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辺境の老騎士  作者: 支援BIS
第4章 中原の暗雲
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第9話 恋歌(後編)



 6


 翌日朝、バルドは言われた通りに王宮に入った。

 すでに王都は戦勝を祝うパレードの空気に満ちていた。

 〈特区(イザネル)〉の大通りも準備をする人でごった返している。

 もう少し遅く出ていたら、王宮にたどりつくのも大変だったろう。

 馬に乗ったまま王宮の正門をくぐれるのは、現役の将軍ならではの特権である。

 これはなかなか爽快で、将軍をやめたらこれができないのがちょっとさびしい。

 帰りにこの門をくぐるときは、もう将軍ではないのだ。


 用意された控室でおとなしくしていたが、相当に退屈だった。

 だがどこを歩いてもよいか悪いか分からないし、そもそも案内なしではこの複雑極まる王宮を歩き回れるものでもない。

 ちびりちびりと酒を飲んで過ごした。

 夜にはなかなか贅沢な食事が届けられた。


 翌日は小姓に案内させて庭を散策した。

 アイドラが見たらさぞ喜んだだろう。

 素晴らしい庭だ。

 途中何人かの貴族と行き会った。

 バルドの服装はあまり立派とはいえないが、王宮の中心部近くを鎧姿で帯剣のまま歩いているのだから、相当の地位の軍人だとは見当がついたようである。

 しかもバルドの先導をする小姓が道を譲らない。

 バルドのほうが身分が上だと示しているのだ。

 実のところ、中軍正将は上級侯爵家に匹敵する席次を与えられるから、めったな相手に道を譲ることはない。

 彼らはいぶかしげに道を譲り、バルドに礼をしてすれ違った。

 昼には茶と菓子が出された。

 美味だったがカムラーのものには及ばないと感じた。


 ジュールラントは夕刻に王宮に入ったようだ。

 バルドに呼び出しがかかったのは、翌朝まだ日が昇ったばかりの時間だった。






 7


 案内されたのは、大広間でも正式の引見室でもなく、庭のあずまやだった。

 すぐにジュールラントがやって来て、護衛の騎士たちに席を外すよう命じた。

 護衛たちは離れていった。

 といっても、数十歩の距離に引いて話を聞かないふりをしているだけなのだが。

 ジュールラントは天史官にも、記録をやめよ、と命じた。

 つまりこれから行われる会話は、公務ではなく私的なものだということである。

 ただし彼らは驚異的な記憶力を持っており、会話はすべて脳裏に刻まれる。

 そしておそらく一族がこっそり保管する日記に、あとで記される。

 だからこそ彼らは、前王が誰それに恩賞について約束なさったことがあるかなどと訊かれたとき、何月何日どこそこにおいてこのように仰せでした、と答えることができるのだ。


「よし。

 これで気楽に話せる。

 カーズもジュルチャガも任を解く。

 これまでご苦労だったな。

 ここでは身内として話をしてくれ。

 じい。

 この二人はすごいな。

 この二人がいなければ、この遠征はとんでもないことになっていた。

 俺も生きては帰れなかったろう」


 と、いきなりジュールラントが言った。

 いったい何があったのですかな、とバルドは訊いた。


「今回反乱を起こしたファーゴとエジテは、いずれも旧カリザウ国の有力都市だった。

 カリザウの王家が断絶してからは、実質この二都市が国の支配者だったのだがな。

 わが国を最後まで苦しめたのもこの二都市だった。

 それを現王陛下が降してわがパルザムの版図に組み入れ、カリザウ国は消滅したわけだ。

