第3話 薬師の老婆(後編)
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老婆の前に、高々と薪が積まれている。
油をたっぷり含んだコイネンシリーの木が近くにたくさん生えていたから、その枯れ木をできるだけ拾った。
手前には、種火をつけるために、コイネンシリーの細長い枯葉と、ポルポムの薄くて平べったい枯葉が一抱え積まれている。
ゲリアドラの茎は、簡単に切り落とせる。
今生えている茎をすべて切り落とすのは、多少時間がかかるものの、無理な話ではない。
しかし、それでは地下茎が残ってしまうという。
この群生は、地面の下に生えている根ですべてつながっており、いわばこの全体が一つのゲリアドラなのだというのだ。
ゲリアドラは、本来生命力の弱い植物であり、芽を出してもすぐに枯れてしまう。
しかし、ある程度以上の大きさに育つと飛躍的に強靱になり、ほかの植物を駆逐して成長し、地上茎を伸ばし始める。
この呪われた植物を滅ぼすには、大きな火で地下茎を焼くしかないのだという。
ゲリアドラはそういう植物じゃとして、中の虫はどこから来るのかのう。
という問いに、老婆は、それは分からない、と答えた。
ゲリアドラの実には、必ず虫の卵が入っているのだという。
もしかしたら、あの虫は虫ではなく、虫のように振る舞う植物なのかもしれず、逆にゲリアドラは植物にみえる動物なのかもしれない。
いつかお偉い学者さんに会うことがあったら、ぜひ聞いておいてほしいもんだ、と老婆は言った。
「やっとくれ」
老婆の合図を受けて、バルドは火打ち石を打ち合わせた。
火花が散って、ポルポムの葉が小さく燃えた。
火はまたたく間にポルポムの葉五、六枚に燃え広がる。
続いて、コイネンシリーの茶色い枯葉が、ばちばちと音を立てて燃え始める。
バルドは、邪魔にならないように、静かに後ろに下がった。
老婆は、目を閉じ、手を合わせて、何事かを唱え始める。
聞こえないほど小さな声でささやかれていた唱え言葉は、次第に大きくなっていく。
聞いたことのない言葉だ。
どんな意味なのか、バルドには見当もつかない。
謳い上げられるその祭文は、まるで熟練の楽士の歌声のごとき蕩々たる韻律を刻む。
唱える老婆の後ろ姿は、もはや腰をかがめてもおらず、弱々しくもない。
老婆が大きく両手を開いた。
ぶあっと炎が薪全体に燃え広がる。
押し寄せる熱風に、バルドは、自分の肌も一瞬焼かれたように感じた。
バルドは、斜面を下り始めた。
ちゃんと火がついたら、谷川のさらに向こうの湿地まで避難しているように、老婆からいわれていたのだ。
馬は、老婆の荷物とともに、すでに移動させてある。
そんな遠くまで逃げなければならないとしたら、老婆自身も危険ではないかと聞いた。
老婆は、
「あたしが火に焼かれても大丈夫だっていうのは、もう話しただろ」
と答えた。
あれはそんな話だったかのうと訝しみながらも、この叡智ある薬師には、それなりの算段があるのだろうと、素直に指示に従うことにした。
離れる前に、もう一度火の様子を確認しようと振り返ったバルドの目に、老婆に襲い掛かろうとする巨大な盾蛙が映った。
バルドは、剣を抜いて駆け出した。
盾蛙は、蛙の名が付いてはいるが、種族からいえば蜥蜴の一種である。
巨大な蛙を平べったく押しつぶしたような姿をしているため、そう呼ばれる。
緑と黄と黄緑と茶色のまだら模様をしており、木や草に紛れて不思議なほど見つけにくい。
巨大な体軀の前半分が口、といってよく、ぎざぎざの歯がびっしり生えたその殺傷力は、戦慄すべきものがある。
表皮はつるつる滑って異様に硬く、さらにその下には鎧のような外骨格があり、剣ではまず有効なダメージを与えられない。
今、老婆を襲おうとしている盾蛙は、バルドの記憶にもないほど巨大で、体長が人のそれを上回っている。
間に合えっ。
と思いながら走り寄るバルドの目の前で、盾蛙が、ばくりと口を開けて跳躍した。
バルドも跳んだ。
盾蛙の化け物じみた口が老婆の腰に届く寸前、バルドが横から体当たりした。
バルドは跳ね返されて、どさりと草の上に落ちたが、がむしゃらな特攻のかいがあって、盾蛙の攻撃は、わずかに老婆からそらされ、燃えさかる薪の端に突っ込んで、火の粉を高く上げた。
さすがに熱かったのであろう、嫌がるそぶりを見せて火の粉を払い、盾蛙は、のろのろとバルドのほうに向きを変えた。
バルドを敵と認定したようだ。
ならば、盾蛙を引きつけて逃げればよい。
立ち上がろうとして、バルドは、胸と腰に強い痛みを感じた。
まずい。
この状態では、早くは走れない。
ざざざざざっ。
音を立てて盾蛙が迫る。
盾蛙の四肢は短いが、移動は意外と素早い。
十歩か二十歩を素早く走ると、停止して一呼吸し、また十歩か二十歩を走る、という移動の仕方をする。
なぜかまっすぐには進まない。
斜め前、斜め前へと、じぐざぐに前進する。
そして最後に獲物に飛び掛かるのである。
バルドは、ぎりぎりまで盾蛙の動きを見極め、飛び掛かる瞬間、右横に跳んだ。
