第六話 明かりを消す前に
【第六話 明かりを消す前に】
その日も平和に一日が終わった。
ルーウィンは髪を下ろしベッドに横たわっていた。ティアラもサークレットを外して、自分のベッドに腰掛けている。
ルーウィンが大きなあくびをして、ティアラは明かりを消すために立ち上がった。すると、おもむろにルーウィンが身体を起こす。
「ねえ、先生に治癒術教えてもらってるんでしょ? 調子はどう?」
ティアラはランプに伸ばしかけていた手を下ろし、再びベッドに腰掛けた。
「しっかりと、でも厳しく教えていただいています。アーティ先生は、ルーウィンさんに対してはお母様のようですけれど、わたくしの前では本当に先生ですよ。普段はお優しいのに、教え子には厳しいみたいです。でも、おかげさまでかなり上達してきました」
「本当? 頼もしくなるわね。次に怪我した時が楽しみだわ」
「もう、ルーウィンさんったら」
ルーウィンが歯を見せて笑い、ティアラもつられて微笑んだ。
「修練って、具体的に何をしてるの? ずっと治癒術かけてるの?」
「いいえ。どちらかというと、精神面を鍛えているといいますか、自分をコントロールする練習です。瞑想のように、じっと座って自分の内側と向かい合う、そんなことをしています」
「あー、それあたしが嫌いなやつだわ」
ルーウィンが渋い顔で言って、ティアラは小さく笑った。
アーティがティアラに授けているのは、黒い靄のような『それ』が『視えなくなる』術だ。
しかしティアラは、嘘は吐いていない。ルーウィンはティアラが治癒術を教わっているのだと思っているが、もちろんそれも間違いではない。実際、合間合間に治癒術の精度を高める修練も行っていた。
そしてアーティは、ティアラに対して一切の妥協を許さなかった。
しかしそれは、一刻も早くティアラが自分をコントロール出来るようにという、アーティの思いやりからだ。
この平和な場所にいつまでも居られるわけではない。近々この場所をベストな状態で発つためにも、ティアラはアーティの教えに必死になってついていった。
実体の無い、おかしなものに心を惑わされている場合ではない。早く立ち直り、戦力にならなければと、ティアラは自分に言い聞かせる。
ティアラの表情が硬くなったのを見て、ルーウィンはベッドから立ち上がった。
「まあでも、ほどほどに頑張んなさい。最近あんた、ここんとこ力入ってる。気を付けないと、ラクトスみたいになっちゃうわよ」
ルーウィンはそう言って、ティアラの眉間に指を置いた。
「それは……あまり喜ばしいことではありませんね」
「でしょ?」
二人はくすくすと笑いあった。
北大陸に来てから、ルーウィンとティアラがゆっくり話の出来る機会は滅多になかった。荒野では五人揃って野営をしていたし、ティアラの疲れなどもあって、なかなかこうして向かい合うことが出来なかったのだ。
「ルーウィンさん、あの、少し訊いてもいいですか?」
「何?」
そう口を突いて言葉が出てしまってから、ティアラはふと考えた。
本当に聞きたいのは、ダンテの話だった。だが、それはティアラの自己満足でしかない。
大切な人から大切な話を聞きたいと思うのは、ティアラの勝手以外の何物でもなかった。しかし話してもらえないことは、どこか寂しいものがあるのもまた事実だ。
ダンテの話をルーウィンの口から直接聞いているのは、未だにフリッツだけだ。ティアラとルーウィンは女同士、二人で同じ部屋に泊まる機会が多いにも関わらず、肝心なことが話せていないように感じていた。
しかし、ティアラは心の中で首を振る。今はまだ、その時ではない。いずれ彼女の口から直接語られるのを待とう。
そして、別の疑問を口にした。
「どうしてここに、アーティ先生の診療所にお世話になることになったんですか?」
「……それがさ、笑わないでよ」
ルーウィンの様子に、ティアラは首を傾げる。ルーウィンは物が詰まっているような、歯切れの悪い物言いをした。
「覚えてないのよ、あたし」
「覚えてない?」
ティアラは悪気なく、目をぱちぱちとさせる。ルーウィンはあぐらをかき、片手を頭に突っ込んだ。
