第三話 止まり木
屋根に舞い降りた小鳥たちが、朝の訪れを告げる。
僅かに開けられた窓から、冷やされた空気が風と共に入り込む。
派手に皺の寄ったシーツの上で寝返りを打つと、蒼銀の髪がさらさらと流れた。マティオスはそっと身を起こす。
隣で眠る女が眠そうに目を擦り、鼻にかかったような声で、甘く小さく唸る。細い肩を引き寄せてやると、女はマティオスの胸に顔を埋めた。触れ合う素肌が心地よい。
「おはよう。よく眠れたかい?」
起き抜けのややかすれた、酷く優しい声音で耳元に囁く。女はひとつ欠伸をすると、唇を尖らせた。
「知ってて言うのね? お蔭様で寝不足よ。店に来ないで、直接あたしの部屋に来るんだもの」
「ごめんごめん。迷惑だった?」
悪びれもなく言ってのけるマティオスに、女は顔を上げ微笑んだ。
「あなたのこれは一種の才能ね。女の部屋に転がり込む天才だわ。これだけで暮らしていけるんじゃないかしら」
「今は良くても、さすがにずっとは無理だよ。おれも歳をとる。髪が白くなってもふらふらしていたら、さすがにきみも嫌になるだろう?」
「その頃には、あたしだって歳をとるわよ」
女はゆっくりと身を起こし、マティオスの腕からすり抜けた。
椅子の背に無造作にひっかけられていたガウンを手に取り、見せつけるようにゆっくりと身に着ける。
女は自分のはだけた肩を、誘うように撫でてみせた。
「名残惜しい?」
「でも、もう朝だ」
マティオスは肩をすくめた。
女はテーブルの水差しからグラスに水を注ぎ、まだベッドの上に居るマティオスに差し出した。マティオスはそれを受け取り、喉を反らして乾いた体に流し込む。
その様子を、女は熱に浮かされたような眼差しでじっと見つめた。
しなやかな筋肉のついた身体と滑らかな肌、整った顔立ち、優しい眼差し。
「ねえ、一緒に暮らさない?」
女は言って、目を細めた。
マティオスはグラスを空にし、濡れた唇を手の甲で拭う。
そして、視線を落とした。
「……ごめん」
その返事に、女は声を明るくした。
「冗談よ、気にしないで。ちょっと言ってみたかっただけ」
誤魔化すように女は笑う。マティオスはベッドから立ち上がる。
表情を悟られないようにか、女はくるりと背を向けた。
「わかってるの、この街だけでもあたしと同じような女がごまんと居るってこと。みんなあなたの、ただの止まり木。あなたがそこに巣を作って永遠に留まるなんてことは、きっとないのよね」
マティオスはゆっくりと歩み寄る。女の背中に手を伸ばし、後ろから抱き寄せた。
「本当にごめん。きみのことは大好きなんだ。だけどおれなんかじゃ、きみを幸せにすることは出来ない。きみみたいに素敵な女性には、もっと相応しい男がいるよ」
女の白く細い首筋に、マティオスは頬を寄せた。
「こういう話になると、さすがのあなたも口が回らなくなるのね。そんな月並みな言葉しか出てこない。いつもの調子はどこへ行ったのかしら」
「きみは綺麗だ。本当に」
「きみも、でしょ」
女はくすりと笑みを零すと、絡められた腕を愛おしげに撫でる。
「もう困らせるのはやめにするわね。知ってるわ、あなたが物わかりのいい女が好きだってこと。それでもあたしたちは、皆あなたを手放せないの。
本当、どうしてかしら。体や唇を何度重ねても、見えないカーテンの向こう側にはいけない。あなたを本当の意味で手に入れることは、誰にも出来ないのね」
マティオスは、何も言わなかった。
女はゆっくりとマティオスの腕を外し、振り向く。
「朝食は? お腹すいたでしょ、何か作るわよ」
「大丈夫。今日はもう戻るよ」
「あら、いいの? あたしのサンドウィッチは絶品なんじゃなかったかしら?」
腕を組み眉をひそめる女に、マティオスは首をすくめた。
「決まった時間に朝食の場に居ないと、怒られるんだ」
「あら! 朝帰りの男を快く迎えてくれるほどのいい女?」
目を丸くした女の表情に、マティオスは声を立てて笑う。
「違うよ、そういうのじゃない。それに世界で一番いい女は、きみだ」
マティオスは女の細い顎に手をやり軽く口づけると、脱ぎ散らかされた服を集めて身に着けた。
