第十八話 洗礼
【第十八話 洗礼】
四人の前に、突如立ちはだかった少年と少女。
その細い手首に嵌められた腕輪は、黒い鉱物製の、ドラゴンの翼の意匠のものだ。彼らは、自分たちが漆黒竜団だと、幹部アーサー=ロズベラー直属の部下であると言った。
アーサーの名を聞き、そして目の前の二人の異様な空気に、フリッツは身を固くする。今まで交戦してきた漆黒竜団員の中でも、彼らは特別若かった。
そして、それ故に異質だった。
シアは一見すれば可憐な少女で、とても悪の組織の一員には見えない。しかし先ほどまで一緒に歩いていた彼女とは、決定的になにかが違う。
その愛らしい顔に浮かんでいる微笑には、残酷めいたものが見え隠れしている。朗らかな雰囲気は感じられず、空恐ろしい何かが、背後から滲み出ているような。
化けの皮がはがれたのではない。シアの別の一面、むしろ本質に近い面が、今になって表層に浮かんできただけのことなのだ。
そしてその少し後ろに立っている、線の細い少年もまた、ならず者のような粗暴さや屈強さは感じられない。
だが彼も、シアと同じく尋常でない雰囲気を持っている。黒衣を纏い、杖を手にしている魔法使い。
例えるならば、まるで幽霊のような少年だった。そこに確かに存在しているはずなのに、輪郭が今にも霞んで、大気にそのまま溶けてしまいそうなのだ。
しかし、その黒い瞳には紛れもない敵意が浮かび、そこだけがギラギラと鈍く光っている。
いや、そこにあるのは敵意だけではない。紛れもない「殺意」が、そこにはあった。
フリッツはぞっとした。少年との距離はあるが、気配だけでその殺気が伝わってくる。
フリッツとて、ここまで来るのに殺意を向けられたことがないわけではない。クッグローフの襲撃では、炎の中、明らかな殺意を何度も向けられた。そして少年からの殺意は、ほとんどがフリッツに注がれていると、何故かそう思った。
その瞬間、全身が総毛立つ。自身を静めるために、フリッツは剣の柄を握り直した。
不意に、辺りが暗くなる。
夜が来たのではない。先ほどまで青く澄み切っていた空に、黒い雲が渦を巻き始めたのだ。そしてそれは、心なしかこの場を、黒衣の少年を中心に渦巻いているようだった。
人間が天候を支配するだなんて、そんなばかなことがあるはずないと、フリッツは自分に言い聞かせる。
手前にいるシアは相変わらずの丸腰だ。彼女には今のところ、こちらに手を出す気配はない。シアが得物を振り上げ、フリッツたちに襲い掛かってくる様子など想像することが出来なかった。
彼女を警戒しなければならないのは頭ではわかっているのだが、どうも現実味が湧かない。
まずはあの少年だ。殺気に満ち満ちている、黒衣の魔法使い。
フリッツ以外の三人も同じように考えていた。先ほど何の前触れもなくフリッツの目前に雷を放った、危険な人物だ。
なんとしてでも抑えなければならない。
実質、一対四の構図。
「……おいフリッツ。これを卑怯だのなんなのとケチつけるなよ。あいつはやばい。全員でかかる」
「うん」
ラクトスが神経質に唇を舐めたのが横目に見えた。それを見てフリッツは、ラクトスが緊張しているのだと知った。
北大陸上陸後のモンスターとの戦闘では、ラクトスは調子が出なかった。 南大陸と北大陸との魔力は感覚が違い、まだ上手く扱えずにいるということだ。彼の様子から察するに、恐らくその微調整は、まだ出来ていない。
フリッツはティアラに視線を走らせる。
「ティアラ、いけるね」
「……ええ。やるしかありません」
ティアラも、不安要素を残したままだった。
