第五話 海からの刺客
【第9章】
【第五話 海からの刺客】
甲板は突然の襲撃に色めき立っていた。
「どうしてだ! 魔の三角地帯はもっとずっと先のはずだろう?」
「このタイタン=ニック号に敬意を表して、わざわざあちらさんから出向いてくれたのかもしれないな」
「そんな軽口を言っている場合か! 総員持ち場へ! 冒険者ども、やっと出番だ!」
船長の言葉で、船乗りたちは戦える者、避難する者、隙あらば敵を振り切り運航の合図を待つ者に分かれる。船員の多くは非戦闘員で、次々と船室に逃げ込んでいく。
しかし、その船室も絶対に安全である保障はないのだが。それでも「襲撃者」の全体が見える甲板よりは、船室で姿を隠した方が安全だという判断なのだろう。甲板には数人の船乗りと、そして冒険者たちが残された。
護衛を請け負ったはずの冒険者たちだが、それでも彼らの様子は恐々としている。
誰も、彼らを一概に責めることなどできないはずだ。彼らも海賊などに立ち向かう勇気はあっただろう。南大陸をくなまく旅して周り、鍛え上げた技と肉体とで、己の強さにさらに磨きをかけるためにこうして北へと向かっているのだから。
しかし冒険者たちが各々の武器を握り締め、対峙している相手は、桁違いの存在であった。
「お、おい。こんなでかいバケモノ、見たことも聞いたこともねえぞ!」
「……いや、お前だって聞いたことくらいはあるだろう。魔の三角地帯の主。深海から突如やってきて、どんなに大きな船をも沈めてしまう。バローアや他の港町じゃ有名な話だ」
「御伽噺じゃなかったっていうのか!」
腰の引けた、冒険者の一人が叫ぶ。
海の悪魔と恐れられる存在が、今まさに、船の前に立ちはだかっているのだ。タイタン=ニック号と船員たちの命運は、全てがその存在に支配されていた。
「お、おい、お嬢ちゃん! そんな目に付くところでなにやっているんだ!」
冒険者の一人が声を上げた。
一歩間違えばパニックになりそうな甲板。その船首に、首を逸らして見上げ、腰に手をやり、堂々と立っている少女がいるのだ。ピンクのポニーテールを潮風になびかせ、恐れるどころかその態度はどこか尊大さすら感じられる。
「こんなに大きなハッポンなら、いったい幾つぐらいのハッポン焼きが食べられるかしらね?」
ルーウィンは好戦的な目で、現れた怪物を見上げた。船が強く揺れた際、船縁につかまってそのままの状態だったラクトスが声を上げる。
「おい穀潰し! お前バカだろ、真っ先に標的にされるぞ」
「あのねえ、隠れてたってどうせ沈められるだけよ。ここで自分を奮い立たせなくてどうすんの! あんな気色悪いの、本気で食べようとするわけないじゃない、バカじゃないの!」
「お前にだけは言われたかねえな、その言葉!」
ルーウィンにそう返し、ラクトスは隣にいるティアラに目を凝らす。
そしておや、と思った。ティアラが、震えているのだ。さすがの彼女も怯えているかと、ラクトスは彼なりに気を遣って声を掛けた。
「おいティアラ。大丈夫か?」
ティアラはかがんで、下を向いたままだ。
「……す」
「……す?」
ラクトスは思わず、怪訝そうに眉間にしわを寄せたまま訊ね返す。
するとティアラは、胸の前で両手を合わせて目を輝かせた。
「素敵です! 海の生きた伝説が、今わたくしの目の前にいるのですね! 御伽噺だと思っていたのに……ああ、なんだか感慨深いです。巨大ハッポンに襲われているだなんて、わたくしたち物語の中の主人公みたいではありませんか? まるで夢のようです」
「……いっそ夢であって欲しいと思う、おれの頭はまともじゃないんだろうな。お前と違って」
ラクトスは半眼になって軽く息を吐いた。
海の襲撃者の正体。それはハッポンというモンスターだった。
