第七話 生死の司
【第7話 生死の司】
転がるようにして下った坂のふもとには、一台の馬車が止まっていた。
こんな荒野の中の診療所を訪れた客人に、ティアラは目を丸くする。手強いモンスターも出るのだ、よほどの覚悟を決めてここまで来たに違いない。
馬車には細やかな装飾が施されており、本来このような場所に赴くためのものではないはずだ。繋がれたイッカクたちは、大人しく地面を嗅いでいる。イッカクを間近で見るのは初めてだったが、ここで興奮するほどティアラは分別がないわけではなかった。
良くないことが起こっている。荒野を越えて、ここまでやってくるほどの用事なのだろうか。
表情を硬くするティアラに、アーティは言った。
「馬車の中にいる方はわたしの患者です。お付の方たちの様子からも、容体はあまり良くないでしょう。あなたの手助けが必要かもしれないし、もうわたしの手には負えないかもしれない。その覚悟だけ、しておいてください」
「……はい」
従者が馬車のドアをおずおずと開け、二人を中へと招いた。
「セスター殿。さあ、こちらへ」
頭を低くし、アーティが馬車に乗り込み、ティアラも後に続く。予想通り、馬車の中は広々としている。明かり取りのために大きく設けられた窓には、カーテンが下ろされ、わずかに没薬の焚かれた煙が残っていた。
そしてティアラは、目の前の光景に息を呑んだ。
そこには、弱々しい老人の姿があった。
備え付けであろう立派な寝台に横たわる老人は、縮んでしまったかのようにとても小さい。骨に薄い皮一枚が張り付き、枯れ木のような腕が、豪勢な毛布からはみ出している。
思い出すのは、毒を盛られ、教皇の座を引きずり降ろされたかつての父の姿だ。ティアラは直感した。目の前の病人は病に侵されているのではないと。
アーティは老人の前にひざまずき、診療を開始した。
「この症状、元々の持病が悪化したのではありませんね」
その問いは老人にではなく、従者に向けられたものだ。老人はすでに口を動かすことは出来なかった。
「旦那様がこのようになってしまわれたのは、おそらく、毒を盛られたのではないかと」
「毒?」
従者の答えに、アーティは眉を吊り上げる。
「それが、毎日の食事に少しずつ混ぜられていたようで。ご様子がおかしいと思い始め、気が付いた頃にはもう……」
アーティが老人を診ている様子を、ティアラは唇を噛みしめて見ていた。
老人の表情には変化がなかった。筋肉が弛緩しているのだろうか、瞳孔は開いたまま、瞬きをしているかすら怪しい。ぽっかりと穴が開いてしまったかのような瞳で虚空を見つめている。しかし確かに、弱々しくも心臓は動き、脈がある。
しかしただ、それだけだ。息をしている、それだけなのだ。
だらしなく開いた老人の口元から、涎が垂れ流れている。診察を終え、アーティはガーゼで老人の口元を拭いてやった。
「残念ですが、これはもう治しようがありません。このままの状態で命だけを繋ぐ、それ以外に見込みはないでしょう」
「それではこの方は、このまま、ずっと……」
ティアラは思わず口にしてしまった。
回復の見込みは絶望的だと感じた。しかしアーティなら、なんとかしてくれるのではないかと、そう思っていた。
ティアラは再び、老人の顔を見た。一見無表情に思えた顔は、時折ピクリと痙攣している。おそらくは、身体を襲う痛みに耐えているのだ。
「もちろん、今日明日の命ではありません。きちんと処置をすれば、二、三年は生きられます。ただ、体の痛みを和らげる薬は処方できません。この状態でそれをすれば、内臓や身体の機能も低下し、麻痺してしまいますから」
アーティは極めて冷静だった。彼女がだめだというなら、もうそれ以上はないのだろう。後はこの状態を保ったまま、老人は生きながらえるしかない。
後ろに控えている従者が、意を決したように、口を開いた。
「セスター殿。どうか旦那様を、安らかな眠りに導いて頂くことは出来ないでしょうか?」
その言葉に、ティアラは耳を疑った。
しかし従者には気の毒そうな表情が浮かび、悪意などない様子だ。
「街の医者は皆匙を投げました。セスター殿に治せないのであれば、最期は貴方に命を委ねたいと。旦那様は、ご自分がいつかこうなることを予想しておられました。
怨恨により報復をされ、死にきれなかった時のために、数年前、わざわざここまであなたを尋ねてきたのです。生と死を司る、女神のもとへ」
「……その二つ名が本当なら、わたしはこの方を元気な姿に戻して差し上げていますよ」
アーティは手袋を外し、ため息を吐いた。
「それを証明するものは?」
「ここにございます」
従者が取り出したのは書簡だった。ティアラは息を呑む。おそらくは遺書だろう。
アーティはそれを開くと、文面に視線を走らせた。
