第5話 ゴドンの恋(前編)
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「いやあ、本当によく来てくださった。
今夜はじゅうぶんに楽しまれよ」
心からうれしそうな前リンツ伯サイモン・エピバレスを見て、バルドの心はなごんだ。
実のところ、ここに来る道中、ハドル伯、ゴドン、カイネン、ユーリカと、立て続けに懐かしい人々の訃報に接してきたので、高齢のリンツ伯ももしや、という思いがあったのだ。
まったくの杞憂だった。
若干やせたのと声が枯れているのを除けば、以前通りといってよい。
顔はつやつやして健康的だし体つきもがっしりしている。
もう八十歳にはなっているのではないか。
責任ある地位を長年務めながら、この年まで元気いっぱいの人間というのは、そういるものではない。
「バルド殿には、最前の別れ際、またも命を救うてもらったのう。
あらためて礼を言う。
かたじけない」
サイモンが言っているのは七年前のことだ。
ここでジュールラント王からの親書を受け取り、その足でパルザムの王都に向かった。
その去り際の船から、見送りに来たサイモンを狙う刺客を古代剣の不思議な力で打ち据えたのだ。
つまりあれから七年間も、バルドはサイモンと会っていなかったことになる。
こうして親しく杯をかわすと、とてもそうは思えないのだが。
「あれは、わしが事業のすべてをウェルナーに譲ったことを不満に思う親族が差し向けた刺客じゃった。
長年自由にやらせておったから、その事業はもう自分のもののように思っておったのじゃな。
暗殺未遂を起こしたその片をどう付けるか、仕置きはウェルナーに任せたのじゃがな。
存外激しい手を打ちおった。
刺客には命の保証をして依頼人の名を一族の会議で公表させた。
依頼人はわしの従兄弟にあたる男だったのじゃが、死刑にした。
ただし財産は没収せず長男に継がせた。
それから全事業の編成変えをやりおった。
まあ、もともと調整の必要な時期にはきておったのだがな。
なにしろ昔と違い、今は商売が手広くなった。
パクラの銀や魔獣の毛皮、ドルバの木材は、こちらが運搬業者を仕立てて買い入れるようになったし、加工業の工場もずいぶん大きなものが次々出来ておる。
川の向こうにもわが家の倉庫が立ち並んでおるよ。
パルザムの王都には直属の交渉人を常駐させ、わが家の馬車が王都とパデリアをひっきりなしに往復しておる。
実のところ、爵位と家督をウェルナーに譲ったのは、パルザムがわしを正式に伯爵に任じようとしてきたのをかわす意味もあったのじゃ。
昔はあこがれた正式の爵位じゃが、今さらパルザムの組下に入りたいとは思わん。
そんなことをしたら、海千山千の重臣どもに尻の毛まで抜かれてしまうわい。
王都の商人どもと渡り合うだけで大変だというのにな!
わっはっはっはっは」
話題は愉快で酒もうまかった。
何より料理である。
卓を埋め尽くさんばかりに並べられた色とりどりの料理を少しばかり口に運んで、バルドは歓喜した。
うまい!
何しろここに来るまでの道中、店という店で出された料理がことごとくまずかった。
例外はクラースクの料理だが、これも極上の味とはいかなかった。
それもこれもカムラーのせいである。
もともと道中の店の料理を、バルドはおいしく感じて食べていたはずなのだ。
ところがカムラーの料理に舌が慣らされると、食べ物の味付けや素材の生かし方を、ごく微妙で繊細な点まで味わってしまう。
そうすると、どうにも物足りないのだ。
だが、ここの料理はうまい。
工夫があり、変化もある。
見て楽しく、口に入れて愉快で、舌に乗せて味わい深い。
飲み込み、腹に落ちる感覚がまた心地よい。
むろん鼻から入る匂いも食欲をかきたてる。
それにしても、今食べているこれは何だろう。
見かけはよくない。
黒っぽい肉の塊に、黒っぽいソースが掛けてある。
ただそれだけの料理である。
ところがこの味の奥深さときては!
