第一話 医師の診察
【第一話 医師の診察】
ディングリップ帝国の、宿屋の一室。
開け放した窓からは雑踏の気配がし、僅かに入る風がカーテンを揺らす。寝台には、一人の少女が横たわっていた。
ピンク色の髪がシーツに広がり、波打つ。閉じられた瞼を、同じく鮮やかな睫が縁どる。
頬に赤みは無く、いつもよりやや白い顔をしているようにも思えた。だが今は気を失っているのではなく、薬が良く効いて眠っているだけだ。
そして極めつけは、体中につけられた痛々しい傷痕だった。
ブランケットから覗く細い腕に、隠れている脚に、散らされたように残っている傷。内側からの再生を促し、埋まっていた鏃を抜いての応急処置が為されたはずだったが、傷が残っているのは痕を全て治すほど治癒師の体力が残っていなかったためだ。
少女の開いた胸元のボタンを留め直し、椅子から立ち上がると医者はドアを開けた。
廊下に待機していたフリッツ、ラクトス、ティアラ、マティオスの四人は医者に促され室内へと入る。眠っている少女のブランケットを、医者はかけ直してやる。
「肋骨にまだヒビが入っていますね。固定して様子を見ましょう。内臓も弱っているから、食事は当分薄めたスープで。本人が望んでも、絶対に固形物を入れさせないこと。かなり失血したようだけれど、今のところは問題無いでしょう。まあ、これも直後の適切な処置があっての結果ですが。ひとまずは、安心してもらって結構です」
医者の診断に、一同は安堵する。フリッツはほっと息を吐き、ベッドで眠る少女の顔を見やった。
負傷した少女、ルーウィンは無防備な表情のまま寝息を立てている。
「本当はかなり損傷していたところを、無理に治癒術で繋ぎ止めたのでしょう? 肋骨もこんなかわいいヒビの入り方じゃなかったはずよ、きっと折れていた。内臓も傷つき、喀血していたはず。骨が折れて、中に突き刺さらなかったのが不幸中の幸いね」
そして医者、アーティ=セスターは立ち上がった。腰に手を当て、その表情を険しくする。
「イッカクに半日乗り続けるなんて、バカなことを。その上ティアラさん、あなたはそんな状況で治癒術を発動させ続けていたそうじゃない。さすがにあれに乗ったことはありませんが、どれだけ無茶なことかは想像がつきますよ」
アーティは鞄に診察道具を仕舞い、上着を羽織る。そして通り過ぎざまに手前の三人の腰を叩いた。
「うっ!」
「いっ!」
「きゃあ!」
パンパンパンと子気味良い音が響いた後には、フリッツ、ラクトス、ティアラの三人が床にへたりこんでいた。三人ともが一様に腰や尻に手を当て、言葉にならない痛みに悶絶している。
「あなたたちも、安静になさい! まったく、よく筋肉痛で済みましたね。振り落とされれば怪我どころじゃありませんよ。摩擦による内腿の傷、あと腰痛に効く軟膏も置いておきます。少し匂いがきついけれど、朝起きてからと就寝前に必ず塗りなさい。少しでも身体に異常が出たら、わたしを呼ぶこと! いいですね!」
「は、はい……」
フリッツとティアラは涙目になって返事し、ラクトスは小さく舌打ちするに止めた。イッカクに乗っての荒野の強行移動は、フリッツたちの身体にもダメージを与えていたのだ。
「あなたは平気なようですね、マティオスさん?」
「ええ、足腰の鍛え方が違いますから」
マティオスはにっこりと笑った。アーティは諦めたように息を吐き、四人に向き直る。
「あなたたちは調子に乗り過ぎよ。冒険者の悪い癖ですね、パーティに治癒師がいるばかりに無茶をする。治癒師の力は万能ではないのですよ。それに彼女への負担も考えなさいな」
厳しい口調でアーティはティアラに言った。
「ティアラさん、治癒術はしばらく禁止です。あなたの身体も休息が必要ですし、なによりこの子を甘やかしてはいけません。ギプスを嵌めた不自由な生活で、自分のとった愚かな行動を反省させなさい。この子本来の治癒力も怠けてしまうし、これ以上手出しは無用です」
「わかりました……」
ティアラはしゅんと項垂れた。それを見届け、アーティはノブに手を掛ける。
「では、わたしはこれで。みなさん、お大事にね。くれぐれも無理はしないこと!」
そう言って、アーティはぴしゃりとドアを閉めた。
痛そうに腰をさする三人を一瞥し、マティオスは微笑む。
「怒ってくれる人がいるって、いいものだね。彼女はいい医者だ」
フリッツはよろめきながらも、壁を頼りに立ち上った。