彼女も今、とても調子がいいとは言えない。ティアラが怯えていたのは、シアのこうした一面が見えていたからなのだろうか。
しかしティアラは青ざめた顔をしながらも、唇を引き結んでいる。フリッツは、彼女の中に戦う覚悟があることを見て取った。
「じゃあ、いいわね」
ルーウィンが言ってフリッツは頷き、四人は黒衣の少年と対峙する。
フリッツ。ルーウィン。ラクトス。ティアラ。
まだまだ体力があり、誰一人欠けていない四人という体勢で臨む戦闘。
しかし、かつてこれほどまでに、人間相手の戦闘に危機感を抱いたことなどあっただろうか。
杖一本持った、たった一人の小柄な少年に。
「行くわよ!」
最初に仕掛けたのはやはりルーウィンだった。
特攻あるのみと、得意の弓矢を引き縛り、目にも留まらぬ速さで放つ。近くにいたフリッツも、彼女が弓を引き絞る気配を感じられなかったほどだ。狙い違わず、弦のしがらみから開放された矢は、空気を裂いて標的目掛けて飛んでいく。
しかし矢は少年の目前でぴたりと止まり、失速した。少年は鬱陶しそうに顔を歪める。
防御魔法で盾を張り、弓矢の攻撃を跳ね除けたのだ。
「あれ、届かなかったね?」
見物を決め込み、一歩下がった場所からシアが微笑む。
ルーウィンはにやりと笑った。
その隙に、フリッツはジンノに迫った。
重心を低く保ち、走る。一歩踏み出し深く沈み、なぎ払う。
だが、フリッツは若干の違和感を覚えた。
目の前のジンノは杖を持って突っ立っているだけで、剣を抜いた自分が迫ってもまったく構えを取らないのだ。隙だらけだ。
では、ジンノの放つ異様な雰囲気はなんだったのか。
しかし、油断するつもりは無い。
ルーウィンの矢に上手く気をとられてくれたのかと、フリッツはジンノの杖だけを弾き飛ばすつもりで踏み込む。
フリッツの思惑に気がつき、ジンノは杖を持ったまま身を引いた。それを追い、フリッツは再び迫る。ジンノから敵意は感じられるが、彼は呪文を唱えるでもなく、かといって杖でフリッツを追い返そうともしない。
斬撃を繰り出す。ジンノはそれを、気だるげに受け止めた。
だが、それは敢えて「受け止めさせる」攻撃だった。
最後の一撃が杖にかち合うと、杖はジンノの手から弾き飛び、勢いよく宙を舞った。
やはり魔法使い、前衛での戦いには慣れていない。懐に入り、武器である杖を奪ってしまえばこちらのものだ。
目的を果たし、フリッツは一旦引いた。地に落ちた杖を、ゆらりとジンノは拾いに向かう。
「フリッツさん! 行きます!」
ティアラの声と共に、フリッツの周りを不思議な揺らめきが覆う。防御魔法の盾だ。間髪入れず、フリッツとジンノの間に紅い輝きが現れ、危険を告げるようにくるくると回り始める。
その妖しくも美しい炎は、突如膨れ上がって牙を剥き、爆ぜた。
ラクトスの上級魔法、フレイムバーンの発動だった。爆音と爆風、そして高温がジンノとフリッツを襲う。
フリッツは踏ん張った。発動した盾越しに、フレイムバーンの熱と圧を感じ、両腕で顔を庇う。すると盾が徐々に薄れていき、フリッツは爆風に撒かれて後ろへと転がり伏せた。
風が収まり、地面に這いつくばったフリッツは、顔だけ後ろに向けて抗議した。
「ラクトス! ある程度覚悟はしてたけどさあ!」
フリッツは涙目で叫んだ。危うく爆発に巻き込まれそうになり、心臓はバクバクと鳴っている。
「悪ぃ悪ぃ。不発もあれだが、暴発も大概だな。でもお蔭さんで、これでも結構感覚掴めてきたぜ」
手ごたえを感じたのか、ラクトスはにやりと笑う。
