第十六話 ティアラの杞憂(※)
【第十六話 ティアラの杞憂】
道中の小休止。
ティアラは一人、皆から少し離れた場所にある小さな岩に腰掛けている。その様子を見て、フリッツはゆっくりと近づいた。
「ティアラ、大丈夫? 顔色が悪いみたいだけど」
「平気です。ご心配おかけしてすみません」
ティアラは無理に微笑んで見せた。しかし顔色は優れず、どこか疲弊しているようにも見える。
先ほどの戦闘の失敗で、彼女が意気消沈しているのは明らかだった。シアを守るための盾を上手く発動させられず、ルーウィンに叱責されてしまったのだ。戦闘では一瞬たりとも気を抜けず、技の失敗は致命的だ。ティアラの失態は致命的なものになるかもしれず、彼女に厳しい言葉を投げつけたルーウィンを責めることは出来ない。
しかし、そんなティアラの様子がどこか普段と違うのも、また確かだった。
「船旅長かったし、疲れたよね。街に着いたら、すぐに宿をとろう」
フリッツはふと思った。
こうして時間をかけて進んでいるのは、道案内を勤めるシアのためだ。そしてそのシアを一緒に連れて行こうと言ったのは、他でもない自分だ。
大幅に道からずれているわけではないのだが、それでもシアがミケを探す為、道の隅々まで散策していることには違いない。それにシアは、華奢な身体の少女だ。フリッツたちのように普段から急勾配を歩き慣れているわけでもなく、こまめに休息をとらなければならなかった。
その様子から、フリッツはティアラと出合った頃を思い出していた。旅の最初の頃はティアラも体力がなく、よく足を止めてはルーウィンやラクトスに怒られていた。そんな彼女であれば、シアを同行させることに反対はしないと思っていたのだが、それは思い違いだったかもしれないという不安が、フリッツの胸をよぎった。
「もしかして、シアを一緒に連れてきたこと、怒ってる?」
ティアラがわざと補助魔法の発動を失敗させたのだとは思いたくない。彼女に限って、それはないだろう。しかしあの時のティアラの反応は、明らかに不自然だった。
フリッツの問いに、ティアラは首を横に振った。そしてフリッツを見上げる。明るい灰色の瞳は、不安げに揺れていた。
「なにか心配なことがあったら、ぼくに言って。遠慮することないよ」
フリッツはティアラに微笑みかけ、正面にしゃがみ込んだ。
「フリッツさんはシアさんのこと、どう思いますか?」
「ええっ?」
突拍子もない質問だった。なぜかフリッツの声は上ずり、顔は真っ赤になる。
「べっ、別にどうもないよ! ルーウィンが言ってたみたいに、ぼくが鼻の下伸ばしてるなんてことは全く」
「そうではありません。その、彼女のこと。わたくしはなんだか、怖いのです」
ティアラの言っている意味が理解できず、フリッツは目を瞬かせた。嫌な汗が一気に引いていったが、それよりも気になるのはティアラの言葉だ。
「怖いって、シアが?」
フリッツの言葉に、ティアラは黙って頷いた。
フリッツがシアを怖いと思うことなど、もちろん皆無だ。そもそも怖いと思える要素が、どこにもない。よく喋りよく笑う、そのあたりを探せばどこにでも居そうな無邪気な少女だ。おまけにその辺りの女の子には、そうそうないようなかわいらしさである。
金髪の艶やかな髪を風に揺らし、鈴の音の様に声を立てて笑うシアを見ていて、「怖い」などという感情はどこからも湧いてこない。
「うーんと、それってヤキモチじゃないのかな?」
今度はティアラが目を瞬かせる番だった。言葉が適切でなかったと思い、フリッツは慌てて両手を振った。
「ごめん、言い方が悪かったね。その、ルーウィンはシアを庇うから、なんだか寂しい複雑な気持ちになっているんじゃないかと思って。今までティアラが、あの立場にいたんだもんね」
フリッツはルーウィンの方を見た。向こうの方ではルーウィンとシアが楽しげに話をしている。
「確かにルーウィンさんはお優しいです。特に、女性には」
ルーウィンはフリッツには厳しく、ラクトスには特にそうだが、ティアラには甘いことが多い。それはもちろん、各々の日頃の心がけが反映されているのだろうが、そうでなくともルーウィンはか弱い女性に優しい傾向があるような気がしていた。チルルと出合った時、助けてあげようと一番に言い出したのも彼女なのだ。
「やきもち、ですか。そうだと、いいのですけれど」
ティアラは自分に言い聞かせるように、呟いた。そして考えを振り払うように首を振ると、無理に笑った。
「きっとわたくしの杞憂ですね。ごめんなさい、もう大丈夫ですわ」
