第十七話 食後の集落
【第十七話 食後の集落】
いよいよ勾配を登りきると、シアは声を弾ませた。
「見えてきたわ! あの村よ。きっとミケはここにいるはずなの」
「あ、こら! 待ちなさい!」
ルーウィンの制止も振り払って、シアはあっという間に見えなくなった。もうすぐミケに会えるのがそれほどまでに嬉しいのだろう。あの細い足のどこにそんな力があるのか、シアは疾風のように去っていってしまった。
取り残された四人は呆気に取られ、フリッツは笑った。
「行っちゃったね」
「まあ集落だし、そんなに心配するようなことはないと思うけど」
「やれやれ、やっとペットを探しながらの上り坂もお仕舞いか」
ルーウィンは頭を掻き、ラクトスは気だるげに伸びをした。
フリッツは辺りを見回した。
小さな集落だ。南大陸の村とそう違いはなく、フリッツの通っていたフラン村と大差なかった。木を組んで出来た簡素な門と、そこに括りつけられた守護鉱石。こぢんまりとした家々に、ほこりっぽい小道。畑はあるようだが、あまり実りが良いとは言えない。土地が痩せているのだろう。
南大陸は森が多く土が豊かだが、それに比べてこの村は痩せた土地に無理に集落を作ったようだった。
「ほら、あそこ。酒場みたい。丁度いいわ、何か腹ごしらえでもしない?」
「ルーウィン、シアのことはどうするのさ?」
言いながら一行は、道の角に見えている酒場らしき家屋に向かった。
御免くださいと、フリッツは酒場の扉を押し開いた。
「……なんだ……これ」
フリッツは反射的に口元を押さえ、足元をふらつかせた。後ずさりして転びそうになったところを、後ろにいたラクトスに肩を支えられる。
不審に思ったラクトスが怪訝そうな顔をし、酒場の中を見やると、その表情は一瞬にして凍りついた。
「おい……これは……」
「何してるのよ、小腹空いてるんだからさっさと……」
ラクトスを押しのけるようにやって来たルーウィンも、ひと時、言葉を失った。
そこには奇妙な静寂が広がっていた。
幾つものテーブルとイスが無造作に散らばっている。テーブルの上の食べ物は食い散らかされたまま、異臭を放つ。そこにたかる蝿だけが勢いよく飛び回り、静寂に煩わしさをもたらしていた。
そして不思議なことに、その場には誰一人居ない。この空間の何が不気味かといえば、それは人間が存在していないことだ。かつて振舞われていたであろう料理だけが残され、時間の経過と共に腐ったのだ。
それならば、ここで食事をしていたはずの人々は、どこへ行ったのか。
その答えは、部屋の片隅の様子が、ある程度物語っていた。その一角はどす黒く染まり、人間の手足らしきものが転がっている。
フリッツはその場に縫いとめられたように、微動だにしない。ルーウィンはフリッツの手首を掴んで、やや乱暴にその場から連れ出すと、外に居たティアラの横にフリッツをしゃがませた。
「ティアラとここにいて。無理して見ることないわ」
「う……ごめん」
真っ青を通り越し白い顔をしているフリッツに、ティアラは驚いた。
「あの、一体なにが」
「後で話すわ。フリッツのこと、頼んだわよ」
ルーウィンの険しい顔から何かを悟ったティアラは、表情を強張らせ、黙って頷いた。
ルーウィンが酒場の中を、ラクトスが村の中を調べている間、フリッツは外にしゃがんで風に当たり、そこにティアラが付き添う形となった。
フリッツは俯いていた。吐くことはしなかったが、胸の奥がぐるぐると回り、酸っぱいものが込み上げてくる。身体の至るところから気持ちの悪い汗が噴出し、フリッツの身体を冷やしていく。
否が応でも、クッグローフの漆黒竜団襲撃を思い出す。ルーウィンはそれをわかっていて、いち早くフリッツを不気味な静寂から遠ざけたのだ。
空は高く、澄み渡っている。そよそよと風が吹く。足元の小さな草花が揺れている。畑のわずかな作物も、その身を揺らす。
それだけ見ていれば、ここはなんの変哲もない、どこにでもあるようなただの村だった。先ほど自分が見た奇妙な光景は夢だったのだと思いたかった。
しかし開け放した酒場の窓から、風に乗って時折やってくる腐臭のせいで、そんな幻想も打ち砕かれた。酒場の中からだろうか、大きな蝿が耳元に飛んできて、フリッツは嫌悪感に眉をひそめた。
盗賊の仕業か。それともモンスターか。
いずれにせよ、北大陸に辿り着き、最初に人の居る場所に辿り着いたにしてはあまりにも手酷い歓迎だ。ティアラも浮かない様子で、丸まったフリッツの背中をさすっていた。
ルーウィンが酒場から出て来、ラクトスが戻ってきたのを見て、ティアラは恐る恐る訊ねた。
「どうでしたか?」
ラクトスは首を横に振った。
「だめだ。村中どこもこんなかんじだ。人っ子一人居やしねえ」
フリッツのなかで僅かな期待が崩れ去った。やはりこの村は、全滅してしまっているのだ。
