第六話 旅の終わり
【第8章】
【第六話 旅の終わり】
フリッツは一人で、グラッセルの街へと足を運んだ。
久しぶりのグラッセルは、やはり賑わっていた。以前訪れた時は漆黒竜団の影があってもなお賑やかだったが、それがなくなった今、街の活力は最高潮に達していた。
山盛りに積み上げられた果物はより高さを増し、以前より女子供の行き交う姿も増え、物売りたちの張り上げる声にも張りがある。
フリッツの心境とは関係なしに、街の人間たちは忙しそうに、楽しそうに動いている。
それが逆に救いだった。一人にはなりたかったが、本当に一人きりになってしまうと気が滅入る。自分を気にも留めない人々が往来を行く様子は、今のフリッツにとっては都合が良かった。
「おーい!」
誰かが呼ばれている。フリッツはそのまま歩き続けた。
「おーい、そこの兄ちゃんだよ。おい、そこのデコの広い!」
そこまで言われたからには、足を止めないわけにはいかなかった。
フリッツはつい眉根を寄せる。グラッセルに知り合いなどいないはずだ。大方どこかの物売りが自分をカモにするつもりなのだろうと、フリッツはげんなりとした。
しかし駆け寄ってきた男は、とても商売人には見えなかった。筋肉隆々の腕をしており、体格も良い。かといって、ごろつきでもないようだ。
「やっぱりそうだった! 久しぶりだなあ。おれだよ、おれ」
「……どなたですか?」
やや強面ではあるが、その表情からは堅気の人間であることが見て取れる。快活そうな中年男性だった。頭にねじり鉢巻をし、その腕には木材を抱えている。
やはりどんなに記憶を思い起こしてみても、グラッセルの城下にこのような知り合いなどいない。新手の押し売りかと思って、滅入っていることもあり、フリッツは無言のままその場を立ち去ろうとした。
「おい、ちょっと待てって。おれだよ、元盗賊の!」
男性は声をすぼめて言った。
フリッツは見覚えのない男の顔をよくよく見た。元盗賊の、という言葉を頭の中で反芻させる。
フリッツは思わず、あっと声を上げた。
「あの時の! 盗賊のお頭! なんでこんなところに」
「なんでじゃないだろう。あんたじゃないか、グラッセルの治水工事の話を教えてくれたのは」
思い出したフリッツは手を打った。
「そういえばそうだった。わあ、お久しぶりです。すっかり職人の雰囲気ですね。奥さんやお子さんはお元気ですか」
「ははは、まあな。お陰さまで」
思いがけない再会に、フリッツの表情もこの時ばかりは明るくなった。
男は、ガーナッシュとカヌレ村の間を拠点に盗賊をしていた元首領だった。フリッツとルーウィンが彼らのアジトに忍び込み、結果として盗賊団は解散した。元首領の人相はずいぶん穏やかになり、肌は健康的な小麦色に焼け、日々汗を流して働く労働者といった様子だった。
少し前に盗賊をやっていた人間だとはとても思えなかった。その腕っ節を生かして、日々真面目に働いているのだろう。
元首領は歯を見せて笑った。
「ここには来たばかりか? なんなら、案内しようか?」
「いいえ、グラッセルは二度目なので。それに、ここでのもう用事は終わりました」
「そりゃ残念だ。まさかあんたがここまで来ているとはなあ。あの気の強いお嬢ちゃんはまだ一緒にいるのか?」
「……えっと、一緒です。一応」
フリッツは一瞬、言葉に詰まった。
元首領はフリッツのその微妙な表情を読み取って、にやりと笑う。
「なんだ? 浮かない顔だな、さてはケンカでもしたか? まあ、今はそれは別にいい。おれはあのお嬢ちゃんにも感謝してるが、あんたにも恩を感じてるんだ」
「ぼくにもですか?」
フリッツは意外な言葉に目をしばたかせる。フリッツの不思議そうな顔を見て、元首領は快活に笑った。
「お嬢ちゃんはおれたちの目を覚まさせてくれた。だが同時に、あの場で殺されてもおかしくはなかった。あんたはそれを止め、かつおれたちに仕事の情報を与え、まっとうに生きていくきっかけをくれた。おれはずいぶん中途半端な悪人だったが、これだけは言えるぜ。悪人でも、きっかけとやる気さえあれば人生のやり直しはできるんだ、ってな」
「……どんな悪人でも。人生の、やり直し」
フリッツはその言葉を口に出した。
それは今のフリッツにとって、残酷な言葉だった。
フリッツはすぐに連想した。あの漆黒竜団の男たちも、生きていればあるいは。
あるいは善人になることができたのだろうか。何かの導きと、何かの拍子に、憑き物が落ちたように人が変わり、希望を抱いて日々を過ごす可能性があったのだろうか。
しかし、それはすでに不可能だった。
彼らの命は、フリッツが奪ってしまったのだから。
「あの。不躾な質問ですけど」
急に声が低くなったフリッツを見て、元首領は調子でも悪くなったのかと首を傾げる。
フリッツは元首領を見上げた。
「あなたがこうしてまっとうな人生を送ろうとしていることを、あなたの悪事の被害者は、どう考えると思いますか。その人たちに対して、あなたはどう思いますか?」
フリッツの瞳は、言葉は、珍しく攻撃的だった。
元首領は視線を伏せた。
しばらく口をつぐんで、そして答えた。
「本当に、申し訳ないと思っている。謝罪をして回るのが、本来の筋ってもんだ。だが、今のおれには各地を巡って謝罪に行くような余裕はねえ。かあちゃんと息子をまっとうな金で食わせる、それが先決だ。それがおれなりの償いだと思っている」
フリッツはその答えに愕然とした。
償い?