「ありがとう。また来るよ」
「ええ、いつでもいらっしゃい。待ってるわ」
ドアの向こうに、女の寂しげな顔が消えていく。
上着の襟を軽く整えながら、マティオスは女の部屋をあとにした。
変わらないなと、マティオスは思う。
整然としたディングリップの街並み。まだ人気のない朝の通りはもの寂しい。空はまだ白く、朝の冷えた空気が心地よかった。
だが、宿屋までにはまだまだ距離がある。ふと思い立ち、マティオスは路地へと足を踏み入れた。
ディングリップ全ての抜け道を把握しているわけではないが、ここ花街周辺は自分の庭のようなものだ。慣れた足取りで細い道を抜けていく。裏路地はまだ陽が当たらず、薄闇に包まれていた。
マティオスは上を見上げ、息を吐く。背の高い建物たちに阻まれ、小さな空が僅かに見える。
一緒に暮らしたい。そう言われたのは、さっきの女が初めてではなかった。
マティオスが良い返事が出来ずにいると、決まって彼女たちは冗談だとはぐらかす。本気になったと悟られればマティオスが自分の元から離れていくのを、彼女たちは知っている。
その方が、都合が良かった。誰か一人を心から愛するなど気の遠くなるような話で、自分にそれが出来るとは思えなかったし、またそうする資格がないとも思っていた。
物思いに耽っていたからだろう。らしくもなく、角を向こうからやって来る人影に気付かない。
そして出会い頭に、ぶつかった。
「……」
「ごめん! 怪我はないかい?」
相手はしりもちをつき、抱えていた荷物を取り落してしまっている。マティオスは狼狽した。
ぶつかったその人物は老婆かと思われた。手入れのされていない癖のある黒髪はほつれ、顔は前髪で隠れ表情は読み取れない。服もくすんでよれてしまった上着を着ている。
しかしそこで、マティオスが特にがっかりすることはない。もちろん、ぶつかった相手が美女なら喜ばしいことこの上無いが、相手が女性であれば姿形年齢問わず懇切丁寧に対応するのがこの男だ。
「本当にごめんね。さあ、立って。膝はいいかな、手は? 血は出ていない?」
この時ばかりは下心などは一切なく、マティオスは手を差し出した。長い袖から少し覗く手に、おや、と思う。手が、若い。
彼女はマティオスの手を取らず、すっと自力で立ち上がった。それを見てほっとすると同時に、少し驚く。
彼女は老婆などではなかった。すらりと背が高く、自分と年が変わらないような女性だ。
しかしそれがわかったところで、別段見惚れるような容姿をしているわけではない。目を奪われて動けない、などということはなく、マティオスはすぐに次の行動に出た。
「待ってて、すぐに拾うから」
マティオスは女性が落としてしまった荷物をせっせと拾い始めた。紙袋に入っていたのは日用雑貨や食料品だ。幸い、地面に落ちてすぐに駄目になってしまうようなものはない。
マティオスが動いている間、女性は何も言わず、ただ突っ立っているばかりだった。早朝から人とぶつかり、相当気分を損ねたのだろう。
「それにしてもこんな早くにもう買い物かい? 早起きは感心だね。はい、どうぞ」
力なく伸ばされたままの女性の腕を取り、紙袋を抱えさせる。彼女は何も言わなかった。しかし、悪いのは考え事をしていた自分だ。女性の態度に腹を立てることなく、マティオスは微笑みかける。
だがそこで、一つ取り残しがあることに気が付いた。彼女の足元に、黄色い果実が転がっているのだ。
マティオスは再び身をかがめ、手を伸ばす。しかし触れるか触れないかの瞬間、突然目の前で、指先にあった果実はグシャリと音を立てた。
女性が、踏み潰したのだ。
マティオスは目を見張る。中身が潰された果実は、辺りに爽やかな香りを漂わせた。
マティオスはまず潰れた果実を見、そして次に女を見上げた。自分が屈んでいることで、俯き加減で見えなかった女性の顔が僅かに見える。
「きみ、どこかで……」
女性は何も言わず、細い路地を抜け去った。
あとには潰された果実と、立ち尽くすマティオスだけが取り残された。
「お前、どうするんだよ?」