港町の近海に出没するものは、漁師たちの網にかかって魚を食い荒らしたり、人に襲い掛かってきたり、時には腕からごっそりともっていってしまうものもいる。八つのムチのような足を持ち、それをくねくねとうねらせて襲い掛かる。足には吸盤がついており、それに吸い付かれてしまうと身体から離れなくなってしまうのだ。無理に外そうとすると口から黒い猛毒を吐くという、タチの悪いモンスターだ。
漁師にとってかなり凶悪なモンスターであるが、それでもある程度の冒険者であれば負傷するようなことはない。
しかし、今冒険者の面々が対峙しているのは、船体とほぼ変わらないほどの大物だった。まさしく魔の三角地帯に棲む、海の主といえるだろう。船首からは丸くてらてらとぬめる頭が見えているが、それだけでも大した大きさだ。恐らくその体長はこの大型船と大差ない。
そしてこのハッポンの恐ろしい点は足にある。長く自由自在に動かせる足をもって船を締め付けられたのならば、あっという間に船に亀裂が走って、大破してしまうだろう。今はまだその脚は放たれ、そのいくつかは海面からも見えていた。常にするすると海中と海面を行き来している脚の様子は、見るからに醜悪だった。
そのあまりにも禍々しい姿に、熟練の冒険者たちも唖然としていた。おそらく今までそれほどの大きさのモンスターを見たことも相手にしたこともないのだろう。どう対処したらよいのか、わかりかねているのだ。
しかしルーウィンは巨大ハッポンに向かって、すでに矢を引き絞っている。
「かかってらっしゃい。海のモズクにしてあげるわ!」
「それを言うなら、藻屑だ」
バカにしたように返しながらも、ラクトスもしっかり杖を構え直していた
。なんだかんだで、彼も今ではルーウィンのやや後ろに立っていた。
「フリッツさん、ご無事でしょうか。心配です」
ティアラはフリッツの身を案じながらも、すでにロートルを召喚している。
ラクトスは周囲の状況を見回した。落ち着いて思案している者もいれば、慌てふためいて逃げることしか頭に無い者もいる。甲板には自分たち以外に十五名ほどの冒険者がいたが、名乗りを上げて進み出る者はまだいなかった。常識外れの事態なのだから、無理もない。
海賊の襲撃くらいは心の準備をしていたが、まさか伝説の巨大ハッポンに襲われるなどとは思ってもみなかったのだろう。
不意に、船体が揺れる。冒険者たちから声が上がり、船縁にしがみつく。
巨大ハッポンがついに、動き始めたのだ。突如甲板に、足の一本が激しく叩きつけられる。
すでに睨み合いは、終わったのだ。
「統率なんて取れる状況じゃねえし、とるような人間もいないな。とりあえず、目の前の脚を倒すことに専念するしかない。こっちに向かってきたら、一本一本確実に弱らせるぞ」
「わかってる。こんなところで沈められてたまるもんですか。絶対に追い払うわよ!」
足場の不安定な揺れる甲板で、ルーウィンは脚を踏ん張り、弓を放った。
船内は揺れていた。フリッツは貨物室の扉を押し開ける。すぐにでも飛び出していこうとした矢先、甲板から避難してきた船員たちが物凄い勢いで廊下を駆けていく。
「急げ急げ! 海の悪魔の餌食にされちまう!」
フリッツは驚いて立ち止まった。フリッツの鼻先をかすめ、船員たちは奥へと逃げていく。しかしいくら大型船とはいえ、そういくつも船内に逃げられるようなスペースがあるわけではない。
船員たちの慌てようから、甲板に現れたモンスターはかなりの強敵だと知れた。先ほど貨物室に飛び込んできたあれがモンスターの腕か足だとすれば、大物がいるとみて間違いない。
「こ、このままここに隠れていようかな……」
思わずフリッツがしり込みした、その時。