 だが二都市は気位も高く、何かと高飛車な要求をしてきていた。

 今回の反乱は、戦争の日時と場所をはっきり指定した古風なものであり、要求を通すために武威を誇示したいのだと思われた。

 あちらは騎馬の数さえ通告してきたのだ。

 こちらも同じ騎馬の数に合わせざるを得ん。

 ということは、わが王軍得意の戦い方もできんということだ。

 ただし、近頃シンカイ国が妙な動きをしているという情報もあったので、念のため近隣の有力諸侯に動員をかけておいた。

 直轄軍も動かせる将兵はみな連れていったしな。

 わが王軍は戦争日時にじゅうぶんな余裕をもってカッセの街に入った。

 そこから先遣隊を派遣して戦場となる平野の様子をみさせ、おかしな動きがないことを確認してから本隊を移動させる予定だった。

 ところがその矢先、ジュルチャガが妙なことを言い出したのだ。

 疲れた。

 ここからはジュルチャガが話せ」


 とジュールラントは水を飲みながら言った。


「ほい。

 いや、たいしたこっちゃないんだけどね。

 おいら、カッセの街に入ってから、市場や目抜き通りを、まぬけの振りをして歩いたのさ。

 慣れない小金を持ったまぬけのね。

 すると案の定、悪たれどもが食いついてきた。

 スリとかかっぱらいとかね。

 王太子様に腕利きの従騎士さんを付けてもらってたからさ、そいつらをふん縛ってもらって。

 で、金を払って情報をもらったのさ。

 するとおもっしろいことが分かった。

 グリスモへ運ぶ食料品の量が、この二年ですごく増えてるんだ」


 ここでジュールラントの補足が入った。


「グリスモは小さいが堅固な城を持つ街でな。

 もともとは、ファーゴやエジテと同じくカリザウ国に属していた。

 だが、グリスモ子爵は非常に早い時期にわが国に帰順した。

 先王陛下はこれを喜んで、グリスモ子爵の爵位を伯爵に進めてその功をたたえなされた。

 以来グリスモ伯爵はわが国に忠誠を尽くしてきたのだ。

 そう聞いていたから俺はグリスモの反乱など心配していなかった。

 かりに反旗を(ひるがえ)したとしても、グリスモの兵力など物の数ではないしな。

 だからジュルチャガがグリスモを調べに行くと言ったとき、あきれたのだ。

 この忙しいときに無駄なことをと」


「まあそれでも許してくれたんで、おいらグリスモに行った。

 ゆっくり調べてる時間はないから、拾い屋の親方を捜したんだ」


 王都にはすさまじい数の人と馬がいる。

 排泄物の量も相当なものである。

 〈上街(フラーエ)〉や〈下街(ユーエ)〉では道やその脇に汚物がまき散らされるが、それを拾って利用することは下層平民にだけ許された特権である。

 また、〈特区(イザネル)〉では道で馬に排泄させ放置することは禁じられており、馬糞の処理には下層平民を利用する。

 屋敷に呼び、あるいは道で呼び止め金を払って馬糞を処理させるのである。

 得られた馬糞は下層平民たちが燃料として利用する。

 一生懸命馬糞を拾う薄汚れた子どもたちを最初に見たときは、大いに驚いたものだった。


 それ以上に驚いたのは、小便の扱いである。

 辺境では服を洗うのは水で洗うと決まっている。

 落ちにくい汚れはウドの実などをこすりつけたり、灰に浸して取る。

 だが水がずっと貴重である中原では、とんでもない方法で洗濯する。

 小便に漬けて足で踏み、汚れを落としてから水ですすぐのだ。

 王宮や裕福な貴族は遠方から運ばせた特殊な土やある種の木を燃やした灰を使うらしいが、一般には洗濯は小便で行う。

 だから洗濯屋は最下層の人々の職業なのだ。

 革鎧を洗うときなどは、小便を溜め置いて腐らせたものを使う。