遠くに逃げられないなら、木が密集して生えた地点で相手の攻撃を封じようと考えたのである。
盾蛙の方向転換と移動速度は、バルドの予想より速かった。
それでも、じぐざぐに走りながら、三度攻撃をかわして、なんとか木立に飛び込んだ。
そのすぐ後ろから、盾蛙が飛び掛かってくる。
太ももほどの木の後ろに逃げたが、盾蛙は、跳躍攻撃により、いともたやすく木をへし折った。
折れ飛んだ木が左肩に当たって、バルドははね飛ばされたが、そのおかげで蛙の巨大な顎に捕らわれずに済んだ。
何本かの木が固まって生えている場所に逃げた。
いくらなんでも、この太さの木をへし折ることはできない。
また、木と木のあいだには、この大きな蛙が通れるだけの隙間はない。
これで一息つける、と思ったのは大きな間違いだった。
蛙が跳びかかってくる。
驚いたことに、化け物蛙は、空中で身をよじり、ほとんど真横になった態勢で木々の隙間を抜け、バルドに襲い掛かった。
そのとき、バルドの左手に触れたものがあった。
薪を集めたときにこぼれ落ちた木切れである。
盾蛙が、ぱかっと大口を開ける。
びっしりと生えたぎざぎざの歯と、毒々しくぬめる口腔が、バルドの目にさらされた。
木切れをその口中深く突き込んだ。
蛙は口を閉じて左腕を食いちぎろうとした。
だが、口の開閉方向に対してちょうど垂直に突き込まれた木切れがつっかい棒になり、蛙は顎を閉じきれなかった。
バルドと蛙は、もつれあって転んだ。
蛙の歯が左腕に食い込んだが、突き込んだ左手を引こうとはしない。
蛙のどんよりした目に、怒りの炎がともり、口が極限まで大きく開かれた。
委細構わずバルドをかみ殺すつもりであろう。
バルドは逃げなかった。
逆である。
体ごと、蛙の口の中に飛び込んだ。
右手の剣を深く深く口の奥に突き出す。
同時に、左手にもった木切れを、より口中深くに差し入れた。
蛙の口が閉じられた。
しかし、根元の部分で木切れがつっかい棒になったため、バルドを食い殺すことはできない。
今やバルドの上半身は、完全に蛙の口の中に飛び込んでいる。
右手の剣を、角度を変え何度も蛙の体内深くに突き入れた。
狙うは心臓である。
と、蛙が激しく身をよじって、バルドをはね飛ばした。
バルドは、起き上がることができず、顔だけ起こして蛙を見た。
蛙は仰向けにひっくり返って、びくんびくんとけいれんしている。
その動きは次第に小さく緩慢になり、ほどなく死んだ。
盾蛙を一人で、しかも剣で倒したとは、大殊勲だのう。
わしも、まだまだやれるわい。
と、バルドは自分の悪運に感心した。
もはや逃げるどころか、身を起こすこともできない。
顔もひげも手も、蛙の血と体液でべとべとだ。
首をひねって、老婆のほうを見た。
そこには、目を疑う光景があった。
燃えさかる炎は、次々と山の木々に燃え移り、奇怪な植物の群生地を取り巻いている。
炎は一斉に群生地に襲い掛かった。
燃える。
燃える。
悪魔の実を燃やして炎が燃える。
皮膚が焼けるような暑さを感じた。
が、バルドの注意は、痛みにも、暑さにも、意志を持つかのように目標に襲い掛かる焔にも向いていなかった。
積み上げた薪の前に、一人の女が立っている。
炎を操る歌を歌いながら。
両手を開き、高く掲げて。
一人の若く美しい女が立っている。
真っ白だったはずの毛髪は、腰まで届く黒髪となり、炎が生み出す風にあおられて豊かに波打っている。
ぼろぼろの旅装だったはずの衣服は、半透明の薄衣となり、炎に照らされて、その妖艶な肢体を余すところなく浮かび上がらせている。
バルドから見えるのは後ろ姿だけであり、顔は見えない。
しかし、その顔が若々しく、この世のものとは思えないほど美しいものであることを、バルドは疑わなかった。
炎と、それを操る女の姿は、不思議と神々しさをたたえて、バルドの心に安らぎを与えた。
熱風にあおられながら、バルドはおのれの信奉する神の名をつぶやき、意識を手放した。
6
バルドは、いつの間にか湿地に運ばれ、手当を受けていた。
火は三日三晩燃え続けて、ゲリアドラの根を焼き尽くした。
それから一か月のあいだ、バルドは老婆と行動を共にした。
老婆は、さまざまな薬草と処方について、バルドに教えた。
食べられる植物の根や調理法についても、知識を伝授した。
病気が移りにくくなり毒にも強くなるという苦いどろどろした薬湯を毎日飲まされたのには、すこし閉口した。
腰や肩の痛みが治る薬はないかとバルドが聞けば、老いは病ではないよ、という答えにならない答えが返ってきた。
一か月目に、人里が見える地点に出た。
大河オーヴァも遠くない。
パクラから大河オーヴァまで、徒歩でも急げば十日で着く。
荷物があったとはいえ、それを二か月以上かけて歩いたのだから、ずいぶんゆっくりした旅といえる。
いい旅だった。
珍しい体験ができ、新しい知識をいろいろと学べた。
リンツに着いたらパクラに手紙を書こうと思った。
礼を言おうと振り返ったが、老婆はいつの間にか姿を消していた。
4月19日「勅使と盗賊(前編)」に続く