第5話 将軍就任(前編)
1
夜のとばりが降りる。
妖精の羽の粉を散らしたような色に淡くけぶる〈特区〉の一角。
静かに馬車が入り込んで来た。
「来たよ。
王子さんだ。
馬車は二台。
騎士は八人だね。
うち二人は重武装で、すんごい腕利きの雰囲気がするよー」
と、ジュルチャガが部屋に帰って来て言った。
しばらくして侍従が迎えにきた。
バルドの装いにちらりと目線を向けたが、口に出して言ったのは、
「どうぞ、こちらに」
という案内の言葉だけだった。
バルドが今着ているのは魔獣の革鎧である。
革鎧職人ニテイは、注文通り一晩で補修を済ませた。
午後には屋敷に革鎧が届けられたのである。
ジュルチャガは、作法通りに扉の開け閉めを行い、腰を折って静かにバルドとカーズを見送った。
人目があるので、普通の従者のふりをしているのである。
といっても、この屋敷でジュルチャガが従者らしいことをしているわけではない。
そもそもほとんど屋敷にいない。
バルドはこの屋敷のあるじに、ジュルチャガはもともとリンツ伯爵のもとで密偵をしていた男で、今は自分の命令でいろいろ動き回っており、従者の仕事はしていない、と断ってある。
これは途中から本当になった。
ザルバン公国滅亡の経緯と、カーズ・ローエンのたどってきた道を、バルドはジュルチャガに話した。
そして、きな臭いことが起きていないかどうか、広く情報を集めるよう命じたのだ。
案内され、入り組んだ通路を歩いた。
夜だからよけいに分かりにくい。
母屋の中だとは思うが、今自分がどこにいるか、バルドには分からなくなった。
その部屋の前には、二人の騎士が立っていた。
近衛の軽鎧を着ている。
つまりジュールラントの護衛である。
護衛たちの向こうに、この家のあるじであるゼンブルジ伯爵サワリンクィズガル・トードが立っている。
その後ろには、伯爵の信頼も厚いトード家の騎士二人、騎士ニドと騎士フスバンが立っている。
ゼンブルジ伯爵はバルドの革鎧姿をみて、ぎろりとにらんだ。
都の貴族の感覚からすれば、高貴な人に会うには飾り立てた衣装を着けるのが普通なのだろう。
今伯爵が着ているような。
だがバルドにいわせれば、あらたまった場面で騎士が鎧以外の何を着るというのか、というところである。
ゼンブルジ伯爵は、バルドに対しては何も言わなかった。
だが、その後ろに続くカーズには、こう言った。
「カーズ殿。
この部屋に入っていただくのに帯剣のままでというわけにはいかん。
その剣をお外しいただこう」
いつもの柔和な表情とはまったく違う、切迫した顔つきで伯爵は言った。
バルドは伯爵に、カーズ・ローエンの剣は王太子殿下を守護する剣ゆえ外すわけにはいきませぬ、と言った。
「バルド殿。
無理をおっしゃっては困る。
貴殿はかのおかたとはご懇意かもしれないが、これはそういう問題ではないのだ」
と伯爵が言ったとき、扉が開いて中から声がした。
「王太子殿下には、こう仰せです。
カーズ・ローエンはわが弟にして最も信頼すべき者。
かの者の帯剣は私が差し許す、とのことでございます」
こう言われては、伯爵も黙るしかない。
気持ちの収まらない表情で一度カーズをにらんでから、伯爵はバルドに部屋に入るよう促した。
バルドとカーズが部屋に入った。
部屋にはジュールラントのほかに、重鎧の騎士が二人いた。
ということは、このうちの一人が先ほど扉を開いたのだろう。
それにしても、いかにも頑丈そうな鎧である。
面頬も落としており、完全武装といってよい。
王太子の警護というのはこれほどものものしいものかのう、とバルドは思った。
妙に殺風景な部屋だ。
正面に、つまりジュールラントの後ろに大きなタペストリーが掛けてあるのと、反対正面に壁一面を覆う巨大な絵が掛けてあるのをのぞけば、燭台置きぐらいしかない。
机すらないのだ。
まるで隠れる場所はないぞといわんばかりに。
八箇所の燭台にはすべてランプが置かれている。
そう大きくもない部屋に八つものランプが置かれ、壁は白輝石で作られているので、明るさはじゅうぶんだ。
カーズがちらりと反対正面の絵に視線を送った。
もとは王族なのだから、絵を見る目もあるのかもしれない。
バルドには絵のことなどさっぱり分からないが。
そのあと伯爵が入り、続いて伯爵の部下である騎士二名が部屋に入ろうとした。
すると、入り口に立つ近衛の騎士の一人が、
「待たれよ、伯爵。
カーズ・ローエン殿の帯剣は許されたが、ほかの者の帯剣は許されておらん」
と言った。
伯爵は怒声を発した。
「無礼であろう!