獣の肉かと思ったが、どうも違う。
では魚の肉かといえば、それも違う。
歯ごたえはあるのだがさくりと歯が通る。
その瞬間、濃厚でとがったうまみが舌を直撃する。
食材から出る汁のうまみを極限まで煮詰め、しかし焦がさずにいたようなうまみだ。
舌からの連絡を受け、体中が臨戦態勢に入る。
これは心して迎え撃つ相手だと、全身が知ったのだ。
かみ切った断片は、意外にも舌の上でつぶすことができる。
筋や粗密がない。
つまりまんべんなく同じ味と歯ごたえが続いている。
さくりさくりとかみしめればにじみ出てくる味は口中にあふれ、鼻孔をも刺激する。
かんでもかんでも味けのない肉のかすが残ったりはしない。
味の気品を保ったまま徐々に溶けていき、最後の一片までとがった味を保ちつつ、消え去っていくのだ。
何かの酒を使っているのは分かる。
なんだろう。
ひどく懐かしい味なのだが。
「はっはっはっは。
バルド殿、それが何か分かるかな」
分からない、と言うほかなかった。
「はっはっはっはっは。
それは、オキュドールの肝の臓じゃよ」
肝の臓!
なるほど。
そう言われればそのような歯ごたえであり舌触りだ。
コルコルドゥルの肝の臓や牛の肝の臓も、似たような食感である。
ただし肝の臓には独特の肝の臓臭さというものがあるのだが、この料理にはそれがない。
それにしても、オキュドールじゃと?
割合に大きな魚ではあるが、これほどの大きさの肝の臓が取れるものだろうか。
「この料理を作るには、よほどの大きさの、しかもよく肥えて元気いっぱいのオキュドールが必要じゃ。
やせていたり傷ついているオキュドールでは、肝の臓の具合もよくないからの。
そして何といっても生きているうちにさっさと肝の臓を取り出さねばならん。
取り出した肝臓は、プラン酒の澄まし酒で洗うのじゃ」
プラン酒!
しかも澄まし酒!
そんなものをいったいどこから。
「ゴドンのやつが、土産にと、クラースクから輸入したプラン酒の澄まし酒を何度か持って来てくれたのじゃがな。
すっかりはまってしもうた。
それでクラースクから取り寄せることにしたのじゃ。
残念ながら運ぶ手間賃が莫大で、とても売り物にはならん。
じゃからわしの趣味として、私財で取り寄せておる。
ところがわしの料理人が、このプラン酒の澄まし酒を使った料理を次々思いつきよってな。
いや、料理はうまいのじゃが、わしの飲み代が減る。
困ったものじゃ」
それは困ったものだ。
しかしとにかく、ここにはプラン酒の澄まし酒があるようだ。
バルドはぽつりと、飲みたい、と言った。
「わっはっはっ。
バルド殿もプラン酒党か。
こんなところで同好の士に会おうとはのう。
今運ばせるゆえ、少々待たれい」
ほどなくプラン酒が運ばれてきたのだが、小さな酒つぼ一つしかない。
「なにっ?
もうこれだけしか残っておらんのか?
イシュダリのやつ、また料理に使いおったな。
けしからん。
わしが許可した分以上は使うなと厳しく言っておけ。
どうせ無駄じゃろうがな。
ああ、バルド殿。
これだけしかないのだ。
その代わり、プラン酒の濁り酒ならまだ一樽残っておる。
続きはそちらでどうかな」
むろんバルドに異存はなかった。
「さて、それで、料理の話の続きじゃったな。
プラン酒の澄まし酒で素早く洗ったあと、ソースに漬け込む。
そのソースというのは、甲冑魚の内臓をすりつぶして、それと同じ量の澄ましプラン酒を混ぜたものなのじゃ。
おお、そうじゃ。
その場合のプラン酒は、一度熱してから冷ましたものを使うということじゃ。
そして弱火でじっくり温める。
じゅうぶんに温めたら冷まして味をしみこませる。
次の日同じように温めて冷ます。
その次の日も温めて冷ます。
ただしソースはそのつど新しいものを使うのじゃ。
こうして三日目に、最高の状態の料理ができあがる。
三日前にまことに見事なオキュドールが獲れてのう。
今日がちょうど食べ頃と思っていたら、バルド殿がおみえになった。
いつかジュルチャガが言っておったが、まことにバルド殿には食徳があるわい!
