第6話 カチュアの一枝(前編)《イラスト:カーズ》
1
ドリアテッサと相対したカーズは、剣を持った右手を中途半端に突き出した姿勢を取った。
剣の稽古の四日目である。
バルドは思わず、む、と小さな声を漏らした。
カーズの右肩に隙が見えたのだ。
今までカーズに隙など見えたことはない。
これはわざと作った隙だ。
それにしても、隙というものを、これほどありありと見せることができるとは。
いったいカーズの到達している境地はどのようなものなのだろう。
ドリアテッサは中段に構えた剣先を相手に向けながら、ゆらゆらと揺らしている。
得意の攻撃パターンだ。
この次に剣を振り下ろしつつ前に出て、そこから足を強く踏み込んで突きぎみの斬撃を繰り出す。
それがかわされても、そのあと連続攻撃が続く。
ドリアテッサの持ち味である瞬発力と体の柔らかさを生かした攻撃だ。
彼女の師は、彼女の資質を正しく見抜いたうえで、長所を徹底して引き立てる指導をしたようだ。
剣も攻撃パターンにふさわしい。
この魔剣は今回に限り貸し与えられたものらしいが、もともとこれに近い剣を愛用しているのだと思われる。
魔剣〈夜の乙女〉は、剣幅狭く身は厚く、鋭い剣先と刃を持つ。
刺突剣に刃を付けたような形状だ。
昔、刺突剣がもてはやされた時代もあった。
だが、鎧が発達して騎士がプレートアーマーを着用するようになると、刺突剣を使う騎士はいなくなった。
一つには、鎧の上からたたき付けてダメージを与えられるような剣が主流となったからである。
もう一つには、攻撃する側の騎士も重装備となり、刺突は鋭さを欠きがちで、しかも相手に反撃の好機を与えてしまうからだ。
今では刺突剣の名残というべき刺突短剣を従卒や従騎士が持つばかりだ。
それは落馬転倒した騎士の鎧のすき間から相手を突いて倒すための武器である。
刺突剣に刃を付けても、打撃に威力ものらないし、やたら折れやすい剣になってしまう。
だがこの魔剣の頑丈さは並ではなく、切れ味抜群の刺突剣という、いささか反則的な武器となっている。
この剣であれば、プレートアーマーを刺し貫くこともできるかもしれない。
といっても、競武会では自身の剣を使うことはできない。
鎧は自前の物を使えるが、武器と盾は用意された物の中から選ばなくてはならない。
ドリアテッサは右足を強く踏み込むと、距離を一気に縮め刺突ぎみの斬撃を放った。
素晴らしい速度だ。
だが、そこからの連続攻撃は出なかった。
ドリアテッサの剣をカーズが横にはじいたからだ。
ドリアテッサはつんのめって、無防備な体をさらした。
顔色を青くしたが、カーズは攻撃するでもなく剣を収め、ふいと向きを変えて歩み去り、お気に入りの岩棚にごろりと横になった。
不始末をしでかしたらしいことに気付き、ドリアテッサはうなだれて立ち去り、一人で素振りを始めた。
朝食のときもずっと考えていたのだろう。
誰に言うともなく、
「何がいけなかったのだろうか」
と、小さくつぶやいた。
それにジュルチャガが答えを与えた。
「え?
