第十二話 夜の出立
【第十二話 夜の出立】
「本当に、今から発つのですか?」
「すみません、アーティ先生」
心配そうに見返すアーティに、フリッツは眉尻を下げた。
「わたしには、あなたがたを引き止める権利などありません。けれど、荒野の夜は冷え込み、危険です。何もこんな遅くに出て行かずとも」
「本当に、すみません……」
フリッツは重ねて謝った。
ダンテ殺害にアーティが関わっていた事実を知ってしまったルーウィンは、一刻もこの診療所から出たいと主張した。しかし、こんな時間からの出立は賢いとは言い難い。
彼女は自分だけ今晩は外で夜を過ごし、出立は明日でも構わないと言ったが、ルーウィンだけを荒野に一人きりにしておくわけにはいかなかった。
予定にはない突然の出立に、それぞれが慌ただしく荷物をまとめ、準備が出来た頃にはとっくに陽は沈んでしまっていた。今はラクトスの魔法の灯りを頼りに、フリッツたちは外へ出ている。
診療所の玄関口にはフリッツ、ティアラ、そしてアーティがいた。ルーウィンはさっさと行ってしまい、すでに丘の坂を下っている。それに付き合い、そして見張りの意味も兼ね、仕方なくラクトスも丘のふもとに降りていた。
最後の最後になっても、ルーウィンはアーティと話さなかったし、顔すら見ようとしなかった。そして別れの今も、ルーウィンの姿は暗闇の向こうだ。
アーティはさぞかし寂しい思いをしているだろうと、フリッツは視線を伏せた。
「少し、待っていてください」
アーティは足早にその場を去ると、すぐに引き返してきた。
「これを持って行ってください。きっと役に立ちます」
アーティの手の中には、乳白色の優しい色合いをした美しい石が四つ収まっていた。石の周りに紐が結わえてあり、首から下げられるようになっている。
フリッツは驚きに声を上げた。
「これは……守護鉱石! こんなに大粒の!」
「純度も高いわ、わたしが冒険者の頃使っていたものです。ある程度のモンスターであれば近寄りません。わたしからだと知ればあの子は嫌がるでしょうけど、なんとか言い含めて、身につけさせてください」
「でも、先生。こんなに高価なものを頂くわけにはいきません」
ティアラも心配そうにアーティを見つめる。荒野の真ん中に居を構えているのだ、守護鉱石はいくつあっても困りはしないだろう。
「今はまだわからないでしょうけれど、ここからもっと北へ進もうとするなら、必ずこれが必要になります。場所によっては、北の大気は人体に悪影響を及ぼすことがあるの」
「人体に影響、ですか?」
ティアラは目を見張った。
「あなたがたがそこまで進まないことを願うばかりだわ。けれど今これを渡さず、後悔するよりはましだと思ったの。肌身離さず、身に着けていなさいね。あなたがたの旅の無事と、目的を果たせるよう祈っているわ」
そうだ、とフリッツは思う。
自分たちはそれぞれ、目的があって北大陸まで来たのだ。最初こそ調子は悪かったが、数日間アーティの診療所で傷を癒し疲れを取り、各々が修練に励んだ。再び荒野へと向かう準備は整っている。
「ルーウィンさんの目的も、ですか?」
不意に、ティアラが呟いた。
「アーティ先生は、止めなかったのですね。ルーウィンさんの復讐を。だからルーウィンさんは、大人しくここへ立ち寄ったと思うのです。その報復があなた自身にも跳ね返ってくる可能性がありながら、なぜ……」
アーティは寂しげに微笑んだ。
「世の中には、自分の力ではどうしようもないことがたくさんあるの。もう取り返しのつかないことも。ルーウィンも悲しみに暮れて生きるより、顔を上げて進んだほうがいいと、わたしは思った」
「その目的が、人として間違っているとしてもですか?」
ティアラのその声音には、アーティを責めるような響きがあった。しかし、アーティもそのまま黙ってしまうことは無い。
「なにが間違っているかなんて、誰にも分からない。すべての物事の善し悪しを、あなたの綺麗なものさしで測ってしまうのはどうかしら」
「敵を討ちたいという気持ちは、わたくしにもわからないわけではありません。わたくしだって、悔しい思いや歯がゆさを味わったことぐらいあります。わたくしが言いたいのは、そうではないのです。もし復讐が果たされ、打つべき敵をなくせば、ルーウィンさんはご自分の道を見失ってしまわれるのではないでしょうか」