 それがびっくりするほど効果があるのだ。


 そのほか、王都の近くにある山の下草を刈る権利は、裕福でない平民にだけ与えられている。

 こうした貧民救済の制度は大昔からあったが、モルドス山系から大量の緑炎石が得られるようになってから、ようやく安定して運用できるようになったのだという。

 これはパルザム独自の制度というわけでもなく、燃料に乏しい中原の諸都市では昔から〈拾い屋〉が馬糞その他を処理してきた。

 糞を拾い、また買い付けて売りさばくのは相当に身分が低く若い平民だ。

 彼らは二、三人から多くても六、七人で、それぞれ縄張りを持って糞を集める。

 だが実は彼らの上には元締めともいうべき存在があるのだとは、バルドも以前ジュルチャガから教えられた知識だ。

 統括する者がいないと引き取り料金が値崩れしたり、縄張りを取られて生活できない者が出てくるからだという。


「グリスモの拾い屋の親方はベンって人でね。

 おいらが王都の〈赤鼻のマークス〉の舎弟だと知って驚いてさ。

 いろいろ教えてくれたんだ」


 そのマークスというのは誰だとか、いつ舎弟とやらになったのかとか、訊いてみたい気もしたが、それはあとにすることにして、話の続きを促した。

 ジュルチャガは、まあまあと手を振ると、腰に提げた水筒の中身をぐいとあおった。


「ふー。

 んまい。

 生き返るね。

 ああ、それでね。

 はしょって話すと、二年間で城から出る馬の糞の量が五倍に増えたことが分かったんだよね、これが。

 いろんな拾い屋に分散して引き取らせてたみたいだけど、親方には丸わかりだもんね」


 そこからあとの説明は、ジュールラントが引き取った。


「こやつから、今グリスモには五十騎でなく二百五十騎の騎士がいると思われます、という報告が来たのは、まさに本隊が出発しようとしたときだった。

 ジュルチャガは馬より速く駆けてこの情報をもたらしてくれたのだ。

 じい。

 そのときの俺の気持ちが分かるか。

 戦場に向かうにはグリスモの近くを通らなくてはならん。

 横腹から襲われたら、本隊は壊滅しただろう」


 馬に乗る騎士もしくは騎士に準じる戦力を持つ者に対し、通常二人から四人の従者すなわち歩兵が従う。

 つまり二百五十騎の戦力とは、兵員数に換算すれば、七百五十から千二百五十にあたる。

 この場合高速機動を主眼においた騎馬中心の編成であろうとは想像できるが、要するに千人の軍と戦える戦力なのである。


「俺はカッセに残す予定だった部隊に、じゅうぶんな距離を置いて後を追え、と命じて出発した。

 グリスモを通り過ぎたとたん、城門が開かれ二百騎以上の騎馬隊が突撃してきた。

 俺たちはただちに西の方角に逃げた。

 やがて後発の部隊が到着しやつらを挟み撃ちにする形で攻め立てた。

 あらかた敵を制圧したところで、先遣隊からの急使が来た。

 ファーゴとエジテの両軍は、約束の数の数倍の規模で襲い掛かってきたと。

 やつら初めから日にちも場所も人数も守る気などなかったのだ。

 その兵力は合わせて四百騎を超える。

 単純な数比べなら互角に近いが、なにしろこちらは疲労しており、態勢もよくない。

 カッセまで戻るのは無理と判断して、俺はグリスモに駆け込むように指示を出した。

 先遣隊に出していた下軍正軍が、中軍正軍とともに敵を押さえているうちに、城門を確保させた。

 城門が確保できてから俺はグリスモに駆け込もうとしたのだが、この時点では敵にすっかり深く入り込まれており、何度も俺の直前まで敵の騎士が迫ってきた。

 そのとき活躍してくれたのがカーズだ。

 カーズは三度にわたり、突撃してきた敵の騎士を鎧ごと斬り裂いて倒した。

 敵も味方も目をむいて驚いていたな。

