第十話 ヨワムシケンシ
【第8章】
【第十話 ヨワムシケンシ】
マルクスの半洞穴に帰ってきて、数日が経った。
早朝、フリッツは自分のスペースに腰を下ろした。もちろん、彼に自室などというものはなく、修練所の奥の部屋にはマルクスとフリッツの私物を入れる物入れがそれぞれあるだけだ。
フリッツは物入れの蓋を、そっと開ける。数枚の服などが入ったそこへ、布に包んだ何かを入れた。自分の旅の荷物の中から、ようやくそれを移し変えたのだ。
それは長い間使い、共に旅した、愛用のウッドブレードだった。
正しくは、その亡骸だ。
旅に出る際、マルクスに押し付けられた真剣を手にするまで、フリッツは真剣など持ったことがなかった。それまで手にした刃物といえばせいぜい果物用のナイフや包丁、鍬や鋤ぐらいのものだ。
この修練所に来てからの十年、肌身離さず、共に過ごしてきた相棒だった。今は芯が残るばかりで、ただの鉄屑と成り果てたそれを、フリッツは布越しに見つめる。
なるべく傷つけたくないがために、木製の剣を使ってきた。その方が気負いもなく、フリッツの身体は自由に動いた。刃で誰かの肉を絶ち、血を流させるなど、自分には考えられないことだった。
ウッドブレードでなら、かろうじて相手にその刃を向けることが出来る。真剣を人に向けるなんてとんでもない。それではその辺りのならず者と同じになってしまう。
しかし、木偶の刃では限界がある。
いつまでもこのままで先に進めるはずがない。それはとっくの昔に気づいていた。
木製の剣しか振るわぬ剣士など、誰が必要とするだろうか。
そしてそれを、フリッツの「らしさ」として、許容してくれた仲間がいたことを、思い出した。
この亡骸を、煤だらけになって捜し出してきてくれた彼女を、思い出した。
胸の奥が軋んで、フリッツは蓋を閉じる。
起き出したマルクスはその様子を、戸の向こうから見ていた。
「最近、畑を荒らす輩がいるようじゃ」
突然のマルクスの言葉に、フリッツは目を瞬かせる。頬に少しの泥をつけ、簡素なシャツに汚れてもいいズボンと長靴を履き、首から手ぬぐいを下げるフリッツは完全に農民と化していた。
「そうですか? ぼくには特に、そんなふうには見えませんけど」
一体誰がこんな畑を荒らすのだろうと、フリッツは思った。こんな辺鄙なところに人など来るはずがなく、いたとしても大した収穫は得られない。フリッツはこの数日間、毎日畑に水をやり虫がいないかを確認して回っているが、畑が荒らされた形跡などまるでない。
マルクスの勘違いだろうと、フリッツはまともに取り合うつもりはなかった。しかしこのまま無視していれば拗ねられ、厄介なことになりかねない。
フリッツはしゃがんだまま、手は小さな雑草を取り除く作業を続け、顔を上げずに返事だけをした。
「モコバニーは肉食だから、荒らすとすればナッチュウとかですかね。ネズミ捕りでも仕掛けますか?」
「いや、その必要はないじゃろう」
「じゃあ、そのままにしますよ」
マルクスのことなど視界に入れもせずに、フリッツは地道に草を摘んでいく。マルクスはそれだけ言うと満足したのか、大人しく庵へと戻っていった。
マルクスが修練所の戸を開け、帰っていったのを背中で感じ、フリッツはそちらを一瞥する。再び前を向くと、一つため息をついて額の汗を手でぬぐった。
何事もなく、もう数日が過ぎてしまった。
あれからマルクスはフリッツを問いただすでもなく、かといって慰めるでもない。フリッツの生活は、旅立つ前と同じように戻っていた。いや、正しくはすっかり同じではない。
この十年間、かかさず続けてきた朝の日課であった、剣の修練を止めたのだ。もちろん、それにはマルクスも気づいており、それを知ってなお敢えてなにも言わなかった。それをマルクスのフリッツへの諦めとするか、はたまた甘さと捉えていいのか、フリッツにはわかりかねた。
しかし、現状に身を任せ、フリッツもマルクスの真意を聞こうとはしなかった。
こうして帰ってきた喜びをその身にひしひしと感じ、修練所を手入れし、畑を耕し、晴天にたなびく洗濯物を眺め、流れ行く雲を見つめて日々を過ごす。
いったいこの安息の日々の、なにがいけないというのだろうか?
