第二話 喪失と狂気
【第8章】
【第二話 喪失と狂気】
しばらくして、ラクトスはフリッツを連れて避難場所に戻った。
フリッツは一言も発することなく、ラクトスは先を歩いていたが、彼もまたフリッツにかける言葉が見つからなかった。
しかしどこに行っても、待っているのは焼け爛れた村の光景か、帰る場所を失った村人たちか、そのどちらかだ。人の居る場所に居ても居なくても、心が落ち着かないことに変わりはない。
村人たちは意気消沈していた。
彼らの生まれた土地も、帰るべき場所もこのクッグローフのはずだ。しかし、家がない。それではどこに帰れというのだろう。
二人が戻ると、ティアラは怪我をした村人に順番に治癒術を施していた。
ルーウィンは帰ってきた二人を視界に入れたが、フリッツは彼女と目を合わせなかった。いつもならば、そんな態度を取ればルーウィンはすぐに怒ってもおかしくはないのだが、この日は彼女も顔を逸らすだけに終わった。
ティアラは顔を上げ、三人がそこに揃っていることに気がついたが、寂しげに眉をひそめる。そして再び、村人の火傷痕に向かい合った。
重苦しい空気が流れていた。
「旅のお方ですかな。折り入って、相談事が」
それぞれが口を閉ざしている中、そう声を掛けてきたのはこの村の村長だった。
人々はほぼ全焼している村の中心部から離れ、火事の難を逃れた数少ない家屋を避難場所としていた。フリッツたちは村長によってそのうちの一つに連れて行かれた。
話し合いの場として設けられたようで、まだケガ人は収容されていない。もともと穀物庫であったのか、窓の無い、薄暗い小屋だ。これから収穫の時期を迎えるという季節であったため、なにもかもが燃やされた今では、中にはわずかな蓄えしかない。
この僅かな食糧で果たしてこの村の人々の生活が保たれるのか。そんな不安を抱かざるを得ない状況だった。
「村の者は、強いショックを受けております」
村長は重々しい口を開いた。
「かく言うわたしも、家財を全て失ってしまった。家族を火事で失ってしまった者、中には家族を殺されてしまった者もおる。この様子では、村人が自らを奮い立たせて希望を見出そうとするには時間がかかる。そこでといってはなんだが、ぜひあなたたちの力を貸して欲しい。無論、火を放った奴らは憎い。しかし、今はその憎しみを奴らにぶつけている場合ではないのだ」
要は四人を冒険者と見込んでの依頼だった。
フリッツたちも火事に見舞われ、こうして意気消沈しているわけだが、なにもかも失ってしまった村人と比べればその心の傷は軽いと判断されたのだろう。
実際、部外者である自分たちの方が村人よりはまともな判断が出来ると考えて間違いはない。
「わかった。で、おれたちはなにをすればいい」
さすがのラクトスも、この場で先に報酬の話を持ち出すほど性根は腐ってはいなかった。
村長は四人の冒険者に目を走らせた。
「そちらのお嬢さんは治癒師とお見受けする。術が使えるならここに残り、村人の傷を癒してやって欲しい。報酬は……今は何も約束はできんが、事態が落ち着いたら必ず、礼はさせてもらう」
「お礼なんて要りませんわ。ぜひ、やらせていただきます」
ティアラは当然のように即答した。村長はその言葉を、目を瞑って噛み締める。
「有難い。それと、グラッセルに応援を頼みたいのだ。今は人手も物資も必要な事態なのだが」
村長は視線を落とした。
「街道とこの村をつなぐ、唯一のつり橋はやつらに火を放たれてしまった。それが問題なのだ。あの谷を渡れないとなると森を抜けて行くしかないのだが、ここ何年も使われておらん道だ。どうなっておるかはわからない。
森を通り、街道に出て一刻も早くグラッセルへ救援を請う。それがもう一つの依頼だ」
ラクトスは頷いた。そして三人の顔を見る。
「おれとルーウィンは森を行く。ティアラとフリッツはここに残る。それでいいか」
「待って」
ラクトスは怪訝そうに眉をひそめる。言葉を遮ったのは、フリッツだった。
「グラッセルには、ぼくを行かせて」
「フリッツ。でもあんた、まだ身体が」
ルーウィンが止めるのも無理は無かった。昨日漆黒竜団にやられた腹部の傷はラクトスの魔法によって塞がれてはいるものの、原則安静にしているべき容態だった。
それに、先ほどまでのフリッツの様子を鑑みれば、ラクトスでなくとも、フリッツに無理をさせるべきではないと判断するだろう。