「他の家も見て回ったんだが、食卓の皿に盛った食いもんが腐ってた。飯時に襲われたんだな、そこの酒場と同じだ」
ラクトスは深く息を吐く。
「他の家屋の中も血痕があって、たまに腕やら脚やらが転がってる。それなのに、胴体や頭はどこにも無え。この村の大きさからして、数人ってことはないと思うが、何十人ものあるべき死体が、ここには無い。殺した人間の死体を片っ端から集めるって悪趣味がなけりゃ、モンスターに食べられたとみて間違いないだろう。食糧庫や、畑は全く荒らされていなかったしな」
これでこの惨状は人間の仕業ではなく、モンスターによる被害だと明らかになった。人同士で殺し合いがあったのではないが、それでも人が亡くなったことには変わりない。
弱肉強食。自然の摂理だと言ってしまえばそこまでだが、自分たちが人である以上、そうは割り切れないのもまた事実だった。
「北大陸だからこそ、人々は必ず守護鉱石の地層の上に集落を築くでしょう? その加護をものともしないほど強いモンスターが現れたとみて良いのでしょうか?」
「恐らくな」
ラクトスが答え、ティアラは視線を伏せた。ルーウィンは眉を吊り上げる。
「だとすれば、ここは危険だわ。シアを見つけて、とっとと離れるわよ」
三人のやりとりを聞きながら、フリッツは重い身体で立ち上がった。こういった光景にトラウマがあるとはいえ、こんな状況の調査を自分は免除されてしまったのだ、いつまでも腑抜けてはいられない。
ルーウィンだってラクトスだって、好きでやっているわけではないのだから。本当は自分も、もっと動かなければならなかったのだ。
付き添っていてくれたティアラに礼を言おうとして、フリッツは驚いた。
ティアラの明るい灰色の瞳の底には、明らかな恐怖が浮かんでいる。
こんな光景を目にすれば、無理もない。フリッツは唇を噛み締めた。気分を悪くしている場合ではない。ティアラがこんなにも怖がっているのだ、自分がしっかりしなくてどうすると、フリッツは自分を叱咤した。
「……ティアラ、大丈夫? って、ぼくがこんな青い顔して言ってちゃいけないね」
ティアラは視線を上げ、フリッツの瞳を見る。その小さな唇を歪ませ、おそるおそる呟いた。
「フリッツさん、わたくし、何だか怖いのです。嫌な予感が……胸騒ぎが、止まらなくて……」
彼女の胸の前で組まれた白い手は、小刻みにカタカタと震えている。フリッツはその手をとって、励ますように言った。
「うん、ぼくも怖い。でも、凶暴なモンスターが居るかもしれないんだ。シアを探しに行こう」
「……はい」
ティアラが不器用に微笑んだのを確認し、フリッツは踵を返した。こんなところに、無防備なシアを一人にしておくわけにはいかない。こうしている今でさえ、いつ凶悪なモンスターと遭遇するかわからないのだ。
一行はシアが向かったと思われる、村の真ん中に走る道を進んだ。
そしてその間、ティアラの身体の震えが、止まることはなかった。
村の真ん中を走る埃っぽい道を進むと、視界が開けた。村が終り、大地が開けている。
初めて目にする北大陸の荒涼とした光景に感慨に浸る間も無く、四人は岩の競り出た場所に人影を見つけた。
海を背にした崖っぷちに、二人の人物が立っている。
一人は杖を手に、黒い服を着ている。羽織っているのは、魔法使いのローブのようだ。黒い髪に、一筋の白いものも混ざっている。しかし、老人ではない。線の細い、少年だ。
そしてもう一人は、金色の髪をなびかせる少女だった。この場には似合わない、ふわりとした服を着ている。
少女がフリッツたちに気がつき、駆け寄ろうと一歩前に出る。しかしそれを、隣の黒い少年が片手で制した。
「シアだ! 気づいたみたいだね」
「なんだ、誰か連れがいるんじゃねえか。心配することなかったな」
シアの無事を確認し、フリッツはそのまま駆け出そうとした。しかし突如、静止がかかる。
振り向くと、ティアラの手がフリッツの手首を掴んでいた。
「……だめです」
フリッツは思わず目を細めた。痛みを感じるほどに、ティアラの手には力が込められている。
ティアラは叫んだ。
「これ以上行かないでください! その方たちは危険です!」
刹那。恐怖の浮かんだティアラの顔が、白く強く、光った。
轟音ともに、天から光がほとばしる。稲妻だ。まるで生き物のように、光の塊は天から大地へと向かっていく。
突如襲いかかった天災に、ルーウィンは腕で目を庇い、ラクトスも思わず身構える。
まさに雷に打たれたかのように、フリッツは動けなかった。直撃は免れた。だがフリッツの足元、たった今踏み出そうとしていた先の地面が、穿たれている。あの神々しい光の塊が、ここへ落ちてきたのだ。
無事でいることへの安堵と、あと一歩間違っていれば死んでいたという状況に、心臓がひっくり返りそうになる。
「今のは……雷?」
咽をカラカラにして、フリッツは呟いた。
雲もないのに? こんなに突然?