 俺は何とか城に逃げ込み、やがて諸侯の軍が到着して敵に痛撃を与えた。

 わが直轄軍の受けた痛手は小さくない。

 何より痛かったのが、将軍を二人失ったことだ。

 だが結果として敵軍をおびき出してたたいたのと同じことになった。

 ファーゴとエジテは卑怯(ひきよう)な振る舞いをした報いを受けた。

 結局王家側にとって以前よりずっと有利な協定を結び直した。

 また、誰も見抜けなかった敵の奇襲を見事見抜いて逆撃を与えたことで、俺の立場は大いに強くなった」


 二つの都市で四百騎以上という戦力を聞いてバルドは驚倒(きようとう)した。

 一つの都市で二百騎もの騎士が養えるというのはバルドの想像を超えていたからだ。

 だがあとで気付いたが、これにはバルドの勘違いもあった。

 旧カリザウ国を始め中原の多くの国では、騎馬戦力のうち半数ほどは、平時には農耕牧畜に従事する郷士層なのだ。


「カーズとジュルチャガがいなかったらどうなっていたかと思うと、ぞっとする。

 そういうわけだから、じい、カーズとジュルチャガをくれ」


 くれ、というのは譲ってくれということであり、正式に王臣として召し抱えるということだ。

 普通なら大栄達であり、驚喜して応諾するところだ。

 だが、二人はバルドの臣下でも所有物でもない。

 二人の意志次第だ。

 ジュルチャガを見た。

 首を横に振っている。

 カーズを見た。

 首を横に振っている。

 バルドはジュールラントのほうを向き、首を横に振った。


「くそっ。

 ずるいぞ、じい!」


 突然ジュールラントが怒鳴り声を上げた。

 いったい何がずるいというのか。


「カーズとジュルチャガを独り占めするなんて、ずるいと思わないのか。

 二人のうち一人だけでも、どこの君主でも喉から手が出るほどの人材だ。

 俺が今どれだけ人材不足に悩んでいると思うんだ。

 これほどの二人をじいは独り占めして、ただ放浪の供にするだけとは!

 そんなぜいたくをすると、天罰が下るぞっ」


 もはや支離滅裂である。

 ジュールラントも疲れているのだろう。

 バルドに甘えているのだ。

 ならばぴしりと背中をたたいてやらねばならない。

 バルドは息を吸い込み、


  ジュール!

  甘えるのもいいかげんにせよっ。


 と大喝(だいかつ)した。

 付近にいる王家の家臣たちがびくりと震えた。

 ジュールラントは少し目を見開いて、それからゆっくり息を吸って吐き、


「いや。

 じいがうらやましいというのは本当だ。

 どうやったらこんな人間が集まってくるのか。

 秘訣があるなら教えてほしいぐらいだ。

 まあ、久々にじいにどやしつけられて元気が出た。

 礼を言う」


 そう言ってから水を飲み干して立ち上がり、


「これから重要な会議がいくつかあってな。

 それが済んだらまたじいと話をすることになると思う。

 今日は一度帰宅し、ゆっくり休め。

 明日か明後日呼び出すことになる」


 と言って立ち去りかけた。

 しかし足を止め、振り返ってこう言った。


「東のほうでずいぶん手柄を立ててくれたようだな。

 これでは罷免どころか恩賞を与えねばならん。

 だが、じいに爵位を与える気はないからな」


 それはつまりパルザム王国の臣としては扱わないということであり、言い換えればバルドを縛らないということである。


「いっそ領地を持ってくれる気になるなら、それもいいがな。

 だが、もうじいは領地は持たないと決めているのだろう?」


 それから、何を思いだしたのか、しばらく目を閉じてから言った。


「ハイドラ殿からザリザ銀鉱山を領地にという話があったとき、じいは受ける気だったのだろう?