「大丈夫。ちょっと疲れてただけだから」
フリッツは無理に笑ってみせた。
しばらくぶりにフリッツが声を発したことに、それも自分の意見を主張したことに、ティアラは明らかにほっとした表情を浮かべた。ルーウィンも同じ気持ちではあったが、その瞳の奥は笑ってはいない。
フリッツはラクトスに向き合った。
「手紙が何か正式な形のものを書いてもらえば、ぼくたちはそれを届ける。それでどうかな。ラクトスが行ったほうが、話が伝わりやすいのはわかってるよ。でも、ラクトスも治癒術が使える。少しでも癒しの術を使える人が居たほうがいいと思うんだ」
ラクトスはしばらく腕を組んで考えていたが、やがて口を開いた。
「……わかった。こういう具合でどうだ、村長」
村長は首を縦に振った。村にとっては、治癒術が使える人間が残りさえすれば、どのような組み合わせでもさして問題は無かった。
「本当に恩に着る。くれぐれもよろしく頼みます」
村長は深々と頭を下げた。
村長との話し合いが終わり、四人は外へと出た。ラクトスはフリッツの顔を覗きこむ。
「フリッツ、本当に大丈夫か?」
「うん、身体は平気。ちゃんと行けるよ、ルーウィンもついてるし」
ラクトスは真剣な表情だった。
「食糧の蓄えは深刻だし、なにより手当てに必要な物資がない。事態は一刻を争う。少しでも無理だと思うなら言え。すぐに代わる」
フリッツは肩に置かれたラクトスの手を取り、首を横に振った。
「行かせてほしいんだ」
ラクトスは、フリッツの目を見た。
そしてその瞳の奥底に横たわる、黒く蠢く、ある種の必死さを見つめた。
ラクトスは眉間にしわを寄せ、再び考えていたが、やがて折れた。
「わかった。そこまで言うなら任せる。でもな、この村の人間の命がかかってる。頼んだぜ」
フリッツは頷いた。
フリッツの、グラッセルに向かいたいという気持ちに嘘はなかった。しかし同時に、ラクトスが最初に言ったように、本当はグラッセルに行くのはラクトスとルーウィンが適任だと思っていた。
森や山道を旅することに慣れているルーウィンが伴い、グラッセルに繋がりのあるラクトスが直接女王に話を持っていくのが妥当だろう。そうはしないでフリッツの意見をラクトスが聞き入れたのは、彼がフリッツの考えを汲み取ってしまったからだ。
フリッツはこの村から出たかった。
人を殺めてしまったおぞましい事実のあるこの村を、一刻も早く離れたかった。
兄が人を殺して平然としている様子。血と炎で紅く染まった酒場。危うく命を奪われそうになったこと。
そして今度は、自分が。
この村にいれば思い出してしまう。村を離れて、グラッセルに向かうことだけに集中したい。考えなければならないこと、向き合わなければならないことはたくさんある。しかし今は、それをするだけの気力は、フリッツになかった。
フリッツのこの弱さに、ラクトスは気がついているはずだった。その上でグラッセル行きをフリッツに託したのだ。
もちろんラクトスのそんな気持ちも、フリッツにはわかっていた。
森を回れと言われたものの、長い間人も通らぬ獣道を、はいそうですかとすぐに掻き分けて進む気にはなれなかった。
ルーウィンはなんとか谷を渡れないかと思案し、実際に谷まで足を運んだが、完全なお手上げ状態だった。谷は向こう岸が見えないほど広いものではないが、どう頑張ってみても人間が飛び越えることはできない幅だ。今は両岸に打たれた杭から、力なくロープがぶら下がっているのが見える。かつて吊橋だったものが、風に揺られて虚しくぶらぶらと揺れていた。
その先には、思わず立ちすくんでしまうほど高く深い谷が広がっている。
「確かに、この高さと幅じゃどうにもならないわね。この村に残った物だけで橋を渡すのは無理。ほかにいい考えも浮かばない。村長の言うとおり、ぐるっと森を迂回するしかないってことね」
「なんか嫌な予感したんだよなあ。吊橋なんてお約束だろ」
ラクトスが腕を組んで憤然とした様子で言った。谷底を覗いていたティアラは、その声に顔を上げる。
「あら。来る時はラクトスさん、そんなこと一言も触れていらっしゃらなかったのに。ねえ、フリッツさん」
ティアラがそう言い、フリッツは一拍遅れて不器用に微笑んだ。
「うん、そうだね」
それを見て、ティアラも微笑む。しかし、それは気遣うような、どこか恐る恐る様子を伺っている笑みだった。
