第7話 ジャミーンの勇者(前編)
1
「伯父御。
ご武運を」
と、ゴドンが言った。
バルドはうなずいた。
ゴドンと村人に見送られ、バルドは出発した。
徐々に馬の速度を上げていく。
初めての山道を走るには速すぎる速度だ。
だが、子どもの容態を思えば、薬は早いほうがよい。
バルドの気持ちが伝わったのか、栗毛の馬は、首を前に突き出し、足を大きく後ろに蹴って、先を急ぐ。
時折木の葉や草が鼻面を打つのも気にしない。
馬は臆病な生き物だが、乗り手と心が通うとき、雄々しい生き物に変わる。
荷物はすべてゴドンに預けたから、今のバルドは身軽である。
人馬は一体となって山道を駆け下りて行った。
2
エグゼラ大領主領の東のはずれの村で、ある噂を聞いた。
山を北に越えた集落で、ひどくうまいノゥレ料理が食える、というのだ。
ノゥレなど、どこの湖沼にでもいる小魚だ。
泥の中を好み、ぬるぬるとした細長い体を持っている。
うまい魚ではない。
骨が多くて食べにくいうえに、泥臭い。
食べてしばらくすると、何ともいえないえぐみのある後味が残る。
だが、栄養はたっぷりだ。
子どもでも簡単に獲れるから、貧しい家ではどこでもよく食べる。
たくさん食べれば腹はふくれる。
バルド自身も、小さいころ、よく食べた。
騎士となってからも、大障壁近くの砦に冬のあいだ詰めているときは食べた。
半分凍った泥の中で眠るノゥレは、貴重な食料だったのだ。
とはいえ、うまいと思って食べたことはない。
そのノゥレが美味な料理になる、という話にバルドは興味を引かれた。
ゴドン・ザルコスは、
「どんなに上手に料理したところで、しょせんノゥレではありませんか」
と、乗り気ではなかったが、構わず馬首を北に向けた。
山を越えると深い谷があり、吊り橋が架かっていた。
馬を置いて行くわけにもいかないので連れて渡った。
暴れないように目隠しをして引っ張った。
「帰りには、もう一度ここを渡らねばならんのですなあ」
と、ゴドンはため息をついている。
一本道だから、集落には迷わず行き着けた。
こんな所を馬に乗った武士二人が訪ねるなど、珍しいのだろう。
ひどく注目を浴びてしまった。
ノゥレを食べたいというと、一軒の小屋に連れて行かれた。
貴重な現金収入が得られると分かり、人々の対応は丁寧だ。
ピネンという名の老人が、料理してくれるという。
「ようも、こねえな所までお越しじゃったのう。
ノゥレは、今獲りに行かせとるけん。
お侍さんがたの口にあうような酒はねえんですけどのう」
と言いながら出してくれた酒は、白く濁っており、柔らかく甘い味わいだった。
穀物酒だ。
この辺りに多いプランの実を醸した酒だろう。
バルドが、うまいぞ、と言うと、うさんくさそうに見ていたゴドンも、口をつけた。
「お。
いけますな」
と、まんざらでもない。
二口、三口を味わったところで、ピネン老人は、何かの根のようなものをすりつぶしながら、
「ノゥレをのう。
生で食べると、そりゃあうめえんですじゃ。
なあんのいやみもありゃあせん。
じゃけどのう。
あとで必ず病気になりますけん」
と言った。
ノゥレは煮て食べるものであり、生で食べるなど考えもしなかった。
あとで必ず病気になると断言するこの老人は、もしや試したことがあるのだろうか。
ピネン老人は、何かの葉を数種類混ぜて、さらに器の中のものをすりつぶした。
「ノゥレはのう。
襲われたり、つらい目に遭わされると、腹の中を苦うするんじゃ。
その苦え汁が、あとでいやみになりますけん」
バルドが椀の酒を飲み干すと、ピネン老人の孫だという少年が、お代わりをついでくれた。
少し遅れてゴドンもお代わりをもらった。