フリッツは地面に視線を落とすと、再び雑草取りに精を出した。
夜、マルクスは物音で目を覚ました。
軽やかとは言いがたい身のこなしで床から這い出し、枕元に常に立てかけてある愛刀を手にする。何者かの気配は、外だ。静まり返った夜の修練所の床は、裸足に冷ややかだった。
マルクスは引き戸に手をかけ、自分が出られるほどまで開くと、夜の世界へと滑り出る。
いる。
畑で、何者かが蠢いている。
マルクスは気配を殺して忍び寄る。何者かは自分の作業に集中しており、マルクスには気づかない。
いや、それは作業ではない。頭を使わず、ただ同じ動作を機械的に繰り返すだけではなかった。それは一つ一つが、研ぎ澄まされ、筋肉から搾り出された動きだった。
いい加減なものではなく、魂のこめられた、一突き、一斬り。
月明かりの照らし出す畑の脇にいたのは、フリッツだった。
畑のカカシ相手に、打ち込みをする。それがこの修練所の、フリッツの日課であった。
ただしそれをするのは明朝で、こんな夜更けに行うことはない。そして帰ってきてからというもの、フリッツは剣を手に取ることもしなければ、視界に入れることすらなかった。
もうかなりそうしていたのだろう。
フリッツの首筋には汗が浮かび、身体は火照っている様子だった。気の入った声こそ出さず、口元は引き結ばれているが、その背中からは恐ろしく集中していることがわかる。
腕を掲げ、振り下ろす。たったそれだけの単純な動作だが、その剣運びには寸分の狂いもない。
それは剣に通ずる者なら、誰でもわかる。そしてまた、これだけの集中力をもってして、飽きもせず淡々と素振りと打ち込みを続ける忍耐力は驚くべきものだった。
月明かりに照らされ、一心不乱にウッドブレードを振るう弟子を、マルクスはしばし見つめていた。
十何年と続けてきた修練を手放したはずの弟子に、マルクスはフリッツの意志を見て取った。すなわち、もう剣に触れることはないという、フリッツの意思を。
だがそれは、つもりだった。現にフリッツはこうして、わざわざ夜中に予備のウッドブレードを振るっている。修練所の片隅にいくつか立てかけてあるもののうちの一本だ。
理由はただ一つ。マルクスの目を避けているのだ。
「こんな夜更けに、一人でコソコソとなにをしておる?」
フリッツはマルクスに気づくと、予備のウッドブレードを背中に隠した。修練所の隅に立てかけてあるもので、しばらくは埃をかぶっていたはずのものだった。
フリッツはやや驚いているが、慌てるでもなく、妙に落ち着いた様子でマルクスに向かい合う。
「お前はもう、剣の道から離れるのではなかったか。未練がましくそれを振り続けるのは、お前のためにはならん。お前に剣は向いていない。最初から無理な話だったのじゃ」
フリッツは修練のために頬を上気させ、半分開かれた口からはやや荒い息を吐き出している。
しかしその目は、マルクスをまっすぐに見ていた。マルクスは弟子に詰め寄る。
「さあ、それを寄越せ。どうしても渡す気がないというのなら」
フリッツは黙ったままだ。そしてウッドブレードを持った手は、相変わらず背の後ろに回されていた。渡す気など、さらさらないといった様子だ。
マルクスは白い眉を吊り上げた。
「今、この瞬間をもって、お前は破門じゃ」
その言葉に、フリッツは目を見開く。
マルクスはフリッツの様子などお構いなしに、一歩踏み出し、渡せとばかりに手の平を突き出した。
「それはうちの修練所の備品じゃ。門下生でなければ、触れることは叶わぬ。さあ、返せ」
「嫌です。……破門されたのなら、ぼくはもうあなたの弟子じゃない。ならぼくが何をしたって、あなたには関係ないはずだ」
ようやくフリッツは言葉を発した。
しかしそれは、マルクスに歯向かうものだった。
「返さぬというのなら、返してもらうまでだな」
マルクスは手にしている剣の鞘をすらりと抜いた。そしてそれを、迷いなくフリッツに向ける。