またも船の壁を突き破って例のムチがやってきた。
「う、うわあぁあ!」
船員の一人が捕まり、悲鳴を上げる。
「危ない!」
フリッツは反射的に真剣を引き抜いた。
狭い廊下の天井に船員は押し付けられている。フリッツは跳躍し、標的目掛けて切りつけた。今度はすっぱりと切れてしまうことはなかったが、切り傷を負ったムチはするするとまた戻っていった。開放され、天井から床へと落ちた船員が這い蹲る。フリッツは慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「ああ、ありがとう。助かったよ。本当に、もうダメだと……」
船乗りの男は真っ青な顔に涙を浮かべた。やはり船内も、安心は出来ないのだ。
フリッツは立ち上がる。そして口元を引き結び、甲板へと続く廊下を駆けていった。
「撃てーっ!」
船長の合図と同時に次々と大砲が打ち込まれる。導火線を火が伝い、爆発音と共に鉛の塊が放たれた。まっすぐにハッポンへと目掛けて飛んでいく弾を見て、船乗りや冒険者から歓声が上がる。
船長は豪快な人柄らしく、大きな声で高らかに笑った。
「どうだ怪物! 思い知ったか。人間様をなめるなよ!」
大砲の弾は狙い違わず、見事に命中した。しかし、ハッポンの皮膚は大砲の弾を弾き返した。
勢いをなくした鉄の塊は虚しく空を切り、水柱を立てて沈んでいく。その様子を見て、甲板で戦う全員にどよめきがおこった。
「なんだあの弾力性は!」
「思った以上に頑丈だぞ!」
襲い来る巨大ハッポンの手足を、冒険者たちはなんとか凌いでいた。
最初はあまりの敵の大きさにあっけにとられる者が多数であったが、ルーウィンが無謀にも率先して立ち向かい、それを嫌々ながらラクトスが、そして進んでティアラがサポートし始めたことにより、他の冒険者たちも我に返ったようだった。
パーティ単位ではあるが、それぞれが甲板に散らばってハッポンの手足と闘っている。そうして引き付けている間に、船乗りたちがとっておきの大砲を用意し、なんとかハッポンに向けて放ったが、それもまったく無効であった。どよめきの後は、失望と諦めの気配が漂い始める。
「外側からじゃダメみたいだね」
背後から声をかけられ、座り込んでいたティアラは驚いて目を丸くした。
「フリッツさん! お身体の具合は」
「おえっぷ」
それが返事だった。真っ青な顔をして、フリッツは口元を手で隠す。
「……まだよろしくないようですわね。無理はなさらないでください」
「でも、こんなに騒がしくっちゃ寝てもいられないよ。それに人事じゃないんだ」
この船が沈めば、自分たちも一巻の終わりだ。
海賊の方がまだましだったと思いながら、フリッツは船の前に立ちはだかる巨大ハッポンを恨めしげに見やる。頭だけでその高さは船のメインマストほどもある。これでは絶望しないほうがおかしいくらいだった。甲板のあちこちで冒険者や船乗りが戦っている。
「ルーウィンとラクトスは?」
「お二人とも船首にいらっしゃいます。すみません、ロートルちゃんもがんばったんですが」
ティアラが視線を落とす。彼女の膝の上には、目を回したロートルが倒れていた。白くやや透き通った小さな身体が、ぐったりと横たえられている。
フリッツは驚いて声を上げた。
「水のモンスターだから、海上は相性がいいと思ったのに」
「ラクトスさん曰く、淡水と海水の違いだそうです。ロートルちゃんは、ここでは力を上手く発揮できないようで……」
「そうだったんだね。よくやってくれたね、ロートル」
フリッツが呟くと、丁度ロートルが戻っていくところだった。ヒレが僅かに動き、ロートルは大きな水の一粒になり、回転して消えていった。
フリッツは戦場と化した甲板を見渡した。