「ちょっと……行ってくるよ」
「待ってください、わたくしも!」
ティアラはフリッツの手を借りて立ち、二人はアーティを追った。
ゆっくりと形容されても仕方がない、たどたどしい足取りで。
「先生! アーティ先生、待って!」
たった今後にした宿屋から声が響き、アーティは足を止めた。
走るに走れないフリッツとティアラとが、ぎこちない動きで自分を追ってくるのを見、アーティは小さく笑う。
「あら、さっそく言いつけを守ってくれて嬉しいわ。走るだなんてもっての他ですからね」
「足腰が痛くて、仕方なくこんな走り方なんです」
「ふふ、知っています」
アーティはいたずらっぽく笑う。
荒野の診療所で最後に別れた時、アーティはぼろぼろだった。ルーウィンと決別し、悲しみに疲れ切っていた。
しかし今、目の前のアーティは、しゃんと背筋を伸ばし髪を品良く纏め、落ち着いた様子でそこにいる。
「診てもらってありがとうございました。でも、どうして先生がここに?」
「あら、もっともな質問ね」
「それはおれが口説いたんだ」
フリッツとティアラの背後に、マティオスはひょっこりと現れた。抗議するように、アーティは咳払いする。
「彼に説得されたの。ディングリップに戻ったらどうかって」
「戻る?」
ティアラは小首を傾げる。アーティは頷いた。
「ここはわたしの故郷なの。生まれも育ちもディングリップ帝国なのよ。色々事情があって、もう長い間家とは疎遠になっていたけれど」
「あんな寂しいところに、アーティ先生を一人残しておけなかったからね。でも、おれもあそこにずっと居るわけにはいかないし」
アーティは腰に手を当て、マティオスを一瞥する。
「本当は、彼がわたしから話を聞き出すのに勝手のいい場所へ連れ出したかったのよ。まあ、そんなことはわかっていますけどね」
「そんなことはないさ。アーティ先生のためなら、何度だって荒野を越えてあの診療所までお迎えにあがりますよ」
「まあ、心にもないことを!」
そう言いながらも、アーティの顔は本当に怒っているわけではなく、むしろ楽しそうだった。気の置けない間柄のようなやりとりを見、フリッツとティアラは困惑する。
「……なんだか」
「……仲良しさん、ですね?」
フリッツもティアラも、二人は険悪な関係だと思い込んでいた。フリッツの眉が下がっているのを見、マティオスは爽やかに笑う。
「育った街が一緒だからかな、話が弾んでね。彼女は手ごわいよ。交換条件でしか、話をしてくれないから。でもそう言う先生こそ、人が悪い。本当はおれを見張るために一緒にここまで来たんでしょう?」
飄々と言うマティオスに、アーティは冷ややかな視線を向けた。
「まんまと出し抜かれましたけれどね。あなたのせいで、ルーウィンは危険に飛び込んで行った。自分のしたことの自覚を持ってください。それにフリッツさんたちも危険な目に遭わせて」
「それでもおれを強く責めないのは、それがルーウィンちゃんの意思によるものだと知っているからだ。違うかい?」
「……そのとおりよ。悔しいけれどね」
アーティは一つため息を吐くと、再び踵を返した。
「あの、先生!」
アーティを、フリッツはもう一度引き止めた。
「ルーウィンが目を覚ますのを、待ちませんか?」
「わかっているでしょう。あの子に話すことなど、何もありませんよ」
その表情には、どこか翳りがあるように思えた。
しかしそれも一瞬のことで、アーティは微笑んだ。
「当分の間はここにいます。何かあったら、知らせてちょうだい」
そしてアーティの背中は、ディングリップのせわしない人ごみの中に消えて行った。
宿屋に戻った三人は、一階の食堂のテーブルに陣取った。
まだ食事時ではない為、座っていても嫌な顔をされることはない。成り行きで部屋に残っていたラクトスにルーウィンを任せ、三人は飲み物を手に腰掛けた。
「ラクトスくんは良かったのかい?」
「聞いたけど、交代はまだいいって」
二階の部屋に様子見に行ったフリッツにラクトスが言い放った言葉は、マティオスと同じ空気を吸いたくないから行かない、というものだった。それを思い出し、苦笑する。
フリッツは口に茶を含み、不意に天井を見上げた。
漆黒竜団の追手から逃れ、ディングリップ帝国の宿屋に落ち着き三日が過ぎた。
平穏な日々だった。数日前に漆黒竜団のアジトで起きた出来事が嘘のようだ。
