第1話 ドリアテッサ(前編)
1
「ジュルチャガ。
お前しょっちゅうそうやって木の枝を折ったり曲げたりして遊んどるのう。
子どもみたいじゃな」
「あ、これ?
これは、気にしないで、ゴドンの旦那。
バルドの旦那だって、笹の葉っぱ見つけちゃ、ちぎって懐に入れてるじゃん。
さっきは川に流してたけど」
バルドは二人のやり取りを聞きながら、手の中のポチュアの葉を見つめていた。
つい先ほど、ユエイタンの背で揺られながらもぎ取ったものだ。
何の変哲もないポチュアの葉だ。
今朝、ルジュラ=ティアントの居留地である霧の谷を出発した。
霧の谷のポチュアの葉は倍ほども大きく、ずっと肉厚で細かな毛がたくさん生え、匂いも強かった。
フキや笹も、驚くほど大きく育っていた。
こちらが小人になったかと思ったほどだ。
見たことのない木もたくさんあった。
やはりあの場所は、何かが違うのだ。
ひょっとしたら、霧の谷の草木の生え方は、大障壁の向こうと似ているのではないか。
ふとそんなことを思った。
2
シェサを出て、オーサ少年主従と別れてから一行は東北方向に向かい、一番高い峠を目指した。
そこにたどり着くのに五日かかった。
およそ四十刻里ほどあったと思われる。
その峠から東を見下ろせば、巨人が大地を掻き取ったかのように深く大きくえぐれた谷が広がっていた。
白い霧に覆われている。
ルジュラ=ティアントたちの集落が、その霧の中にある。
その遙か向こう側で地は再び盛り上がり、この峠よりさらに高い位置に峰を築いている。
その峰の稜線をなぞるように、大障壁が南北に走っている。
雄大な眺めだ。
大障壁。
それは人間の住む世界と魔獣たちの棲む密林を隔てる壁だ。
高さは千歩を超え、幅は二百歩ほどもある。
その幅で、人の住む世界をぐるりと取り巻いているのだ。
とうてい自然の造形とは思えない規則的な形状だが、同時に人の力で作り得ない巨大さだ。
古代の王が人々を守るために一夜にして築いた、とおとぎ話にはある。
大障壁から目を離し、ぐるりと首を回して真北を望めば、はるか彼方に見えるものがある。
霊峰フューザ。
バルドもゴドンもジュルチャガも、フューザを見たことはない。
だが、あれがそうだと一目で分かった。
それ以外のものではあり得ない。
いくつもの山脈が折り重なって地平の向こうに消えていく、そのさらに奥に。
ぽっかりと美しい三角形の白い山頂が頭をのぞかせている。
フューザの頂は溶けることのない雪で覆われているという。
これほどの距離を隔ててなお見えるという、その事実がすでに驚異だ。
フューザが見える場所まで来たんじゃのう。
バルドはしばしフューザを見つめ、感慨にふけった。
同行する二人も口をつぐんで、霊山に見入った。
霧の谷に降りていくと、しばらくして、ルジュラ=ティアントの一団に囲まれた。
最初は警戒していたが、モウラが何事かをまくしたてると、少し空気は和らいだ。
バルドはそのまま立ち去ろうとしたが、モウラが父母に会って欲しいと強く言うので、その晩はルジュラ=ティアントの里の近くに泊まった。
翌日の昼前、モウラが父母を連れて来た。
父親はバルドの胸ほどの身長だったが、それでもルジュラ=ティアントとしては非常に大柄で、しかも威厳と叡智を感じさせた。
幸いモウラの父は人間の言葉が話せた。
ルジュラ=ティアントには十二の氏族があり、氏族の序列があるらしい。
モウラの父は第四氏族の族長だった。
そういった地位にある者は、人間の言葉や他の亜人の言葉を学ぶべきだとされているということだった。
族長の座は子が継ぐものであるため、モウラも幼いころから人間の言葉を学んでいたのだ。
彼らは、珍しい木の実などを用意して、三人をもてなしてくれた。
エンザイア卿の城にとらわれていたモウラとスィを助けて連れてきたことで、好意をもって迎えられたようだ。
三日目の朝、バルドたちは谷を離れたが、そのときモウラの父は不思議なことを言った。
「慈愛の心を持つ人間バルド・ローエン。
お前はもうここに来てはいけない。
だがもしもここに来なくてはいけないときがきて、われわれがそれを迎えられるなら、人間とルジュラ=ティアントは、再び友情を結べるかもしれない」
意味も分からぬままその言葉を胸に刻み、バルドは霧の谷をあとにしたのである。
3
北西に進んだ。
三日目になり、ジュルチャガが、
「あと三、四日で人の住んでるとこに着きそうだね」
と言った。
バルドも注意していたが、町並みや煙などは見えなかったので、不思議に思い、なぜ分かるのじゃ、と聞いた。