「先生がフリッツに言って、その話がラクトスに伝わってるのが気に食わないけど。まあ、それはいいとして。情けない話、ダンテが死んだ前後の記憶が、なーんか曖昧なのよね。記憶が飛んじゃうくらいショックだったのかしら。あたしも案外かわいいとこあるじゃない、なんてね」
「……すみません」
余計なことを聞いてしまったと、ティアラは視線を膝の上に落とした。それを見て、ルーウィンはからりと笑う。
「気にしないで。ダンテのことはとっくの昔に割り切ってる。今更悲しい顔なんてしないわよ。それより、あんた調子悪そうだけど大丈夫? 最近ちっとも笑わないじゃない」
ルーウィンはティアラの顔を覗き込む。
そうかもしれないと、ティアラは思った。思い返せば北大陸に辿り着き、シアの背後に蠢く『それ』が視えてから、自分は気の休まることがなかった。しかしアーティに出会い、こうして修練をしていることで、いずれはこの不安も解消されるだろう。
そしてティアラは気が付いた。自分もルーウィンに、何も話していないのだと。自分のことを明かさず、人の話だけを聞こうとするのは不平等なことのように思えた。
そしてティアラは、口を開いた。
「ルーウィンさん。少し話を聞いていただけますか?」
ルーウィンは目で肯定し、ティアラの隣にやってきて腰掛けた。
「わたくしが幼い頃の話です。ブルーアがまだパーリアで大人しくしていた頃、父がまだまだ健康で、そしてわたくしは自由に聖堂や街を行き来していた頃のことです」
ルーウィンは口を挟まない。しかし隣で相槌を打っているのが感じられ、ティアラはそのまま続けた。
「わたくしは父の仕事を見るのが好きでした。聖堂に訪れた人々の前で父が祈りを捧げる様子や、神様の教えを説くのを聞いているのが好きでした。当時は懺悔室が設けられており、わたくしはそこにもこっそり潜り込んで、悩める人々と父が話すのを聞いていたこともあります。今思えば、少し不謹慎な話ですね」
ティアラが言って、ルーウィンがにやりと笑う。
「人の悩みの盗み聞きなんて、意外にあんたも下世話な話が好きなんじゃない」
「ふふ、そうかもしれません。本当に気の毒な話もありましたけれど、第三者としては興味深いお話もありました。やだ、わたくし本当に不謹慎」
ティアラは微笑む。しかしすぐに、その表情を元に戻した。
「わたくしはある日、ふと気づいたのです。相談に訪れる人々の中には、背中に黒い靄のようなものを背負ってらっしゃる方がいるのです」
「黒い靄?」
ルーウィンは怪訝そうに眉をひそめる。ティアラは首を縦に振った。
「はい。なにかもやもやしたものが、その人の背後に蠢いているのです。しかし、父にはそれが視えないようでした」
ティアラは一呼吸置き、膝の上の手を組み直す。
「わたくしは、その黒い靄が怖かった。それは訪れる人によって、多かったり少なかったりする。でも、次第に気づいたのです。誰一人として、その靄を背負っていない人などいないのだと」
それはすべての人間が、その黒い靄を背負っているということだ。
「それは、あたしにもあるの?」
「はい。みなさん、それぞれに」
ルーウィンの靄がどの程度かは、ティアラは口にしなかった。
「それは悪事を犯してしまったと懺悔する方に多く視られました。これから罪を償う前に聖堂に訪れた方、すでに刑を終えた方。しかしどちらがどうということはなく、本当に人それぞれなのです。他にも、子供は比較的少なく、大人は多いようにも思われました。しかし、罪人と同じくらい、大きく黒い靄を背負う人々もいた。それが父や、パーリアに仕える一部の治癒師たちでした」
「どういうこと?」
ティアラの話を途中まで聞いていれば、その黒い靄は悪人や罪人に視られるものだと思うだろう。
しかし善良なはずの、ティアラの父親や治癒師たちにも同じようにそれが視られるとは、いったいどういうことなのか。
「そこからわたくしは、その黒い靄がなんなのか、自分なりに答えを考えました。しかし、ある日を境に、『それ』はしばらくぱったりと視えなくなったのです」
「あたしたちと初めて会ったときには、もう視えなくなってたってこと?」