そんなのは自分の勝手だろう!
他人の命を殺めたら、他人を不幸にしたら。
自分も不幸になるべきじゃないのか。死んだように生きていくべきではないのか。先がなくなった人のように、何もかもを諦めて。
それが正しい償いなのではないか。
少し前のフリッツなら、こんなことは考えもしなかった。だからこそ、盗賊たちにグラッセルの治水事業のことを教えたのだ。新たな人生を歩んで欲しいと思った。
あの時は確かに、思っていた。
元首領の言葉に、フリッツは恐ろしいことに気がついた。
自分は、殺した彼らの未来や可能性を奪ってしまった。
今までは漆黒竜団の命を奪ってしまったことより、自分が人殺しになったことのほうがショックだった。これは同じ事象であるが、決して同義ではない。
人の、命の、可能性を奪った。
何の権限もない、こんな自分が。
フリッツは今まで、そんなことにも気がつかなかった。自分のことで精一杯だった。そんな自分に気がついてしまったことに、酷く動揺した。
こうして改心し、新たな人生を歩もうとしている元首領と再会したことで、命の可能性に気がつかされた。
奪っていい命など、失われていい命など、ありはしないのだ。
自分はやはり、とんでもないことをしでかしたのだ。
「おい、兄ちゃん、大丈夫か?」
フリッツの顔色が突然変わったのを見て、元首領は心配そうに顔を覗きこむ。
しかしフリッツは、なにかに取り憑かれたようにふらふらと、黙ったまま歩きだした。元首領は追いかけようと手を伸ばしたが、やがてその腕は下げられた。彼もまた、フリッツに言われた言葉が自分の中に引っかかってしまったのだ。
午後の日差しで、一層濃くなった影が、落ちる。
フリッツは不安定な足取りで、通りを一人歩いた。
フリッツは王宮にあてがわれた一室に戻ってきた。ドアが開くのと同時に、ミチルが顔を上げる。
「フリッツさん、お帰りなさい。晩御飯ならそこに置いてあります。姿を見せないんで、ルーウィンさんが心配していましたよ」
テーブルの上の食事には見向きもせず、フリッツは黙ったままベッドに腰掛けた。視線は絨毯に落とされたままだ。明らかにおかしな様子に、ミチルは首をかしげる。
「どうかされたんですか?」
フリッツは膝の上に手を組んだ。
道中、まるで自分のものではないかのような重たい身体を引きずりながら、フリッツは考えていた。
考えて考えて、考えた。そして、とうとうその答えを出した。
フリッツは、口を開く。
「お願いがあるんだ。グラッセルで商品を買い付けるの、やめてくれないかな。ぼくの依頼を受けて欲しい」
ミチルはそれだけで、フリッツが言わんとしていることがわかったようだった。ミチルは目を細めて、微笑んだ。
「旅を、終えるんですね」
フリッツは黙って、頷いた。
グラッセルからの出発は、明朝だった。
まだ辺りは薄暗く、開いている店もなかった。商人たちがやっと起き出し、あくび混じりに店支度をする、そんな頃。閑散とした広場には子供たちの姿は無い。日中人々でごったがえす噴水周辺の憩いのベンチにも、今では野良猫が一匹丸まっているだけだった。
敷き詰められた石畳の広場を、二人の人影が横切っていく。一人は旅支度を済ませ、そして一人は身軽なままであった。見送られる者と、見送る者だ。
昨夜、フリッツはルーウィンに、自分が旅を終える旨を伝えた。
彼女は、フリッツが居なくなって寂しくなると悲しみもせず、足手まといがいなくなってせいせいすると喜びもしなかった。ただ、「そう」とだけ答え、フリッツの意見を受け入れた。
ルーウィンは全てお見通しだったのかもしれないと、フリッツは思った。
このまま旅を続けても、何にもならない。目的もなく彷徨っていては、ただ自分の身を危険に晒す機会が増えるだけに過ぎない。冷静に考えて、フリッツの下したこの判断は、正しいと言えるものだ。
しかし、なぜだろう。正しい選択をしているはずなのに、フリッツのこころは苦しかった。
正しさだけでは割り切れないものが、たくさんあった。
二人は、とうとうグラッセルの都の入り口までやってきた。ここでルーウィンとは、お別れだ。
フリッツは視線を落とした。
