第四話 屋敷への招待
マティオスは、とある部屋の前に立っていた。
美しく磨き抜かれた、両開きの扉。そこはかつて、彼の父親の書斎であった部屋だ。父親が亡くなって、もうずいぶんと経つ。だが主を失ったはずの部屋は、今では別の客を受け入れていた。
小さく、息を吐く。音ばかりは子気味良いノックが響く。
「入れ」
マティオスは扉を開けた。
まだ火を入れるには早い暖炉の前、男はパイプを咥え、背を向けたまま立っている。
「マティオスか。よく無事に戻ったな」
「ずいぶんとご無沙汰しておりました、叔父上」
マティオスの叔父、ドルチェットはパイプから口を離すと煙を吐いた。
マティオスは辺りにそれとなく視線をやった。マントルピースの上は閑散としている。父が生きていた頃は、彼の趣味であった美しいゴブレットや細工物の工芸品が飾られていたものだ。しかし今や、それらはほとんど片づけられてしまっていた。
かつて壁に掛けられていた絵は外され、その箇所の壁紙だけが鮮やかに浮かび上がっていたものだったが、それすらも薄れようとしている。
幼い頃腰掛けた心地の良いソファも、優しい明かりを灯した机の上のランプも、なにもかもがマティオスには馴染のないものへと変えられていた。
しかしそれも、今に始まったことではない。
ドルチェットはやっとマティオスを振り返った。
「長い間の潜入調査、ご苦労だったな。お前が得た情報は有効に活用させて貰う。必ずや国益を守る切り札となるだろう。近い将来、漆黒竜団を根絶やしにするためのな」
茶色い髪を後ろに撫でつけ、口元に髭を生やしたドルチェットは、再びパイプに口をつけた。
マティオスは問う。
「なにか変ったことは」
「いや、特に目新しいことはない。安心しろ、お前の留守はわたしがしっかりと預かっている」
部屋の中に、煙が充満していく。マティオスの視線は、無意識に外を求めて彷徨った。
「母は、どうしていますか」
「エリーゼ様か。昨日など、窓の外の花を眺めて歌を口ずさんでいたよ。じきに回復するだろう。しかし今日はまた気分が悪いと伏せってしまってね。生憎、会わせてやることは出来ない」
「そうですか。残念だな」
マティオスは小さく呟く。
ドルチェットは事務机の椅子に座った。
「帰って早々悪いが。マティオス、また一つ頼まれてはくれないか」
「今度は誰を?」
マティオスの青い目が細められる。その返事に、ドルチェットは愉快そうに笑った。
「相変わらず察しがいいな。だがお前も帰ったばかりだ、今日はよそう。今夜はゆっくり休みたまえ」
「お心遣い、ありがとうございます」
「なに、わたしなどただの居候に過ぎないのだからね。畏まることはない」
軽く頭を下げたマティオスに、叔父は冷やかな視線を向ける。
「ところでマティオス。東門の近くに宿をとっているそうじゃないか。まっすぐ帰って来ないなんて水臭いな。それとも、お友達と一緒に居るのがそんなに楽しいのか?」
下を向いたままのマティオスは、その言葉に目を見開く。
ドルチェットは、愉快そうに口元を歪めた。
「とうとう、切り札を捕まえたのだな」
マティオスは顔を上げた。
笑って、爽やかな声音で答える。
「隠していたわけではありません。贈り物は、いつだって突然の方が喜ばれるでしょう?」
「明日だ、そうしよう。何事も早い方がいいからな」
「明日、ですか」
不意を突かれたようなマティオスの様子に、ドルチェットは笑みを浮かべた。
「何か問題でも?」
「いえ」
マティオスは深く、頭を下げる。
「仰せのままに」
フリッツは、決心出来ずにいた。
潔く南大陸に帰るとも、このまま兄を追うとも決められぬまま、無為にディングリップで時間を潰す。宿の中で悶々と考え込むのに嫌気がさし、外の空気を吸おうと、散歩に出ることが多くなっていた。
自分は、何をすべきか。
フリッツはその日も、整えられたディングリップの街を一人歩いていた。
「フリッツくん」
呼ばれて振り向けば、そこに居たのはマティオスだった。相も変わらず、爽やかな様子で微笑んでいる。すらりとした立ち姿は洗練された街並みに驚くほどぴったりで、そうしているだけで様になる。
「今朝は朝ごはんには間に合わなかったね。もう、また女の人のところ?」
フリッツはマティオスに向かって眉根を寄せた。マティオスは苦笑する。
「違う違う。昨日は自分の家に帰ったのさ。ねえ、もし暇を持て余しているんだったら、おれの家に来ないかい? きみの話をしたら、叔父がとても興味を持ってね。今までの旅の話が聞きたいらしいんだ。食事くらいご馳走するつもりだけど、どうだい?」
フリッツはやや思案し、答えた。
「うん、いいよ。今日は特にすることもないし。みんなも大丈夫だと思う」
「あー、みんなじゃないんだ。フリッツくんだけ」
「ぼくだけ? 別にいいけど、どうして?」
フリッツが見返すと、マティオスは言った。
「叔父は人見知りでね。初対面の若者に囲まれたら、話が出来ないと言うんだよ。あと、極度の照れ屋でね。ルーウィンちゃんやティアラちゃんは魅力的だから、話すどころじゃなくなってしまうと思って」
マティオスはそう言うが、フリッツはつい別の理由を考えた。
ルーウィンは失礼なことを言いかねず、ラクトスでは敵意を抱いているのがありありとわかり、ティアラもまだマティオスに警戒心を解いていない部分がある。これが消去法だとしても、自分に白羽の矢が立ったのは自然なことだ。