女性二人の間に流れるピリピリとした緊張感に、フリッツは両者の顔をかわるがわる見た。ティアラとアーティの最近の様子はどこか不自然だったが、二人がこのように意見を対立させる場面には初めて出くわす。
このままでは、ルーウィンばかりでなくティアラまでおかしな別れ方をしてしまうのではないかと、フリッツははらはらした。
先に息を吐いたのは、アーティだった。
「結局あなたとは最後までわかりあえませんでしたね、ティアラさん。でも、これで良かったのかもしれない。あなたはわたしとは違う。その純粋さが武器なのだから」
アーティの言葉に、ティアラの勢いはしぼんだ。
「アーティ先生。色々と生意気なことを言って、すみませんでした。でもわたくし、感謝しているんです。治癒術の修練をつけていただいたことも、あの黒い靄を見えなくする術も。短い間でしたが、本当にお世話になりました」
ティアラは腰を折って頭を下げた。
事情を知らないフリッツは『黒い靄』という、聞き慣れない言葉に首を傾げる。
「ティアラさん。あなたには、これを」
アーティは壁に立てかけていた、あるものをティアラに手渡した。ティアラはそれを両手で受け取る。
「錫杖、ですか?」
ティアラの背丈の半分ほどもある、すらりと身の細い錫杖。頭部に輪があり、そこにはいくつかの涙型の金属が通され、シャラシャラと涼しげな音を出す。明かりにかざすと、鈍く銀色に輝いた。
繊細な装飾が美しく、しかしそれなりに使い込まれた品だった。
「これもわたしが現役だった頃使っていたものです。少しくすんでしまっていますが、なかなか高価なものですよ。嫌でなければ、旅のお供にどうか、持って行ってやってはくれないかしら」
「そんな大切なもの、受け取れません!」
ティアラは慌てて、アーティに錫杖を返そうと両腕を差し出した。アーティはティアラの腕をとる。
「あなたの召喚具であるその笛は祭事用ですね。おそらく召喚方法は、決められた節の演奏。戦いには向かないでしょう。その点、この錫は使い勝手が良いですよ。それに、治癒術でも役立ちます。相手に触れることなく、錫を介して治癒魔法が施せる。あなたが直接手を取らずとも、ある程度の距離なら遠隔で術をかけられます」
ティアラはそれを聞くと、押し返す手の力を緩め、躊躇った。隣で聞いているフリッツにも、アーティが話して聞かせた内容はかなり魅力的なものだとわかる。召喚術にも治癒術にも、即効性と効果の向上が期待できるのだ。
アーティは表情を緩め、微笑んだ。
「少しの間だったけれど、あなたはわたしの弟子だった。あなたはどう思っているか、わからないけれど。それにね、お願いがあるの。あの子をどうか、これからも護ってやってはくれないかしら。すぐに無茶をして、傷をたくさん作ってしまうから」
そう言われては、ティアラも錫杖を大人しく受け取るしかない。
使いこなせば、強い力になる。それはティアラ自身を、仲間を、ルーウィンを護ることに繋がる。ルーウィンを護りたい、その思いはティアラもアーティも一致するものだった。
「わかりました。有難く頂戴します」
「嬉しいわ、ありがとう。これからも精進なさいね」
錫杖が、ティアラの手に収まる。それと同時に、彼女の顔つきも凛としたものになった。
アーティが微笑み、ティアラも微笑み返す。その様子を見て、フリッツはほっと胸をなでおろした。
「おーい、そろそろ行くぞ! 穀潰しが先に行くってダダこねはじめた」
坂のふもとからラクトスの声がして、フリッツとティアラは振り返った。
もう行かなければと、フリッツは足元の荷物を背負った。
しかし不意に、アーティの視線を感じた。それをティアラが先に気づき、アーティに礼をとる。
「フリッツさん、わたくしは行きますね。アーティ先生、どうかご自愛なさってください。お世話になりました。本当に、ありがとうございました」
「気を付けて。あなたの無事を祈っているわ」
ティアラは微笑むと、一足先に丘の坂道を下って行った。
それを見届けて、フリッツはアーティに向き直った。
「……すみません。最後くらい、きちんとあいさつしたらとは言ったんですが」
とうとう最後まで、ルーウィンはアーティの前に姿を現さなかった。
アーティは首を横に振る。
「いいのよ。いつかはこうなるとわかっていたもの。あなたがたには嫌な思いをさせて申し訳なかったわ。ねえフリッツさん、お願いがあるの」
アーティはフリッツを見据えた。その表情には、鬼気迫るものがあった。フリッツも神妙な面持ちになる。
