第6話 カチュアの一枝(後編)
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「ジュルチャガは、よくもあれをかわせるものだ。
よほど目がよいのだな」
ドリアテッサの感嘆は本心からのものだ。
うらやましげな響きさえある。
「え?
白刃のこと?
見てないよ。
あんなもん、見えるわけないじゃん」
「何?
見えてないのにどうしてかわせる」
「うーん。
雰囲気?
あ、でも、相手の足元は見てるよ。
あと、目とか手とか体全体をやんわりとね」
「大したものじゃのう、ジュルチャガよ」
ゴドン・ザルコスも感心しきりだ。
「そう?
えへへへへへ。
そんなに賞められると、照れちゃうなあ。
まあ、おいらみたいな商売続けるにゃあ、これくらいはできないとね」
「おお。
そうじゃろうのう。
さすがじゃ」
たぶん二人の会話はかみ合っていない。
ジュルチャガのいう商売とは、盗みのことだ。
ゴドンは、ジュルチャガがリンツ伯子飼いの密偵だと思っているようだ。
「まあ、自慢じゃないけどね。
剣だろうがナイフだろうが、前からだろうが後ろからだろうが、まともにくらったことなんかないよ」
わしの投げた魔除けの像はくらったではないか、とバルドは冗談めかして言った。
去年の九月、パルザム王の勅使の宿舎にジュルチャガは侵入した。
勅使も腕利きの護衛二人も宿の者たちもすべてしびれ薬で動けなくして。
居合わせたバルドが薬草の力を借りてジュルチャガを捕らえた。
魔除けの像を投げつけるという方法で。
それがバルドとジュルチャガの出会いだったのだ。
「うん。
だから不思議なんだよ。
あんなの当たるおいらじゃないんだ。
だからね。
おいらもバルドの旦那には何かあると思った」
食事のあとも、カーズはジュルチャガを追い回した。
無表情だったが、先ほどより剣速が明らかに速い。
かわされ続けたのが気に障ったのだろうか。
さすがにジュルチャガもかわしきれなくなり、袖を切り飛ばされたところで滝壺に飛び込んで逃れた。
そのあとカーズは空中に斬撃を放ってみせた。
ドリアテッサは、必死に剣筋を見極めようとした。
空を斬ってりゃいいんだったら最初っからそっちを斬れよー、と水から首を出してジュルチャガは文句を言った。
それからというもの、一日の半分はドリアテッサに隙を打たせ、あとの半分は虚空かジュルチャガを斬ってみせた。
ドリアテッサの武威はみるみる研ぎ澄まされていった。
もともとよい師について技はじゅうぶんに練り上げていたのだろう。
十九歳という年齢にだけ与えられる成長力が、日に日にドリアテッサを開花させていく。
ついでにジュルチャガの回避力もさらに上がっているようだ。
そんなある日のことである。
いつものように、隙を作って打ち込ませていたカーズが、突然殺気を放った。
バルドがそれに気付いたときには、カーズの剣はドリアテッサの首を打ち抜いていた。
と見えたのは錯覚で、ドリアテッサは鮮やかにカーズの剣をかわして、刺突ぎみの斬撃をカーズの左肩に打ち込んでいた。
要求された通りの位置だ。
打撃はじゅうぶんに速度が乗ったもので、革鎧を着けていなければ、大けがをしたところだ。
初めてドリアテッサの剣がカーズを捉えた瞬間である。
無論、これはわざと打たせたのであり、今日に限って革鎧を着けているのがその証拠だ。
逆にいえば、打たれてもよいとカーズが認める一撃が放てるようになったのだ。
それはドリアテッサにも分かっている。
ドリアテッサは、思わずといった様子でその場に片膝を突き、
「ありがとうございました!」
と言って、頭を下げた。
カーズは、笑ったとも笑わなかったとも取れる笑みを浮かべて、かすかにうなずいた。
そして、すたすたと川べりに近づくと、カチュアの枝が伸びて一輪の花が咲いている、その前に立ち。
音も立てず剣を抜いて一閃させた。
ひと呼吸のあと、花の付いた枝がほろりと落ちる。
それを剣の平で受け、ふわりと投げた。
飛んで来た赤い花を、ドリアテッサは思わず受け取った。
「おう!
