだ。第一、クッグローフではアーサーの指示により殺されかけている。
在り得ない御託を並べるマティオスに、フリッツは苛立った。しかし、マティオスの言葉は続く。
「やっぱりきみは唯一、アーサー=ロズベラーが興味を示す存在だ。だからきみをどう使うか、これが最も重要なんだ」
フリッツの声は、怒りに震えた。
「……バカみたいだ。ぼくなんか、兄さんにとってなんの価値もないのに」
「ああ、まったく。バカみたいだ」
マティオスは足元のカンテラを持ち上げた。
「使い道が無いと判断されれば、すぐに処分されるだろう。きみはそうならないために、知恵を絞って自分の使い道を考えなきゃならない」
「自分を売り込めって?」
「せいぜい僅かな兄との思い出を振り返り、有益になり得る情報を提供することだ。……もっとも、きみがそれを持っているとは思えないけれど。おれは自分の仕事をし、叔父上にきみを差出した。これで叔父上が納得し、機嫌を損ねなければ本望だ」
怒りに支配されつつあったフリッツだが、投げかけられた冷ややかな視線と言葉に、心は軋んだ。フリッツは目の前のマティオスを見上げる。
胡散臭い相手だと、信用してはならない相手だと、わかっていた。パーティを掻き乱されたこともあったが、それでも共に荒野を旅し、時には稽古をつけてくれた。歳の差はあれども、それなりに良い関係になれたと思い違いをしていた。
信じていたなどと、大それたことは言えない。
それでも確かに、傷ついた。
「本当に、そう思ってるの?」
「ああ。腹が立ったかい?」
するとマティオスは、いつもと同じ爽やかな笑みを浮かべた。この状況を何とも思っていない、なによりの証拠だ。
そうだった。この男は最初から、自分の喉元に平気で刃を突き付けた。
そういう男だったのだ。
「それもある。けど……」
鉄格子を握り締めて、フリッツは呟いた。
「それよりも、今は悲しい」
マティオスは何も答えず、踵を返す。
カンテラの灯りが遠ざかる。階段を上がっていく靴の音が、やけに響く。
辺りがまた薄暗闇に戻って、フリッツは深くため息を吐いた。そして寝台に身を横たえ、埃っぽい天井を見上げた。
ロマシュで捕まった時は、皆がいた。だから怖くはなかった。なんとかなると、そう思えた。
だが今は、先が見えない。
ラクトスにあれだけ注意しろと言われていたのに、自分はほいほいとついて来てしまった。今頃怒っているのだろうなと思う。
「みんな……」
助けに来てくれるだろうか。こんな愚かな自分を。
しかし不意に腹が動いたかと思うと、ぎゅるぎゅると大音量で虫が鳴いた。物思いに耽っている最中に、あまりにも緊張感が無い。
フリッツは肩を落とし、再び息を吐く。
「ご飯、ちゃんと出るのかな」
こんな時にも、腹は減る。フリッツは情けなく眉を下げた。