「ティアラさんが言った通りよ。復讐なんてバカバカしい、最後には虚しさしか残らない。けれど、復讐を遂げても遂げられなくとも、次にあの子が探すのは……仇ではなく、死に場所かもしれない」
その言葉に、フリッツはぞくりとした。
アーティの言葉を、軽く一笑してしまえれば良かった。しかし、フリッツはそれを否定しきれなかった。
ルーウィンを突き動かすのは、復讐という目的。彼女は恨みと執念を原動力として生きている。しかしそれが果たされ、あるいは諦め、燃料が燃え尽きてしまった時、彼女に何が残るのだろうか。
おそらくは、何も残らない。下手をすれば、灰すらも。
ルーウィンはそんなに弱い人間ではない。今までであれば、フリッツはそう考え、軽く受け流しただろう。
しかし信頼を寄せるアーティに裏切られていたという事実は、ルーウィンの心に大きな揺さぶりをかけた。そして何より、先ほどの彼女を見ていて感じたのだ。
ルーウィンは決して、万能な人間ではない。少し人より旅の経験があり、弓の腕前が突出しているだけの、ただの少女だ。
その小さな背中は、細い身体は、何かの拍子に突然壊れてしまってもおかしくはない。
彼女の漏らした「しんどい」という短い言葉。それが全てを物語っていた。
フリッツは今まで漠然と、ルーウィンは大丈夫だと思っていた自分を、強く恥じた。
「そうなった時、わたしは傍に居られない。こんなこと、わたしがあなたにどうこう言うのはおこがましいことなのだけれど」
目元に涙の粒を溜めたアーティを見て、フリッツは思う。
こんなふうにアーティと別れなければならないことが、残念で仕方がない。
この人はこんなにルーウィンを想っているのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。自らの罪の証であるルーウィンと過ごした日々は、アーティを苦しめ、同時に満ち足りた時間を与えた。
そしてついに、それは失われた。
間違いの始まりはどこからだろう。ルーウィンが真実を知ってしまったことか。アーティとルーウィンが出会ったことか。それともダンテの命が奪われたことか。
いずれにせよ、壊れてしまったものは元には戻せない。ルーウィンが復讐を諦めたとしても、ダンテを見殺しにしたアーティに、彼女が以前と変わらない笑顔で微笑みかけることはない。
それでも、アーティはこんなにルーウィンの行く先を憂いている。
まるで自分の身が引き千切れんばかりの、辛そうな顔をして。
「あの子を、ルーウィンを。どうかよろしくお願いします」
震える声を絞り出し、アーティは深々と頭を下げた。
灯りが闇の荒野へと向かう様子を、丘の上からアーティは眺めていた。
行ってしまった。
二年前、ルーウィンが出て行った時とはまったく違う想いだった。あの時は寂しさと共に、ほっとしたのだ。もうこれで会うことは無いかもしれないという思いと、これでルーウィンを騙さなくてもよいという安堵と。しかし今、寂寥感とともにあるのは、もうどうでもいいという投げやりな気持ちと絶望感だ。
自分とルーウィンとの関係が修復されることは、二度とない。
仮にもう一度会うことがあったとしても、ルーウィンはアーティを拒むだろう。万が一にも、アーティ自身が仇の一人に成り得ることも考えられる。アーティはダンテを救えた唯一の人間であったにも関わらず、彼を見殺しにしたのだから。
「さて、これでやっと二人きりですね」
暗闇に紛れ、涼しい顔をしたマティオスが隣にやって来た。そのふてぶてしさに、思わずアーティは顔をしかめる。
「……さぞ気分がいいでしょうね。自分の思うように事が進んで。それで? わたしが素直にあなたの知りたいことを話すと思って?」
「それはおれの手腕次第ってところかな。あなたはとても口説き甲斐がありそうだ。それに、夜はまだまだこれからだからね」
そう言ってマティオスは笑った。
間接的なやり方でルーウィンに真実を教え、アーティとの関係を引き裂いた張本人であるマティオスは、自らフリッツたちに同行することを断った。単に四人に煙たがられ、居心地が悪いという理由だけではない。
「漆黒竜団でこれ以上のことを知るのは、骨が折れると判断してね。だったら『偉大なる勇者たち』に直接聞けばいいと、あなたを尋ねた。イゾール=ゴルヴィルに直接口を効くほど、おれも怖いもの知らずじゃない」
「ゴルヴィル……」
アーティは我知らず、かつての仲間の名を呟いた。