「匂いだよ。
匂い」
という答えだったが、あらためて鼻に空気を吸い込んでも、人の住むしるしを嗅ぎ当てることはできなかった。
それからさらに三日後、山中を進んでいると、ジュルチャガが、
「何かいる。
ちょっと見てくる。
ゆっくり進んでて」
と言って、沢のほうに降りていった。
ほどなく、
「こっち来て〜〜。
人が倒れてた〜〜」
というジュルチャガの叫び声が聞こえてきた。
何とか降りられる場所を探して沢に降りて、ジュルチャガが待つ場所に行った。
木の根元に騎士が倒れている。
全身に金属鎧をまとった騎士だ。
非常に立派な装備であり、相応の身分の貴族だと思われた。
そばに馬がいる。
よい馬だ。
ジュルチャガは鎧の顔の部分に鼻を寄せて、何かをくんくん嗅いでいる。
「しびれ薬かなんかにやられてるね。
かなりきつい匂いだ。
すぐ鎧を脱がせてあげたほーがいーよ」
着せるのならともかく、鎧を脱がせるのは、そう難しくもない。
自分でやればよいのに妙なやつだなと思いながら、まずは兜を脱がせることにした。
ゴドン・ザルコスに後ろから抱き起こさせた。
ひどく軽い。
鎧も、そしてその中の人間も。
体型もほっそりしているようだ。
まだ若いのかもしれない。
手早く止め紐をほどき、フックを外して、兜を脱がせた。
栗色の艶やかな髪がばさりと垂れた。
おなごか!
びっくりしたが、呆けているわけにもいかない。
ゴドンと二人で鎧を脱がせた。
ひどく汗をかいている。
熱がある。
ジュルチャガが水にぬらした汗ふき布を差し出した。
バルドにやれということらしい。
肌着は脱がせず、ふける部分を拭いていった。
「熱があるようじゃのう。
熱冷ましを飲ませようか」
「いや、ゴドンの旦那。
体の温もりは取らないほうがいいと思うよ。
むしろ、たき火を焚いて、しっかり汗を出させたほーがいいんじゃないかな。
できれば少し水を飲ませたいとこだけど」
そういいながら、ジュルチャガはたき火の用意を始めた。
ここで野営するつもりらしい。
女の荷物に頃合いの皮敷きがあったので、その上に寝かせ、マントを掛けてやった。
ジュルチャガのマントだ。
クラースクでもらったマントを、ジュルチャガは寝るときにしか使わないので、ユエイタンに乗せていた。
バルドは、荷物の中から毒消しの薬草を出し、湯を沸かして煎じた。
そして、水でそれを薄めて冷まし、椀に注いでから女騎士を抱き起こし、
分かるか。
しっかりせよ。
これを飲め。
と言いながら、椀を口に当てたが、女騎士は飲もうとしない。
しかたがないので再び寝かせた。
しばらくすると、ううう、うううとうめき声を上げ始めた。
少し意識が戻ってきたかと、同じようにしてみたら、今度は少し飲んだ。
そんなことを何度か繰り返した。
ジュルチャガはスープを作り、ゴドン・ザルコスは薪を用意した。
三人は交代で寝ながら火の番をした。
夜明けごろには、うなされかたがひどくなり、激しく汗をかいた。
朝日が昇りきったころには、安らかな寝息を立てていた。
「もうだいじょーぶそうだね」
三人が簡単な朝食を済ませたころ、女が目を覚ました。
4
まだ体は自由が利きにくいようだが、言葉は話せた。
初めは警戒していたが、敵ではないと得心したのか、三人に礼を述べた。
女は、ゴリオラ皇国の騎士ドリアテッサ・イル・パージエ・コヴリエンと名乗った。
ゴリオラ皇国は、パルザム王国のずっと北のほうにある大国だ。
そんな遠くから来たのかと思ったが、よく考えるとバルドたちも相当に北に進んできたから、もしかするとここからならゴリオラ皇国のほうが近いのかもしれない。
とはいえいずれにしても、大オーヴァのはるか西にある国だ。
そんな国の貴族がこんな辺境の奥地にいるのは妙なことではある。
イル・パージエ・コヴリエンというのは、コヴリエンという領地を治める子爵という意味だ。
つまり、この女性は領地持ちの子爵家当主なのだ。
そのことにも驚いたが、騎士と名乗ったのにはもっと驚いた。
女が騎士になれるわけはないし、なっても意味がない。
それとも、このか細い体で戦場に出て戦うとでもいうのだろうか。
ドリアテッサは、ある目的のために、従騎士二人と従者一人を従えてこの辺りに来た。
昨日昼食後、ひどく気分が悪くなった。
馬から下り、従者が急いで用意した薬湯を飲んだところ、体が痺れて動かなくなったという。
従騎士たちと従者に手籠めにされかけたので、謀られたと気づき、何とか三人を倒した。