ハッポンの攻撃で、甲板にいくつか深い穴が開いている。船外に取り付けられた守護鉱石が偽者であったのか、あるいはこのハッポンには効かないのか。いずれにせよ、ハッポンの攻撃による全滅も、それによって船体に穴が開き沈没する可能性も、十二分にある状況だ。なんとかして追い払わなければ、皆この深く青い海に沈んでしまう運命にある。
不意に、フリッツは足元を見た。割れた酒瓶が転がり、酒がこぼれてしまっている。おそらくまだ何事もなく運航していた際、暢気に乾杯していた輩がいたのだろう。ずっとそうであれば良かったのだが、生憎そうはいかなかった。
フリッツは再び、ハッポンを見上げた。
あの巨体を倒す方法を、何とか考え出さなければ。
ちまちま手足と闘っていたのではキリがない。全てを切り落とせたとしても、それまでに船体に穴が開き、沈没してしまうのがオチだ。しかし頭を狙っても、あの弾力で大砲は弾かれる。脚を狙ってもだめ、頭を狙ってもだめ。
以前にも、こんなことがあった。クーヘンバウムで巨大モールを倒した時だ。
あの時はどうしたっけと、フリッツは考える。ラクトスはモールの潜んでいる穴に水を注ぐよう指示をし、地中で溺れそうになったモールはまんまと地上に這い出てきたのだった。
フリッツの視線は、再び足元の割れた酒瓶へと向かう。
外側がだめなら、とる方法は一つだけ。
フリッツは突然、甲板を駆け出した。そして船乗りの一人に声をかける。
「おじさん! お酒はどこ? あるでしょ、ラム酒かなにか」
「なんだい、あの世に逝っちまう前に一杯やろうってのかい!」
ハッポンの足と必死になって闘っていた船乗りは、怪訝そうに眉をしかめた。しかしそうしているうちにも、ハッポンの足は襲い来る。フリッツは船乗りの代わりに、向かってきた足を切りつけた。
「違うよ。大砲に詰めるんだ!」
「あんなバケモノに酒をくれてやるのか? 酔わせて倒せちまったら苦労はないんだよ!」
「そうじゃなくて……!」
「おれが手伝おう」
いつの間にか、フリッツの背後に別の船乗りが立っていた。日によく焼けた、たくましい腕の持ち主だ。
フリッツは黙って肯いた。
「くそっ、キリがねえな」
「あんたもっと頑張んなさいよ!」
「うるせえ! お前だって頑張れよ、あんなに意気込んでただろ!」
「仕方ないじゃない! 細い矢じゃいくら命中してもどうにもなんないのよ! あんたこそ出し惜しまずに、この前の大技やりなさいよ!」
「仕方ないだろ! 船体が揺れて、長い詠唱が出来ねえんだよ!」
言い合いながらも、ラクトスとルーウィンは闘いの手を休めない。
ラクトスはフレイムダガーを、ルーウィンはファイアテイルをそれぞれ仕掛けている。規格外でも海の生き物、さすがに炎の技は効くと見える。普通に打撃や切り傷を負わせるよりも、確実に効率がいい。しかし苦手とする炎があるとわかれば、それをなんとかしようとハッポンも二人を集中的に狙っていた。
そしてハッポンに、新たな動きがあった。
頭を逸らすように、少し引いた。ダメージを与えられたのかと思ったのもつかの間、ハッポンはその口から、勢いよく黒い何かを吐き出した。ルーウィンとラクトスは間一髪で避けたが、当たれば良くないものだという予想はつく。
「墨だ! 猛毒だぞ!」
「あんたら、墨を吐かせるなんてなにをしたんだ!」
「るっせーな! じゃあとっとと倒す方法を考えろよ!」
他の冒険者たちから野次が飛び、ラクトスは目を剥いて叫んだ。火を使ったために、直接手足ではなく、間接的な墨攻撃に移行したのだ。
「その墨に触れないで! 猛毒よ、皮膚がただれるわ」
ルーウィンとラクトスは再び身構える。
「ルーウィン! ラクトス!」