ティアラは立ち上がると、法衣の土ぼこりを払った。気づけば、後ろからひょっこりとラクトスがやって来ていた。なにやらからかうような、意地の悪そうな笑みを浮かべている。
「何だ、お前あいつが気に食わないのか。同族嫌悪か?」
「ラクトスには言われたくないでしょ」
フリッツは苦笑した。ラクトスとルーウィンが時折言い合いになるのは、彼らが似たもの同士だからだ。
「ティアラとシアって、何となく似ていると思うよ。例えるなら、二人とも砂糖菓子みたいな感じ。きっとそのうち仲良くなれるよ」
フリッツはそう言って、励ますようにティアラに笑いかける。ティアラも今度は、上手く笑った。
「おい、早く戻らないとうちの固焼き煎餅に怒鳴られるぞ」
「煎餅って……それ、ルーウィンのこと?」
フリッツは、笑い出しそうになる口元を隠した。フリッツとラクトスは話しながら、ルーウィンたちのほうに戻っていく。ティアラも戻ろうと一歩踏み出した。
そして、躊躇った。
フリッツとラクトス。そしてその向こうに見えるルーウィンと、シア。
シアの姿を見つめて、ティアラは思わず顔をしかめた。
そしてごしごしと目を擦ってみたが、見える景色に何も変わりはなかった。
後ろから遅れてついてくるティアラを気にしながら、フリッツは進んでいた。何度か声を掛けてはいるが、彼女は「大丈夫です」と答えるだけだった。なぜかティアラがシアに近づきたくない素振りであるので、無理強いはしないほうがいいと、空いた距離を保ったままティアラがついて来るのを確認する。
すると、前のほうでルーウィンと共に歩いていたシアがぱたぱたと坂道を駆けてやって来た。フリッツの隣に並ぶと、ふわりと微笑んで見せる。その無邪気な様子に、フリッツも微笑み返した。
特に下心はなかったが、やはりかわいらしい少女がこうして微笑みかけてくれるのは、悪い気分ではない。外見も中身もかわいらしい女性というのは、否応なく人の、そして男性の気分を高揚させるものだ。
「さっきはずいぶん思い切りが良かったね。モンスターに振り下ろした刃に躊躇いがなかった。頼りになるね」
「……本当だ。言われるまで、気がつかなかったよ」
シアの言葉に、フリッツは驚き、そして気づかされた。真剣をモンスターに向けて振るうことに、自分は一切躊躇いがなかったのだ。
南大陸にいたときも、モンスターとは戦っていた。そして対人ほどではないが、それなりに躊躇いも罪悪感も抱いていた。ビックテディを目の前にした時、刃を向けるのを躊躇したこともある。
だがそれが、今回はどうだ。
表情を固くしたフリッツに、シアは続けた。
「こっちのモンスターは見た目にかわいい要素がどこにもないから、同情は湧かないと思うよ。だから倒しやすいのかな、その分凶暴で手ごわいけれど。見た目って大事な要素なんだって、改めて感じさせられるよね。それほど人は、視覚からの情報に惑わされやすいということなの」
倒したリュウモドキは、見るからに凶悪そうだった。確かに、手加減することなど思いつきもしなかった。フリッツはふと、南のモンスターを思い出した。
「モコバニーって知ってる? 南のモンスターで、噛み付いたりしてなかなかおっかないんだけど、ぼくはまだ倒したことがなかったな……」
「容姿が美しいものやかわいらしいものは、それだけで攻撃対象を免れることもある。見た目ってくだらないものだけれど、それはそれで力なんだよ。表層の上っ面が、時には本質になることだってある。でもね、きれいな花には、棘や毒があるものよ」
南のモンスターはどこか愛嬌があるものも多かった。殺してしまうのは可哀想だと思ったことも何度かある。そして見た目が違うというだけで、これだけ容赦なく刃を振るうことが出来る自分に驚いた。リュウモドキを殺した後、助かってよかったという気持ちがほとんどで、可哀想だという気は全く起こらなかった。
そんな自分に気がついて、フリッツはぞっとした。
「どうしてだろう……」
旅に出たばかりの頃は、モコバニーに剣を向けることすら躊躇っていたというのに。
その横顔を覗き込んで、シアは口を開いた。
「必死だからだよ」
フリッツとシアの目が合う。シアの青い双眸が、力強く光を秘める。
「わたしが噛み付かれそうになって、助けようって思ってくれたんだよね。他のことは考えなかった、だから迷いなく剣を振るった。それが本当に、必死になる、ってことなんだよ。手加減が出来ているうちは、もっと色々なことを考える余裕がある。どうやったら最低限のダメージで敵を退けられるか、とか、傷つけずに逃げられるか、とか」
