第5話 滝のたもとで
1
ジュルチャガとカーズの追いかけ遊びは、まだ続いている。
ジュルチャガはずっと木の枝を振り回している。
よく息が続くものだ。
枝の振り方もなかなか鋭い。
「おいら、弓もナイフも、まるっきり駄目なんだよね」
と言って一切武器を取らない男なのだが。
それより驚くのは身のこなしだ。
身軽な男と知ってはいたが、あらためて感心させられた。
濡れた落ち葉を乗せた岩から岩にぴょんぴょんと飛び移りながら、足を滑らせない。
どうやってか、乗っても崩れない岩を瞬時に見分けられるようだ。
それは逃げるカーズのほうも同じではある。
ジュルチャガと相対して縦横無尽に振り回される木の枝をかわしながら、追い詰められると次の岩に飛ぶ。
後ろ向きのまま飛んで的確に次の岩に乗るのだから、まるで曲芸だ。
だがこの男は〈赤鴉〉と呼ばれた剣客で、死神のように恐れられる手練れだ。
その手練れと五分の追いかけ遊びをしているのだから、意外に武芸の才能はあるのかもしれない。
ふと横をみれば、じゃれ合う二人をドリアテッサが見つめている。
その眼差しは、至極優しい。
汚れをすっかり落とした横顔は、まことに美しい。
若々しい肌は透き通って、その内側から輝いている。
まぶしいほどの皓さだ。
いつもは後ろで留められている栗色の長髪は、今はほどかれて風にさらさらと揺れている。
弱々しい美しさではなく、りりしい美しさだ、とバルドは思った。
身の丈は、ジュルチャガより少し高く、カーズより低い。
女性としては、やや大柄だ。
骨格はしっかりしており、ことにつんと突き出した鼻先や、切り立つような輪郭の顎は、毅然とした心映えがそのまま像を結んだかのようだ。
だが、ごつごつした印象はこの女性にはない。
媚びるような姿態はまったくみせないのに、どこか儚げでたおやかな空気をまとっているからだ。
のびやかな手も足も小作りな顔も、全体によく調和が取れているためか、実際以上に身の丈があるようにみえる。
その整った美しい顔が、ふとバルドのほうに向けられた。
茶褐色の双眼には濁りひとつない。
「バルド殿は、不思議なかただな」
凛とした物言いなのだが、とげとげしさはない。
吹き抜ける山の風のように、清涼を感じさせた。
バルドは、このおなごの声は心地よいのう、と思いながら、
そうかの。
と、短く答えた。
ドリアテッサは、再び下流の二人のほうに向き直って、
「うむ。
そうだ」
と、小さく言った。
2
夕食の席で、ジュルチャガが訊いた。
「ねえねえ、お姫さん。
辺境競武会ってのに出場するんだよね?」
「うむ、そうだ。
それと、ジュルチャガ。
そのお姫さんという呼び方はやめてくれぬか」
「あ、気に障った?
ごめんねー。
じゃあ、ドリー様って呼んでいい?」
ドリアテッサは渋い顔をした。
ドリーという呼び名は好きではないようだ。
「いや。
その呼び方は好きではない。
それと様も要らぬ」
「じゃあ、ドーラでいい?」
「ドーラか。
うむ。
それはよいな」
気に入ったようだ。
「で、それはどこでいつあるの?