粋なまねをするではないかっ」
と言ってゴドン・ザルコスが笑った。
が、カーズが見せたかったのは肉厚で大輪のカチュアの赤い花ではない。
切り口だ。
ジュルチャガも、にこにこしている。
バルドは、笑わなかった。
今見た剣さばきが、記憶の中の光景を鮮やかによみがえらせたからだ。
ずっと昔、少年の日に一度見ただけの剣さばきを。
吸い寄せられるように、バルドは川べりに歩いた。
そして、カチュアの枝が伸びている前に立ち、古代剣を振り上げて。
無造作に振り下ろした。
鉈のごとき無骨な剣は、枝を素通りするかのように振り切られ。
しばらくして思い出したように枝が落ちた。
できた!
何度やってもできなかった技が、今、できた!
感慨にふけるバルドを、驚きの目でカーズが見ていた。
花びらさえ散らさずに水面に落ちたその枝は、見る間に下流に運ばれていった。
「おやじ殿。
剣は誰に習った」
夕食の席で、カーズが訊いてきた。
バルドは、初め流れの騎士に一年習って、あとはエルゼラ・テルシア様に習った、と答えた。
カーズは、そうか、と言ったあと、いつものように黙り込んだ。
6
ジュルチャガとドリアテッサが、岩棚から滝壺を見下ろしている。
「ジュルチャガ。
あれは何という鳥だ」
「あれはモルッカだね。
前を泳いでる大きな二羽が、父ちゃんと母ちゃん。
後ろを泳いでいる小さくて羽の色が薄い二羽が、子どもたち」
「ほう。
そうなのか」
「うん。
モルッカは、毎年春に子どもを産むんだ。
最初のうちはね、母ちゃんの羽の中に潜り込んでてさ。
首だけを突き出して、口をぱくぱくするんだ。
食い物よこせーっ、食い物よこせーってね。
で、父ちゃんが水に潜って小魚や海老を捕まえて、食べさせる」
「見てみたいな、それは。
さぞ可愛いだろうなあ」
「そりゃあもう、かわいーよ。
父ちゃんが疲れたら、どーすると思う?
父ちゃんはね、母ちゃんの前に回って首をへたーって水につける。
そうすると、母ちゃんはぶるぶるって体を震わせて、子どもたちを水に落とすんだ」
「えっ?
それでは、ひな鳥たちは死んでしまうではないか」
「死なないよー。
水に落ちた子どもたちは、母ちゃんの羽に戻ろうとするけど、母ちゃんはまたぶるぶるって体を震わせて、子どもたちをはじき飛ばす」
「か、かわいそうではないかっ」
「いや、違うから。
そうするとね、子どもたちは父ちゃんの体にのぼって、その羽に潜り込むのさ。
そして今度は母ちゃんが水に入って餌を採ってくるってわけ」
「なるほど。
夫婦で協力し合うのだな。
モルッカというのは、偉いものだなあ」
「秋になると、もう子どもたちは自分で餌を採れるんだ。
春になったら旅立って、相手を見つけてつがいになり、自分の子どもを作るんだよ」
その翌日、ふとバルドが滝壺を見ると、ドリアテッサが泳いでいた。
二羽の大きなモルッカと少し小柄な二羽のモルッカが泳ぐ、そのあとについて泳いでいる。
体を小さく縮めて、狸が泳ぐように手足で水をかいて泳いでいる。
ひな鳥にでもなったつもりなのだろうか。
のどかな光景だった。
このところ、ドリアテッサの剣は伸びやかさを増しているようにみえる。
技だけでなく、心も成長しているのだろうと、バルドは思った。
無邪気に泳ぐドリアテッサを、カーズが見ている。
ふさふさとした眉毛がかすかな風にそよいでいる。
すでに赤い鴉は影も見えない。
移動がないのでユエイタンは力を持て余し、そこら中を走り回っている。
いつの間にかクリルヅーカもついて走るようになった。
巨大な野生馬であるユエイタンが本気で山野を駆け抜けたら、小柄なクリルヅーカはとてもついてゆけない。
なのにいつも一緒に戻るのだから、ユエイタンも見かけによらず面倒見がよい。
7
鼻をかすめた風の寒さで目を覚ました。
焚き火の火勢が落ちている。
バルドは身を包んでいたマントを解いて起き上がり、燃えさしの薪を中央に移し、新たな薪を周縁に置いた。