ルーウィンの最初の一矢は、捨て矢だった。
飛んでくる矢に注意を向けさせ、その間にフリッツが迫る。そしてさらにラクトスの詠唱で攻撃魔法の準備が整うと、ティアラがフリッツに防御魔法をかけ、接近したフリッツが退く間も無く爆発させる。
なんとも力技の連携プレイだが、四人のそれぞれの能力を生かした作戦だった。
各々の役目を即座に理解し、仲間の力量を知り、連携が取れていなければこうはいかない。一つ間違えればこちらが怪我をしかねないのだ。
そして互いを信用できていなければ、為し得ない作戦だった。
特にジンノに迫り特攻を仕掛けるフリッツは、ラクトスの魔法の調整とティアラの盾がいかに素早く正確に発動するかが鍵であり、それに失敗すれば大怪我どころではない。
ティアラの防御魔法が発動せず、ラクトスの攻撃魔法が暴発すれば、フリッツはあっという間に黒焦げの消し炭だ。
北大陸に辿り着き各々の調整が上手くいっていない現状ではかなりの賭けだったが、フリッツたちはその賭けに勝ったのだ。
しかし勝利に浸る間も無く、ルーウィンの尖った声が飛んでくる。
「はあ? これで感覚掴めたですって? 聞いて呆れるわね、爆炎で何にも見えないじゃないの!」
「ガードされること前提で放ったんだが……これほど暴発するとは思ってなかった。あちらさん、死んでやしないか?」
確かに、フレイムバーンがこれほどの威力で発動するとは予想外だった。防御していたとしても、大ダメージは免れないはずだ。
生身の人間が喰らって、無事でいられるはずがない。
「いえ、まだです!」
ティアラの焦りを含んだ声が、一同の注意を引き戻した。
揺らめく爆炎の向こう。そこには確かな人影がある。
煙が晴れると、そこにはジンノの姿があった。
フリッツは目を疑う。まるで何事も無かったかのように、変わらぬ様子で立っている。ジンノが落ちた杖を拾い上げたかどうかの瞬間に、ラクトスの術は発動した。呪文を唱える暇もなかったはずだ。
それがまるで、目の前のジンノは無傷だ。
「……余計なことを」
ジンノの薄い唇から、やっと聞き取れるほどのかすれた声が吐き出される。
その言葉に、四人は一斉にシアを見た。
「でもジンノくん。わたしが手を出しちゃダメだっていうルールは無かったよね?」
シアは微笑み、小首を傾げる。
うかつだった。シアが防御魔法を使ったのだ。
ルーウィンは苦々しげに言った。
「目立った武器も無いってことは、あんた、ティアラと同じね。丸腰だと思って油断したわ」
「防護魔法くらいなら使えるよ。もっとも、わたしなんてジンノくんの足元にも及ばないけれど」
それは謙遜も甚だしい言葉だった。
攻撃魔法はその威力ゆえ、魔術媒体である杖が必須だ。そして補助魔法や治癒魔法にも同じように魔術媒体は必要だが、こちらは目立った得物でなくとも発動させることは可能だ。ティアラの場合は、笛がその役割を果たしている。
しかし身につけられるような小さなものであれば、媒介としての威力もそれなりのはず。それをシアはあのフレイムバーンを防ぐ魔法を、大した魔術媒体なしでやってのけたのだ。
彼女自身が相当な力をもっているとみて間違いない。そして今の防御魔法は、氷山の一角に過ぎなかった。
それならば、彼女が自分などと言うジンノとは、一体どれほどの力の持ち主だというのか。
四人に緊張が走る。
これほどまでの魔法の使い手を相手に、戦ったことは無い。相手が魔法使いならば、大抵はラクトス、ティアラのほうが敵の力をはるかに上回っていた。今回は違う。