真剣の切っ先が、フリッツの鼻先に突きつけられた。
「勝負じゃ、フリッツ」
「……嫌です。それならこのウッドブレードはお返しします」
フリッツは拍子抜けするほど素早く、掌をひっくり返した。
真剣の切っ先を見て怯んだのではない。マルクスが実力行使に出てまで、この事態を解決しなければならない必要は無い。それならばさっさと、言うとおりにウッドブレードを渡すに限る。唐突に勝負だと言われ、張っていた意地が急激に醒めたのだった。
こんなことでマルクスと自分とが戦うなど、ばかげているにもほどがある。
しかし、そんなフリッツをマルクスは一喝した。
「ばか者め! 戯言をぬかすのも大概にしろ!」
フリッツは肩を揺らす。大声に怯えたのではなく、マルクスが自分に向かって声を荒げたことに驚いた。
マルクスは剣を構える。真剣は月光を照り返す。
「案ずるな。お前は破門じゃ。後にも先にも、わしとの勝負はこれっきり。もうこのような機会など二度とないのだ、全力でかかってこい。
お前が、自分のことを出来が悪く、どうしようもない弟子であったと少しでも詫びる気持ちがあるのなら、向かって来い。これは一種の儀式なのだ。お前の、剣への未練を断ち切るための」
未練を、断ち切るための。
未練。
そうかもしれないと、フリッツは他人事のように思った。
フリッツは静かに、剣を構えた。そして真っ直ぐに、マルクスを見据える。
雲が行く。影が流れる。
再び月が顔を出した、その刹那。
マルクスは深く踏み込んだ。
フリッツは息を呑む。反射的に防御の構えをとり、マルクスの刃が突き刺さる。薄汚れたウッドブレードに、マルクスの刃が歯を立てる。
フリッツは押された。
腰の曲がった老人とは思えぬ、この切れ、この力。
白髪をなびかせるこの老人のどこに、この屈強な力が宿っているというのか。やはり、腐っても師匠。辺鄙な半洞穴に居を構える変人ではあるが、マルクスの強さは尋常ではない。
その剣の運びは、長年の修練の賜物だ。
そして死線を幾度も切り抜けた者の持つ恐るべき気迫。
フリッツは、今になって初めて己の師の偉大さを思い知る。
これは旅に出る前ではわからなかったことだ。旅に出、何人ものならず者と剣を交え、目の前に死を突きつけられた今のフリッツだからこそ、マルクスの強さがわかる。
目の前のマルクスには、鬼気迫るものがあった。
老人が月を背に剣を構えるその姿は、神か悪魔が乗り移ったかのようでもある。
この人は、こんなにも強かったのか。
今更ながら、フリッツは痛感した。それに気づくのは、あまりにも遅すぎた。
しかし突然、その襲撃は止む。
フリッツは飛び退いた。息が切れる。汗が浮き出る。
浅い呼吸で肩を上下させ、フリッツはマルクスを見やる。
マルクスは白いひげに覆われた口を開いた。
「やーめた!」
「やめた、って……」
フリッツは眉根を寄せる。
しかし目の前のマルクスも、自分と同様に不機嫌な様子だ。
「弟子に手加減されるとは、わしも落ちたものよのう。あまり年寄りをバカにするでない」
「手加減なんて! そんなことしません!」
馬鹿にしているのはどっちだ。フリッツは声を荒げた。
こっちはわけのわからない状況で無理強いされて一生懸命やっているというのに、懇親の力で振るう木偶の刃は、腰の曲がった老人にかすりもしない。
「いや、しておる。それともそれは、無意識なのか?」
フリッツは憤る。ばかばかしくて話にもならない。
フリッツは手加減をしているつもりなど毛頭ない。ただマルクスの圧倒的な強さに気圧され、自分は攻撃することすら叶わなかった。それなのに、手を抜いているなどと謗られては、腹も立つ。
本気でかかった自分を、まだまだだと馬鹿にしているのだろうか。
怒りを剥き出しにするフリッツとは逆に、マルクスは冷静だった。