一晩に使う薪の量はなかなかのもので、あまり火勢を強くしすぎてはいくら薪があっても足りない。
かといって火を絶やすわけにはいかない。
普通なら見張りの順番を決めて誰かが起きているものだ。
が、この一行ではそういうことをしていない。
それであるのに、火が絶えたことはない。
そのつど気付いた者がやり、それでうまくいっている。
何年も行動を共にした仲間であるかのように、連携が自然にできている。
風をさえぎる場所に、力自慢のゴドン・ザルコスが集めてきた薪が積み上げられている。
再びバルドが眠りに落ちてしばらく後、またも火勢が落ちた。
バルドは、うつらうつらとしながら、誰も起きないようなら自分が起きようと思った。
起きた者がいた。
ドリアテッサだった。
毎日の修行で疲れていて夜起きるのは珍しい。
それだけ体が慣れてきたのだろう。
岩のくぼみの風が吹き込まない場所に一同は休んでいる。
砂と枯れ葉を何重にも敷き詰めた上に草を積んであるので、体の熱はひどく奪われはしない。
それでも空気にさらされた耳や鼻や指は、夜明けごろには氷のように冷たくなる。
バルドは、マントにすき間がないか確かめ、首を潜り込ませた。
そして、ドリアテッサが薪の世話をする音を聞きながら、もう一度眠りに落ちた。
8
また別の深夜のこと。
バルドは起き上がって焚き火から離れた。
優しき姉の月が森を照らしている。
日中は気を張っているので意識しないが、こうして夜中に目覚めると、老いを感じる。
ぎりぎりと、そこここの関節や肉が悲鳴をあげている。
しかたないことだ。
年を取れば小便が近くなるし、体はきしむ。
だが同時に痛みや不調と付き合いながら生きていくすべも覚えるものだ。
こうして夜更けの森の清涼な空気を胸一杯吸い込めば、体中にあたたかい血がめぐり、新たな力も湧いてくる。
人は毎日生まれ死んでいるのだ、とバルドは思った。
そして、とすれば今のわしは死にかけたわしか、それとも生まれたばかりのわしか、と考えた。
分からない。
そうだ。
分からないということが本当だ。
自分が人生のどの部分を生きているのかを人は知らない。
若くても終わり近くを生きているかもしれず、老いていてもまだまだ先があるかもしれない。
分からないからおもしろいのだ。
生きていることは遊んでいることだ。
この天地の中に体を貸し与えられ、自由に楽しく遊んでいるのだ。
小便をしようとズボンの前を開いたとき、何か小さな生き物が飛び出して川べりを駆けた。
すると虚空から湧いたかのように翼ある生き物が降り立って、その生き物をつかんで飛び去った。
川梟だ。
羽を広げた横幅は、バルドの背丈にもまさる。
スーラの光を浴びて夜の森に舞う川梟。
まるでおとぎ話のような風景だと、バルドは思った。
焚き火のそばに戻ってマントにくるまったが、体が冷えており、すぐには眠れなかった。
バルドは、カーズ・ローエンの騎士の誓いを思い出した。
誰人に忠誠を捧げるかと尋ねたとき、カーズが何と答えるか、バルドは実に楽しみだった。
かつてバルドは、自分の騎士の誓いを導いてくれるのがエルゼラだと知って、途方に暮れた。
導き手その人を忠誠の対象にすることはできない。
だが、エルゼラ以外の誰かに忠誠を捧げることなど、まったく考えられない。
どうせよというのか。
バルドは考えに考えて、わが忠誠は人民に捧ぐ、と宣誓した。
だがそれは、エルゼラを捨てて人民を取ったということでは、もちろんない。
祈誓で忠誠の対象とした相手が誰であろうと、バルドのあるじはエルゼラ以外にないし、主家はテルシア以外にない。
そんなことは自明のことであり、誓いうんぬん以前の問題だ。
だが騎士の誓いは神聖なものであり、嘘やごまかしは許されない。
だからバルドは必死で考えたのだ。
エルゼラの願いをわが願いとするには、何をこそ大切にすればよいのか。
おのれの心の奥底にある理想の騎士の姿は、どのようであれと自分に命じているのか。