「最後の確認です。本当に、よろしいのですか? ご自分の命をわたしに委ねると、そう望んでいらっしゃるのですか?」
アーティは老人の細い腕を両手で包み込み、老人に語りかけた。
老人は、目だけを動かした。黄色く濁った白目と、白濁した黒目が、アーティを捉える。
アーティは静かに、頷いた。
「わかりました。やりましょう」
「アーティ先生?」
ティアラは驚いてアーティの顔を見た。しかし、アーティの表情は真剣そのものだ。
アーティは老人の、汗でべっとりとした髪をそっと掻き上げてやる。
そしてガーゼで額の汗を拭い、老人に囁いた。
「あなたの旅路に、光あれ」
「セ……。あ……が……」
老人の細い喉から、しわがれた声が漏れる。
アーティはにっこりと、微笑んで見せた。
「おやすみなさい。どうか、安らかに」
何を言っているのだろう。ティアラには、アーティの言葉の意味がわからなかった。
いや、わかりたくなかった。
アーティは老人の腕を、彼の胸の上で組ませる。そしてその手の上に自分の手を重ね、静かに目を閉じた。
アーティの周りが、わずかに光る。光の粒が湧き上がり、それは次第に大きくなっていく。老人の顔が、その光に照らされていく。
ティアラはそこで初めて、彼女が詠唱しているのだと気づいた。
そしてしばらくして、老人は静かに、息を引き取った。
「なんですか。あれは」
夕暮れ時の坂道を登りはじめたアーティに、ティアラは言った。彼女にしては低い声音で、それは僅かに震えている。
アーティは足を止め、踵を返した。
「反治癒魔法。わたしたち治癒師は、人を癒すことが出来る。そして力の流れを知れば、その逆も可能です」
ティアラは拳を握りしめた。
違う。そんなことが聞きたかったのではない。
ティアラは俯いていた顔を上げた。そこには苦悶の表情が浮かび、目じりには涙が溜まっている。
「先生がしたことは……人殺しです!」
「でも同時に、人助けでもあります」
アーティは間髪入れずにそう答えた。ティアラはか細い声を、精一杯張り上げる。
「そんな……。何があっても、人の命を奪っていいはずがありません。そんな権利、あなたには」
「そうです。わたしにはそのような権利も、権限もない。ただの医者で、治癒師です。わたしはただ、患者の要求に応えたにすぎません」
「そして……報酬を得るのですか」
アーティのポケットには、従者から受け取った対価が入っている。
アーティは表情を変えずに、淡々と答えた。
「これは仕事です。好きで人の命を奪うはずがないでしょう。割に合いません」
「割に合わない、ですって?」
信じられないとばかりに、ティアラは息を呑む。
そして、失望した。人の命を奪っておいて、どうしたらそんな言葉が出るのだろう。
アーティの言うことは、確かに一理ある。人の命を奪う、それはその分罪を背負うことだ。しかし、ティアラの心は追いつかなかった。
アーティが好きで命を奪ったのではないことぐらい、ティアラにもわかっている。 だが医者として、治癒師として、救える可能性のある命を逆に奪うなど、今のティアラには考えもつかないことだった。
「ではあなたは、あの方がずっと、あのままで生きていればいいと? 意識はあれども、動くことのない錘のような身体を引きずり、苦痛とともに残りの生を過ごせばいいと? そう言うのね」
「違います! 誰もそんなこと、言っていません」
ティアラは身を震わせ、必死になって叫んだ。しかしアーティは、ますます冷静な切り返しをするばかりだ。
「わたしのしたことが間違いだと言うのなら、そういうことよ。周りの人間のエゴだけでその人の命を保ち、本人は日々自分の衰弱を見つめ、苦痛と戦い、ただひたすらに死を待つ。
どうせ先に待っているのが同じ死であるのなら、せめて本人の意思を尊重するべきだと、わたしは思うわ。前者と後者、一体どちらが残酷なのかしら」
「それでも! 命は天からの授かりものです。二度と同じ命は無いんです。人の手で、それも医者や治癒師の手で勝手にそれを終わらせるなんてこと、あってはならない。どうかしています!」
アーティは怜悧な視線をティアラに送った。
「あなたは知らない。人には生きながらえるよりも辛いことがある。耐えがたいことがある。でもね、その恐怖と痛みから一刻も早く逃れたいと切望しても、人は自ら命を絶てないものよ」
「でも、だからといって……!」
アーティはやれやれとため息を吐いた。アーティの言葉の後に続くのは、激昂し、感情のままに吐き出されるティアラの反論ばかりだ。
「この術を欲して、今までこの診療所に危険を顧みず訪れた者は、そう少なくはありません。わたしは彼らをことごとく追い返しました。この術は、今ではわたし一人だけのもの。私の代で絶えるのだと、そう思っていた。けれど」