「なぜ自ら枠を作る。なぜそれを壊すことを恐れる。そんなに一人が寂しいかと、お前さんはわしに言ったな? その言葉、そっくりそのまま返そう」
その言葉に、フリッツは眉を寄せる。
「お前はそんなに一人が嫌か? わしとの師と弟子という関係を覆すのが、そんなに怖いか? その心配はない。お前はもうわしの弟子ではないのだから」
弟子ではない。
何も感じないかといえば、それは嘘だ。怒りに支配されている頭でも、刃物の破片のようなその言葉はフリッツの胸に突き刺さる。しかしこの状況で、それを表には出したくない。
マルクスは続けた。
「師匠を超えなかった弟子ほど、虚しいものはない。もう一度言う。本気で来い、フリッツ。わしのことを、真に想うのならば」
マルクスの目は、本気だった。
フリッツを逆上させ、手元を狂わせるなどというちゃちな計略でも、嫌がらせでもないようだ。
白い眉の奥に潜んだその眼光は、刃の照り返しと同様に研ぎ澄まされている。いや、それ以上だ。
マルクスは、心から言っているのだ。
フリッツが、本気を出していないと。
フリッツは深く、息を吐いた。怒りの塊を吐き出す。
マルクスは自分に過剰な期待をかけているのだろうか。いや、マルクスがフリッツの実力を見誤るとは思えない。フリッツのやる気を起こさせるために、わざと言っているのだろうか。
それならば、その言葉に踊らされてでも、自分は師匠の期待に応えるべきではないか。
共に過ごした十年の歳月を、教え与えた剣術を不意にするような、軽薄で不出来な弟子として、ここはきっちりと落とし前をつけるべきなのだ。
フリッツは、息を吸った。そして口元を引き結ぶ。
柄を握りなおす。足元を踏みしめる。
フリッツは、マルクスを見た。
人ならざる気配を纏う、剣の亡霊のようなその姿を、切っ先に据える。
フリッツは、向かった。
頭をからっぽにして。
心を研ぎ澄ませて。
マルクスも、それに応える。
幾度も打ち合いが続く。
攻めているのは、受けているのはどちらの刃か。
月の光がマルクスの刃に反射して煌く。濃紺の静まり返った世界に、踊る黒い影。
それはまるで、実像と虚像の闘い。型のまったく同じ二人は、鏡に映された像のように近づいては離れ、離れてはまた近づく。
まるで互いが吸い寄せられるかのように。そして弾かれるように。
張り詰める空気。研ぎ澄まされた感覚。
一方が剣を振り上げれば、一方が防ぐ。そしてそこから、また始まる。無駄な動きなど、迷いの余地など寸分もない。
互いに洗練された、飾り気のない動き。
長い歳月と過去の戦いとをその身に凝縮した深みのある剣と、青いが真摯に磨かれ未だ可能性を秘めた若い剣と。
打ち合いは、永遠に続くかのように思われた。
しかし、その応酬にもやがて終わりが来る。
突然、マルクスが左胸を抑えた。
フリッツの剣は、今にもマルクスの頭上に振り下ろされようとしている、その矢先。
苦しげなマルクスの様子に、フリッツは目を見開く。そしてその手に、一瞬の迷いが生じる。
マルクスはそれを見逃さない。
「隙あり!」
フリッツは無様に呻いた。鳩尾を柄で吐かれたのだ。
フリッツは地面に膝をつき、目に涙を浮かべて咽こむ。それを見てあろうことか、マルクスは海老反りになって笑い始めた。
「ふぉっふぉっふぉ! 尻を着いたな! わしの勝ちじゃ、完全なるわしの勝利じゃ!」
フリッツは咳き込みながらも、剣を杖にして身を起こし、噛み付きそうな勢いで声を上げる。
「卑怯ですよ! 本気で来いって言ったじゃないですか!」
「正々堂々と、とは言っておらん。勝てばいいのじゃよ、勝てば」
その飄々とした様子に、フリッツの頭に血が上る。
「言ってることとやってることが滅茶苦茶だ!」
「だってやっぱり負けたくなかったんじゃもん!」
「もん、ってなんですか! いい歳して大人気ない!」
フリッツは息を荒げ、本気で怒った。剣を地面に叩きつけるように置くと、その場に乱暴に腰を下ろす。両手を後ろの地面につき、重心を預けて天を仰いだ。辺りは冷えているのか、フリッツの吐き出した息はやや白くなって消えていく。
