第8話 歌合戦(後編)
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立ち上がったバルドは、歌い始めた。
やや低い歌い出しだ。
〈騎士よ〉
〈騎士よ〉
少年の日に流浪の騎士から教わった「巡礼の騎士」という曲だ。
バルドは歌がうまくはない。
だが、これほどの体格の持ち主であり、戦場で活躍した指揮官なのだから、声量は豊かだ。
押しつけがましさのないぼくとつな声は、猛る騎士たちの胸にしみた。
〈誓いに生きる騎士よ〉
何人かが、はっとバルドのほうを見た。
そのうちの一人は、北征将軍ガッサラ・ユーディエルだ。
ゆったりした三拍子で歌い始められた一節に、彼の心を捉えるものがあった。
ガッサラ。
騎士というものは、誓いに生きるのだ。
この世は理不尽だ。
だからこそ、騎士の誓いは尊い。
そう教えてくれたのは、彼を導いてくれた赤毛の騎士だ。
赤毛の騎士は、強い騎士ではなかった。
だが、彼はまさに誓いを守り抜いた騎士だった。
この歌は、ガッサラに赤毛の騎士を思い出させた。
それは、後でガッサラがバルドに語ったことである。
バルドの歌声は続いた。
〈なんじの足跡は刻まれたり〉
〈水の涸れた谷に〉
〈凍てつける氷の山に〉
騎士装備での行軍は苦行だ。
それは、栄光とも賞賛ともほど遠い、地味で苦痛に満ちた日々だった。
だが、赤毛の騎士は、誇りをもってその苦行をやり続けた。
その背中に、ガッサラは誓いを守り抜くことの意味を教えられた。
〈主に仇なす者を討ち〉
〈悪しき妖魔を打ち倒し〉
〈民人の安寧を守らんと〉
〈なんじの剣はふるわれたり〉
そうだ!
すべて騎士の戦いは主に捧げられたものだ。
主。
至高の神にして、名のない神。
人は、御園で初めてその名を知るという。
騎士の剣が敵を斬るのは地上の栄華のためではない。
主の御心に沿いまつるためだ。
その名誉を知るものは、ただ名のない神のみ。
それが騎士というものではなかったか。
ゆったりと中低音でたゆとうように紡がれていた歌は。
ここでいきなり高音のたたき付けるような旋律に転じた。
〈賛えよ!〉
まるで胸をたたかれたような衝撃を、ガッサラ将軍は感じた。
次に、まったく同じ旋律がさらに二つ高い音で繰り返された。
〈賛えよ!〉
もはや涙をこらえることは不可能だった。
目を大きく見開いて涙を流しながら、ガッサラは歌の続きを待った。
水が高きから低きに流れるように、音と音とが手を取り合ってガッサラの胸に降りてきた。
〈老いたる杖は若芽を吹き〉
〈死せる勇士はよみがえる〉
辺鄙な村で村人を守って死んだ赤毛の騎士。
その武勲は賞されることもなく、称えられることもなかった。
だが。
神はその戦いをお忘れではなかった。
だからやがて勇士はよみがえるとお告げくださったのだ。
赤毛の騎士は騎士の御園に迎えられて、復活の日を待っている。
かの騎士の家はやがて息を吹き返し、未来永劫栄えるだろう。
〈神の御座は開かれたり〉
〈神の御座は開かれたり〉
中音域に下りてきた音は、力強い三連符のパッセージにより感動的に上昇し、約束の言葉は高らかに謳いきられた。
そして歌は二番に入った。
〈騎士よ〉
〈騎士よ〉
〈聖なる義務に生きる騎士よ〉
一番と同じ旋律で、しかし異なる歌詞で歌い始められた二番。
驚くべきことに、ハミングでバルドの歌に合わせる者たちがいる。
歌の試合の出場者たちだ。
音楽の訓練を積んだ彼らは、一度聞けば旋律を覚えられるのだろう。
いや。
ハミングだけではない。
青の一番の歌い手と、赤の三番の歌い手は、なんと二番の歌詞で歌っている。
審査員たちも目を閉じて歌っている。
控えめな調子で、音を探るように唱和しているが、明らかに歌詞を知っている歌い方だ。
〈なんじの悔恨は刻まれたり〉
〈しかばねの野に〉
〈腐肉の丘に〉
多くの騎士がこの言葉に胸をえぐられた。
歌が終わったあとの宴で、口々にバルドにそう語った。
中でも激しく思い出を語ったのは、馬のような顔をしたパルザムの巨漢騎士だ。
彼ゴーズ・ボアは、士分の生まれではあったが、身分が低かったため騎士にはなれないはずだった。
が、生まれつきの怪力が主家に認められ、騎士になれた。
みにくい顔であったから、化け物と呼ばれ、友はできなかった。