やるべきことがあるというのは、なんとも有難いことだった。こうして身体を動かしていると、自然と会話も生まれる。
そしてなにより、本当に考えなければならないことを、考えなくとも良い。
「あら、なんの騒ぎでしょう?」
ティアラが何かに気がつき、首をかしげながら指を指す。
四人が吊橋から村へと戻ると、人だかりができていた。焼けた家々の真ん中に走る道。その真ん中に、遺体の山があった。
それを目にした瞬間、フリッツの背筋に冷や水を流されたかのような感覚が走った。
火事で亡くなった村人のものではない。それは漆黒竜団の遺体だった。
フリッツが道の真ん中で斬った六人の男たち、それに林の中で斬った三人。
フリッツは、その光景から目を逸らした。そして身体の中でぎゅっと音を立てて内臓が縮んでいくのを、黙って感じていた。
しかし、四人の目に入ったのはそれだけではなく、もっと性質の悪い光景だった。
漆黒竜団の遺体は引きずり出され、晒され、村人たちが投石したり、足蹴にしたりしている。半分炭になりかかった農耕具を死体の背中に付き立てている者もいた。
「まあ、自業自得だな」
ラクトスはため息混じりに呟いた。
火を放ち、村人を惨殺した漆黒竜団の遺体を誰も弔うことなどなく、こうして辱められている。それは悪人に相応しい末路といえば、その通りだった。
しかし間違っても、傍から見ていて胸のすく光景でないことは確かだ。
ルーウィンとラクトスは顔をしかめ、フリッツは下を向いたまま見ようともしなかった。胸糞悪い光景だが、致し方ない。
村人たちは、やり場のない怒りの、憎しみの矛先をどこに向けたらよいのかわからないのだ。そしてその感情は生きた生身の人間であれば当然湧き起こるものであるし、フリッツたちに止める義理はなかった。
死んだ漆黒竜団にも、地獄の餓鬼のような村人にも、どちらにも。
三人はそのまま、その場を通り過ぎようとした。
しかし、それを良しとしない者が一人いた。
「やめてください!」
ティアラは村人と遺体の山の間に割って入り、立ちはだかった。
ティアラの悲鳴は、その場に居た村人たちの興奮を一気に冷めさせる。そして同時に、それはティアラへの悪意へと変わる。それを感じて、ティアラは思わずぞっとした。
しかし、その冷たく気味の悪い視線に負けぬよう、自らの心を奮い起こす。
「死者を貶めても、何にもなりません。後であなたがたが傷つくだけです。ご自分の為にも、あなたがたを愛する方のためにも、どうかおやめになってください!」
ティアラが言い終わらないうちに、女がティアラを突き飛ばした。
ティアラは遺体の山にぶつかって、地面に膝をつく。
女は腕を組んでティアラを見下ろした。
「わけのわからないことを言うんじゃないよ! ハン、誰が傷つくもんか! この連中はね、あたしたちの村をこんなにしちまったんだよ!」
「あんたにはわからないだろうよ、おれたちの気持ちが! 余所者のあんたにゃ、故郷を燃やされた気持ちはわかんねえ!」
「こうでもしないと、気持ちが収まらないんだよ!」
次々と村人がティアラを責め立てた。何人もの悪意を持った人の視線が、ティアラを襲う。
ティアラは気が動転してしまいそうになる。こんなにも近くで、こんなにも人の悪意を一身に受けたのは初めてだった。
「お前さん、確か昨日火を消すのに一役買ったお嬢さんだな。それなのに、どうしてそんなことを言う。火を放ったこいつらか、おれたちか。お前さんは、どっちの味方なんだ!」
「……どっちの、味方?」
ティアラはうわ言のように呟いた。
そんなの、決まっている、どちらの味方でもない。そうであるはずがない。
ティアラは彼女のこころに従い、人としてやってはならないと思ったから、そのように言ったのだ。 あまりにも次元の低い言葉に、ティアラは慄く。そして怒りと憎しみのあまり、理性を失ってしまった村人を見て、言葉をなくした。
この人たちに通じる言葉を、今の自分は持っているのだろうか。
「馬鹿らしい」
「ああ、まったくだ」
村人の壁を強引に割って入ったルーウィンが、ティアラの腕を掴んで引き寄せた。ラクトスも極めて冷静な口調で言った。しかし、その表情は嫌悪で満ち満ちている。
ルーウィンはティアラを掴んだまま、踵を返した。