指示された所を打たなかったからじゃないの?」
ドリアテッサが驚いたようにジュルチャガを見た。
バルドも驚いた。
このひょうきん者には、あの隙が見えていたのだ。
食事のあと、再び稽古があった。
ドリアテッサは慎重にカーズが作った隙を見極め、正しく打ち込んだ。
その剣はやはり横にはじかれたが、カーズはすぐに次の隙を作った。
つまり、これでよいのだ。
ドリアテッサは次々に作られる隙に、一心不乱の打ち込みを続けた。
翌日の稽古の初めに、やはりカーズは隙を作って打ち込ませた。
そのあと、横を向いて何もない空中に斬撃を放った。
中段に構えた剣を素早く前に突き込む太刀筋だ。
これは間違いなくお手本を示したのだ。
体の柔らかさと並外れた瞬発力を生かすため、得意の刺突ぎみの斬撃を磨くのがよい、とカーズも考えたのだろう。
ドリアテッサは岩棚に寝転がったカーズに一礼してから、空中に斬撃を放ち続けた。
それはよくカーズの動きをまねしているようにみえたが、何かしら物足りないものをバルドは感じた。
問題を正しく言い当てたのは、またしてもジュルチャガだった。
「ドーラ。
それ、違うよー」
何が違うと訊くドリアテッサに、ジュルチャガは、
「カーズはねー。
空中に隙があるぞー、って想像して、そこをきっちり打ち抜いてた」
それだ、とバルドは思った。
ドリアテッサも同じだったのだろう。
力強くうなずくと、再び素振りを続けた。
その剣先は今までとはまるで違う鋭さを持っていた。
ドリアテッサが正しく隙を打てるようになると、カーズは連続して次々に隙を作り、打ち込ませた。
ドリアテッサが打ち込む直前に隙の位置を変えるようなこともした。
それを無心に追って、ドリアテッサは鍛錬を続けた。
2
ドリアテッサは日課になった水浴をしている。
最初のうちは岩陰で身を洗うだけだったのだが、皆が思い思いに滝壺で泳ぎ回るのがうらやましかったらしく、下流のほうで泳ぐようになった。
皆も気を遣って、ドリアテッサが泳いでいるあいだは下流に近づかない。
バルドはしばらくして気付いたのだが、ドリアテッサの水泳中は、カーズかジュルチャガのどちらかが滝壺の近くにいる。
何かあったときのために。
ここらあたり、二人とも意外と女に優しい。
また、相談したわけでもないのに自然にそうできているのだから、この二人は案外気が合うのかもしれない。
今はカーズが滝壺近くの岩棚で待機している。
ジュルチャガはといえば、ゴドン・ザルコスに字を教わっている。
自分の名前以外書けないと知って、ゴドンが教師役を買って出たのである。
物覚えはよいようで、どんどん字を覚えているらしい。
と、ドリアテッサの悲鳴が響いた。
カーズが飛び出した。
バルドが現場に着いたときには、事は終わっていた。
狼が出たらしい。
カーズは剣も抜かず、にらみつけただけで狼を追い払ったという。
人間は平気で斬り殺すのに動物の命はむやみに奪わない。
おもしろい男だとあらためて思った。
この日以来ドリアテッサは堂々と滝壺で泳ぐようになった。
しかもまったく服をまとわずにである。
少しでも服を着ると、爽快感が損なわれるのだという。
それはそうに違いないが、貴族の娘としては不思議な感覚の持ち主である。
もっとも貴人の女性は侍女や下人の前では平気で肌をさらすというから、逆に貴族らしいのかもしれない。
最初は目のやり場に困ったが、そのうち慣れた。
森の妖精が泳いでいるのだと思うことにした。
じろじろ見はしないが、思わず目に入ることもある。
ドリアテッサの胸は意外に大きく、形もよい。
うす紅色の乳首は、日の光に透かせたユフの実のように鮮烈だ。
滝壺の碧色にぽつんと浮かぶ純白の裸身には、不思議な美しさがある。
知らずに見れば、本当に妖精かと思っただろう。
ずっとあとになって分かったのだが、ドリアテッサのほうでも、バルドたちを森の神々だと思うことにしたのだそうだ。
お互いにそう思えるほど、どこか現実離れした優しく豊かな空間がそこにあった。
このときは気付かなかった。
