第6話 王妃の奮闘(前編)
1
〈バルド・ローエン〉
〈バルド・ローエン〉
石の階段を上っている。
若き日のバルド・ローエンである。
階段を上りきったところに、石畳のゆるやかな斜面がある。
斜面の端に、鍵の掛かっていない花模様の飾り戸がある。
押し開いて中に入り花と草で囲まれた道を左に曲がる。
そこには陽だまりの庭があった。
「まあ、バルド様。
正装をしてどうなさったのですか」
それには答えずまっすぐ進む。
アイドラの膝にはジュールランが乗っている。
きょとんとしたつぶらな瞳がバルドを捉えると、その顔は笑顔になった。
様子を察した侍女が後ろに下がる。
バルドはアイドラのそば近くに進み、帯剣を鞘ごと外すと右膝を突いた。
そして両手で剣を捧げ持つと、誓約の言葉を口にした。
「わが守護神パタラポザの名のもとに誓約いたします。
わが剣をアイドラ・テルシア様とジュールラン・テルシア様に捧げ、生涯その安寧を守り抜くことを。
いずこの地にあっても常にアイドラ様とジュールラン様のことを想い、危難にあっては直ちに駆けつけることを。
アイドラ様とジュールラン様の願われるところをおのが願いとして、その実現に全身全霊を傾けることを。
どうかこの誓約の剣をお取りください」
バルドが頭を下げて待っていると、アイドラは椅子から降りてバルドに近寄り、その剣の柄に優しく手を触れた。
ジュールランにも同じようにさせた。
そして、
「バルド様。
その剣を持ち上げることはできないので、これでお許しくださいませね。
あなたの剣は確かに受け取りました。
このわたくしと、ジュールが。
バルド様。
このことだけは申し上げておきます。
ジュールランは、あなたの忠誠を受けるに値する者です」
バルドは顔を上げてアイドラを見た。
濁りなき瞳がバルドを見つめ返した。
コエンデラ家に輿入れするためこの城を出てから初めて、二人の心と心がまっすぐにつながったのを、バルドは感じた。
〈バルド・ローエン〉
〈バルド・ローエン〉
2
夢と熱と汗の不快感で、バルドはわずかに目を覚ました。
窓際の椅子にカーズが腰掛けて、目を閉じている。
風にそよそよと髪が揺れている。
相変わらずその顔は若々しく、神話の英雄のように美しい。
と、カーズが薄く目を開いてバルドのほうを見た。
そしてテーブルの水吸いをとってバルドに歩み寄ると、その吸い口をバルドの口に当てた。
ちょろちょろと流れてくる水が、乾ききった口を、喉を潤していく。
水は体にしみこんで、こわばった指や足をほぐしていく。
わずかな安息を得て、バルドはまた寝た。
〈バルド・ローエン〉
〈バルド・ローエン〉
「いやいや。
本当に危ないところだったのですぞ。
心の臓が完全に止まっておりました。
胸を強くたたいて再び心の臓を動かすという救急法が功を奏しましてな。
そこからあとは地力の勝負でした。
それにしても、こういう場合には、手や足にしびれが残ったり、うまくしゃべれなかったりすることがあるのですが、まったく問題ないようで安心いたしました。
ですがあと一日だけ、安静にしておいてください」
といいながら診察を終えた薬師の言葉を、バルドはうつろな目で聞いていた。
話し掛けられる言葉は聞こえるし理解できるのだが、それでどうということもなかった。
それはどこか遠い場所で他人が他人に話しているように聞こえた。
バルドは寝た。
〈バルド・ローエン〉
〈バルド・ローエン〉
カーズが時々水や果物を持って来てくれる。
あるいは一切れのパンや、一かけのチーズを。
差し出されるそれを、バルドは機械的に口に入れて咀嚼した。
飢えをわずかに満たすと、バルドは寝た。
〈バルド・ローエン〉
〈バルド・ローエン〉
3
寝ていると、不快な呼び声ばかりが頭に響く。
本当の呼び声なのか、心のおびえが聞かせる幻聴なのか、もはやバルドには区別がつかなかったが、それがひどく耳障りであり、途切れることのない頭痛をもたらしていることは明らかだった。
バルドはベッドから起き上がり、着流しをまとった。
剣も腕輪も着けず、そのままリンツ伯の屋敷を出た。
街の喧騒もどこか遠い。
水路は広げられ、土手は石造りになっていた。
立ち並ぶのはもはや屋台ではなく店構えを持つ店舗だ。