「わかった。ちょっと待って、ラクトスに伝えてくる」
「大丈夫だよ、おれからもう言ってあるから。先に伝えておけば、この前みたいなことにならないだろう?」
マティオスの言う「この前みたいなこと」を思い出し、フリッツは苦笑した。確かに、行き先を早めに告げておくに越したことはない。お説教も憐みも、もうたくさんだ。
フリッツの表情を確かめると、マティオスは頷いた。
「さあ、善は急げだ。さっそく行こう」
マティオスはフリッツと連れだって歩き始めた。
迷うことなく、ディングリップの街を進んでいく。さすがは故郷だけあり、マティオスは細い裏路地までもよく知っているようだった。大通りは人が多く混雑するとのことで、二人は出来るだけ裏道を通る。
一本中に入ると、高い建物で陰ってはいるが、どこか安心する風景だった。上を見上げると窓から窓へロープが渡され、洗濯物が干されている。
フリッツはそこではじめて、このディングリップの街がどこか安心出来ない理由に行き当たった。
人々の生活感が、まるでないのだ。田舎から出てきた者としては、少しは生活感のあるほうが親しみやすい。フリッツはもの珍しげに、裏路地の景色を眺めた。
「フリッツくん」
「何?」
先を行くマティオスが不意に言い、フリッツはその後ろで首を傾げる。
「よく知らない人に着いていくのは、不用心だ。ましてや、暗くて細い路地裏にあっさりと連れ込まれるなんて、警戒心がないにも程がある」
マティオスは背を向けたまま、足を止めない。
それを聞き、フリッツはぱちぱちと瞬きした。言葉の真意がわからず、自分をからかっているのだろうと思った。
フリッツは笑う。
「今更何言ってるの? マティオスは知らない人なんかじゃないよ。ちょっと胡散臭いけど」
「ああ、そうだったね」
マティオスの表情は見えないがおそらく、自分と同じように笑っているのだろうとフリッツは思った。
マティオスによって窮地に追い詰められたこともあったが、共に荒野を旅し、稽古をつけてもらい、漆黒竜団本部からの脱出を潜り抜けた。
フリッツはすっかり、マティオスに心を許していたのだ。
マティオスは振り返ることなく、裏路地を進んで行った。
陽の当たらない、小路を。
フリッツは、反り返った。
その隣で、マティオスは苦笑する。
「そんなにして見上げるほどのものじゃないだろう、大げさだなあ」
「いや、だって! そう言うけど……」
案内された先に現れたのは、恐ろしく立派な屋敷だった。
装飾が施され、かつ堅固で高い門と敷地をぐるりと取り囲む高い壁。ひとたび中に足を踏み入れれば、そこは別世界だった。
贅を尽くすという点だけ考えれば、ロマシュのヒトラス邸にも勝るとも劣らない。細やかに手入れされた庭の奥には、美しい屋敷が威風堂々と構えられていた。 白を基調とした壁に、青い屋根。開けたバルコニーは、今にもドレスを身に纏った姫君が飛び出してきそうな風情だ。
「すごい! まるでお城みたいだ!」
「ありがとう。でも、本当のお城はあっち」
「近っ!」
フリッツは目を丸くした。
マティオスの指さす先、何軒か屋敷を挟んだすぐ向こう側に城が見える。塔を幾つも連ねたような、天に向かって聳え立つ荘厳な城だ。
そのお膝元であるこの地域が一等高級な住宅地であることに疑いようはない。
「マティオス、本当にお金持ちだったんだねえ」
「そんなふうに言わないでおくれよ。おれが一人で汗水たらして築いたものじゃないんだ、自慢にもならない。ただの親の七光りさ。あ、でもラクトスくんには内緒だよ。今以上に、もっと毛嫌いされそうだから」
「確かにね」
フリッツは笑った。そしてどうりで高い宿代を何日も払い続けられるわけだと、密かに納得する。
「でも、そうなると本当にわからないな。どうしてマティオスは漆黒竜団になんか……」
「そうだね、きみにはそろそろ話してもいい頃合いかな」
「本当?」
フリッツは思わず声を上げる。マティオスは自分の口元に人差し指を立てた。
「ただし、それは食事会が終わった後でね」
マティオスはゆっくりと屋敷の扉を開けた。
その瞬間、フリッツは我が目を疑う。
そこには、ずらりと並ぶ従者たちが道を作るように並んでいた。
白髪交じりの品の良さそうな執事から、若く美しいメイドまで、皆一様に腰を折り深々と頭を下げている。
フリッツは思わずマティオスを見上げた。しかしマティオスはいつもどおり、涼しい顔をしているだけだ。
「あ、あの、マティオス。これは……」
「そうそう。今から会う叔父なんだけれど、公爵様だから失礼のないようにね。ああ、でもざっくばらんに話してもらって大丈夫だから」
「ちょっと、あの、言ってる意味が……」
「あ、そうそう。もう一つ忘れていたよ」
立ち尽くすフリッツの前に、マティオスは歩み出た。
そして振り返ると、それは優雅な礼をとる。蒼銀色の髪から、いたずらっぽい笑みを覗かせた。
「おれね、マティオス=フォーゼルっていうんだ。名ばかりだけど、一応伯爵ってやつなのさ」
マティオスはそう言うと、フリッツに音がでそうなウィンクを飛ばしてみせた。
「今まで黙っててごめんね」
「……はい?」
フリッツはわけがわからず、一人で目を白黒させた。