アーティは、一呼吸置いた。
「あなたにならこの術を、お教えしてもいいと思っています」
ティアラは目を見開いた。
そして再び、激昂した。
「……そんなもの! 知りたいはずがないでしょう!」
ティアラは身体を、怒りに震わせた。
これほどまでに怒りを昂ぶらせたのは、ブルーアによって父親の命が奪われようとしていることを知った時以来だ。いや、それ以上だった。
治癒師という、人の命を救うべきである人間が、それとは真逆の行為を行ったことがティアラには許せなかった。
ティアラに構わず、アーティは続けた。
「苦痛に蝕まれ、動かない身体に囚われた魂を救うことが出来る。そして強力な、武器になる。窮地に陥った仲間を助けることが出来るのよ」
ついにティアラは、言葉を失う。
アーティはこのおぞましい力で、仲間の手助けをしろと言っているのだ。相手を攻撃しろと言っている。
ティアラは怒りで頭がどうにかなってしまいそうだった。
頑ななティアラを一瞥し、アーティは背を向けた。
「今はまだわからないでしょう。しかし、選択肢は多い方が良いですよ。気に入らなければ、使わなければ良いだけの話です」
「……要りません。わたくしはそんな恐ろしい力、欲しくありません」
喉から振り絞られた答えに、アーティは息を吐いた。
「そう、それは残念ね。やっとこの術を、正しく使うことが出来る人と出会えたと思ったのに」
ティアラは黙った。
確かに、老人の死に顔は安らかなものだった。あの老人が自ら望んで死を望んだのも、事実だろう。しかし、ティアラにはそれが割りきれずにいた。
人が自ら命を絶つ、手助けをするなど。
それもあんなに、易々と。
おそらく、今回のことが初めてではないのだ。アーティはおそらく、過去に同じことを何度も行っている。そうでなければ、こんなに落ち着いていられるはずがない。
そんなに『背負っている』わけがない。
夕暮れ時。
歪みとろけるように大地に沈んでいく夕日は、腐って地に落ちた果実を思わせた。 馬車も去ってしまった坂のふもと、荒野との境目で、ティアラはただ立ち尽くす。
ふと、坂を見上げた。
歳のせいもあり、坂を上っていくアーティの足取りは、とても軽やかとはいえなかった。そしてティアラは、アーティの背後に蠢くものを、視た。
こころなしか、それは老人を看取る前よりも、より黒く、そして膨れ上がっているように視えた。
「ティアラと何かあったの?」
夕食の手伝いをしながら、ルーウィンはアーティに訊ねた。
アーティはぐったりと、ダイニングテーブルに身体を預けている。普段てきぱきと動く彼女からは考えられない姿だ。
あまりにも具合が悪そうなのを見かねたルーウィンが夕食を作ることを申し出、アーティはその場で泥のように休んでいた。
そんなアーティを一瞥し、ルーウィンは再び自分の手元へと視線を戻す。
「戻ってきてからすっかり塞いじゃって。せっかく我慢して残しといたケーキも、食べないし。夕飯も要らないって。なんだか先生も、こんなだし」
トントンと、一定のリズムが刻まれていく。鍋からゆっくりと湯気が上がる。
ルーウィンの後姿を見ながら、アーティは自分の額に手をやった。
「……あの子を見ていると、なんだか昔の自分を見ているようで。つい余計なお節介を焼いてしまったの」
「そりゃ仕方がないでしょ。教えてるんだからさ、多少きつくなるのはティアラだってわかってるって」
「嫌なところを見せてしまった。嫌われてしまったわ。わたしはだめね。ねえ、ルーウィン」
その細い声に、ルーウィンははっとして手を止めた。
包丁を置き振り向くと、そこにいるのは疲れた顔をした初老の女性だった。思わずルーウィンはどきりとする。いつもは背筋をしゃんと伸ばし、凛とした態度で皆の世話を焼くアーティの姿は、見る影もない。
「あなたはまだわたしを、嫌いになっていないわよね……?」
今にも悲しみが零れてしまいそうな、くしゃりと歪んだ顔でそう言われ、ルーウィンは矢継ぎ早に答えた。
「何ばかなこと言ってるの。そんなこと、あるわけないじゃない」
それを聞くと、アーティはほっとしたような表情を浮かべ、しかし再びテーブルに身を沈めた。
崩れるようにしているアーティを見て、ルーウィンは声をかけようとしたが、やめた。食事時は刻一刻と迫っている、手を休めている時間はない。
なにより事情を知らないルーウィンには、どんな言葉をかけたらよいかわからなかった。
「……あたしも治癒術、使えたら良かったな」
ルーウィンはぽつりと呟いた。
そうしたら、アーティやティアラの気持ちが、少しはわかるかもしれない。
そして、らしくもないことを言ってしまったと、ルーウィンは再び野菜を刻み始めた。