そうこうするうちに、次々とノゥレが届いた。
集落の住人たちが総出で捕まえてくるのだから、あっという間に桶はノゥレで一杯になった。
ピネン老人は、何度か水を替えてノゥレをきれいに洗うと、何かの根や葉をすりつぶしたものを、桶に注ぎ込んだ。
興味を引かれたので、バルドは近寄って桶を見た。
ノゥレは、黄色の何かを盛んにはき出している。
「これをはき出させてしもうたら、もうノゥレは苦うはならんですけん」
と、ピネン老人は言った。
訊けば、長年かけて自分でこの根や葉を見つけたのだという。
何の木だか、何の葉だか、名前は今でも知らない。
しばらくすると、ノゥレはもう何もはき出さなくなった。
ピネン老人は、ノゥレをもう一度洗ってから椀で二杯すくい、鍋に入れた。
穀物酒の樽から上澄みをすくい、その鍋に注いだ。
ゴドンも興味を引かれたようで、まじまじと見つめている。
鍋は火に掛けられた。
火勢は強くない。
「ノゥレは、水から炊かにゃあいけん。
いきなり湯にいれたら、暴れて身がざらざらになるんじゃ」
と、ピネン老人は独り言のようにつぶやき、孫の少年に、
「もう出来とるじゃろう」
と言った。
少年は小屋を飛び出して隣に行き、すぐに戻って来た。
手には椀を持っている。
ピネン老人は、椀の中身を静かに鍋に入れた。
「ドゥェジャ鳥の卵と山芋で作ったプディングですけん。
ちょうど卵があったけん、よかったですのう」
それから徐々に火勢を強めた。
まきを操る手つきには年期が入っており、巧みに火勢を調節している。
酒が熱せられる香りが小屋に満ちた。
驚くべきことが起こった。
熱せられた酒の中で所在なげに泳ぎ回っていたノゥレたちが、プディングの中に潜り込んでいったのだ。
「人間でも、お天道さんが熱うなったら、日陰やら家ん中に入るけんのう」
なるほど、そうだ。
だが、プディングの中も熱いはずなのだが。
「山芋は、熱を散らすんじゃ。
じゃけえ、煮立った酒より、プディングの中のほうが、ほんのちょっぴし熱うねえんじゃ」
プディングの中から顔を出したノゥレもあるが、すぐに中に戻ってしまう。
プディングが揺れている。
中でノゥレたちが暴れているのだ。
やがてプディングは揺れなくなった。
ピネン老人は火勢を弱め、なおもプディングを煮た。
じっと鍋を見ている。
揺るぎのないその横顔は、まるで賢者のようだ。
と思っていると、老人は、よし、と小さくつぶやいて鍋を火から下ろした。
手際よくプディングを二つに切り分け、椀に盛ってテーブルに置いた。
「召し上がってつかあせえ」
バルドとゴドンは、席についた。
木さじでプディングをすくった。
湯気が立っている。
ふうふうと息を吹き付けて冷ましながら、一かじりを口に入れた。
こんなプディングは、食べたことがない。
よく煮込んであるから固いかと思ったが、まったく違う。
ふるふるに柔らかい。
柔らかいのに、しっかりした存在感がある。
舌の上でじっくり味わったあと、口の中でつぶした。
甘いともからいともつかない柔らかな味が広がった。
バルドは思わず木さじに残ったプディングを全部口に入れた。
おおお。
何ともいえない食感だ。
口腔が、そして舌の隅から隅までが、初体験の食感を楽しんでいる。
喉が、早くこっちにも寄越せ、と要求している気がしたので、バルドは口の中のプディングを飲み込んだ。
まったりとしたのどごし。
芳醇な余香。
これは、プディングに染み込んだノゥレのうまみなのだろうか。
バルドは、プディングの中に大胆に木さじを差し込んだ。
そして、たっぷりとノゥレが入っている部分をすくい取り、ふうふうと冷まして口に入れた。
甘い!