「腹が立つのを通り越したわ。こいつらに声張り上げるのもおっくうよ。ラクトス、この依頼は蹴る。元々この村とはあたしたちは無関係で、ただの通りすがりの冒険者に過ぎない。ティアラがこれ以上こんな奴らに力を貸してやる必要もない。もう十分だわ」
ルーウィンはティアラの手を引き、そのまま立ち去ろうと足を踏み出した。
「待ってください!」
ルーウィンは振り返る。叫び、引き止めたのは他でもないティアラだった。
「依頼は受けます。わたくしは、ここに残ります」
揺らぎのない、まっすぐな視線だった。
ティアラが強がりなどではなく、本気で言っているのだとわかり、ルーウィンの怒りは頂点に達する。
「あんたねえ、お人好しもいい加減にしなさい!」
子供を容赦なく叱る母親のように、ルーウィンはティアラに怒鳴った。ティアラは今にも涙が零れ落ちそうな表情で、ルーウィンに訴えかけた。
「この方たちだって、元からこんな風ではないはずです。今は悲しみと憎しみで、少しおかしくなってしまっているだけ。誰だってこんな状況になれば、誰かを恨みたくなります。苦しくなります。
それはきっと、追い詰められた時のわたくしたちも同じはずです! それが彼らには、今なんです」
その言葉は、ルーウィンにダンテの敵討ちを思い起こさせた。そんなこととは露知らず、ティアラは苦しそうに、それでも続けた。
「辛い思いをしている当事者だけでは、立ち上がるのは難しい。こんな時だからこそ、部外者である誰かが、手を差し伸べなければならないと思うのです。なにより」
ティアラはルーウィンの手を、ぎゅっと強く握った。
涙で揺らめく大きな瞳が、必死にルーウィンに訴えかける。裏返りそうな声が、絞り出される。
「逃げたくないんです! この現実から。そしてなにより、わたくし自身の弱さから。この状況のままここを去れば、わたくしはきれいごとしか言わない嘘つきになってしまいます!」
ティアラは手を離すと、ルーウィン、ラクトス、そしてフリッツに向かって、勢いよく頭を下げた。
「お願いします。どうか、わたくしの我侭を許してください! 村長さんの依頼を、受けさせてください!」
ルーウィンはそれを見て、鼻から深く息を吐いた。
「……だそうだ。ったく、こういう時に限ってダダこねるなよ。面倒くせぇ」
ラクトスは頭を掻いた。そしてまだ爛々と狂気に目を輝かせている村人を一瞥する。
「さっきのである程度敵を作っちまっただろうから、仕方がないが、当初の予定通りおれも残る。お前らはグラッセルに向かう。それでいいか?」
ルーウィンは口を閉ざしたが、ほどなく渋々首を縦に振った。それを見て、ティアラは再び頭を下げる。
フリッツは、わからなくなっていた。
優しい人間ほど、辛い思いをする。世の中なんて、所詮そんなもの。
どうしてそんな顔をするの? どうしてここに残るの?
立ち向かう強さが、ぼくにはない。
「フリッツさん、ごめんなさい」
「え、ぼく? どうして?」
不安そうに自分の顔を見上げてくるティアラを、フリッツは一歩引いて身構えた。
「だってお顔が、一番強張っていらっしゃるから」
その言葉に、フリッツは上ずった返事をした。
「そんなこと、ないよ」
ティアラの真っ直ぐな瞳が、今のフリッツには怖かった。
自分の醜さが浮き彫りになる。そして思った。
ティアラの期待が、裏切られればいい。彼女の心が、信念が折れてしまえばいい。そうして人の汚さを、愚かさを、醜さを目の当たりにして、潰されてしまえばいい。
どんなにティアラが優しくしたって、結局答えを出すのは村人自身。結局、本人が乗り越えられなければ意味がない。
それを思い知ればいい。きみが救おうとしている人間たちには、救うだけの価値もないってことを。
追い詰められた時、人はどこまでも醜いバケモノになる。
自分がそうなってしまったように。そしてこの人たちが、そうであるように。
しかしティアラの言葉を聞いてか聞かずか、村人の一人が声高に叫んだ。
「こいつらを殺してくれた奴に、感謝だな!」
フリッツの良心が疼く。
やめてくれ。正当化する理由を与えないで。
正しいことをして、責められる。
道を踏み外して、称えられる。
どうしてだろう? 昨日までは、ぼくはこんなおかしな世界には住んでいなかった。
もっとまともな世界で、生きていると思っていたのに。
兄さんのせいだ。
全部全部、兄さんのせいなんだ。
いったい、この世の中は。
どうなっているんだ。