旅を続ける彼女と、村に戻る自分。今生の別れになる。戻ればきっと、もう二度と会うことはない。
しかし、とてもルーウィンの顔など見られなかった。フリッツは歯切れ悪く、言葉を口にした。
「あの、……ラクトスや、ティアラには」
「あたしから言っとく。あいつらは、ずいぶん寂しがるだろうけど」
そうしてもらうより他ないだろう。フリッツは黙って頷いた。
ラクトスとティアラ。二人にも世話になった。自分の口で直接別れを言えないのが歯痒かったが、同時にほっとしていた。ルーウィン一人にでも切り出すのが大変だったのに、二人にも同じことを言わなければならないのは、とてつもない苦行のように思えた。
相手がルーウィンであったことは、不幸中の幸いであったかもしれないと、フリッツは思った。ルーウィンはフリッツのことをよく知っているし、同時にフリッツの至らない部分を誰よりも知っている。フリッツが旅をやめると言えば、あっさりと手放してくれると思った。
なにより、彼女はさっぱりしている。別れを切り出したところで、涙を浮かべたり、必死になって追いすがったりはしない。こういうことに関しては物分りが良く、大人の対応をしてくれるだろう。
そしてその予想通りだった。
少し寂しくもあったが、今のフリッツにとって、ルーウィンのこの対応はありがたいものだった。
後ろ髪を引くようなことをしない。かといって、背中を押したりもしない。
「ごめんね」
不意にフリッツは呟いた。
フリッツのことをさんざん弱い、甘いと言いながら、それでもルーウィンは他の剣士を探そうとはしなかった。なんだかんだ言いながらも、彼女はここまで、フリッツをパーティの一員として受け入れてくれていた。
フリッツは今更になって、その優しさが身に染みてきた。ルーウィンはこんな自分と、今まで一緒に旅してくれたのだ。そして今も、自分のわがままを通してくれようとしている。
ルーウィンは歯を見せて笑った。あんたが抜けても、痛くも痒くもないよ、というように。
「大丈夫、きっとあんたより使い勝手のいい剣士なんてすぐ見つかるからさ」
「うん」
フリッツはそうであればいいと、心から願った。
どうかぼくよりもずっと強くて、頼りがいのある剣士を見つけて欲しい。そうすれば臆病でみっともないフリッツのことなんか、みんなすぐに忘れてくれる。フリッツが旅から抜けた穴も開かず、脱落した罪悪感に悩まされなくて済む。
ルーウィンたちを思ってのことではない。
すべて自分のためなのだ。
「ほら、ミチルたちを待たせてるんでしょ。早く行きなさい」
向こうにはパタ坊の背に乗ったチルルとミチルが、こちらを向いて様子を伺っている。パタ坊は厩に預けてあったのを、ミチルとチルルが先に取りに行って、出発の準備を整えてくれていた。パタ坊の背に、余分な積荷はない。フリッツのために空けてあるのだ。
行かなければ。
「じゃあ、気をつけてね」
フリッツは言った。またね、とはとても言えなかった。
「うん、あんたもね」
ルーウィンは答えた。
あっさりとした別れだった。相手がルーウィンだったからなのだろう。
色々あった。罵られ、怒られ。
さっぱりとした合理的な考え方で、きっぱりとした物言いで、それゆえに傷つけられることも多々あった。けれども彼女は悪人ではなく、フリッツを少しずつ認めはじめてくれていた。もっと仲良くなれると、もっと互いを理解できると、そう思っていた。
それがこんな結果になるとは、思ってもみなかった。
遠くの山並みの向こうでは陽が目を覚ましたようで、空は白もうとしていた。
紺や藍のグラデーションが、だんだんとその色づきを薄くしていく。ほっそりとした、ガラスのような白い三日月が西の空に沈み行く。すこし、肌寒い。
フリッツは、パタ坊に駆け寄り、その背に乗った。ミチルが鐙に足を置くと、パタ坊は一声鳴いて、駆け出した。鞍越しに、パタ坊の筋肉の躍動が伝わる。
フリッツは振り返らなかった。パタ坊に乗るのは初めてで、振り落とされないよう、気を張って前を向いていた。
ルーウィンは街道に彼らの姿が見なくなるまで、ずっとその場に留まっていた。