聞き覚えのある声がした。二人が振り返ると、そこにはフリッツが手を振っている。
「もう一度、墨を吐かせるように仕向けて!」
「はあ? あんた何てこと言うのよ!」
額に青筋を立て、ルーウィンが苛々と言い返す。少し離れたフリッツの横には、大砲と、そしていくつかの酒樽が置かれていた。それを見たラクトスは、口の端でにやりと笑った。
「なるほど、考えたな。フリッツ、おれは乗るぜ」
「なんだかよくわかんないけど、それでこの状況を打開できるのね? どうにもならなかったら、恨むわよ」
ラクトスが再びフレイムダガーの詠唱をし、ルーウィンもファイアテイルの体勢に入る。そして二人は、同時に炎を巨大ハッポン目掛けて放った。ハッポンが猛毒の墨を吐こうと、そのおぞましい口を開ける。
「今だ!」
大砲が火を噴いた。
しかし、ハッポンに向かって飛んでいったのは大砲の玉ではない。
酒樽だ。
「ルーウィン、火を!」
「はいはい!」
ルーウィンが続けざまに、酒樽にファイアテイルを打ち込む。あっという間に中身に引火し、炎の塊となった酒樽は、ハッポンの真っ暗な口内へと投げ込まれた。
フリッツ、ルーウィン、ラクトスは息を呑む。
ハッポンの口から火の塊と化した酒樽を放り込み、内側からダメージを与える。それがフリッツの考えた策だった。しかしタイミングが悪く、口の中に入ったものの、ハッポンは同時に墨を噴出した。
目の前にいたルーウィンとラクトスはひとたまりもない。かわす時間もなく、黒い液体は迫り来る。
「大丈夫です、そのまま続けてください!」
ティアラの声と共に、二人の前に不思議な光の揺らめきが生じた。防御壁だ。
ティアラが補助魔法で二人の前にシールドを張ったのだ。墨はシールドにぶつかり、飛び散った。腕で自分を庇おうとしていたルーウィンとラクトスは、シールドの発動を知りほっと表情を緩ませる。しかし、再び炎の技を仕掛ける体勢に入った。
「フリッツ、もう一度だ!」
「わかった!」
ルーウィンが矢を引き絞る。ラクトスが詠唱する。
オレンジ色の炎が鏃に、青い炎が杖先に灯る。引き絞り、放ち。振り上げ、飛び散る。
ハッポンは炎を吹き消し、そして墨での報復に出るため、大きく息を吸い込んだ。
その瞬間、大砲は放たれた。酒樽が飛ぶ。ルーウィンの追い討ちの一矢で、炎が引火する。
火達磨になった樽は、みるみるうちにハッポンの暗闇へと吸い込まれていく。それらの動きがゆっくりと、一瞬一瞬が刻まれていく。
お願いだ、どうか、これで。
フリッツは祈った。
そして、ハッポンの中で、何か鈍い破裂音がした。
続いて、ハッポンの身体が大きくぐらつく。
「やったわ!」
「叩くなら今だ! 行くぞ!」
ハッポンが大きなダメージを受け、ルーウィンとラクトスがここぞとばかりに猛攻撃を開始した。フリッツはそれを、はらはらと見ていた。すると、大砲を出すのに手を貸してくれた船乗りが口を開く。
「どうする、行って来たいか?」
思いもよらない援助の申し出にフリッツは目頭が熱くなった。しかし、ここでしみじみと感動している場合ではない。
「はい! じゃあ、お願いします」
言ってフリッツは真剣を握りなおした。多くの船乗りの命が懸かっているし、なによりこの歳で海の藻屑になるのはまっぴらごめんだ。船酔いによる吐き気は引っ込んだと思うことにした。
身体の中に炎の塊を取り込んでしまったハッポンはさすがにこたえたらしく、身を捩じらせその禍々しい八本の脚を鞭のように飛ばしてくる。そのうちの一本がマストを掠め、豪快な音を立てて倒れる。人々の悲鳴が上がった。
ズルズルと足が海へ戻っていくところへ、フリッツは瞬時に剣を振り下ろす。意外にスパっと爽快な切れ味だったが、本体のほうはさらに激しくのた打ち回った。フリッツは階段を使わず、船の段差から飛び降りて、ルーウィンとラクトスのいる船首前へと到着した。