わっはっはっはっは」
豪快な笑いだ。
そういえばゴドンもこんな笑い方をした。
伯父譲りということなのだろう。
そのイシュダリなる人物が、この家の料理人頭なのだろうか。
ひょっとするとサイモン・エピバレスの専属料理人かもしれない。
サイモンはプラン酒の仕入れを個人の趣味というが、そのおかげでこれほどの料理ができる。
これはという客人が来たとき格別の料理でもてなせるというのは、大変な強みだ。
趣味に走っているようで、ちゃんとリンツの領主家の中での役割を果たしているわけである。
こういう部分がなければ、いかに大家であっても大きな尊崇は得られない。
などと考えて、バルドははっと気が付いた。
王都でカムラーの身の振り方に悩んでいたとき、リンツ伯に紹介すればよかったのだ。
サイモン・エピバレスなら、カムラーの異能を正しく評価し、活用したろう。
だがそのことを思いつかなかったおかげで、今はフューザリオンに食文化の花が咲いている。
めぐり合わせというものは不思議なものだ、とバルドは思った。
2
宴はなごやかに続いた。
サイモンは昔のような健啖ぶりはみせず、少しずつ料理を口に運んでは、じっくりと杯の酒を味わっている。
それはバルドも同じである。
もう食べる量で勝負する年代ではない。
若いセトはあきれるほどの量を腹に収めている。
カーズも静かに食べているようでいて、なかなか口に運ぶ速度が落ちない。
サイモンが、旅の話を聞きたいと言い出したので、フューザリオンからここまでの旅を、セトに語らせた。
ココチの街でバルドのにせ者に出会い、領主代理の陰謀を暴いた話では、大笑いをした。
「いやいや!
なんたる活躍ぶり。
やはりバルド殿の行く所常に何かが起こるのう。
いやいや、愉快愉快。
しかも今回は名乗りを上げることもなく、いわば裏方に回られたわけじゃ。
わっはっはっはっは。
こんなに面白い話は久しぶりじゃ」
だが、話がメイジア領に着いてからのことに及ぶと、サイモンの表情は激変した。
「な、なにっ?
メイジア領に着いてゴドンの死を知って驚いたじゃとっ!
で、では。
あのミドルのやつは、バルド殿にゴドンの死を知らせていなかったというのかっ!!
バルド殿とゴドンとの特別の付き合いを知らなんだわけでもあるまいに。
なんとしてでも伝えるのが跡継ぎとしての務めではないかっ。
あれから何年になるというのか。
な、なんという恩知らず!
なんという不忠者!
けしからんっ」
まるで今にも飛び出してミドルの首を絞めかねない勢いである。
それからというもの、サイモンの怒りが収まらない。
延々と怒りの言葉が続くのである。
バルドとゴドンの深い交誼を知っていればこその怒りではあるが、目を血走らせて激高するその様子は、いささか怒りすぎである。
これにはバルドも閉口した。
サイモンの健康にもよいとは思えない。
怒りが収まらないというのも年を取ったしるしなのかもしれない。
元気なだけ結構だが、元気すぎる。
しかしそういえばわし自身はどうなのじゃ。
気を付けなければいかんな、とバルドは思った。
話題を変えようとしてか、セトがこんなことを訊いた。
「ゴドン様はどうしてずっとご独身だったのでしょう。
若いころには好き合ったかたなどはなかったのでしょうか」
この言葉は劇的な効果があった。
赤い顔をして憤慨していたサイモンが、みるみる表情を収め、しんみりとした顔つきになったのである。
「ああ。
あれの恋の話か。
あれからもう何年になるのかのう」
そう言って、ゴドンの若き日の話を始めたのだった。
4月22日「ゴドンの恋(後編)」に続く