暴風
1
——ここは、どこだ?
目を覚ましたジョグは、一瞬自分がどこにいるかわからなかった。
そして思い出した。
何とかという貴族の屋敷だ。
そしてここはパルザム王国の王都だ。
ジョグはバルド・ローエンに力を貸すために、パルザム王国にやってきた。
そしてバルドが住んでいるこの家に押しかけたのだが、食事のうまさが気に入って、ここに居着いてしまったのだ。
「ジョグ。起きたかい?」
部屋の外から声がした。
コリン・クルザーだ。
「ああ」
クルザーが、水桶とタオルを持って入ってきた。
「おはよう、ジョグ」
2
遅めの朝食を済ませてから、ジョグはダストに乗って王都の門を出て、草原を走り回った。何日かに一度、思いきり運動をさせないと、ダストは機嫌が悪くなるのだ。
やはり馬は走るために生きている生き物なのだろう。そのなかでもダストは格別に走るのが好きであり、しかも瞬発力と持続力を兼ね備え、強靱な筋肉に恵まれた名馬だ。
川でダストに水を飲ませ、ジョグも水を飲んだ。
飲んだだけではない。上半身を川にひたして汗を落とした。
コリンも同じようにした。
コリンが差し出した干し肉とパンを腹に収めると、ジョグは大木に背を預けて、少し遠くに広がる山岳地帯をながめた。
涼やかな風が吹いて、長く伸びたジョグの黒髪をなでてゆく。
ゆったりした時間が流れた。
「それにしても、ジョグがこんなに義理堅いとはねえ。驚いたよ」
「義理だと?」
「え? バルド元帥に一騎打ちで負けて、指揮下に入ることになったから、その義理でこんなとこまで来たんだろう?」
「それはもう済んだじゃねえか。あの何とかって城で魔獣の群れと戦って」
「ロードヴァン城ね。それにしても、魔獣ってのは、ほんとに恐ろしいね。けど、ジョグはその魔獣を片っ端からたたき殺し、吹き飛ばすんだから、やっぱりすごいよ。さすが〈魔獣殺し〉の息子」
「ふん」
ジョグの養父であるパーゼル・ウォードは、〈魔獣殺し〉と呼ばれた豪傑だった。テルシア家以外の騎士で、一対一で魔獣を倒せた騎士などパーゼルのほかにはいないのだから、〈魔獣殺し〉というあだ名には重みがあった。
「義理じゃないなら、なんでこんなとこまで来たんだよう。それだけじゃないよ。ロードヴァン城を離れたあとも、侵略軍の動静をしょっちゅうバルド元帥に伝えたりしてたけど、あれ、何のためなんだい?」
ジョグはむっつり黙り込んで、腹心の部下であるコリンの質問に答えようとはしなかった。
「くそじじいの居場所がわからねえと、ぶち殺しに行くときに困るだろうが」
「あ、まだ諦めてなかったんだ」
コリンは、ジョグが打倒バルドに燃やす執念を、よく知っている。まだ悪たれの少年だったころから、コリンはジョグと一緒に過ごしてきたのだから。
そして養父パーゼルの死後、自分の闘争心と旺盛な精力をもてあましていたジョグが、バルドという敵をみつけたことで、ひどくゆがんでしまわずにすんだのだと思っている。
「だとすると、なおさらわけがわからないよ。バルド元帥をいつか倒すつもりなんだろ? なんで助けに来たんだよ」
「強くなるためだ」
「へ? んなこといったって、ジョグ。この国に来てから全然訓練してないじゃないか。ガイネリアでは大勢の騎士や兵士相手にしょっちゅう稽古してたのに」
「あんなんじゃだめだ。何の足しにもならねえ」
「ここにいると、何か足しになるものがあるのかい?」
「ああ」
「何があるんだよ」
「うるせえ。俺はしばらく寝る。もう話しかけるんじゃねえ」
3
いつからバルド・ローエンの名を意識するようになったかを、ジョグは正確に覚えている。
十歳のとき、ジョグはウォード家に養子に出された。