朝食後の宿屋の一室。不意に本から顔を上げて、ラクトスはフリッツに訊ねた。
フリッツは視線を下げる。
「わからない」
「わかんねえって、お前な」
だが、そう言いながらもフリッツの気持ちは固まりつつあった。これ以上、この北大陸に止まることは無意味だと、頭では理解している。マティオスに問いかけられて以来、フリッツも考えてはいた。
自分はこれからも、アーサーを追うべきなのか。
説得の見込めない兄に執着するより、早く故郷へ帰って両親の世話に専念すべきだろう。例えフリッツのことが見えていないような親でも、フリッツがあの二人の子供である事実に変わりは無い。
これからは時間をかけて、ゆっくりと心を通わせるのだ。
あの二人の元にアーサーが戻ってこないというのなら、今度はフリッツが堂々とその場に収まればいい。
別流派に染まりロズベラー流など今更修められないが、父の剣術道場は廃業も同然だ。後を継げないことも気に病まずに済む。
アーサーを失ったことでぽっかりと空いた二人の空白を、自分などに埋めることは出来ないと、わかっていながら。
昔の面影など残らない抜け殻のような両親を、彼らがその生を終えるまで、自分はたった一人で面倒をみるのだ。
そこまで考え、フリッツはため息を吐く。
つまるつまらないの問題ではないことだと、重々承知している。だがそれは、とても希望のある未来ではなかった。
さすがのフリッツも、随分と貧乏くじを引いたものだと思わざるを得なかった。
おそらく自分が北大陸に止まる時間はそう長くは無いと、フリッツは結論付けた。
その表情を見て、ラクトスは眉根を寄せる。
「……近いうち、南大陸に戻るのか?」
「そうなるかもしれない。兄さんは、きっと説得なんか出来ない。それにね、漆黒竜団にはもう関わりたくないんだ。あの人たちには近づきたくない」
フリッツはその点について多くを語らなかった。ラクトスもまた、それを察して尋ねることはしない。
「でも、あいつは多分、また行くぞ」
「うん……」
フリッツはさらに表情を陰らせた。
ルーウィンの怪我は順調に癒えつつある。ティアラあっての脅威の回復だが、負傷した直後に治癒術を受けていなければ、ルーウィンは確実にあの場で命を落としていただろう。
ダンテに直接手を下した憎い仇の居場所を特定できているにも関わらず、彼女がそのまま大人しく身を引くとは思えなかった。おそらくはこの街に止まり、また機会を見てアジトへ侵入するに違いない。
フリッツの気がかりはそれだった。
そんなルーウィンを残したまま、自分は南大陸に帰るのだろうか。そうすればもう、彼女には二度と会えない。
物理的な距離の問題だけでなく、下手をすればフリッツの知らないうちに、ルーウィンは自ら命を落としかねないのだ。
「お前が戻るなら……おれも戻るか」
「ええっ!」
フリッツは素っ頓狂な声を上げた。ラクトスの呟きに、今までの考えが吹き飛ばされる。
ラクトスは凄みのある目つきでフリッツを睨んだ。
「なんだよ? 文句あるか?」
「ないけど……。だってここで諦めたら、グラッセルの内定の話はどうなるの? それにまさかとは思うけど、ぼくに付き合って一緒に戻るつもりじゃないよね」
ラクトスはあからさまに眉間に皺を寄せる。
「そんなわけあるか。おれだって、この条件が無謀すぎるってことくらいわかってた。そろそろ雲を掴むようなことはやめて、地に足つけて先のことを考えるって言ってんだ」
「ラクトスらしいような、らしくないような。そもそもその無謀な条件を呑んだこと自体、らしくないというか」
「だから、欲に目が眩んじまったって言ってるだろ」
「はあ……」
深い深いため息が漏れるのを聞いて、思わずフリッツは顔を上げた。
とうとう無意識にため息がでるようになってしまったかと思ったが、発信源は自分ではないらしい。その証拠に、ラクトスはあからさまに嫌な顔をしている。
隣のベッドに寝そべり、ため息をついたのはマティオスだった。
「どうしたの。具合でも悪い?」