ルーウィンも倒れた翌日には目を覚まし、身体は動かせずにいるが、思っていたより落ち込んだ様子もない。流動食のような味気ない食事をし、傷が熱を持ち始めれば薬を飲んで眠る。ここ三日間はそのように過ごしていた。
そしてフリッツ自身も、すっかり落ち着きを取り戻していた。
ラクトスもティアラも、アジトで起こったことについて、特に尋ねては来なかった。
顧みなければならないことはたくさんあるはずだが、頭がそれを拒否している。時間をかけて一つ一つ処理していかなければ、とても平常心が保てそうにない。
それをわかっているから、ラクトスとティアラは何も言わないのだと、心のどこかでそう思った。
マティオスが茶を飲み、カップをテーブルに置いた音で、フリッツは視線を戻した。その手首に、漆黒竜団の腕輪は嵌っていない。
「ねえマティオス。漆黒竜団ってやめられるの?」
「やめられないさ。脱退できるとしたら、それは死ぬときだろうね。まあ、おれは最初からあそこに入った覚えはないし、きっと大丈夫さ」
マティオスは漆黒竜団ではない。数日前その事実だけを教えられ、最初フリッツは目を白黒させたものだ。
マティオスは落ち着き払った様子で、時折カップを鼻元に持っていっては香りを楽しんでいるようだった。フリッツは再び尋ねる。
「じゃあ、どうして漆黒竜団のふりなんかしていたの? 面白半分でやることじゃないよね」
マティオスは片目を開けた。
「それは内緒。一気に話したらつまらないだろう? そのことは、散々ラクトスくんに追及されてお腹いっぱいだな。でもなんだかんだで、彼はおれに興味を持ってくれているね。これはいい傾向だよ」
「それは、言い方に語弊があるような……」
得体の知れないマティオスをラクトスが毛嫌いしているのは相変わらずだ。困った顔をするフリッツを見、マティオスは笑った。
「知ってるさ、警戒されているのはね。でも、無関心よりはずっといい。信じられるかい? 人にとっての最も不幸な事柄は、無関心なんだって」
「もう、話を逸らさないでください。なぜわたくしたちに腕輪を残していったのですか? どうしてルーウィンさんを連れて行ったんです?」
隣で大人しくしていたティアラが、頬を膨らませた。今までルーウィンの看病などでばたばたし、マティオスに聞けずにいたのだ。
すると、マティオスは急にしおらしくなった。
「ルーウィンちゃんのことは申し訳なかったと思ってる。彼女にはちゃんと謝るよ。もちろん、きみたちにも。軽率な行動だった。危険な目に遭わせて、すまなかったね」
マティオスは申し訳なさそうに視線を伏せる。普段が飄々としているだけに、その落差は大きかった。
「軽蔑してくれて構わないけど、おれは見たかったのかもしれない。きみたちが、彼女を追ってくるのを」
その言葉に、フリッツとティアラは怪訝な表情を浮かべる。
「おれは人間不信でね。きみたちはあんまり仲がいいから、それがどれほどのものなのか見てみたくなった。さすがに漆黒竜団までは来ないだろうと思っていたから、驚いたよ」
その表情を信じれば反省はしているようだが、動機は理解に苦しむものだった。フリッツとティアラが何も言わないでいると、マティオスは苦笑した。
「嫌いになったかい?」
その問いかけに、ティアラはきっぱりと答えた。
「あなたのような軽薄な方は、最初から好きではありません。心配ご無用です」
「はは、厳しいお言葉。フリッツくんは?」
マティオスはティアラの答えに傷ついたようでもなく、興味深げにフリッツを見返した。まるでフリッツがどんな返事をするか、試しているようでもある。
今更声を荒げる気にもなれず、フリッツはため息を吐いた。
「怒ってるし、マティオスの考えてることはよくわからない。でも今回のことは、やっぱりマティオスだけのせいじゃないから」
そう、マティオスだけのせいではない。
フリッツは再び、カップに口をつける。ティアラは心配そうにその姿を見つめていた。
階段を人が下りてくる気配がした。頭を掻き、ラクトスがダンダンと音を立てながらやってくる。
「おい、目を覚ましたぞ。喉乾いた、なんかくれ。フリッツ、上に水持って行ってやれよ」
「ティアラ、頼める?」
「え、ええ。わかりました」
席に着いたラクトスと入れ替わりに、ティアラは困惑しながらも立ち上がる。
ラクトスとマティオスは、それぞれ目を瞬かせた。