 ヴォーラ殿は、死ぬまであのときのことを後悔していた。

 自分の愚かな振る舞いが、じいと母上の人生を狂わせてしまったと」


 言い終えて立ち去るジュールラントの後ろ姿を、バルドは言葉もなく見送った。






 8


 衝撃的な言葉だった。

 だが、そう言われてみれば、そうであるに違いない、とも思われた。


 あのとき。

 バルドが二十九歳であった、あの春。

 テルシア家の当主であるハイドラから、ザリザ銀鉱山を領地として受け取ってくれ、と言われた。

 ザリザ銀鉱山はテルシア家にとって生命線といってよい収入源だ。

 それを他の者に渡すなどあり得ないことである。

 あり得ないほどにテルシア家はバルドを信頼しているということであり、バルドとその子孫に預ければ安心だと考えていてくれるのである。


 そしてこの申し出には、もう一つの意味がある。

 アイドラは十五歳になり、輝き渡るような美貌は近隣の評判となりつつあった。

 もはや結婚に早すぎる年齢でもない。

 ザリザ銀鉱山を下賜すればバルドはアイドラに必ず結婚を申し込むと、策謀たくみなこの当主はにらんだのだ。

 バルドは三か月のあいだ砦での任務を果たし、心を決めてパクラに帰った。

 そこで聞いたのは、アイドラがカルドス・コエンデラの元に嫁ぐことが決まった、という知らせだった。


 事情を聞いたバルドは怒り狂った。

 申し込みの使者が来たとき、珍しいことに当主のハイドラは留守にしていた。

 代わりに使者に応対したのが、ハイドラの長男でありアイドラの兄であるヴォーラだった。

 ヴォーラは使者に対し、浅はかにも、では本人に決めさせましょう、と言い、アイドラを呼んだ。

 話を聞いたアイドラは、コエンデラに嫁ぎます、とその場で答えてしまったのだ。


 ヴォーラは、アイドラはバルドを愛しているのだから、けがらわしいコエンデラからの縁談など言下に断る、と思い込んでいたのだ。

 なんという、なんという愚かな。

 どうして。

 どうして本人に選択などさせたのか。

 兄であるヴォーラは、アイドラの気質をまったく分かっていなかった。

 アイドラが、コエンデラ家の嫌がらせにテルシアの騎士たちが苦しむ様子に、どれほど心を痛めてきたか分かっていなかった。

 そんな選択を迫ったら、結婚を受ける以外の答えなどあり得ないという、誰がみても分かるようなことを、兄のヴォーラだけが分かっていなかった。


 バルドは怒り、憎み、嘆いた。

 だがその荒ぶる心を表に出すことはしなかった。

 それは大恩あるエルゼラ・テルシアを裏切ることになる。

 エルゼラの息子でありバルドに実の子にもまさる愛情を注いでくれたハイドラを裏切ることになる。

 だから、じっと耐え、おのれの絶望を押し隠し、忠義の騎士としてテルシア家に仕えてきたのだ。

 ヴォーラへの恨みを消し去り、敬愛しようと努めてきた。

 それはうまくいってきたと思っていた。

 その後、ハイドラからも、ヴォーラが領主になってからも、領地下賜の話はあったが、すべて断った。

 もう領地を持つ必要などないのだから。

 そしてテルシア家に尽くし抜き、ヴォーラが死んで二年の月日が過ぎてから、致仕を申し出て放浪の旅に出たのだ。

 自分の騎士としての生涯に一点の曇りもない、とバルドは思ってきた。


 けれど。

 けれど、ああ。

 そんな自分の態度こそが、ヴォーラを苦しめたのではないか。

 自分の怒りに、絶望に、あの鋭敏なヴォーラが気付かないということがあるだろうか。

 忠義の家臣として身を捧げれば捧げるほど、その行いはヴォーラの心臓を鋭く斬り裂いたのではないのか。


 バルドは自分が犯してきた罪の重さに震えた。






 9


 カーズとジュルチャガを連れてトード家に帰った。

 夕食は素晴らしいものだったが、味けなく感じた。

 やがてバリ・トードが帰宅した。

 バルドは、お疲れのところ申し訳ないが、〈教導(スパーサ)〉を受けたい、お願いできるだろうか、と尋ねた。

 バリ・トードは快く引き受け、椅子一脚を横向きに置き、その向こう側に置いた椅子に座った。


 バルドは両手の拳を握り合わせて額につけると、手前に置かれた椅子に突っ伏した。

 両方の膝を床に付けて。

 そして自分の犯した罪を述べ立てた。

 話はテルシア家に拾われた十歳の時に始まり、引退して旅に出た五十八歳の時に及んだ。

 長い長い告白を、上級司祭は黙って聞いた。

 そして最後にバルドは、どうしたら自分の罪を償うことができるかを尋ねた。

 上級司祭は、しばし神への祈りを捧げたあと、バルドに告げた。


「その考えは間違っています。

 あなたは自分の罪を償う前にすることがあります」


 バルドは、それは何か、と問うた。


「ヴォーラ殿を許すことです」


 という上級司祭の言葉に、バルドは驚いて、こう言った。


  許すも許さぬもない。

  そもそもわしにはヴォーラ様を責める資格などないのじゃ。


「それは自分の都合で考えるからです。

 いいですか。

 あなたが自分の罪を償いたいと思うのは、許されたいからであり、楽になりたいからであり、結局自分のための行動なのです。

 自分のことを考えるのはやめなさい。

 まず相手のことを考えるのです。

 あなたが本当に相手のために考え、動くことができたら、あなた自身のことは神々がよいようにしてくださいます。

 ではヴォーラ殿が何を望んでいるかといえば、あなたとアイドラ姫から許されることです。

 許され、解き放たれることです。

 あなたにその資格があろうがなかろうが関係ありません。

 さあ、許しなさい!