汗だくだった。額から顎から背中から、熱と汗とが同時に放出される。胸が上下する。
身体の全てを使った。全力だった。
今更ながらに、筋肉に鈍い重みを感じる。何も考えなかった。思い起こせば、よくも自分の身体があれほど動いたものだ。少し間違えば、肩や脚が外れてしまっていただろう。
身体の熱がだんだんと奪われていくのにつれ、次第に頭も冷めてきた。憤っていることに、酷く疲れた。
呼吸を整えながら、何も言わずに夜空を見ているフリッツの背後に、マルクスは立った。
「どうして隠れて素振りなどしておる」
「……話を逸らさないでください」
フリッツはため息混じりに言った。
マルクスの声音は低く、真面目なものだ。
「いや、逸らしてなどいない。元々はお前が隠れてコソコソやっておったのがいかんのじゃ。もう一度訊く。どうして隠れて素振りなどしておるのじゃ」
息を乱さぬマルクスに驚く暇もなく、フリッツは問いただされた。今までの威勢の良さはどこへ行ったのか、フリッツは途端に口をつぐむ。
マルクスは言った。
「怖いのか?」
闇に不思議と、その言葉はよく通った。
「今までの十何年、両親と離れ離れに暮らし、一心不乱に剣に打ち込んだ年月。その成果を失うのが、怖いのか」
「……怖いですよ」
フリッツは下を向いた。喉の奥から、搾り出した声だった。
畑の葉の裏で鳴く虫たちの声が、やけに耳につく。風が微かに木々を撫で、揺らしていく。
月光は深々と半洞穴に降り注ぐ。
「だって、ぼくはこれしか知らないんですよ。どんなに弱くたって、下手くそだって。ぼくは」
自分で言葉にしていて、つい嗤いそうになる。
だからなんだというのか。
剣しか知らない、そんなのは言い訳にもならない。
どんなに弱くたって。どんなに下手くそだって。
でも。だって。
それでも、ぼくは。
「剣士なのじゃ」
マルクスの口から零れたその言葉。
フリッツは、顔を歪めた。
「見習いでも、腐っておっても、お前は剣士じゃ。性に合わずとも、腕がなくとも。幸か不幸か、お前は根っからの剣士なのじゃよ」
フリッツは目を見開き、口を僅かに開いた。まるで何かに取り憑かれてしまったかのような顔つきだった。
この数日間で身体を休めていたにも関わらず、疲れ果てたような、一気に歳をとったような。見たくなかったものを、無理やり突きつけられたような。
しかし、心のどこかでこうなることはわかっていた。
入り混じる、驚きと、諦め。
マルクスのしわがれた声が、言葉を紡ぐ。
「小さな村の修練所とはいえ、ロズベラー流分家の父を持ち、鬼才アーサーの姿を見て育った。三つ子の魂百まで、とは、なんともバカに出来ん言葉じゃな。お前をここに連れてきたのは六つの時だが、その時もうすでに、お前は剣とは切っても切れぬ運命にあったのかもしれん。まあ、どう思おうが、お前さんの勝手じゃが」
フリッツは何も言わなかった。言えなかった。
マルクスは続ける。
「昔を思い出すのう。父親の見よう見まねで、あるいはアーサーからわずかに手ほどきを受けたロズベラー流を忘れまいと、お前は夜になるとわしに隠れて剣を振っておった。昼はアーノルド、夜はロズベラー。これでは上手くなるものもなるまいて」
「それは……」
それはフリッツの恥ずかしい、失笑ものの過去の一つだった。
あまりにも上達の遅いフリッツを見かねて、マルクスに問いただされたのだった。あの時も、未練があった。アーノルド流を習得すると決めてからも、わずかながらに覚えていたロズベラー流を捨てきれなかった。
「でも、わしはその時思ったのじゃよ。こやつの剣への執着心は、並々ではないと」
結果、フリッツはロズベラー流を捨て、アーノルド流をとった。
それは一つの決断だった。
未練を捨てる。そうしなければ次へは踏み出せない。