養父パーゼルと夕食のときに会話をしていて、パクラの騎士は魔獣を倒せる騎士ばかりで、辺境でも最精鋭の集まりだとパーゼルが言った。
「でも、パーゼルに勝てる騎士なんかいないだろう?」
豪放磊落で怪物のように強いパーゼルを、ジョグは慕っていた。パーゼルより強い騎士などいるわけがない、と思っていた。
「いや、パクラの騎士は別格だ。なかでもバルド・ローエンという騎士は、俺と互角か、あるいはそれ以上かもしれん」
「そんなことがあるもんか!」
否定しながらも、ジョグはバルドの名を心に刻んだ。
やがてパーゼルが死に、ジョグが十六歳のとき戦場でバルドとまみえたが、手もなくひねられてしまった。
バルドはジョグに剣を向けることさえせず、馬から蹴り落としてしまったのだから、ジョグの自尊心は大いに傷ついた。
「この次会ったら、殺してやる」
それからというもの、ジョグは荒ぶる心を剣の修業に向けた。騎士の戦い方を学ぶことさえした。
そして二十二歳のとき、再びバルドと戦うときが来た。
誰も受け止めることができないジョグの剛剣をバルドは左手に持った盾で受け止め、その右手の剣はジョグの胸を斬り裂いた。
信じられなかった。
負けたことも信じられなかったが、そんな負け方をしたということが信じられなかった。
〈暴風〉ジョグ・ウォードが渾身の力を込めて両手で振るう大剣は、盾を両手で持っても受け止めきることなどできはしない。まして片手で持つ盾などで受けようものなら、盾は吹き飛ばされて、盾を持つ手は折れ曲がってしまうはずだ。
ところがバルドは、ジョグの大剣を片手であっさり受け止め、体勢を崩しもせず、当たり前のように右手の剣でジョグを斬り裂いた。そこで追撃されていたら、ジョグの命はなかった。つまり、またもバルド・ローエンはジョグ・ウォードをみのがしたのだ。
憤怒の塊となったジョグは、おのれの強さを磨き上げ、ついに二十八歳のとき、絶対の自信をもってバルドと対決した。
ところがバルドは右手が使えなかった。筋でも痛めたのか、何かの病気なのかわからないが、とにかく右手が使えなかった。
右手の使えないバルドをたたきのめしても、何の意味もない。ジョグは憤怒をため込んだまま、勝負を中断してその場を離れた。
それからほどなく、バルド・ローエンがコエンデラの城に乗り込んだ。
それを聞いたジョグは城に駆けつけ、立ち去ろうとしていたバルドに勝負を挑んだ。
このときのバルドの気迫は恐ろしいほどのものだった。護身用の小ぶりな剣で、ジョグの大剣を正面から受け止め、そのまま恐るべき膂力でジョグを押し込んでしまったのだ。
バルドの凄まじい闘気と腕力に押さえつけられ、ジョグは両膝を地につけて、のしかかるバルドを仰ぎみた。
強者の目だ、と思った。
おのれの強さを信じて疑わず、立ちふさがるすべてのものを打ち砕いて進む、強者の目だ。
そんなバルドの目をまっすぐに仰ぎみるうちに、背筋を言い知れぬ喜びが駆け上ってくるのを感じた。
ぞくぞくして身が震えた。思わず笑いがこぼれた。
パーゼルの言ったことは本当だった。地上最強の騎士が、今自分の前にいる。
この強大な敵を撃破したとき、自分は至高の悦楽を知るだろう。そうジョグは思ったのだ。
4
三度目の対決は、ガイネリア東部の砂漠で行われた。
バルドが旅に出たことを知ったジョグは、領地を捨てて飛び出した。
リンツ伯を締め上げて、バルドが船に乗ってオーヴァを渡り、北を目指したという話を聞いたので、ジョグもオーヴァを渡った。
砂漠を北上していたとき、妙な縁からガイネリアの王太子の知己を得て、ガイネリアにとどまるよう説得を受けた。