 全身全霊をもってヴォーラ・テルシアを許すと、神々に宣言するのです!」


 その言葉を呑み込むのには、しばらくの時間がかかった。

 やがてバルドは、わしはヴォーラ・テルシアを許す、と言おうとした。

 だが、できなかった。

 無理やりに言おうとした。

 すると、心の中からこんな声がした。


 なぜ許さねばならんのか。

 ヴォーラ・テルシアの過ちを、なぜわしが許さねばならんのか。


 心の抵抗は強く、バルドは、口では自分にはヴォーラ様を責める資格などないと言いながら、心の奥底ではずっと責め続けていたことを思い知った。

 なぜ許してはならんのか、とバルドは自分自身に問い掛けた。

 すると答えがあった。


 許してしまったら、アイドラ様の三十年は、どうなる。

 日陰者として生きねばならなかった三十年は、どうなる。

 わしの三十年の苦しみは、どうなる。

 それでは。

 それでは。

 アイドラ様が、わしが、あまりにかわいそうではないか。


 その答えにたどり着いたとき、バルドは、なるほどわしはヴォーラ様を許さねばならぬ、と得心した。

 そして、自分自身の心をなだめ、いたわり、諭していった。

 長い長い時間がかかった。

 やがてバルドは、小さな声でしぼりだすように、わしはヴォーラ・テルシアを許す、と口にした。

 さらに大きな声で、同じ言葉を繰り返した。

 三度目に顔を上げ、響き渡る大声で、わしはヴォーラ・テルシアを許す、心の底から許す、と叫んだ。

 上級司祭は優しくバルドの頭を包み込み、祝福の言葉を告げた。


「神の愛し子、バルド・ローエン。

 あなたの誓約は神々がお聞き届けになりました。

 よくぞ許しました。

 よくぞ愛しました。

 あなたの上に祝福を」


 翌朝バルドが目覚めたとき、目に飛び込んだ朝の光は限りなく美しく、鼻から吸い込む大気は甘くかぐわしく清浄そのものだった。

 かつてないすがすがしい目覚めに、バルドは自分がすでに許されたことを知った。


 それから昨日のことを振り返り、一つのことに気付いた。

 あの言い方だと、たぶんジュールラントは、バルドとアイドラのあいだの最後の秘密を知らない。

 教えるべきだろうか。

 しばらく考えて、そうするべきではない、という結論に達した。

 あのことを知る者は、神々のほかにはただアイドラとバルドしかなく、アイドラは何も告げずにこの世を去った。

 ならば自分も同じようにしよう。

 ジュールラントに教えたからといって、苦しめる以外の結果にはならないだろう。

 それに、である。

 一緒には生きられなかった二人であるが、ただ一つの秘密をともにするぐらいは許されてよい、と考えたのである。


 それからまた、あの年の砦からの帰り道のことを思い出した。

 どうやって自分の心を伝えればよいかと考えてもよい思案が浮かばず、窓の下で恋歌でも歌おうかと考えていたのだった。

 自分のへたくそな恋歌を聴いてアイドラがどんな顔をしたか。

 それが見られなんだのは少し心残りじゃのう、とバルドは思った。











6月7日「ジュールラント戴冠」(第4章最終話)に続く


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― 新着の感想 ―
この話の内容がめちゃくちゃ濃いですね。 ジュルチャガが有能過ぎる。 バルドが悔しさと罪の意識で板ばさみになってとても苦しかっただろうなと思います。 深い悲しみから他者の許しを通じて救われる。切なくて心…
ここは本当にいい。 高潔な志で義侠と友愛を体現した人間の積み重ねた歴史は、歴史から見れば点にも近い小さな繋がりに大きな仄暗い人間的感情を伴っている。 人間は多層的で多角的。 そう思うと悪漢とされる人に…
やはり、何度読んでもこの赦しを告白するシーンは泣ける……
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