それと、ドーラはどんな競技に出るの?」
「む。
おぬし知らんのか。
有名な競技会だぞ」
実のところバルドも知らなかった。
ゴドン・ザルコスも知らなかったようで、あれこれと質問を挟んだ。
辺境競武会は、現在はゴリオラ皇国とパルザム王国の二か国により、五年に一度開催されており、来年四月の初めに七日間にわたって行われる。
会場は交互に用意することになっており、今回はパルザム王国のロードヴァン城で行われる。
競技は七部門。
第一競技は馬上槍。
第二競技は両手剣。
第三競技は打撃武器。
第四競技は片手剣。
第五競技は細剣。
第六競技は、第二競技から第五競技までの優勝、準優勝者が参加する総合競技。
第七競技は歌。
両国は、第六競技を除く各部門に四人ずつ計二十四人の代表を派遣する。
両国合わせれば参加者総数は四十八人である。
馬と鎧は参加者が用意するが、武器は主催者側が用意する。
この種の競技会には珍しく、この大会には賞金もないし、敗者の武具や馬を奪う権利も与えられない。
得られるのは名誉だけなのだ。
派手な飾りも禁じられている。
各参加者には従者二名の随行が許されるが、それ以外の者は期間中会場に近寄ることも許されない。
観客はない。
参加者自身と従者のほかは、両国主催者とその随員、審判と係員しか観戦できない。
ドリアテッサが参加を願い出たのは、第五競技の細剣部門だ。
第一競技は落馬によって勝負がつく。
第五競技は審判の判定によって勝負がつく。
そのほかの競技は転倒によって勝負がつく。
男の騎士に対して体力では劣るドリアテッサは、技による勝利を目指すしかない。
第五部門の競技なら、ドリアテッサにもわずかな勝ち目がある。
「ドーラは素早いもんね。
でも、金属鎧つけたままで戦うより、革鎧にしたほーが速く動けるんじゃないの?」
「それはそうだ。
だが、刃引きした剣とはいえ、一撃を受ければ相当の痛手を負う。
私の場合一撃で戦闘力を失いかねんからな。
このプレートアーマーは名工の作でな。
金属の全身鎧としては非常に軽く、そのくせ防御力は高いのだ」
全競技において、どのような鎧を用いるかは参加者の自由らしい。
だが第一から第四までの競技、および第六競技では金属鎧を使うのが常識で、逆に第五競技では革鎧を使うのが普通だという。
それはそうだろう、とバルドは思う。
細剣の戦いは技が物を言う。
技を生かすには重い装備は邪魔だ。
いくら軽い金属鎧でも、金属製の籠手や兜は動きを妨げる。
聞けば辺境競武会には、良家の子弟で将の座を嘱望される腕利きの若手騎士たちが出場するという。
プレートアーマーなどを着て勝てるものだろうかと、少しばかり心配になった。
5
夕食の片付けが終わったあと、ドリアテッサはバルドの前にやって来た。
右膝を地に着け、右の拳を地に当てた。
左手は曲げられた左足の膝に置かれている。
これは、家臣や部下が主君に侍る際の容儀だ。
騎士が他家の騎士にこの姿勢を取ることはまずない。
あるとすれば、相手に全面的に心服し、何事かを請願するときだろう。
「バルド殿。
私はあなたにお会いできてよかったと思っている。
命を救われ、さらには魔獣の首さえ得られた恩義は忘れない。
だが、それ以上に、あなたの強さ、優しさ、正しさ、大きさにふれ、目を開かれるような思いがしている。
あなたに対しては、不思議なほど素直に話ができる。
あなたのそばにいると、私は楽になり、強くなり、物事がはっきり見えるようになっていく。
バルド殿。
筋違いな願いであることは重々承知だが、あなたにすがれと私の心の中の何かが言うのだ。
どうしても競武会で勝ちたいのだ。
第五部門と第六部門で優勝したい。
私を導いていただきたい」
ぱちぱちと音を立てて燃えるたき火が、ドリアテッサの白銀の鎧を赤く染めている。
バルドは目を閉じてしばらく考えた。
そして、目を開き、カーズのほうを見て訊いた。
カーズよ。
ドリアテッサ殿は優勝できるだろうか。
カーズは、ただ一度、首を横に振った。
なかば予想していた反応だ。
