第2話 剣鬼(前編)
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釣りざおが大きく揺れた。
魚が餌に食いついたようだ。
しばらくの奮闘のあと、なかなかの大物を釣り上げて機嫌のよいバルドの耳に、聞き慣れた声が聞こえた。
「お久し振りです、バルド様」
振り返れば、そこには、下馬して河原の草に片膝を突く騎士シーデルモント・エクスペングラーの姿があった。
シーデルモントの後ろで同じようにしている二人も、見慣れた顔だ。
だが、その後ろで、馬に乗ったまま不機嫌な顔つきでバルドを見下ろしているのは、意外な男だった。
ヨティシュ・ペイン。
ドルバ領主カルドス・コエンデラの側近といえる騎士だ。
シーデルが来ることは予想通りといってよいが、コエンデラ家も使者を発するとは驚きだ。
まして、これほどの身分の者を差し向けるとは。
「ペイン卿。
下馬なされよ」
戦時でもないのに、馬から下りた騎士に馬に乗ったまま話しかけるというのは非礼であり、シーデルモントのこの言は、ごく当たり前のことを述べたにすぎない。
しかし、ヨティシュは、大いに不快な顔をした。
「エクスペングラー卿。
その男はすでに騎士ではない。
仕えるあるじを捨てたのだからな。
騎士ではない者に騎士の礼はいらぬ」
「ペイン卿。
バルド・ローエン様は、仕えるあるじを失ってはおられぬ。
バルド様の騎士の誓いは、人民をあるじとして立てられたものであり、その誓いは捨てておられない」
「ふん。
そうだったな、
〈人民の騎士〉か」
そう言いながら、ヨティシュは馬を下りた。
ばかばかしい、と思っていることは態度にありありと示されている。
しかし、ヨティシュも、さすがにシーデルモントには、というよりエクスペングラー家には、あまり強く出ない。
この地でのエクスペングラーの名は軽くないのだ。
バルドは片膝を突いたままの三人の騎士に、立ち上がるよう言った。
しかし、シーデルモントは、膝を突いたまま、おのれの師である男の目をまっすぐに見つめて言った。
「バルド様。
どうかお戻りください。
ガリエラ様もお心を痛めておいでです」
そうだろうのう。
と、バルドは思った。
現パクラ領主ガリエラ・テルシアは、心根の優しい人物である。
四代のパクラ領主に仕えたバルドのことを、兄のように慕ってもいる。
二年前に先代領主のヴォーラが亡くなってから、ガリエラが一番頼りにしたのがバルドである。
「バルド・ローエン殿。
わが殿も、配慮が足りなかったと仰せだ。
貴殿には領地が用意される。
コエンデラ家とテルシア家は、貴殿の働きを必要としておるのだ」
ヨティシュの言葉を聞いて、
よう言うわい。
とバルドは思った。
バルドに与えられる領地は、どこかは分からないが、コエンデラ家の支配もテルシア家の支配も及んでいない、他の大領主の守護契約地か、下手をすれば直轄領地になることは疑いない。
そんな街の領有を勝手に宣言すれば、戦になる。
バルドの威名は、大きくなりすぎた。
守った砦を落とされたことがなく、いかなる不利な状況下でも負けたことのない、不敗の騎士。
家臣の数がそう多くないテルシア家が、魔獣野獣を防ぎ、他家から侵されず、偸盗匪賊の跋扈を許してこなかったのは、バルドの働きによるところが大きいと、なぜか世間ではいわれている。
その武名が、今は邪魔だ。
現コエンデラ当主カルドスは、欲の深い男である。
念願であった大領主の名を手にした今こそ、他領を攻め、一つでも多くの街の徴税権を得ようと考えているに違いない。
だが、長年の戦いで、領地は疲弊している。
最後の数か月、あれほどの軍勢を従軍させ続けた底力には驚かされたが、金庫が底をついたことは疑いない。
今は平和を保つほかない。
だが、バルドという駒を得れば、話は違う。
領主会議の決議という名目で、バルドとテルシア家に過酷な戦場を用意し、使いつぶしにして、果実だけを取る。