何という甘さじゃ。
ノゥレ特有のぬるぬるした食感が、どこにもない。
身は柔らかく煮上がり、極上の魚特有のざらっとした舌触りをみせて、口のなかでほぐれた。
いまいましい小骨も、踊るように舌の上で溶け、味わいにアクセントを与えてくれる。
うまみの塊だ。
よくかみしめて飲み干せば、意外なほどのボリューム感がある。
そして、あのいやな後味が、いつまでたってもやってこない。
煮汁をすくいとって飲めば、酒臭さはどこにもなく、ノゥレのうまみを吸い取って最高のスープに仕上がっている。
プラン酒の濁り酒を飲むと、これがまた一段とうまい。
この料理とこの酒は、実によくひき立て合う。
バルドは、ふとピネン老人を見た。
立ち振る舞いを見ていると、どうも田舎で生まれ育った人間とは思えない。
広い世界を知り、深い叡智を蓄えた人物。
都会での上品な料理や作法にも通じた人物。
そのように思えてしかたがない。
この集落は、おそらく〈外れ者〉の集落だ。
罪を犯した者の家族や、ケガレを得た者は、村の生活からはじき出される。
そうした〈外れ者〉が集まって集落を作ることがある。
隔離されることによって差別されずにすむのだ。
ピネン老人は、どんな人生を歩んできたのだろうか。
3
二つの事件が起きた。
吊り橋が切れた。
荷物を積んだ押し車を乗せたとたん、切れたのだという。
幸いにけがをした者はなかった。
そして、ピネン老人の孫が毒蛇に噛まれた。
バルドの手持ちにも、その薬はなかった。
大人なら死ぬほどではないが、子どもにとっては命に関わる毒だ。
村まで行けば、薬は分けてもらえる。
だが、村に行く吊り橋は使えない。
谷を降りてゆけば行けなくはないが、ひどく時間がかかる。
幸いにもバルドとゴドンは馬を持っている。
遠回りでもいいから道はないのか、と訊けば、一つだけあるという。
東回りの道だ。
だが、そこは、ジャミーンのテリトリーだという。
ジャミーンは、亜人の中では小柄だ。
人というより猿のような姿をしている。
成人しても十二、三歳の人間ほどの身長しかない。
木の皮や虫を常食にするため、〈虫食い〉などと呼んでさげすむ人間もいる。
倫理観や生活習慣が人間とは異なるため、接触すれば争いになることが多い。
人間の村や集落からこんなに近い場所にジャミーンのテリトリーがあるとは驚きだ。
ジャミーンは、例外なく弓の名手だ。
テリトリーに人間が踏み込んだことに気付けば、攻撃してくるだろう。
四方八方から降ってくる矢をかわすことなどできない。
だが、この子を救おうと思えば、それしか方法はない。
バルドは、村に薬をもらいに行く役目を買って出た。
4
道は木々の生い茂る森に入った。
栗毛の馬は、少しも疲れた様子を見せない。
素晴らしい速度で森を突き進む。
前方上方の木の上で、何かの気配がする。
バルドは古代剣を抜いた。
矢が飛んできた。
剣で払う。
いる。
いる。
いる。
木々の上に、ジャミーンたちがいる。
気付かれて取り囲まれる前に抜けてしまいたかったのだが、だめだったようだ。
右から、左から、矢が飛んでくる。
背中から飛んでくる矢が一番やっかいだが、はためかせたマントがある程度は矢を防いでくれている。
ざくっ。
左肩に矢が刺さった。
肩当てに守られているので、深くは刺さっていない。
ざくっ。
背中に矢が刺さった。
ちょうど鎧がない部分だ。
動きが止まるほどの傷ではない。
だが、次の瞬間。
急に、かあっ、と体が熱くなり、視界がぐにゃりとゆがんだ。
毒か!
必死で手綱をにぎったが、やがてバルドの意識は闇に落ちた。
8月4日「ジャミーンの勇者(後編)」に続く