「まあ、それまでにフリッツくんたちの危機を救わなきゃいけなかったり、なんだかんだ間に入ってしまって、一時はどうなるかと思ったけれど。でも結果、おれはこうしてあなたの前に居る。我ながら、悪運が強いと驚いていますよ」
アーティは、今や点となったフリッツたちから目を離し、目の前の青年を見据えた。
整った顔立ちにすらりと長い手足。蒼銀の髪が、カンテラの灯りに浮かび上がる。その顔に湛えられる、穏やかな笑み。しかしそれは表層にすぎず、腹の中には何を飼っているか解しがたい男。
油断ならないと、アーティは思う。
「あなたがたの旅の記録をお聞かせ願いたい。この北大陸の冒険譚を。そして、北の孤島に何が眠っているのかを。漆黒竜団の隠し持つ、世界の脅威とは何なのか。おれは、そのすべてが知りたい。いや、知らなければならないんです」
風が吹いて、夜の木々をかき乱す。
「……あなた、一体何者なの」
アーティは目を細めて、訊ねた。
マティオスは乱れた髪を掻き上げる。
「与えられた仕事に熱心な、ただの好青年ですよ。少しばかり、癖はあるかもしれませんが」
「ばっかみたい」
頭の後ろで手を組んだルーウィンは、ぶすくれた顔で吐き捨てる。
「せっかく先生がシチュー作ってくれたんだから。せめてあんたたちだけでも食べればよかったのに、もったいない。ベッドもあるんだから、なにもこんなごつごつした場所で寝なくったって」
その言葉を受けて、ラクトスは苦々しく顔を歪める。
「まったくだ。そう思うなら、お前もちったあ大人になれよ。食事と寝床損しちまったな」
「あら、久しぶりに夜空が恋しくなっていた頃ではありませんか? それにわたくし、広いお部屋で一人は嫌です。やっぱりルーウィンさんがいらっしゃらないと」
ティアラはルーウィンに向かって微笑んだ。
アーティの診療所のある丘から都まで、守護鉱石の地層はほぼまっすぐ西へと走っている。そこから外れず、西へと進めばとりあえずの目的地ディングリップだ。
マティオスの使っていた地図を取り上げてくることも出来たが、簡単な写しを取るに止めた。詳細な地図があるに越したことはないのだが、裏の署名をルーウィンの目の前に晒したくはないという、三人の見解からだった。
当然、憎い仇の名などルーウィンはすべて頭に叩き込んでしまっている。しかし七人の署名が目の前にちらつくのと、そうでないのとは確実に心持が違うはずだ。
ラクトスがモンスター避けの鳴子呪文をかけ、ティアラが防護魔法をかければ、就寝のための準備は完了した。今はアーティから渡された守護鉱石もある。 しかしさすがに全員が一斉に眠りにつくわけにはいかず、見張りを立てる必要があった。
自分のわがままから始まったのだと、さすがのルーウィンも最初の見張りを買って出る。それぞれ毛布に身をくるみ、ルーウィン以外の三人は仰向けに寝転んでいた。
「そういえば四人でこうやって外で雑魚寝するの、結構久しぶりだよね。見て、あんなに星が光ってる。贅沢な天蓋だね」
「天蓋ってお前なあ。ただの吹きさらしだろうが」
「もう。相変わらず、ラクトスさんにはデリカシーがありませんね」
天を仰いだまま、三人はたわいもない会話を始めた。
一人身を起こしているルーウィンは、黙って天を仰ぐ。
目の前には満点の星空。暗闇の中にも、こうして星々は輝く。あの高い天に張り付いて光っているものが何なのかはわからない。
しかしこうして、荒野を行く者の心を勇気づけていることは確かだ。
星々に、その気はなくとも。
そこにこうして在るだけで。
そこにこうして居るだけで。
「本当に、ばかね」
寒さに鼻先を赤く染め、ルーウィンは白い息を吐き出した。
その晩、ルーウィンは夢を見た。
大なべいっぱいのシチューを処分しきれず、一人で困り果てるアーティの姿を。
そのシチューは、いつもより、少ししょっぱいのだろう。
夢の中で、ルーウィンはそう思った。
【第10章 安息の丘で】
最初で最後の、戦闘無しの章でした。起承転結の「転」があったかどうか疑わしいくらいの章でしたが、いかがでしたか?
.5章にしようかとも思いましたが、ついつい普通に一章書いてしまいました。最も動きのない章になりましたが、その分次章ではしっかりきっちり動いてもらいたいと思います。
いつもお読みいただき、ありがとうございます!
この先も続けてお読み頂けましたら、大変ありがたく思います。