フリッツは恐る恐る天を見上げた。やはり、青く高い空が見える、晴天だ。だがしかし、辺りが徐々に曇り始めているのは気のせいだろうか。それもまるで、この場を中心として雲が引き寄せられているように思える。北大陸は、こんな不思議な天候の急変も起こりうるのだろうか。
「フリッツ下がれ! そいつは魔法使いだ!」
ラクトスの怒号が飛ぶ。フリッツは我を取り戻し、反射的に身構えた。
「やってくれるわね。シアの連れ、ずいぶんなご挨拶じゃない」
ルーウィンも声を低くし、弓矢へと手を伸ばした。
「あなた方は、何者なんですか。どうしてそんなに背負っているのですか!」
ティアラは悲鳴に近い声で言った。言葉の意味が解らず、聞いていたラクトスは眉根を寄せる。
「ジンノくん、彼女、視えるのよ。わたしと同じなの」
シアが連れの魔法使いに向かって、そう言ったのが聞こえた。黒い魔法使いの言うことに耳を傾け、時折頷いている。そしてシアは一人で、ゆっくりとこちらへ向かってきた。
荒涼とした大地に、揺れる服を纏った少女。その光景は異質で、そして美しくもある。腰まで流れる金の髪は風に揺れ、シアは凛とした様子で歩いてくる。相も変わらず、その可愛らしい顔には優しげな笑みを湛えていた。
フリッツはわからなかった。警戒すべきは連れの魔法使いだけなのだろうか。何か手違いがあって自分たちは攻撃され、シアは事情を話して来てくれたのだろうか。自分たちは敵ではないと、誤解を解いてくれただろうか。
フリッツはふと、後ろに居る皆を見やった。そして絶望的な気持ちになった。
三人とも、完全に臨戦態勢だ。それぞれの表情には緊張と敵意が浮かんでいる。シアにまだ望みをもっているのは、フリッツただ一人だった。
「お陰さまで、ミケが見つかったの。ここまで連れて来てくれて、ううん。ついて来てくれて、ありがとう」
シアは微笑むと、自分の右肩に手をやった。金の髪に隠されて見えないが、そこにミケらしきものがいるのだろう。
「自己紹介するね。どこの誰ともわからない人間に殺されるのは、あなたたちにとって、とても不本意なことだと思うから」
シアはスカートの端を手に取り、軸足でない方の足を引いて、腰を折る優雅な礼をとった。そして顔を上げると、にこりと笑った。
「改めまして、わたしはシア。あっちはジンノくん。わたしたちは、漆黒竜団幹部アーサー=ロズベラーの直属の部下なの。今日は橋を復活させる任務でここまで来たんだけど、わたしがミケを探している間に、ジンノくんが終わらせてくれたみたい」
「兄さんが、幹部……?」
放心したように呟くフリッツに、シアは微笑みかける。
「不思議なことじゃないでしょう? あなたのお兄さんは昔から、どこに居ても頭一つ以上飛びぬけて優秀だったんだから。もっとも漆黒竜団の幹部なんて、自慢にはならないけどね」
「またここでも……漆黒竜団か」
ラクトスが唸るように声を絞り出した。
シアはフリッツを、そして後ろの三人をそれぞれ一瞥する。
「わたしたちは、あなたに会いたかったの。どんな人間なのか、直接目で確かめたくって。でも、特に生かしておく必要性は感じられなかった。あなたがアーサーの役に立つとは思えないし、かといってあなたがアーサーの害になるとも思えなかったけれど」
風が吹いている。
シアのふわりとした袖から、彼女の細い手首には似合わない腕輪が覗く。黒い金属製の、ドラゴンの翼を象った意匠。漆黒竜団の、証。
沈黙を守っていた白髪交じりの少年が、薄い唇を開いた。
「……いや、ここで消す。……目障りだ」
それを聞いて、シアはまた一つ、微笑んだ。
「私怨でゴメンね、弟くん」
そう言って顔の前で両手を合わせたシアには、一切悪びれた様子などなかった。
先ほどとは打って変わって、辺りには重苦しい雲が立ち込め、辺りは暗くなってきた。まだ昼日中だというのに、大地は薄闇に覆われる。
空気がピリピリと、痛い。目の前の少年少女が放つこの存在感は、果たして本当にこの世の人のものなのか。
シアの小首が揺れ、艶やかな唇はいたずらっぽく弧を描く。
「さあ、踊りましょう?」