ただし、はっきりと首を振れるということは、競武会の参加者の技前について、ある程度の見込みがつくということだ。
バルドは重ねてカーズに訊いた。
では、勝てるように指導することはできるか。
この質問に対しカーズは、少しばかり眉を寄せたまま、返事をしなかった。
ふむ。
カーズ・ローエン。
なんじに命ずる。
ドリアテッサ殿が少しでも優勝に近づくよう、できるだけのことをせよ。
カーズはじっとバルドの目を見返している。
了承のしるしだ、とバルドは取った。
そして、ドリアテッサに向き直り、
カーズ・ローエンが稽古をつける。
精進されよ。
と言った。
3
「脱げ」
とひと言カーズは言った。
言われたドリアテッサは、ぽかんとしている。
朝食前に、いつもの通り剣の鍛錬をしていたところである。
ドリアテッサは、毎日稽古を欠かさない。
実のところカーズもそうなのだが、カーズの場合は人に見えない場所で鍛錬をする。
ゴドン・ザルコスなどは、カーズの鍛錬に気付いていないかもしれない。
「鎧を脱ぐように言ってるんだよ。
稽古つけてくれるんだよ、きっと」
と、ジュルチャガが翻訳した。
ああ、と理解して、ドリアテッサは鎧を脱いだ。
脱ぎ終わるのを待たずにカーズは離れた場所に歩いて行く。
とまどいながらもドリアテッサは、剣を持って後に続いた。
心のままに生きよ、というバルドの命を、カーズは忠実に実行した。
つまり、ひどく無愛想で無口な男になった。
これがこの男の本来の姿かと驚きもしたが、雰囲気はむしろ穏やかになった。
この態度がカーズにとって心安らぐものであるなら、バルドに異存はない。
舌を無くしたわけではないから、必要なときにはしゃべってくれるだろう。
草の生えた場所でカーズは立ち止まって振り返り、剣を抜いた。
ドリアテッサも剣を抜いた。
「う、打ち込んでよろしいのか?」
ドリアテッサがためらうのも無理はない。
二人とも革鎧さえ着けてはいない。
手にするのは真剣。
しかも魔剣の業物なのだ。
本当にこれで稽古をするつもりなのか、と訊いてみたくもなるだろう。
訊かれたカーズは、だが静かにたたずむだけだ。
短くない逡巡をへて、ドリアテッサは探るような打ち込みを放った。
その瞬間。
ぱしーん、と大きな音が響いた。
ドリアテッサが吹き飛ばされるように倒れた。
バルドは目を剥いた。
自分が目にしたものが信じられなかった。
なんとカーズは剣の平でドリアテッサの右頬を打ち据えたのである。
騎士の頬を打つ者などない。
それは相手を侮辱する行為だ。
まして剣の平でたたくなど。
ドリアテッサは草むらの中で上半身を起こし、左手を右の頬に当てた。
やがて立ち上がると、剣を構え、油断なく相手を見据えながら、斬撃を放った。
ぱしーん、と再び大きな音がして、ドリアテッサは横にはじきとばされた。
今度は左頬を打たれたのだ。
やはり剣の平で。
今度はすぐに起き上がった。
角度が変わったため、ドリアテッサの表情が見えた。
右の頬は赤く腫れ上がっている。
左手を左頬に当てて、おびえたような顔をしている。
鼻血が流れていることに、自分で気付いているのかいないのか。
思わずバルドは駆け寄りそうになったが、かろうじて自分を抑えた。
ジュルチャガは、つらそうな表情で二人の稽古を見守っている。
ゴドン・ザルコスは、ぽかんとした表情で見ている。
ドリアテッサは、どう心を切り替えたのか、きっとまなじりを結び、剣を大きく振りかぶってカーズに襲い掛かった。
カーズは上半身のひねりでこれをかわした。
続けざまにドリアテッサが攻撃をした。
最小限の動きでカーズがこれをかわす。
相変わらず無表情だが、バルドには、カーズの気配が優しげであると感じられた。
と、大振りの攻撃をかわされて、ドリアテッサが前につんのめった。
カーズはひらりと体を入れ替えると、信じがたいことにドリアテッサの尻を蹴り飛ばした。
ドリアテッサは小さく悲鳴を上げ、まっすぐ前に飛び出して川に落ちた。
すぐに川から頭を出して首を振ったのだが、右手に剣がない。
川に落としたのだろう。
ドリアテッサは息を大きく吸うと、川に潜った。
出番だと思ったのか、ジュルチャガが川に飛び込む姿勢を取った。