そしてバルドは、わが忠誠は人民に捧ぐ、という誓いの言葉を発見した。
それはバルドが生み出した言葉であり、以後の自身の指標となった。
つまりエルゼラに近侍し、代々の当主に仕えて騎士の務めを果たすうえで、その言葉は闇夜の松明のようにバルドの足元を照らした。
それだけではなかった。
老いを感じ、今こそテルシア家を辞すときだと思ったとき、その言葉がバルドを助けてくれた。
もしも、エルゼラ・テルシアに忠誠を捧げていたら、出奔は裏切りとなり、誓いへの背反となったろう。
そのときようやくバルドは、エルゼラの優しさを知ったのだ。
自らの言葉を生み出し得た者は、真の意味で自由になる。
バルドはヴェン・ウリルに、自由への扉を与えた。
その扉を開いたヴェン・ウリルが、これからどんな生きざまをみせてくれるのか。
いや。
もうすでにみせてくれている。
生きるというのは、なかなかに楽しいものだわい。
まどろみに落ちながら、バルドは思った。
9
その日の夕食は魚だった。
カーズが滝壺で捕まえた巨大な魚だ。
カーズはその魚を、素手で、ついでにいえば素っ裸で捕まえてきた。
ゴドン・ザルコスが驚いて、こんな大きな魚をどうやって捕まえたのかと訊いた。
格闘したような気配は感じなかったからだ。
カーズに言わせると、体温を水底になじませ岩と同じような気持ちになれば魚は逃げないので、そのまま抱き取ればよいのだという。
珍しく長くしゃべったが、意味のよく分からない説明だった。
ジュルチャガは魚を解体し、焼いて食べるとともに内臓の煮汁を作った。
魚の身は赤身だった。
魚の背を、腹を、いろいろな部位を、皆は思い思いにつまみ、場所ごとに違う味を楽しんだ。
煮汁は水と塩だけで仕立てたものだが、ここまで新鮮な内臓だと、まったく臭みがない。
すばらしく酒に合う料理と思われたが、残念ながらもう酒はない。
それから一品、変わった料理をジュルチャガは作った。
ざく切りにした魚の赤身を内臓の煮汁と山で見つけた薬味で味付けして、山芋をつぶしたものをかけたのだ。
これがまた不思議な珍味で、皆を感心させた。
「ジュルチャガは食べる物を見つけるのがうまいな。
森の中にこんなに食べ物があるとは知らなかった」
とドリアテッサが言った。
「えへへへ。
母ちゃんも、食べ物見つけるの、うまかったんだ」
「おお、母親ゆずりか。
母御は、お前によいものをくれたのう。
父御は、どういう男なのじゃ」
というゴドン・ザルコスの問いに、ジュルチャガは、
「うんーっとね。
逃げ足の速い人だった」
「おお、お前の足の速さは父親似か!」
と言って、ゴドンは笑った。
バルドとドリアテッサも笑った。
ジュルチャガも、
「うんっ」
と返事してうれしそうに笑った。
笑いが収まると、バルドは皆に、明日から移動する、と言った。
すでに季節は冬に移りつつある。
夜明けの寒さは日ごとに厳しい。
野営など初めてのドリアテッサには、体調の維持が難しいだろう。
まだ修行はじゅうぶんとはいえないが、そろそろ移動を開始したほうがよい。
オーヴァを渡れる津まで案内してほしい、とバルドが言うと、ドリアテッサは首を振った。
「ご好意はまことにうれしい。
しかし、これ以上私のために、あなたがたの旅を邪魔するわけにはいかぬ」
「いやいや!
もともとフューザのほうに向かうというだけで、決まった行き先のある旅ではない。
ということは、ドリアテッサ殿をオーヴァまでお送りしても、少しも寄り道ではないのだ」
というゴドン・ザルコスの言葉を、いや、そうではない、とバルドはさえぎった。
オーヴァまでではなく、国もとまで送るのじゃ、と。
驚いたように見るドリアテッサに、バルドは言った。
ヘリダン殿に聞いた。
証人が二人要るのじゃろう。
わしたちが、おぬしが確かに魔獣を倒したことを証言する。
ドリアテッサは、深く頭を垂れた。
ずいぶん長いあいだ、その頭が上げられることはなかった。
11月1日「オーヴァを越えて(前編)」に続く