いつもは楽天的な彼がため息をつくなど、にわかには信じがたい。整った顔が、今は物憂げに翳っている。マティオスは身を起こし、フリッツに力なく微笑んだ。
「いや、そうじゃないんだ。ただちょっと胸の辺りが」
「胸焼けか? なんか油っぽいもんでも食ったんだろ」
ラクトスが気だるそうに答え、テーブルに置いた茶に手を伸ばす。
「前の戦闘での打ち所が悪かったのかも。急いでティアラに」
「その必要はないよ。だってこれは心の病だからね」
フリッツは意味が分からず首をかしげる。精神の、という意味だろうか。
「それって大変じゃないか! 今すぐ医者に行かなきゃ。一緒にアーティ先生の所に行こうか?」
マティオスは、それを聞くと声を立てて笑い出した。心配しているのに笑われて、さすがのフリッツも眉根をひそめる。
「大丈夫? なにがおかしいの?」
「こんなことでいちいち病院になんて行ってられない。それこそ医者に笑われるよ。おれの言い方が悪かったな。うん、心の病っていうのはね」
父親が子供に宝物の在り処を伝えるかのように、マティオスはそっと口を開く。
「つまり、恋ってことさ」
勢い良く何かを噴出す音と、激しく咽込む咳が聞こえた。
マティオスの言葉が、運悪く茶を飲んでいたラクトスの耳に入ったらしい。どうにか本を守り抜いたラクトスは、代わりに自分の袖をびちゃびちゃに濡らしていた。
「痛って! おい、鼻に入った!」
「そんなのぼくのせいじゃないよ。ラクトスのタイミングが良すぎただけさ」
「一年中常春じゃなかったのか、お前の頭は!」
「それはひどい言いようだなあ」
目をぎらつかせて怒鳴るラクトスと、それをのらりくらりとかわすマティオス。
こんな光景にはフリッツもいい加減慣れっこになっていた。そして病気じゃなくて良かったという思いと、心配して損したという気持ちが混ざる。
しかしマティオスが女性を思ってため息をついたことなど、これまでに一度も無かった。いったいどんな女性なのだろうかと、フリッツは自然に興味が湧いた。
「ねえ、どんなひとなの?」
「それはもちろん、とても魅力的な女性だよ。今朝出会ったばかりだけど。目の前でレモンを踏み潰されたのさ。それも思いっきりね、グシャっと。今思い返してもいっそ胸がすくような踏みっぷりだったよ。まるで親の仇みたいにさ」
一瞬の沈黙の後、フリッツは何とか「へえ、そうなんだあ」と言うことに成功した。
一体この劇的な出会いに、どう言葉を返せというのだろう。そしてそれは、本当に恋なのだろうか。
その時、ノックが響いた。
返事をすると、やってきたのはルーウィンとティアラだった。
「なんだい二人とも。おれが恋しくて会いに来たの?」
「違いますわ。宿屋のご主人からこれを預かって」
「あんたに渡すようにってさ。はい、これ」
二人はマティオスの言葉を、顔色一つ変えず鮮やかにかわした。良くも悪くも、鍛えられているのは確かなようだ。一方、マティオスも残念がることは無く、その反応に普通に接している。
「手紙? おれにかい?」
「立派な封蝋ですね。どなたからですの?」
差出人を確認し、マティオスは表情を強張らせる。
しかし、それは本当に一瞬のことだった。マティオスは上着を羽織り、手紙を手にしたままドアへと向かう。
「ちょっと出掛けて来るよ。多分、夜には戻る」
「うん、いってらっしゃい」
フリッツが言って、マティオスは振り返る。
「夕飯の時間厳守よ。遅れたら先食べるから」
「なんならもう戻って来なくてもいいぞ」
「もう、ラクトスさん! マティオスさん、どうぞお気をつけて」
いつもと変わらぬ、屈託のない、なんということもないやりとり。
平和なその光景を見て、マティオスは思わず笑みをこぼした。
道すがら、今朝のにぎやかな朝食風景を思い出す。
ここ数日間の滞在中、夜は宿屋に居なくとも、マティオスは必ず朝食の時間までには戻って来ていた。
食事を取り分け、何気ない会話をし、同じものを一緒に食べる。
ただ、それだけのこと。そこに深い意味は、何一つない。
意味など、無い。
さあ、止まり木を発とう。
自分の在るべき場所に、帰るのだ。