そのような戦略が成り立つ。
健康さえ続けば、バルドも力の限り戦って、テルシア家のために果実をもぎ取れるかもしれない。
しかし、近頃は老いも進んできた。
おそらくこの世を去る日も、そう遠くはない。
テルシア家を絶望的な戦場に残して死ぬなど、それ以上の不忠はない。
バルドがいなければ、どうか。
大駒が一つ落ちれば、そのような戦略は成り立たない。
バルドのいない状態でテルシア家を使いつぶせば、魔獣の侵入を許すことになる。
そうなれば、コエンデラ家も他の領主も、魔獣や野獣との激闘で身を削られることになる。
大領主の地位は保てなくなるだろう。
だからバルドは、テルシア家を離れることにした。
バルドが離れれば、テルシア家は時間を得る。
幸い、若い家臣たちが育ってきている。
今を耐え、地力を養い、将来への備えを固めること。
そのための時間が何より必要なのである。
そのことは、バルドの教え子であるシーデルモントにもよく分かっているはずだ。
ただし、去っていくバルドを引き留めもしなかったとなると、テルシア家に傷がつく。
噂は、往々にして前後関係や本末関係を逆転させる。
老いた功臣を、口減らしのために放逐した。
そんな噂が立ちかねない。
だから、こうしてテルシアの家臣がバルドを捜し出し慰留することが、どうしても必要だった。
シーデルモントほどの身分の者をはじめ三人もの騎士を寄越してくれたのであるから、郷士出身の老いぼれ騎士に対する扱いとしては手厚すぎるほどだ。
「バルド・ローエン。
返答せよ。
まさか、断る気ではあるまいな」
分からないのは、この男である。
この男を差し向けたカルドス・コエンデラの狙いが分からない。
当主の甥であるこの男を差し向ければ、本気で引き留めたというポーズを作るには申し分ない。
だが、コエンデラにとっては、ポーズでは意味がないはずだ。
引き留めて手駒にするのが最上。
引き留められないとすれば、その責任をテルシアに押し付けたほうがよい。
この男が来てしまえば、引き留められなかった責任をコエンデラも負ってしまう。
しかも、その言動たるや、わざと怒らせようとしているとしか思えないほど無礼なものだ。
「ペイン卿、
控えられよ。
わが殿は、コエンデラ家が大領主を名乗ることに同意なさったが、テルシア家がコエンデラ家に臣従したわけではない。
ローエン卿にも、貴家に命令を受ける、いかなる理由もない」
なぜか、それきりヨティシュ・ペインは黙ってしまった。
本当にこの男は何をしに来たのか。
それからしばらく、シーデルモントは言葉を尽くしてバルドを慰留した。
バルドは、もう戦えないので静かに死にたい、とだけ答えた。
間違っても、テルシア家に愛想を尽かして出て行くかのような言は吐けない。
引退の理由は、あくまでバルド自身の体力と気力の衰えにあるのでなければならない。
その言葉を、シーデルモントと二人の騎士がしっかりと聞き、多くの人に伝えることが重要である。
しばらくの応答の末、シーデルモントは、しぶしぶ説得を諦め、一袋の金貨を取り出した。
「帰り来たらずばせめても安らけき旅をと、ガリエラ様からのお志でございます」
とバルドに差し出す。
ふむ。
断ればどうなるかのう。
やはり領主に不満があったのではないか、と勘ぐる者もいるかもしれんな。
と瞬時に判断し、バルドはそれを受け取ろうと手を伸ばした。
そのときである。
ヨティシュ・ペインの目が、異様な光をみせた。
その視線の向かう先は、バルドでも、シーデルモントでもない。
金貨の袋である。
一人旅の老人には貴重な糧であるが、貴族が目の色を変えるほどの金額ではない。
テルシア家の騎士たちがバルドと別れのあいさつを済ませ、馬上に戻って引き返していくと、ヨティシュもこれに従ったが、バルドが金貨の袋を荷駄に入れるとき、はるか遠方からまだにらんでいるような気がした。
4月10日「剣鬼(後編)」に続く