水路を通う船も大きくなり、その数も多い。
そのにぎわいが、今のバルドにはうっとおしかった。
津のほうに行っても騒がしいばかりだろうと、バルドは商館の立ち並ぶ通りを迂回してオーヴァのほとりに出た。
腰を下ろして川面を眺めるともなく眺めた。
大オーヴァは風に吹かれて澄み切っている。
だがバルドの頭には深いもやが立ちこめていた。
何も考えられない。
だが考える必要もないではないか。
もはやすべては終わったのだから。
このまま石になってしまえばよい。
苦しみも悲しみも感じない石像に。
そんなふうに考えている自分に気付いて、少し驚いた。
それほどまでにわしは、ジュールを愛していたのか。
それほどまでにわしは、ジュールに寄りかかっていたのか。
自分で考えて、可笑しかった。
だが、そうなのだ。
それは当然なのだ。
そういう者であろうと、自分自身に言い聞かせてきたのだから。
アイドラと結ばれることはないと知った、あの日。
苦しみ抜いて、ならばアイドラにおのれを捧げると決心したあの日。
アイドラの願いに沿うとはジュールランを愛し信じることであると結論したあの日。
ジュールランをおのれの全てであると思い定め、仕え抜くと決めたあの日。
そうだあの日以来、ジュールの生きる輝きこそが、わしの命だったのだ。
そのわしの命は、失われてしまった。
もう気力も喜びも、湧いてくることはない。
日が落ちて二つの月が頭上に舞う時刻まで、バルドは川岸にぼんやり座っていた。
その日から、オーヴァの川辺に通うのが、バルドの日課になった。
朝の食事が済めば、着流しに帯を結んで外にでる。
カーズがガウンを掛けてくれた日には、ガウンをまとったまま歩いて行く。
ある日のこと、いつものようにオーヴァに向かって歩いていると、道端に座っている子どもに、ふと目がいった。
子どもは薄汚い格好でトガの実をかじりながら、バルドを見ている。
オーヴァのほとりに腰を下ろしてからも、その目が気になった。
あれは。
あれは案じる目だ。
心配する目だ。
あの子の目に、わしはどう映ったのだろう。
しょぼくれて。
背を丸めて。
気力も希望もないうつろな目をして。
足をひきずるようにして歩く、哀れな老人か。
あのみすぼらしい子どもにわしは同情され、憐れまれたのだ。
バルドよ。
バルド・ローエンよ。
それでよいのか。
アイドラの騎士バルドがそんなことで、本当によいのか。
いいや。
よくない。
胸を張れ、背を伸ばせ、バルド・ローエン!
お前はまだ生きておるのだぞ。
戦え、バルド・ローエン!
バルドは右手で握りこぶしを作った。
しわの多い手ではあるが、まだまだたくましい。
敵を打ち砕く強いこぶしだ。
大きく息を吸い込んだ。
オーヴァの風が胸に入り込み、体中に力が満ちた。
バルドは立ち上がって、後ろを見た。
そこにはカーズが立っていた。
ずっとそばにいてくれたのだ。
わしは独りではない。
バルドは泣いた。
顔中をくしゃくしゃにして泣いた。
温かな涙とともに、心にため込んでいた悲しみやいらだちが、みんな流れ出ていくのを感じた。
その夜カーズが差し出してくれた夕食は、いつもより少し量が多く、一杯の酒も付けられていた。
悪夢を見ることもなくぐっすりとバルドは寝た。
4
倒れてから十二日目の昼下がり。
リンツ伯邸迎賓館の食堂のベランダに椅子とテーブルが並んでいる。
バルドとサイモンは、ともに大オーヴァを見下ろし、並ぶように座っている。
その脇にはカーズとセトも座っている。
「いやあ。
本当にすまんことをした。
あやうくバルド殿を殺すところであった。
それで、ジュールラント前王陛下のことじゃがな」
バルドは、ジュールラントの死のいきさつとその後の成り行きをぜひ聞きたいと、サイモンに乞うた。
今となっては聞かずにいるほうが体に悪い。
いや、ぜひ聞くべきだ。
ジュールラントがどのように死んだのか。
ジュールラントの生きた証しは、どう引き継がれたのかを。
サイモンは、このような辺境にいながら非常によく情報を集め、整理しているようだった。
ジュールラントの発病から死に至る経緯は、さほど語り所もなかった。
昨年の年明けから体調が優れず、やがて寝込むことが多くなった。