最初は断る気だったが、ガイネリアの兵を借りればバルドを探せるよ、とコリンが言い、それもそうだと思って、条件付きで王太子の申し出を受けることにした。条件というのは、宿敵の探索に力を貸すことと、宿敵をみつけたら、そのときどんな状況であっても、ジョグが宿敵との決着をつけることを優先するというものだ。
そうしたところ、いきなり将軍に登用され、バルドを探しながら盗賊や野獣を相手に暴れていると、いつのまにか大将軍などというものになっていた。
そしてバルドがみつかった。
バルドと一緒だった緑色の亜人がジョグに突っかかってきたが、ジョグは馬で突進し、相手と接触する寸前で進路を急転換する荒技でたたき伏せた。
そのときバルドが唖然とした顔をしているのを、ジョグは確かにみて、にやりと笑った。
このわざは、かつてバルドがコエンデラ家の騎士相手にみせたわざなのだ。面白いわざだと思ったので、ジョグは愛馬ダストとともに何度か練習して、このわざを身につけていたのだ。
そしてジョグに向かって、バルドは馬を駆って猛進してきた。
喜々として応戦しようとしたジョグだが、なぜかバルドは剣を抜かない。
——おいこら、くそじじい。また右手が動かなくなっちまったんじゃねえだろうな。
とまどうジョグに、バルドは迫る。
ジョグも覚悟を決め、大剣を振り上げてバルドに振り下ろした。
あまりよい体勢での攻撃とはいえなかったが、人一人を殺すには十分な威力がある攻撃だった。
ところがバルドは、ジョグの大剣を左手で受けた。
——はあっ?
大剣はバルドの左手を砕くことができず、次の瞬間、バルドの右拳がジョグの顎を打ち抜き、ジョグは意識を失った。
バルドが立ち去ったあとで意識を取り戻したジョグは、もう金輪際バルドを老人と思うのはやめる、と心に誓った。
四度目の対決は、最果ての城で行われた。
バルドが用意した大剣をみて、ジョグは心ひそかに感嘆した。
ジョグ自身、ガイネリアの王宮で眠っていた黒い大剣を用意してきていたが、まさかバルドも同じく常識はずれの大剣を用意してきているとは思いもしなかった。
だが、相対してみて、これは当然のことなのだと気が付いた。
最強の騎士同士が雌雄を決する勝負なのだ。
ほかの誰もが持つことも振りまわすこともできない巨大な剣を互いに手にして、正面から相手を撃破する。剛と剛の真っ向勝負だ。それでこそ本当の決着がつく。
ジョグは全身全霊をもってバルドに打ちかかった。
驚いたことに、年老いているバルドは、ジョグの打ち込みとまったく互角の打ち込みをみせた。
このじじいは怪物か、とジョグが思ったのも無理はない。
そしてそのあとのつばぜり合いでは、熟練の戦士らしい立ち回りをみせ、バルドはジョグに大剣をたたきつけて勝負を決めた。
完敗だった。
どう言いつくろいようもない。バルドの力はジョグより上なのだ。少なくとも今は。
ジョグはバルドの勝ちを認め、その指揮下に入ることを宣言した。
5
魔獣たちとの戦いのなかで、ジョグは目をみはった。
魔獣にではない。味方の騎士たちにだ。
きんきらも、縮れっ毛も、そしてバルドの養子の根暗男も、とてつもない強さだった。
世の中には、まだこんな強者がいるのか。そう思った。
ということは、ジョグもまだまだ強くなれるということだ。
彼らの戦闘スタイルはそれぞれちがった。それがまた面白かった。
やがてジョグは絶望的な防衛戦を生き延び、ガイネリアに帰った。そのときガイネリアはシンカイ軍の侵攻を受けていた。
シンカイ軍の騎士たちは強かった。なかなかの歯ごたえだった。
それを率いる将軍は驚くべき手だれだった。
ことによると勝てないかもしれない、とジョグは思った。
ところが結果はジョグの圧勝だった。
——いつのまに、俺はこんなに強くなったんだ?