だからこそ必死で任務をこなした。
だが、いくら強くなっても、すべての民を兵士を守ることはできなかった。
ゴーズは常に困難な戦場に投入され、自らも傷つき、多くの敵を肉塊に変えた。
しかし結局は守りきれなかった人々の屍は山と積まれ、その中で泣きはらした。
〈腕は傷つき足は萎え〉
〈槍と斧とは砕かれて〉
いかな怪力にも限りはあり、力尽きれば戦えない。
優良な武具を買えないゴーズは、手持ちの武器をことごとく使い潰してしまうことがしばしばだった。
戦う力のない自分には何の価値もないことを骨身にしみて知った。
動けなくなった自分を部下たちまでが侮蔑の目で見るのはつらかった。
〈失意と怨嗟のまなざしに〉
〈なんじの背は覆われたり〉
この歌詞は、ゴーズの最も残酷な記憶を呼び覚ました。
敵兵を追い払い、ある村を救って、人々に感謝された。
少女が手当をしてくれ、ほほえんで花輪をくれた。
怪物のような異相をしたゴーズにとって、それは何物にも代え難い思い出となった。
半年後、ゴーズはその村を再び訪れた。
焼き払い、殺し尽くすために。
村は死灰病に襲われたのだ。
村人の慟哭と非難の叫び声は、今も耳を離れない。
あの少女も、燃えさかり崩れ落ちた家々の中にいたのだろうか。
伯爵家の養子に迎えられ、よい武具と優れた部下を持つようになった今も、胸の痛みは少しも弱まらない。
〈賛えよ!〉
二回目となるこの歌詞に、大勢の騎士が唱和した。
たくましき歌声は、ゴーズの胸を震わせた。
だが、こんな俺に、いったい何を賛えよというのか。
二つ上の音で繰り返される旋律は、さらに大勢の騎士たちによってたたみかけるように謳われた。
目の前にいる熊のような騎士も、涙を流しながら、まっすぐにゴーズを見据え、力の限りにこの一節を謳った。
〈賛えよ!〉
突然。
ゴーズは、この歌詞の本当の意味に気が付いた。
俺だ。
みんな、俺を賛えてくれているのだ。
よくやったぞ。
つらかったな。
お前は賛えられるに値する。
最高の勇士たちが声をそろえて、そう呼び掛けてくれているのだ。
ゴーズもまた、泣かずにはいられなかった。
泣きながら、歌った。
自分が音痴であることは知っていたが、一生懸命歌った。
熊のごとき雄々しき騎士よ。
お前が俺を賛えてくれるなら、俺もまたお前を賛えよう。
そう彼は思ったのだ。
〈老いたる杖は若芽を吹き〉
〈死せる勇士はよみがえる〉
杖にしてしまった木から若芽が吹くことなどない。
死んでしまった人間は、決して生き返ることはない。
ああ、だが!
神の御許では、枯れた木が芽吹くのだろうか。
死者が生き返ってほほえむのだろうか。
ならば俺の代わりに、あの少女を。
あの少女をよみがえらせてもらえるだろうか。
〈神の御座は開かれたり〉
〈神の御座は開かれたり〉
どこにあるのだ!
神の御座は、どこにある。
あるのなら。
神の御座が本当にあるのなら。
俺はそこにたどりつく。
行って頼みたいことがある。
そして歌は、三番に入った。
〈騎士よ〉
〈騎士よ〉
〈巡礼の騎士よ〉
ジュールラントとシェルネリアも立ち上がっている。
ジュールラントは朗々とバルドの歌に唱和している。
小さいころから何度も聞かせてきたのだから、当然ジュールラントはこの曲を知っている。
〈なんじの勲功は刻まれたり〉
〈人々の胸に〉
〈戦乙女の白き翼に〉
騎士は主家のため命を懸けて戦う。
主家はそれを賞し、領地と恩賞を下賜する。
そして騎士の家は栄えてゆく。
ただし、騎士の戦いは誇り高く正しくなければならない。
栄誉を偽る者を神々は見ておられる。
家臣の働きを正しく賞さないあるじを民はよく知っている。
偽りの功績を刻めば、アイドラの白き翼は復讐の黒色に染まる。
そして陋劣なる騎士の家は絶え果てるのだ。
〈今や恩寵は地にあふれ〉
〈すべての痛苦は癒される〉
〈神の奇跡のふる朝に〉
〈最後の約束は果たされる〉
歌、というものは共鳴作用にほかならない。
試しに練達の歌手の近くに立ってみればよい。
彼の歌はこちらの胸を震わせる。
すべての肉と骨を震わせる。
同じ歌を口ずさめば、彼の響きにつられて、こちらまで名歌手になったかのごとく歌える。
響きのよい石の部屋の中で、騎士たちは両手を広げ、思い思いの姿勢で一つの歌を歌っている。