今度は、剣を捨てなければ。そうしなければ、フリッツは次へと踏み出せない。
永遠に、ここで、迷子のまま。
剣士と言う深みに脚をとられ、迷宮にはまり込んだまま、ずっと。
わかっていた。そんなことは、とうの昔に。
それでも、だめだった。
「師匠が提案してくれたこと、考えてみたんです。ぼくは破門になって、でもここに身を置いて、他の門下生の世話をする。家事は割りと好きだし、人を支える側に回るのも嫌いじゃない。自分に向いてるって、性に合ってるって思いました。でもやっぱり」
フリッツは歪な笑みを浮かべた。
「そんなのは、真っ平ごめんだって思いました」
それが今のフリッツの、紛れもない正直な気持ちだった。
剣を捨てて、それでも戻る場所などなく、この半洞穴に居座り続ける。そしてマルクスの新しい弟子の世話を焼き、掃除洗濯畑仕事に精を出す。想像しただけで、反吐が出そうだ。
自分が捨てた剣を、近くで誰かが振るっている。それはなんと惨めで、なんと気持ちの悪いことだろう。
フリッツはマルクスの弟子の座を、誰にも渡す気などないのだ。
しかしそれに気づくには、遅すぎた。
自分は先刻、マルクスに破門されてしまったのだから。
「まあいい。好きにしろ。ぼうっきれ振り回して、せいぜいその気になっておるがいいわ」
フリッツはその言葉に恐る恐る顔を上げる。
そもそもこの闘いの発端は、フリッツが隠れて素振りをしており、予備のウッドブレードを渡さなかったことだった。破門になり、弟子ではなくなったフリッツに、マルクスはその剣を返せと迫ったのだ。
「好きにしろって……あの、破門は?」
「ナシじゃ」
「はあ?」
フリッツは自分でも驚くほど間の抜けた声を出した。
マルクスは自分の長く白い髭を指で弄ぶ。
「お前をクビにしたら、一体誰がわしの面倒を見るというのじゃ。使いっ走りがいなくては、こんな辺鄙な場所で生きていくことは叶わぬよ」
フリッツはぽかんと口を開けたままだった。しかし、またしてもだんだんと腹立たしさが首をもたげる。破門を実に軽々しく取り消され、フリッツは行き場のない思いにわなわなと身を震わせた。
そんなフリッツはさておき、マルクスは飄々と続ける。
「さて、話を戻そう。試合は、正々堂々と行うべきだ。しかし勝負は、そうではない。勝てばいいのだ、どんな手段を使ってでも。実に簡単で単純なことじゃ」
どんな手段を使ってでも、などとは、よく言ったものだ。仮病を使い、なんなく勝利したマルクスをフリッツは呆れたように見上げる。
「お前さんの技は型が美しい。毎日の修練の賜物だ。しかし美しくて良いのは剣舞だけ。この世に美しい斬り合いなぞない。お前さんの弱さはそこにある。敵は型どおりに攻めては来ない。なぜか? 生き残る為に必死だからだ」
マルクスはそこで、神妙な顔つきになる。
「殺し合いだからだ。どちらかが生き残り、どちらかが死ぬ。試合のように勝ち負けが存在しないからだ」
それは当たり前のことだった。頭では理解していることだった。
フリッツは思わず、視線を伏せる。
「剣で誰かを傷つけるなんて、考えもしなかったんです」
自分はまた、情けないことを言っている。
こんな言葉を聞けば、多くの人間は笑うだろう。
剣は武器だ。所詮凶器だ。もちろん、剣は守る為のものである。
しかしそれは、表裏一体。
剣を手に取る者は、それをわかっていなければならないのに。
マルクスは項垂れるフリッツを見下ろした。
「お前さんにとって剣とは、守るためのものでも、傷つけるものでもない。もうそろそろ、気づいておるはずじゃ。お前が剣を振るう意味に。今まで剣を置くことができなかった理由に」
「それは……」
フリッツは顔を上げ、言いよどむ。
マルクスは言った。
「お主がここを発った理由を、思い出してみろ。お前はどうして、ここを発ったのか? その目でもう一度見て来い。話はそれからじゃ」