ジョグはめったにやらないことをやった。
つまり、深く考え込んだのだ。
その結果、ロードヴァン城で過ごした日々が自分を変えたのだという結論に至った。
きんきらや、縮れっ毛や、根暗男や、そしてバルド・ローエンと一緒に過ごす日々は、ひりひりとひりつくような緊張に満たされていた。
ジョグは野獣のような感性を持つ男である。
であるがゆえに、強い獣の気配には敏感だ。
きんきらや、縮れっ毛や、根暗男や、バルド・ローエンは、とびっきり強い獣である。
襲いかかってくればたちまちこちらを食い殺してしまう牙を持っている。
そんな猛獣たちと過ごすなかで、ジョグの野性は研ぎ澄まされていったのだ。
獣は修業などしない。
強い獣ははじめから強いのであり、修業したから強くなったのではない。
ただし、安閑とした暮らしが続けば、獣の強さはにぶってしまうことがある。
逆に、ぴりぴりとした緊張感のなかで過ごせば、戦いの感覚は磨かれてゆく。
ジョグに言わせれば、「強い獣の吐く息を吸った獣は強くなる」のだ。
ジョグにとってロードヴァン城は、そういう場所だった。
その上、ロードヴァン城では、魔獣という格好の実践相手がいた。命懸けの戦いのなかで、ジョグはさらなる凶暴な存在へと進化したのだ。
そう気付いてみると、ガイネリアでの暮らしはぬるま湯だった。
雑魚騎士や雑魚兵士をどれだけたたき伏せても、そんなものは修業にはならない。
いら立ちを感じ始めたとき、とびこんできた報せがある。
パルザム王国は、連合元帥バルド・ローエンを指揮官としてシンカイ軍を迎え撃つべく、友好国に援軍派遣を依頼しているというのだ。
——あのくそじじい。誰かの助けがいるっていうんなら、まずはこの俺に援軍を頼むのが筋ってもんだろう。
ジョグは怒った。
その怒りのままガイネリアを飛び出し、押しかけ援軍としてバルドのもとに駆けつけた。
そしてバルドとともに暮らすようになると、かねて願っていた環境がそこにあることに気付いた。
バルド・ローエンのもとには、強者が集まる。
連日のごとくこの屋敷を訪ねる騎士たちの多くが、ジョグの肌をひりつかせてくれる強者だった。
ここにいれば、おれは強くなれる。そうジョグは感じた。
そしてまた、バルド・ローエンの敵も強者である。
やがて物欲将軍の率いるシンカイ軍本隊との決戦がある。
一人でも多くの強敵を倒し、最後には物欲将軍さえも、ジョグは倒すつもりだ。
そしてジョグは強くなる。
バルド・ローエンを殺せるほどに。
6
遠乗りから帰り、馬の世話をしてから客棟に帰る途中、ばったりと根暗男に出くわした。
ジョグが足を止めると、根暗男も足を止めた。
根暗男の無表情な顔を、ジョグはじっとみつめた。
この色黒の根暗男の剣は、凄絶だ。
まるで恐怖がないかのように、迫る来る魔獣たちの爪牙のなかに身を置いて、必殺の剣をふるい続ける。
そのわざの切れ。
しなやかな身のこなし。
ジョグが力の剣士だとすれば、根暗男はわざの剣士だ。
——こいつと殺りあったら、どうなるか。
それを想像すると、腹の底からぞくぞくするような喜びが湧いてくる。
こうして強者と対峙する一瞬一瞬が、ジョグを強くしてくれる。
強者の息づかい、足の運び、目配り。
それをみて感じ取ることで、ジョグはさらなる強さを得る。
根暗男は剣に手をかけてはいない。
だが、今、この男の右手と、左腰に吊った剣の柄は、みえない糸でつながっていて、戦闘が始まった瞬間、すでに剣はこの男の右手のなかにあり、須臾の間も置かずジョグの急所を斬り裂くだろう。
剣はすでにこの男の手のなかにある。
いや。
この男は剣そのものだ。
対するジョグが腰に吊っているのは、幅広で肉厚の騎士剣であり、名工がたたき上げた名剣だ。
ジョグの趣味からすれば少し軽すぎるし短すぎるが、そのぶん動きは速い。