それはお互いに響き合い、溶け合い、増幅しあって、居合わせる人すべての胸を心を高ぶらせている。
騎士たちのすべてが、この歌の歌詞を見たことがある。
ゴリオラにもパルザムにも、王宮に騎士の間と呼ばれる部屋がある。
騎士の叙任に使われ、また叙任を受けた者の騎士位を追認するとき使う部屋である。
つまり国に仕える騎士なら、必ず入ったことのある部屋なのだ。
その天井にいくつもの歴史画が刻まれている一角に、この「巡礼の騎士」の歌が刻まれている。
ただし、旋律があることは知られていなかった。
バルド・ローエンが歌った、この日まで。
〈賛えよ!〉
〈賛えよ!〉
広間にあふれる逞しい騎士たちが、弓を引き絞るように呼吸をそろえ、力強くたたき付けるようにこの一節を歌った。
すさまじい共鳴が城を揺らした。
そして皆は声の調子を和らげ、天から地上に恩寵が降り注ぐように、次の一節を歌った。
〈老いたる杖は若芽を吹き〉
〈死せる勇士はよみがえる〉
泣いていない者はいない。
それぞれの記憶をかみしめながら、思いを込め、神が約束する復活と再生を歌っている。
そうだ。
歌とは神の言葉だ。
人がふと聞いた神の福音が形を結んだものが、すなわち歌なのだ。
その確かな約束を信じて今日を歩む騎士の真情が、すなわち歌なのだ。
〈神の御座は開かれたり〉
〈神の御座は開かれたり〉
オー・ディー・エン・ロー。
オー・ディー・エン・ロー。
高らかに、高らかに、全員が一つになって、この一節は歌いきられた。
最後の音は、長く長く引き延ばされた。
歌によって引き出された恩寵が部屋中を満たしている。
空気が、心が、震えている。
歌い終わったとき、誰もが泣いていた。
泣きながら、誰もが誰かに抱きついた。
ガッサラ将軍は、馬のような顔をしたゴーズ・ボアと抱き合った。
ガッサラをとめようと飛び出していたキリー・ハリファルスは、赤の一番目の歌手と抱き合った。
青の一番目の歌手は、赤の二番目の歌手と抱き合った。
青の二番目の歌手は赤の三番目の歌手と、青の三番目の歌手は赤の四番目の歌手と抱き合った。
青の四番目の歌手は右にも左にも抱き合う相手がいなかったので、柱に抱きついた。
ジュールラントとシェルネリアは、顔を見合わせて笑みを交わしていた。
7
審査員の一人が進み出て、高く右手を差し伸べた。
物音は次第に治まり、ほどなくしんと静まりかえった。
大広間に、審査員の声が響いた。
「辺境は文化の遅れた地である、とわれらは言う。
それはその通りに違いない。
だがいっぽうで、こんなふうに言うこともある。
辺境にこそ、古き良きものは残っている、と。
それがまさに真実であることを、今日われらは知った。
バルド・ローエン卿が教えてくだされたこの歌は、長らく失われていたものだ。
失われてはならない貴重な歌だった。
だがもう二度と失われることはない。
ローエン卿のおかげで。
そしてまた、われらは知った。
なぜ騎士の武芸の一つに歌が含まれているのかを。
なぜこの競武会の最終種目が歌であるのかを。
歌を歌うことの本当の意味が何であるかを。
本日の歌の試合については、勝者はなしとする。
ゴリオラも、パルザムも、その栄光にはふさわしくない。
かといって、出場者ではないローエン卿を勝者とすることもできない。
ところで、諸卿は、〈歌の騎士〉をご存じであろう。
古いおとぎ話に、古代の戦場に現れた〈歌の騎士〉の伝説がある。
その歌を聞けば味方は勇気に奮い立ち、敵は恐怖におののいた。
傷つき倒れた者は癒されよみがえり、いっそう雄々しく戦った。
その伝説になぞらえ、かつて大国の歌合わせでは比類なき歌い手にこの名を贈った。
しかしそれも昔のこと。
もう百年以上にわたり、〈歌の騎士〉が出たことはない。
今、ここに、提案する!
パルザム、ゴリオラ両国代表と両国騎士諸卿の名において!
パクラの騎士バルド・ローエン卿に、〈歌の騎士〉の名を贈ることを!」
ガッサラ将軍は右手を肩の高さに上げ、手のひらを前に向けて宣言した。
「賛同する」
ゴーズ・ボアもまた手のひらを差し伸べて宣言した。
「賛同する」
誰も彼もが同じように賛同を表明した。
やがて会場は嵐のような拍手に包まれた。
2月10日「褒賞」に続く