ティアラは頷いた。
ルーウィンは鼻から息を吐いた。
「なるほどね。にわかには信じがたい話だけど。で、またそれが視えはじめた。だからシアと会ったときあんなに怖がってたのね。様子がおかしいことに、すぐに気づくべきだったわ」
ルーウィンが申し訳なさそうに言うので、ティアラは慌てて首を振った。
「もう大丈夫なんです。かなり安定してきましたし。それにその黒い靄がなんなのか、わたくしなりに答えがわかりかけてきた気がするんです……」
話に区切りがつき、ティアラはすっと立ち上がる。
「聞いていただいて、ありがとうございます。なんだか胸のつかえがとれたような気分です」
「そりゃ良かったわ。こんなんで良ければ、話ぐらいいくらでも聞くわよ?」
ティアラは微笑んだ。やはりルーウィンは優しいのだ。
ティアラは今度こそ、テーブルの上のランプの明かりを吹き消した。部屋からは明かりが消え、窓から洩れる月明かりを頼りにティアラはベッドへと戻る。
「そろそろ寝るか。あんたは明日も修練だしね。おやすみ」
「おやすみなさい、ルーウィンさん」
明日はきっと、もっと笑える。いい日になる予感がする。
そう思いながら、ティアラはゆっくりと瞼を閉じた。
ほどなくして、それぞれのベッドからは、健やかな寝息が聞こえ始めた。
「あれ? あんなところに馬車が止まってる」
翌日、いつものように剣を交えていたフリッツとマティオスは、診療所の坂を下ったところに馬車を見つけた。
馬車を曳いているのは、ただの馬ではなく、イッカクだった。その外で、御者らしき人間と、たくましい体つきの男がうろうろしているのが見える。
「こんなところに馬車が来るんだね。荒野ももう、終わりに近いんだ」
荒野の中にぽつりと立っているこの診療所だが、よくよく考えれば街との行き来も不可能ではないのだった。そうでなければ自給自足生活のアーティといえども、生きていくのは難しい。
マティオスは額の前に手をやって、遠くを見ようとしている。
「イッカクか。あの様子だと、アーティ先生の上客じゃないかな」
「ディングリップから?」
「おそらくね。あんな馬車を乗り回す金持ちは、都にしかいない。ここからディングリップまでにはかなり距離があるけど、イッカクだったらモンスターに襲われない限り、来れないことはないね。それに金にものを言わせて、ありったけの守護鉱石を積んできたんじゃないかな」
二人がそうこう話しているうちに、男が二人坂道を昇ってきた。馬車の周りにいた男たちで、腰に得物を差している。フリッツは剣に手を伸ばし身構えたが、マティオスはそれを腕で制した。
すると男たちは、フリッツとマティオスの前で足を止めた。そして深々と頭を下げた。
「セスター殿に取り次ぎを、どうかお願いします」
その頃、ルーウィンとティアラはリビングでお茶をしていた。ティアラの午前の修練が終わり、その休息をしていたのだ。
すると、廊下からバタバタと慌ただしい気配が近づいてくる。そしてけたたましく、ドアが開かれた。
やってきたのはアーティだった。アーティは白衣を肩にひっかけ、口の空いたままの鞄を抱えている。たった今道具を詰め込んだばかりなのだろう。
「ティアラさん。あなたも一緒に来てください」
「はい! あっ…!」
突然名前を呼ばれ、ティアラは勢いよく立ち上がる。しかしその弾みで、ティアラはティーカップを倒してしまった。
「あっちゃー、派手にやったわね」
「すみません!」
カップの中身は僅かだったが、茶はテーブルから床へと滴った。ルーウィンはそれを拭き取り始める。
慌てるティアラに、ルーウィンは微笑んだ。
「ここはやっとくから、いってらっしゃい。ちゃんとケーキも残しとくからさ」
ティアラは頷き、その厚意に甘えることにした。背後でアーティの急かすような気配を感じ取ったのだ。そしてそのアーティは、ただならぬ様子だった。急ぐに越したことは無い。
「帰ったら頂きますね。では、お願いします」
「ティアラさん、行くわよ」
アーティは珍しく苛立っている。いや、焦っているのか。
その声に弾かれたように踵を返し、ティアラはばたばたと診療所を後にした。