「ごめん!」
「遅い!」
ルーウィンは叫んだが、すぐに戦闘態勢に戻った。
モンスターの方も必死だ。頭は見た目ほど悪くはないらしく、攻撃の照準をルーウィンとラクトスに絞ってきた。ルーウィンが矢を引き絞りラクトスが詠唱する間、フリッツは伸びてくる魔の手相手にがむしゃらに応戦した。あまりに必死で自分がどう足を運び、どう斬っているかもわからないような有様だ。
「ばか! 避けて!」
ルーウィンの甲高い叫びが聞こえた。襲い掛かってくる手をなぎ払って、そこでやっと状況を理解する。
目の前には黒い虚空が迫っていた。それが口から吐かれた猛毒だということに気づく。すぐさま避けようとしたが、もう一本の魔の手が伸びてきてフリッツの足を絡めとった。
「フリッツさん!」
反射的に目を瞑ったフリッツだったが、猛毒を浴びたような気配はしなかった。顔を上げると自分の周りは不思議なゆらめきで覆われている。ティアラのシールドだった。シールドごと力をこめて触手を刺すと、ハッポンの足はフリッツから手を引いた。離れたティアラに視線を送ると、心底安堵したような微笑が返された。
ハッポンは着実に弱っている。
ハッポンか、人間か、どちらかの体力が尽きるまでの戦いとなった。
「伏せろー!」
船乗りの声が響き渡り、フリッツたちは反射的に頭を低くした。
爆発音と共に、大砲が打ち込まれる。ハッポンの頭の中心に放たれた鉛玉は、今度はその威力を十分に発揮した。
弾は弾かれることなく、ズシンとハッポンの身体に沈み込む。
ハッポンの頭は、徐々に高度を落としていく。静かに沈んでいるのだ。
「やった……?」
頭が消え、足が消え。
ハッポンの身体は、静かに暗い海の底へと戻って行った。
海面にぶくぶくとたっていた不気味な泡もなくなり、海は何事もなかったかのように静まり返る。
破れた帆が潮風にたなびく音と、船体にぶつかる波の音が耳につく。
「やったのか?」というざわめきが「やったぞ!」という歓声に変わり、船員や冒険者は湧き上がった。誰かまわず握手をしたり抱擁を交わしたり、なかには踊りだす者までいる始末だ。
その光景を見てフリッツはほっと息を吐き、真剣を鞘へと戻した。
「フリッツさん!」
「うわっ」
油断をしていたところにティアラが思い切り飛びついてきた。ただでさえ肩で息をしていたフリッツは思わずよろめく。よほど心配だったのだろう、ティアラはフリッツの腕を掴んだまましばらくの間離れなかった。
「上出来だぜ、大したもんだ!」
ラクトスが大口開けて笑いながら、フリッツの頭を掴んでもみくちゃにした。おまけに背中をばんばん叩くものだから、フリッツはもう虫の息だった。
疲れているのを察したルーウィンは声をかけるだけだった。その顔には満足そうな笑みが浮かんでいる。
「あんたにしちゃ、よくやった方ね」
「労ってくれるのはいいんだけどさ、ぼくまだ船酔いが」
フリッツはふらふらと船縁に寄りかかった。闘っていたさっきまではなんともなかったのに、終わってしまったとたんにこれだった。フリッツ以外の三人は、その様子を見て笑った。
しかし、まだ終わりではなかった。
甲板に横たわっていたハッポンの足の先が、ピクリと動く。
それは一瞬の出来事だった。断ち切られ生命力を失ったはずの脚は吸盤をいっぱいに広げ、フリッツの背中に飛び掛った。
フリッツは、まさかという思いで目を見開く。
バランスを崩す。三人の表情も、一瞬にして凍りつく。
「フリッツ!」
ルーウィンが声を上げたが、すでに遅かった。
フリッツはハッポンの足ごと、身動きの取れないまま紺碧の海へと投げ出された。