それを見て重臣たちは、やはりいくらなんでも激務が過ぎたのだと言い合った。
しかしそれでも政務を執り続け、ついに四月二十三日、帰らぬ人となった。
ジュールラントが王都に召し出されたのが、四千二百七十年、つまり十五年前の春だった。
親子の対面を果たし正しく王の長子であると認められてからのジュールラントは多忙だった。
王太子候補としての教育が過密な日程で組まれ、次々と会談する貴族たちと渡り合い、さらには実績作りのため、有力都市を回って条約改定をして回った。
それもただの改定ではない。
過去数代の王が取り組んできた制度改革に沿って、海千山千の大貴族たちと交渉を続けなければならなかったのだ。
立太子式を迎えたかと思えば、中原には戦乱のきざしが現れ、ジュールラントは慣れぬ戦いをする軍を率いて戦わねばならなかった。
やっとのことで勝利を得て凱旋したかと思えば王の急死である。
このとき次期王をめぐっては熾烈な王族間の争いがあったらしい。
王位継承権を与えられていた王族が十数人いて、いっせいに自分こそが次の王にふさわしいと言い立て始めたのだ。
この場合、戦乱のさなかであることがジュールラントに味方した。
つまり早急に次期王を決めなければならない。
相手の欺瞞を見破ってファーゴ、エジテおよびグリスモとの戦に勝ったジュールラントを王位に就けることが、最も抵抗が少なかった。
ウェンデルラント王が急死であったため、他の王族の準備活動が間に合わなかったことも幸いした。
さらに他の王族はウェンデルラント王に批判的であり、一部の例外を除いて治世にまったく協力していなかったことも、ジュールラントに有利に作用した。
とはいえ、それは王族ほとんどの多大な不満を内包しての、薄氷の戴冠だったのである。
しかもジュールラントには使命があった。
過去数代の王が挑みウェンデルラントが進めた制度改革を、さらに推し進めるという使命が。
制度改革とは、簡単にいえば、複雑化した軍制と税制を中心に国の制度や命令統治の系統を整備し、さらなる発展の下地を作るというものであり、直接的には王権の強化ともいえるものである。
軍制でいえば、軍を一つの目的に差し向けても、その内容が混成部隊とならざるを得ず、さまざまな大臣や貴族の利権がらみの指示要望を酌み取って動かねばならない状態であり、指揮権自体もあいまいなものとなりやすいという問題があった。
税制でいえば、重要都市の徴税権が複雑化し、店一つ出してもさまざまな部署や貴族から個々ばらばらに徴税を受けるという状態であった。
こうしたもののうち、直接大貴族たちの権益に触れる部分は後回しにしつつ、現場に直接王の意志が反映できるような制度改革を進めていたのであり、ジュールラントはこの志を継ごうとしていたのである。
実績少なく信頼できる家臣も少ない新王が、戦争を継続しつつこの問題にも取り組まねばならなかったのである。
その苦労たるや想像を絶するものがある。
そういわれてみて、バルドにも思い出される光景がある。
ファーゴ、エジテ、グリスモの反乱を鎮圧して凱旋したジュールラントは、夕刻王宮に着き、おそらくさまざまな事項の処理命令にあたったあと、翌日早朝にはバルドと会談した。
その場でカーズとジュルチャガを返してくれたのだが、ジュールラントはそのまま重臣会議や枢密顧問会議を重ねたことだろう。
また、すでに危篤状態にあった前王ウェンデルラントの見舞いも行い、その遺言をも受け止めていたに違いない。
ウェンデルラント王が死するや、息つく暇もなく王位をめぐる争いがあり、そのかたわらでグリスモ伯爵の尋問から得られた情報に基づいて戦略を練り、ゴリオラ、ガイネリアの両国代表との折衝も重ねた。
こんな状態でしかも当てになる股肱の臣などいないのだから、テルシア家筆頭騎士たるシーデルモントを召し出すという、ほとんど禁じ手のような挙に出たのも無理はないのかもしれない。
果てしない重圧を負いつつ、ジュールラントは、十年分の寿命を一年で使うような過酷で多忙な日々を過ごしたのだ。
また、第二次諸国戦争のおりに第一側妃から受けた毒の短剣も、ジュールラントの寿命を縮めたかもしれない。
在位十二年、享年四十二歳。
ああ!
ああ!
ジュールよ!!
4月28日「王妃の奮闘(後編)」に続く