先に進むための犠牲を、最小限に抑える努力を惜しまない。
それはフリッツの決心だった。人を殺めた末の、後悔からの答えだった。ルーウィンには甘いと、どうして自分が手加減する方に考えるのかと言われた。そしてそれはその通りで、手加減など出来なかった。
北大陸のモンスターと初めて遭遇し、未知から来る恐怖に駆られた。「怖い」から、何の躊躇もなく斬って捨てたのだ。
「そんな顔しないで」
フリッツの歪んだ顔を見て、シアは言った。
「生き物が必死になって一生懸命生きようとする。そこに善悪なんかないんだよ。だってわたしたちは、生き物だもの。生き残るのが、最大の目的なんだから」
「生き物……」
フリッツは呟いた。
「例えそこに、他の命の生死が絡もうとも。他の命を、奪っても。わたしたちはこの世界のサイクルの中にあるちっぽけな生き物で、他の命を喰らって、足蹴にして、生きていく。多くの屍の上に、業を背負って、立っているの」
シアはくすりと笑った。
「変な話、しちゃったね。でも北大陸に来たからには、容赦なく戦うことが生き延びる唯一の方法だと思うの。だから、助かりたいのなら約束して。必死になって喰らいつく、って」
シアはそう言って、今度は下のほうにいるティアラの方へと向かって行った。
フリッツの中に彼女を止めるべきだという考えが浮かんだが、伸ばしかけた手を下げてしまった。シアに言われたことが頭を反芻していた。そしてこれは後付けだが、シアがティアラに歩み寄ることは悪いことではないと思ったのだ。
前にいたはずのルーウィンが、いつの間にかすぐ側にいた。
「随分楽しそうに話してたじゃない」
「聞いてたの?」
聞かれてはいけない内容でもないのに、なぜかフリッツは慌てた。しかしルーウィンは別段気分を害してはいない。そのことにほっとし、そしてなぜか残念でもあった。
「あの子、冒険者でもないのに随分まともな考えを持ってるわ。もちろん、冒険者がまともなわけじゃないんだけどね」
もちろんルーウィンの言うところの「まとも」とは、彼女の物差しで計ったものだ。街の中で普段モンスターに遭遇もせず暮らしている人間にしては、考えがしっかりしているという意味だろう。
「ちょっと変わった子ね。まあ殺気も特には感じないし、戦える手段も持っていないようだから、警戒する必要はないと思うわ。それよりも、ティアラが心配ね」
ルーウィンは、ティアラがシアのことをどう思っているかまだ知らない。ルーウィンはシアのことを気に入っているようだし、言う必要もないだろうとフリッツは判断した。
ルーウィンは踵を返した。
「まあ、あんたがどうしようが知ったこっちゃないけど。きれいな花には気をつけなさいよ」
そしてルーウィンは再び先頭へと戻って行った。
ルーウィンが何気なく言った言葉だったが、なぜかフリッツの中に引っかかった。
「……棘しか見せてくれないっていうのもなあ」
フリッツの呟きは、吐息と共に消えていった。
そのまま勾配を下ったシアは、ティアラの元へと駈けて行った。シアがこちらに向かってくるのを見て、ティアラは表情を強張らせる。しかしそれには気づかれないよう、なんとか笑って見せたつもりだった。
「みんなから遅れているけれど、大丈夫?」
「はい、平気です。お気遣いありがとうございます」
シアの口から出た言葉は、ティアラへの気遣いだった。ティアラは答えながら、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
金色の髪を揺らし、青い瞳で小首を傾げる少女に、悪意はない。どうしてこんな人に自分は怯えているのだろうと、ティアラは罪悪感すら覚えた。しかし理由は、わかっているのだ。
シアは、小さな唇を開いた。
「あなた、視えるひとなの? 北大陸に来て、また視えるようになった?」
ティアラは目を見開いた。気取られないようにと貼り付けていた仮面も、粉々になる。
そんなティアラの表情を見ても、一向に顔色を変えず、シアは目を細めて微笑んだ。
「そうなの。わたしも視えるの。あなたと同じね」
ティアラは何も言えず、ただただ立ち尽くした。
聞きたいことはある。だが唇は開かれようとしているのに、咽から言葉が出てこない。
「安心して。わたしはあなたに視えているほど、あなたが思うほど悪い人間じゃない。わたしという命を燃やしているだけ。わたしなりに、一生懸命生きているだけなんだよ」
シアはそう言って、坂道を駆け上り、再び先頭へと戻っていった。