わが家にお越しの貴顕をお守りするのに、わが家の騎士が剣を持たずになんとする!」
やはりおかしいのう、とバルドは思った。
いつもの伯爵ではない。
王太子の前でこんな大声を出してわめくというのは、服がどうこうというよりはるかに失礼だ。
「よい。
当家の騎士に帯剣を許可する。
ただし一名のみだ」
と、ジュールラントが言った。
なるほど、とバルドは感心した。
止めた騎士の顔も立て、伯爵にも配慮している。
何より帯剣の騎士が一人だけなら、重鎧の護衛騎士二人の守りは抜けない。
騎士ニドは剣を吊ったまま部屋に入り、騎士フスバンは剣を外して壁に立て掛けてから部屋に入った。
最後に入った騎士フスバンが扉を閉めた。
バルドは、ぎょっとした。
騎士フスバンは、扉を閉めただけでなく、かんぬきを掛けたのである。
「何をするっ」
と重鎧の護衛騎士が言いかけた言葉をかき消して、伯爵の怒号が飛んだ。
「殺せ!」
2
反対正面の巨大な絵が倒れてくる。
その後ろには九人の兵士がいた。
全員クロスボウを構えている。
横木のようなものが上中下と三段にしつらえてあり、それに乗せる格好で。
バルドは反射的に行動した。
すなわち、射手たちとジュールラントのあいだに飛び出して大きく手を広げ、立ちはだかったのである。
射手たちに背を向ける形で。
今にも矢が飛んでくるだろう。
その矢をできるかぎり背中で受け止める。
ジュールラントの両横には重鎧の護衛騎士がいる。
一瞬の時間さえ稼げば、彼らがジュールラントを守ってくれる。
次の瞬間、バルドは信じられないものを見た。
護衛の騎士二人が抜剣して突きの態勢をとったのである。
明らかにジュールラントに向けて。
バルドの横を一陣の疾風が走り抜けた。
カーズだ。
だが長年の経験で培った目は、このあと何が起きるかをバルドに教えた。
間に合わない。
ジュールラントは剣を持っていない。
下がろうにも後ろは壁。
いくらカーズが速くても、突き出される剣二本を同時にそらすことはできない。
そもそもカーズの細い剣で、どうして重鎧の騎士の攻撃が防げようか。
と思う間にカーズは剣を振った。
その剣は鮮やかな赤い燐光を放った。
物悲しげな獣の鳴き声が聞こえた気がした。
次の瞬間、いくつかのことが、ほとんど同時に起きた。
左の重騎士の右手が、剣をもったまま手首の上で斬り飛ばされた。
右の重騎士の右脇から左肩にかけて、赤い断裂線が走った。
バルドの背中にどすどすと衝撃があった。
左右の重騎士が突き出した剣は、空を突いた。
カーズがジュールラントを足の裏で前方に蹴り倒したからである。
倒れかかる重鎧の騎士二人に何本かの矢があたって金属音を立てた。
タペストリーのまん中が縦に大きく広げられている。
その向こうには空洞があり、ジュールラントはその中に倒れ込んだ。
バルドは振り返った。
背中には何本かの矢が突き立っている。
何本かは下に落ちている。
暗殺に使う矢なのだから、当然毒が塗ってあるだろうということが一瞬頭をよぎった。
伯爵家の騎士ニドが剣を抜いて飛び出すところだった。
ジュールラントのほうに向かって。
バルドは騎士ニドの前に立ちはだかった。
騎士ニドはバルドに斬り掛かってきた。
バルドは丸腰である。
ただし無防備というわけではない。
左の肘を持ち上げ、拳と肘との中間部分で剣を受け止めた。
にぶい音がした。
騎士ニドは、バルドの腕が切れるか、大けがをして無力になると思っていたろう。
平気なバルドを見てあぜんとした。
そのすきを突いて、バルドの拳が顔のまん中に炸裂した。
騎士ニドは後ろにふっとび、騎士フスバンを巻き込んで倒れた。