その出足をカーズが斬った。
いや、実際に斬ったわけではない。
二十歩ほども距離があるのだから、斬撃が届くはずもない。
だが素早く振られた剣の先が、ジュルチャガの足の前の岩に届いたような気がしたのだ。
手を出すな、というカーズの意志を酌み取り、ジュルチャガは悲しげに首を振った。
それほど深い川ではないし、水は澄んでいる。
何度か潜ったあと、ドリアテッサは愛剣を拾って水から上がった。
カーズは表情を少しもゆるがせず、静かに剣を構えている。
ドリアテッサは、激しい怒りの表情をみせた。
濡れた服から滴をほとばしらせながら、うなり声を上げてカーズに襲い掛かる。
カーズはわずかな動きですべての攻撃をかわしていった。
美しい顔を憤怒にそめて、ドリアテッサの攻撃は続く。
もう鼻血は止まっている。
戦闘の興奮が身をひたすとき、少々の出血は止まるものなのだ。
結局一度も攻撃をかすらせることさえできず、ドリアテッサは草むらに崩れ落ちた。
剣を右手に持ったまま、天を向いて荒い息をついている。
しばらくは起き上がれないだろう。
カーズは剣を収めると、すたすたと戻って来た。
ジュルチャガのほうを向き、たき火の場所を顔の動きで示す。
飯を作れ、と要求しているのだ。
ジュルチャガは、濃いめの汁を作り、水を入れて熱さをやわらげるという心遣いをみせた。
口の中が切れているだろうドリアテッサのためだ。
朝食が済んでしばらくすると、また同じ稽古が行われた。
ジュルチャガは昼食を作った。
ふつう、農繁期の農民でもないかぎり、一日は二食だ。
だが、戦闘などで短い時間に激しく体力を使ったあとは、滋養を取らねば体の動きが悪くなることがある。
気の利く男だな、とあらためてバルドは思った。
午後も稽古は続いた。
翌日、カーズは一切の稽古を禁じた。
ゆっくり休めということだろう。
バルドが塗った薬草が効果を現したのか、頬の腫れはほとんどひいた。
ドリアテッサは朝食のあと、滝を眺めていたが、やがてすやすやと眠った。
バルドは偵察がてらユエイタンに乗って周辺を散歩した。
川辺に大きなユフの木を見つけた。
ちょうど実が成る季節だ。
桃色と赤色の中間に色づいた実が、いっぱいに成っている。
実の大きさは親指の先ほどしかない。
日の光を受けて、宝石のように輝いている。
一つをつまんで口に入れた。
皮をぷつりと噛み切ると、柔らかな果肉が口の中に広がった。
種は意外に大きく硬い。
種をかまないよう気を付けながら、果肉を口の中でつぶした。
水気たっぷりでさわやかな味わいだ。
かすかな酸味と控えめな甘さが心地よい。
これはよい実じゃ。
何本か並んで生えている木の実を食べ比べると、最初に食べた木がずば抜けてうまいことが分かった。
同じような条件で生えているのに、不思議なことだ。
さらに、その木の中でも川に面して成っている実がうまいことが分かった。
そこで、その木の川側に成っている実を山ほどもぎ取って帰った。
滝つぼの水で洗ってシャルパの葉に乗せた。
皆が寄ってきてつまんだ。
ユフの実を食べると口の中に種が残る。
皆は種を滝つぼに飛ばした。
まるで子どもに返ったように。
そのうちドリアテッサも皆のまねをして種を飛ばし始めた。
最後にはジュルチャガとドリアテッサの種飛ばし競争になり、ドリアテッサが勝利を収め、無邪気な笑い声を上げた。
ひとしきり笑ったあと、口の痛みがよみがえったようで、両頬を押さえてうずくまった。
バルドは革鎧の手入れをしながら、その様子を見守った。
その次の日は、再びドリアテッサが打ち込んでカーズがかわす稽古が続けられた。
ドリアテッサの剣技はなかなかのものだ。
技ではバルドより上かもしれない。
真剣で斬りかかることに慣れ、攻撃への集中力が増して、本来の技の切れが出てきたのだろう。
男でも十九歳程度では、なかなかこの域に達しないのではないかと思える。
季節は冬へと向かっている。
いつまでもここで野営はできないが、しばらくはこの滝のたもとにとどまることにした。
10月25日「カチュアの一枝(前編)」に続く




