第8話 ライザ(後編)
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二つの月の夜だったことは幸いだった。
一行はできるだけ急いだ。
けれども、足の悪い者と幼い者以外は徒歩なのである。
いくら月が明るくとも、夜の山道ではそう早くは進めない。
やがて夜が明けた。
そして、陽が高々と昇るころ村に着いた。
村長は一団の到着に驚いたが、エイナの旅隊は今まさに来て欲しかった相手だ。
さっそく夜に芸を披露する約束がまとまり、村の近くの木陰で一同は休憩した。
何しろ芸で疲れたあとに領主館に連れて行かれ、そのあと食事もせず歩き通したのだ。
みんなひどく疲れている。
村長が気を利かせて水を運ばせた。
バルドとシャンティリオンを見て少し不思議そうな顔をしたが、特に何も言わなかった。
日が落ちかかるころ、シャンティリオンは目覚めた。
バルドは少し前に起きて、武器と鎧の手入れをしながら、村人が宴の用意をするのを見ていた。
もう焦る必要はない。
これほど人目のある所では、追っ手が来たとしてもそう乱暴なことはできない。
長が食事を持ってきてくれたが、シャンティリオンは食べなかった。
物も言わず膝を抱え込んで動こうとしない。
そして祭りが始まった。
エイナの者たちは、あまり体を休めることもできなかっただろうに、元気なもので、達者な芸を披露して大いに村人たちを楽しませているようだ。
その喧噪を少し離れた場所で味わいながら、バルドは酒を飲んだ。
シャンティリオンは相変わらずである。
何を苦しんでいるのだろうか。
正義を突き付けても恐れ入らない騎士がいたことにだろうか。
人を殺してしまったことにだろうか。
バルドは悩んだ末、一通り言うべきことは言っておくことにした。
シャンティリオン。
あの部屋にいた者を皆殺しにするまではなかったと思っているか。
だがな。
あれはああしなくてはならんのだ。
一切れのパンを得るために人を殺した者は、もう決してまともな人間には戻れない。
その者は、腹が減ればまた人を殺すのだ。
人食いの味を覚えた獣が次からは人ばかりを狙うようになるのと同じだ。
人食いの獣を捕らえながら野に放つ阿呆はおるまい。
毒に染まってしまって自らも毒となった人間は、もう元には戻らないのだ。
人狩りをするような者を放てば、またどこかで人を狩る。
わしたちは先で狩られるはずじゃった誰かを助けたのじゃ。
バルドの言葉が耳に入ったのか入らなかったのか、シャンティリオンは何の返事も返さない。
これが十四やそこらの年ならば、一発頬っぺたを殴り付け、それから抱きしめてやればよい。
だが相手は二十四の大人なのである。
もう父親代わりが抱きしめるような年ではない。
かわいそうだが自分で立ち直ってもらうしかない。
いや、待てよ。
バルドは立ち上がって、祭りの輪に近づいた。
村人たちが踊っている。
いた。
少し離れた木陰で休んでいる。
バルドが近づくと、ライザは満面の笑みを浮かべた。
「来てくれると思ってたわ」
バルドはライザに言った。
頼みにくいことなのじゃが、頼む。
わしの連れの若者は、自国の騎士を斬り殺したことがひどく心に掛かっておるようなのじゃ。
もしかしたら人の命を奪ったのは初めてじゃったかもしれん。
こんなときは、人肌の温かさが何よりの薬なのじゃ。
あの若者に優しい夢を見せてやってはくれまいか。
ライザは笑いを顔に残したまま、こう言った。
「あんた。
鈍感なやつだって言われたことない?