バルドの革鎧のその部分には、魔獣の骨を重ねたものが仕込んであるのだ。
ジョグ・ウォードの黒剣さえ受け止めた装甲なのである。
こんなへなちょこの剣などでびくともするものではない。
騎士ニドとバルドが接触した時点ですでにカーズは横を走り抜け、弓兵たちに向かっていた。
クロスボウは、矢をつがえ直すのに時間が掛かる。
そもそも二の矢が必要だとは思いもしなかったろう。
再び物悲しげな鳴き声が響き、朱色のぐねぐねした光の軌跡が暗殺者たちの上で踊った。
ひと呼吸のあいだに、弓兵たちは左右どちらかの腕を切り落とされていた。
九人すべてがである。
どんどんと、激しく扉をたたく音がする。
何事ですか、何事ですかと呼び掛ける声がする。
バルドの目の前では、さきほどから伯爵が懐を必死にまさぐって、何かを探している。
小柄な影が走り寄って、それをすり盗ったのに気付いていないのだ。
「あちゃー。
やっぱ毒が塗ってあるわー。
何の毒だろ」
まるで場違いな、のんびりした声がする。
ジュルチャガが壁に背をもたれさせ、豪華な作りの短剣をさやから抜いて眺めていた。
「き、きさまっ。
どこから入った。
それを返せっ」
ジュルチャガに走り寄る伯爵の後頭部を、バルドの右の裏拳が襲った。
伯爵は空中で半回転して床にたたき付けられ、昏倒した。
先ほどバルドが顔面を殴った騎士ニドは、鼻から血を吹き出しながら気絶している。
騎士フスバンは、起き上がろうとしたところを首に剣を突き付けられて身動きもできない。
むろん、剣を突き付けているのはカーズである。
扉をたたき中の様子を訊く声は激しさを増している。
ジュールラントが起き上がってきて、
「騒ぐな!
大事ない。
今、開けるから、扉から離れよ」
と強い声で命じた。
しっかりしたよい声を出すようになったのう、とバルドは思った。
ジュールラントは目線でジュルチャガに指示をした。
それを受けてジュルチャガは、短剣を懐にしまい、閂を抜いて扉を開けた。
外で待っていた二人の騎士が入って来た。
中の惨状を見て驚いている。
このときバルドは、この二人が敵であるか味方であるか分からないことに気付いた。
だが、ジュールラントは、手っ取り早い方法でその問題を解決した。
「謀反だ。
罪人どもを拘束せよ」
と言って、カーズが剣を突き付けている騎士を、そして伯爵を指さした。
なるほど。
この命令に従えば、取りあえずは味方とみなしてよい。
そのとき、うなり声が聞こえた。
先ほどカーズが右腕を斬り飛ばした護衛騎士だ。
転倒していたが、起き上がり、突進してきたのである。
左手で抱え込むように剣を持ち、手首の斬り飛ばされた右手を添えて。
再びバルドはジュールラントの前に立ちふさがった。
そして、ジュールラントが万が一にも傷つくことのないよう、最も確実な方法をとった。
すなわち腹のまん中でその突きを受け止めたのである。
バルドは、両の拳をぎりりと握りしめ、下腹に力を入れ、両足をしっかりと踏ん張った。
さすが重鎧の騎士の突進は、なかなかの威力だった。
剣先は魔獣の革鎧に食い込んだが、貫通はできなかった。
それでも少なからぬ剣の圧力がバルドの腹に痛みを与えた。
だが、重鎧の騎士は、そこから一歩も進むことはできなかった。
兜の中の目が、驚愕に見開かれているのがちらりと見えた。
動きの止まった重鎧の騎士の頭を横からバルドの右手が押さえ込んだ。
バルドは大きくてごつい指で兜の耳辺りをがっしりとつかみ、ぶうんと左に振り回し。
そしてそのまま白輝石の壁にぶち当てた。
すさまじい音がして壁が揺れた。
崩れ落ちた騎士を指さして、ジュールラントが命じた。
「その男もだ」
4月25日「将軍就任(中編)」に続く