根暗男の最初の一太刀をかわすことができれば、防御不能な一撃をたたき込んでやることができる。
じりっ、とジョグの右足がわずかに前に出る。
根暗男の周りの空気の温度が少し下がる。
ジョグは、首筋がちりちりするのを感じた。
そして、にやりと笑った。
——俺の首を刈るつもりか。おもしれえ。取れるもんなら取ってみやがれ。
そのとき、少し遠くからコリンが呼びかけてきた。
「ジョグ〜〜〜。今日はバルド元帥はお城に泊まるんだってよ。晩飯いつごろにするかって〜」
ジョグは息を吸って、そして吐いた。
根暗男は、何事もなかったかのように再び歩き始め、ジョグとすれ違い、立ち去った。
近づいてきたコリンがジョグに訊いた。
「今の、カーズさんだったよね。何か話してたのかい?」
「ああ。ちょっと質問してたのさ」
「へえ? 何を?」
「バルド・ローエンの養子とパーゼル・ウォードの養子は、どっちが強いんだってな」
7
その夜のトード家の晩餐は、ジョグとカーズとコリンだけだった。
バルドがいないのだから、客もいない。
ジョグと一緒にガイネリアの外交担当大臣もパルザム王国に来たのだが、大臣はわずかの供回りとともに、王宮に宿泊しているので、ここには最初からいない。
カムラーは、またも奇妙なことを始めた。
大きな石鍋に入れた緑炎石に火をつけると、その上に厚い鉄の平鍋を置き、油も何も敷かないで、砂糖をさらさらと入れ、へらでかき回し始めたのだ。
「へえ? 今日の主菜は、砂糖の料理なんだ? 砂糖をから煎りしてるけど、それ、うまいの?」
「もちろん、よい味のする砂糖です。しかしこれは、下準備でございます」
「へえ?」
頃よしとみて、カムラーはワゴンの下から大きな皿を取り出した。
蓋をあけると、鮮烈な色をした肉が載っている。
ジョグの目が爛々と輝いた。
牛の肉だ。
薄切りにしてある。
その薄切りにした牛肉を、焼いた砂糖の上に広げた。
じゅうっ、といい音がして、肉の焼ける匂いが漂う。
ジョグの口元に笑みが浮かぶ。
そそがれていた赤ワインを、ジョグはぐびりと喉に流し込んだ。
カムラーは肉を素早く裏返して、さっと火を通すと、そこに黒っぽいソースを振りかけた。
じゅわっと大きな音がして、たちまち辺りは香ばしい香りに包まれる。
「うわっ。うまそう。これは何のソース?」
「数種類の豆を発酵させて作った穀物ソースでございます。えぐみやしつこさがないので、繊細な肉の味を壊さないのでございます」
「いい香りだねえ」
「恐れ入ります」
料理はあっという間に完成した。
焼かれた肉は三等分され、ジョグとカーズとコリンのもとに運ばれる。肉の載った皿の横には、小さな深皿が置かれた。何やら粘り気のある茶色のたれが入っている。
「たれにさっとくぐらせてお召し上がりください」
ジョグは、言われた通りにした。
つまり、四本歯のフォークで肉をすくい上げ、さっとたれをからめて口に運んだのだ。
甘さと、こくと、なめらかさと、肉の肉々しい手応えと、そして得も言われぬ風味が口を満たした。
口に入れた瞬間には、確かに肉片の質感があったのだ。
ところが、口のなかで肉片を味わおうとするうちに、それはふわりと溶け、喉に心地よい充足感を与えながら、ゆっくり腹の底に落ち込んでいった。
今、歯で肉をかんだのか、どうか。
それさえもジョグは覚えていない。
かつて経験のない、官能的な料理だ。
まったく抵抗なく腹に収まった。
それでいて、肉の肉たる存在感が、確かにあった。
その残り香は、ジョグを陶然とさせた。
その余韻が終わらないうちに、次の肉が運ばれてきた。
今度は肉をフォークに巻き付けるようにして、たれにひたし、口に運んだ。
かみしめたときには、肉の歯ごたえがあった。
だが、嘘のように溶けてゆく。
そして肉でしか味わえない強くしっかりした質感の記憶を残して、それは喉の奥に消えた。
「うめえ……」