でも、分かったわ。
あたしたちを助けてくれて、ありがとう。
あの坊やの面倒はみるわ」
バルドは礼を言い、離れた場所に歩いて行った。
エイナの長が貸してくれた大きなシートで即席のテントを作り、柔らかな草を敷き詰めた。
夜明けの風で関節が痛むので、風よけのできるテントはありがたい。
マントにくるまってごろりと横になり、うつらうつらと考え事をした。
シャンティリオンのあの初心さは、いったいどういうことだろう。
上級貴族の家に生まれ育ったのだから、人の悪意など山ほどみてきたはずなのに。
空気を吸うように権謀術数をめぐらせるよう育ってきているはずなのに。
いや、そうではない。
それはバルドの思い込みにすぎない。
シャンティリオンがどんな環境で生まれ育ったかなど、実際には何一つ知らないのだから。
シャンティリオンは正義を尊び、善は報われるべきだという考えを持っている。
純な心を持っている。
それが事実だ。
あの気質のよさを失うことなく、現実に即した判断力を育てることができれば、素晴らしいことではないか。
それはこの国の少なからぬ民にとって意義あることとなるだろう。
と、冷たい風が吹き込んできた。
誰かがバルドの寝所に潜り込んでくる。
テュルシネの花の甘い香りがした。
柔らかな肉体が、バルドの体に寄り添うように伸び上がってきた。
シャンティリオンのことを頼んだはずだがのう、とバルドが言うと、
「若い娘を行かせたわ。
ちゃんと言い含めてあるから大丈夫。
あなた、言ってたじゃない。
あたしたちにも、自分の気持ちってものがあるんだって」
ライザの指がバルドのひげをなでた。
「あんた、サルサの香りがする。
あたしの、おとこ」
サルサは辺境にはよく生えているが、中原では見たことがない。
何の変哲もない草で、匂いらしい匂いもない。
バルドは、辺境の野山を懐かしく思った。
8
「さあさあ、急ぎましょう」
シャンティリオンがバルドをせき立てる。
食事を取ったばかりだし、少しはゆっくりしたい。
急いでも仕方がないのだが、そう言っても聞かない。
昨夜のしおらしさはどこに行ったのだろう。
今朝、バルドとシャンティリオンが旅立つとき、エイナの民たちが見送ってくれた。
その中に白い上等のハンカチを振っている若い女がいた。
テイエル絹のハンカチだ。
恐ろしく高価な物であり、間違いなくシャンティリオンからの贈り物である。
村がまったく見えなくなってからも、シャンティリオンは何度も振り返っていた。
エイナの娘と甘い夢を見たあとは、必ず対価を払わねばならない。
ということまではシャンティリオンに教えていなかったが、金ではなくプレゼントを贈ったようだ。
それでよい。
あのハンカチが直ちに売り払われるだろうということは、とりあえず黙っておこう。
バルドもライザにそれなりの金額を渡そうとしたら、これでは足りないと言われた。
長を思わずうなずかせるほどの金が欲しい、というのだ。
あの長は、そう強欲にはみえなかったが。
金には困っていないので、それこそ相場の百倍あるいは二百倍になろうかという額を渡した。
昼前にシャンティリオンが空腹を訴えた。
ちょうど川があったので、そのほとりで食事を取って休憩をした。
シャンティリオンは、すごい勢いで食べた。
あの館はそのままにするのですか、と訊いてきたので、
なに、領地を担いで逃げるわけにもいくまいよ。
後ろ暗い者たちはほかにもおるはずじゃ。
奴隷たちを書類もなしに斡旋した業者がおるじゃろう。
狙い所はそこじゃな。
まずは売り先を探して動かぬ証人を押さえる必要がある。
近くに鉱山か塩田がありはせんかのう。
と答えた。
するとシャンティリオンは、あの近くに大きな黒石の炭鉱がある、と言い出した。
しかもそれはグレイバスター家と縁故のある家の持ち山なのだという。
街道沿いの街に屋敷があり、そこに行けば事情が分かるという。
それはいいのだが、まだユエイタンがじゅうぶんに草を食べていない。
この馬は、食事の量が足りないと、てきめんに不機嫌になるのだ。
と言ったら、街で最高の飼い葉をいくらでも与えます、と返事が来た。
その言葉を理解したかのように、ユエイタンまでバルドをせっつきだした。
食い意地の張った馬である。
誰に似たのだろうか。
せき立てられるまま、バルドはユエイタンに乗った。
胸の隠しに手をやると、よく枯れたソイ笹の葉が何枚か残っていた。
この小川に流そうかとも思ったが、何となくやめておいた。
それからしばらく、二人の旅は続いた。
王都に帰還したのは、秋も深まった九月の末で、出発からちょうど三か月がたっていた。
5月28日「恋歌(前編)」に続く