相手が、ケタ外れに強いのだ。簡単に、遊ばれてしまった。
しかし、とフリッツは思う。剣に力を込める。
まだまだこれからだ。
先ほどは全員で特攻をかけたが、一度で上手く行かなかったからといって後ろ向きになる必要は無い。自分もみんなも無傷で、まだ誰一人傷ついてはいない。力も十分に残っている。
自分たちは、まだまだやれる。勝負は、ここからだ。
フリッツは目の前の黒衣の魔法使いを、強く睨む。
刹那、空気がぴりりと揺れた。標的の足元に、魔法陣が展開される。空が、光る。
―――悲鳴が上がった。
フリッツはとっさにティアラを見た。
しかし、彼女は無事だ。青い顔をしたまま立っている。
それでは今の悲鳴は、誰なのか。
フリッツは振り返った。
後ろを向けば、そこに居るはずだった。彼女はいつだって、自分たちを先導してきた強い冒険者だ。
うつ伏せになって地面に崩れ落ちていたのは、ルーウィンだった。
「ルーウィン?」
フリッツは目を見開き、凍りつく。
どうして。
あのルーウィンが、何の前触れもなく、こんなにもあっさりと。
「おいフリッツ! ティアラ! ぼやっとすんな!」
ラクトスの檄が飛び、フリッツは現実に引き戻される。目を見開いたラクトスは焦りと苛立ちをあらわにして叫んだ。
「ティアラ、早くあいつに治癒魔法を! フリッツ、奴に詠唱時間を稼がせるな! おれとお前とでやるんだ! しっかりしろ!」
「……詠唱時間って、……なに?」
ジンノが気だるげに呟くと同時に、ラクトスの足元に魔法陣が展開された。舌打ちをする暇もなく、二発目の稲妻が迸る。天を割って落ちる、目も眩む光と雷鳴。
フリッツは眩しさに、反射的に目を閉じた。
瞼を開けると、今度はラクトスが倒れていた。
「ラクトス?」
足元が崩れていくような錯覚に陥る。
自分は悪い夢を見ているのだろうか。フリッツは自分の目を疑った。ついさっきまで、二人はそこに立っていた。それが回避も防御も何も出来ぬまま、次の瞬間にはあっけなく地面に崩れ落ちている。
倒れた二人はピクリとも動かなかった。フリッツの中に、ある疑問がよぎる。
二人は生きて、いるのだろうか?
フリッツは歯を食いしばった。瞳が開かれ、鋭い眼光がジンノの姿を捉える。
自身が煮立っているようだ。頭が真っ赤になった。腹の底からぐらぐらと湧きあがり、それはフリッツを浸食していく。驚愕と衝撃は、倒れている二人を見た瞬間、怒りへと変貌した。
そして間も無く、その感情に支配される。
剣を構え、フリッツは吼えた。
「フリッツさん、だめです!」
ティアラの、裂けるような悲鳴が響く。
フリッツは駆けた。ジンノに迫る。相手は杖を構えもしない。
躊躇うことなく、フリッツは剣を振り下ろす。フリッツの瞳と、ジンノの暗い瞳とが、かち合う。
刃は、宙で止まる。そしていとも簡単に弾かれた。
フリッツは身体ごと飛び、背中から地面へと落下する。
すかさずジンノが杖を、天に掲げる。
「……消えろ」
光と轟音。身体に、衝撃が走る。
フリッツは叫んだ。
目を剥き、火花が散り、眼球が沸騰しそうなほどの電撃が駆ける。恐ろしいほどの衝撃が、脳天と身体の芯を突き抜けた。脳や神経や細胞を壊され、振動で掻き回される。
激しい熱と痛みで、何が起こっているのかわからない。
閃光が消えると、フリッツの身体はようやくその責め苦から開放された。
髪が、皮膚が、焦げた匂い。
ジンノの雷に打たれたフリッツは、天を仰ぎ、締まりなく口と目を開いたまま、膝からその場に崩れ落ちた。
ティアラの悲鳴が、北の荒野に響き渡った。