三人の話から追っ手が近づいていると察せられたので、少しでも逃げようとする途中で力尽きて気を失った、ということだった。
バルドは、ゴドンとジュルチャガとも相談して、とにかく人里に向かうことにした。
追っ手があるという話が気になったが、バルドとゴドンがいる以上、そうそう遅れはとらないだろうし、それよりも今はゆっくりドリアテッサを休ませたかったからだ。
ドリアテッサは自分で馬に乗ると言い張ったが、とても手綱を取れる状態ではない。
ドリアテッサの鎧は、蔦で結わえてドリアテッサの馬に乗せ、ジュルチャガが引いていくことにした。
ドリアテッサ本人は、マント二枚で包んだまま、バルドが抱えてユエイタンで運んだ。
本人は嫌がったが無視した。
そのうち抵抗をやめ、体を預けてきて、さらに進むうちにうつらうつらと眠りだした。
「旦那。
右肩だいじょーぶ?」
とジュルチャガが聞いてきたので、うむ、このところ肩も肘も痛まんのじゃ、と返事をした。
日が落ちる前に村についた。
何やらざわついている。
村長を訪ねて宿を頼んだところ、ドリアテッサの様子に驚きつつ、村の外れの空き家を貸してくれた。
あわただしそうにしているのでわけを聞いたところ、野獣が出て村人に被害が出たということだった。
行方不明になった子どもがあり、探しているのだが見つからないのだという。
もうすぐ日が落ちる。
夜に森を捜索するのは危険だ。
だが、どうしてもやるなら、大勢で固まって移動し、戦える人間が同行しなくてはならない。
村人にも弓を使える者や、槍を持っている者はいるという。
ゴドン・ザルコスとジュルチャガが捜索に協力することになった。
バルドは、村に残ることになった。
追っ手のことも気に掛かるし、野獣が村を襲わないとも限らないからだ。
5
ドリアテッサはベッドで静かに寝ている。
夜にはスープも飲んだし、村長の娘が体を拭いて着替えさせてくれた。
それはいいのだが、考えたら妙齢の女性と二人きりである。
捜索隊は村からだいぶ離れたのか、声も聞こえない。
妙に気詰まりなものがある。
ううう、ううう、とドリアテッサがうめいた。
目を覚ましたのかと思い、バルドは薬湯を椀についでベッドに近づいた。
悪い夢でも見ているのか、苦しげな表情で体をひねっている。
しばらく見ていたが、ずっとうなされたままだ。
薬湯を置いて、さらに近寄ったが、どうしていいか分からない。
額の汗を拭いてやった。
苦しそうにもだえ続けている。
かわいそうに、と思いながら左手を差し入れ、背中をさすった。
突然、ドリアテッサが上半身を起こして抱きついてきた。
女としてはやや大柄だが、バルドと比べれば小さな体である。
すっぽりと胸に入り込んでしまった。
震えている。
バルドは右手でドリアテッサの左肩をつかんで体を支えながら、左手を背中に当てた。
大きな手のひらが、ドリアテッサの背中にじんわりとぬくもりを与える。
その手をゆっくりと上下に動かして背中をさすりながら、だいじょうぶじゃ、だいじょうぶじゃ、とバルドは声を掛けた。
しばらくしてドリアテッサの体から力が抜けた。
再び熟睡したのだろう。
その額はこてんとバルドの胸に当てられている。
ほほえましい心持ちになった。
寝かせようとしたとき、ドリアテッサが身をよじり、バルドの鼻孔がドリアテッサのうなじをかすめた。
汗ばんだ体から、ひどく強い女の香りが立ちのぼった。
それを胸に吸い込んだとき、全身が甘く痺れ、雄の本能がうずくのを感じた。
そんな自分に驚いて、苦笑した。
ドリアテッサをそっと寝かせ、夜具を調え直す。
無防備なその寝顔は、とても美しい。
額の汗を拭いてやり、乱れた髪を顔の両側に落ち着かせてやる。
唇が乾いていたので、指に薬湯をしたたらせて湿してやった。
すると、寝たままでちゅうちゅうと湿り気を吸った。
もっと欲しがっている気がしたので、もう一度水滴を指にしたたらせて唇に当てた。
またも、ちゅうちゅうと吸ってきた。
十回ほどもそれを繰り返したところ、満足そうに唇をなめ、すうすうと寝息を立て始めた。
バルドは音を立てないように気を付け、剣を持って小屋の外に出た。
バルドの真正面上方には、妹の月が煌々と輝いている。
夜の涼しい空気を胸一杯に吸い込み、古代剣を抜いて天空のサーリエを斬った。
切れないものを切ることで、心のよどみを払ったのだ。
ふとドリアテッサがこちらを見ているような気がして振り返ったが、もちろんそんなことはなかった。
10月4日「ドリアテッサ(後編)」に続く