本当にうまい。
この屋敷に来てから、夕食に感動しなかったことがない。
やがてシンカイ軍がやってくれば戦いになる。
戦いが終われば、ジョグはこの屋敷を去る。
ということは、この料理が二度と食えなくなる。
「おい、カムラー」
「はい」
「この屋敷はバルドがいなくなったら閉鎖されるんだったな」
「はい。さようでございます」
「引退する使用人以外は、次の務め先が決まったけど、おめえは行く先が決まってねえと聞いた。ほんとか」
ジョグは食い物をくれる人のことは、よく覚える。うまい食い物をくれる人なら、なおさらである。
「はい。わたくしめは、貴族家にはいささかの噂がございますので」
「俺んところに来い」
「は?」
「俺はガイネリアで屋敷をもらってる。そこに来い。そして俺のために、毎日うまい物を作ってくれ」
「ジョグ将軍がわたくしめをお雇いくださるとおっしゃるのですか」
「半分出す」
「は?」
「ちょ、ちょっと、ジョグ」
「俺が王宮からもらう給料の半分をあんたにやる。だから来てくれ」
この申し出には、さすがのカムラーも目をみひらいて驚いた。
ジョグ・ウォードは、ガイネリア国の大将軍である。
その俸給がどのくらいの額であるかは知らないが、自身が大将軍という格式にふさわしい暮らしや付き合いをし、何百人という使用人や兵の生活と武具をまかなうに足りる額であるはずだ。その俸給の半分となれば、とてつもない金額となるはずだ。
居並ぶ使用人たちも、驚きを隠せないでいる。
ただし、カーズ・ローエンだけは、平然と肉を食べ、ワインを飲んでいる。
「返事はまた後日に聞く。考えてみておいてくれ」
「は、はい。わたくしめのような者に、そこまでのお申し出をくださりましたこと、感謝に堪えません。ジョグ・ウォード様、厚く御礼申し上げます」
8
「いきなりでびっくりしたけど、考えてみたら悪くないね」
「悪くないどころか、最高だろうが」
「あのカムラーの料理がずっと食えるなんて、こりゃもう天国だよね」
「ああ」
「ガイネリアは、食い物はまずいからね。たぶん評判になるよ」
「評判?」
「ジョグ将軍のところに、すごい料理人がいるって」
「人のことなんざ知るか」
「噂を聞きつけて、客が押し寄せるよ。今までジョグは人付き合いが悪かったけど、こっからは交友が広がりそうだね。みんな土産持ってくるか、あとでお礼をくれるから、もうかるよ」
「呼ばん。カムラーの料理は俺だけのもんだ」
「そうはいかないんじゃないかな」
「それに、カムラーが貴族たちに嫌われてるのを聞いてないのか。古いしきたり通りの料理の出し方なんぞ、俺はカムラーに命じるつもりはねえ」
「でも、ジョグが突拍子もないことをするのは、もう当たり前になっちゃってるからね。となると、料理の出し方の作法なんか、誰も文句言わないよ。そしてカムラーの料理のうまさだけが評判になる。これからガイネリアで地歩を固めていくなら、付き合いを広げとくのも大事だよ」
「そんなめんどくさいことは、やらねえ」
「ジョグがやることはないよ。こっちで差配するから。それに、バルド元帥は、たぶん戦争が終わったら放浪に戻る。カムラーの料理が食えるとなったら、時々はやって来てくれるんじゃないかな」
ジョグは、ぎろりとコリンをにらんだ。
——くそじじいが時々訪ねてくる、か。根暗を連れて。
それも悪くないかもしれない、とジョグは思った。
「それにしても、いつもジョグはいきなりだね。ほんと、破天荒だよ。だけど、もうそろそろいい年なんだからね。ガイネリアには落ち着いてもらわないと」
「うるせえ」
ジョグは今、ガイネリアの大将軍だ。
だが、その地位身分にしがみつく気持ちはない。
ほかにやりたいことができたら、出て行く気でいる。
ジョグ・ウォードは風のような男だ。いや、暴風のような男だ。
けっしてよどむことはない。