ドリアテッサにとって、ぬげる、ということがどれほどの喜びであるか。
名工の手による白銀の鎧を。
業物の魔剣を。
大国の名家の娘であることを。
義務や期待やしがらみを。
すべてを脱ぎ去ってなお生きられる場所があるのだと知ることの歓喜を、このときドリアテッサは味わっていたのだ。
まるで子どものように自由に。
鳥やけもののように、一切を飾らず。
滝壺で泳ぎながら、ドリアテッサもまた生まれ変わったのだ。
真裸になって沐浴し、鳥や魚とたわむれたのも、ひとつの儀式のようなものであったかもしれない。
カーズ・ローエンの誕生を見て、あこがれ、自分も生まれ変わりたいと願った無意識が、彼女を導いたといえなくもない。
そしてそれを見守る一行の心身も、深山に横溢する神々の恩寵のなかで、新生の時を得た。
ともに恩寵を受けた者たちのあいだには強い縁が生ずる。
バルドと、ゴドンと、ジュルチャガと、カーズと、そしてドリアテッサの固い絆は、この滝のほとりで結ばれたのだ。
バルドはのちにそう振り返ることになる。
3
「伯父御、一手お願い申す」
と、ゴドン・ザルコスが言った。
ドリアテッサの修行に刺激を受けたらしく、毎日のようにバルドに手合わせを頼むようになったのだ。
しかたがないので付き合った。
もはやゴドンのふるうバトルハンマーに、かつてのようなたどたどしさはない。
無駄なく的確に、そして着実に相手を追い詰めるハンマーさばきを、すっかりものにしている。
そのくせ一撃一撃にすさまじい破壊力が乗っているのである。
たぶん、ゴドンは今武人として絶頂期にある。
こんなやつとはまともに手合わせなどできんわい、とバルドは最初思った。
ところが、である。
不思議なことに、バルドはやすやすとゴドンの攻撃を見切り、いなすことができた。
一つには、古代剣の存在も大きい。
なにしろ、折れるとか欠けるとかいう心配が要らない。
こんな頑丈な剣は、またとないだろう。
しかしそれにしても、なぜゴドンの攻撃を、こうもうまくさばけるのか。
この年になってまだ成長しているというわけでもあるまいに。
実際、腰は相変わらず痛いし、全身の筋肉も若いころのようには動かない。
肩と肘の痛みはここしばらく治まっているが、力も速さもゴドンには及ばない。
それなのに、まるでこちらが格上であるかのように、ゴドンの攻撃をさばき続けることができている。
自分の調子の良さの原因は分からなかったが、心ゆくまでゴドンの相手をしてやれるのだから、悪いことではない。
もっともゴドンのように底なしの体力を持っているわけではないから、あまり長い時間は打ち合えない。
老いを感じ始めてから、稽古に体力を使うことは少なくなった。
こんなに自由に気楽に武技を競えるのは、ずいぶん久しぶりだ。
ふしぎな楽しさを、バルドは存分に味わっていた。
4
ドリアテッサは剣を持たずに立っている。
カーズの剣が鞘走る。
その刃はドリアテッサの顔の寸前でぴたりと止まった。
ドリアテッサはかわすこともできず、目を見開いて棒立ちしている。
それが不満だったのか、カーズは剣を鞘にしまって、しばらく考えるふうだった。
と、その目線がジュルチャガに向けられた。
「ちょ、ちょ。
カーズ君?
そんな目つきでお兄ちゃんを見ちゃいけないよ」
カーズは水の上をすべる蜘蛛のように近づき、ジュルチャガに斬りつけた。
「のわっ。
あ、危ないって」
ジュルチャガは、不格好に、だがものの見事に剣をかわした。
カーズは相変わらず無表情だったが、にたりと笑ったように、バルドにはみえた。
立て続けに斬撃が浴びせられた。
ジュルチャガは、わっ、ほっ、などと奇声を上げながらかわし続けた。
カーズの攻撃は、段々速度を増していく。
もはやバルドの目には、その剣の先端部分はとらえられない。
それでもジュルチャガはかわし続けた。
ふとドリアテッサを見ると、食い入るようにカーズの剣を見つめている。
その集中力は何よりの宝物じゃぞ、と心の中でつぶやいた。
イラスト/マタジロウ氏
10月28日「カチュアの一枝(後編)」に続く




