第3話 駆け落ち(後編)
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翌朝、空はきれいに晴れ上がった。
バルドは館を辞して旅に戻ろうとしたのだが、そうはいかなかった。
あるじのクルト・アレンダス卿が体調を崩して寝込んだというのだ。
これだけ世話になっておいて礼もいわずに館を去るのは気が引けた。
また、バルドたちの衣服は使用人たちに預けたままなのだが、この状況で返してくれと言うのもはばかられたのである。
となるとバルドたちは手持ちぶさたなのだが、騎士ダンガが訪ねて来た。
「ローエン卿。
これから兵士たちの訓練なのですがな。
よかったらごらんになりませんか」
不敵な笑いを見せながら騎士ダンガは言った。
ちょうど退屈していたことでもあり、またせっかくの申し出を断る理由も特にないので、バルドたちは騎士ダンガの案内に従って、訓練場に向かった。
なかなか立派な訓練場だ。
二十人近い兵士が訓練を行っている。
騎士ダンガは厳しく稽古をつけた。
実践的な剣術である。
このダンガという男はそれなりの場数を踏んでいるようだ。
「どうですかな、ローエン卿。
ごらんになるばかりでは、つまらんでしょう。
ひとつご一緒にどうですか」
騎士ダンガの申し出を受けてバルドは、セトに合図をした。
セトにはよい経験になるだろう。
バルドは、この若者は間もなく騎士叙任を受ける予定です、どうか一手教えてやってくだされ、と騎士ダンガに言った。
騎士ダンガはカーズのほうを見て、少し残念そうな表情を見せた。
やはりカーズはただ者でないと感じ取っていたのだろう。
たぶんカーズの手並み見たさに練習場に誘ったに違いない。
しかし表情を繕ってセトの相手を指名した。
「コルゲン。
お前セト殿の胸をお借りしろ。
まだお若いかただがもうすぐ騎士叙任を受けられるかただ。
遠慮せず打ち込むのだぞ」
ふらりと現れたバルドたちに、対抗意識のようなものでも燃やしているのだろうか。
この地の兵士を侮らせはしないぞ、という気概が見え隠れしている。
そういった誇りのあり方を、バルドは嫌いではない。
騎士や兵士というのは、少々鼻っ柱が強いぐらいでちょうどよいのだ。
コルゲンと呼ばれた兵士は二十代中盤ぐらいだろうか。
さきほど練習中によい動きをしていたのが印象に残っている。
コルゲンとセトは礼をし合って剣を構えた。
練習とはいいながら試合形式だ。
バルドも、セトの剣がどの程度通じるか興味があった。
最初は二人とも様子を探るような闘いぶりだったが、セトが一向に攻める気配を見せないので、コルゲンがしびれを切らした。
そしてコルゲンが深く打ち込んできたとき、セトはその攻撃をいなしてコルゲンの胸に軽い打撃を打ち込んだ。
「一本!
セト殿」
審判役の年配の兵士が判定を下した。
二本目も同じだった。
セトはまったく自分からは攻撃しようとしない。
コルゲンはいら立ちを押さえきれず、深く踏みこんでセトの首筋を打ち据えようとした。
セトは実にうまいタイミングで剣を合わせ、相手の力を横に逃がしながらその懐に飛び込んだ。
セトの剣はコルゲンの顔面に突き付けられてぴたりと止まった。
「一本!
勝負あり。
セト殿!」
どうやら三本勝負のようで、セトが二本取ったところで勝利が宣言された。
「おおっ。
お年に似合わず落ち着いた戦い方をされますな。
これは手ごわい。
コルゲンではセト殿も物足りなかったでしょう。
失礼なことをいたしました。
ラークト!
お前セト殿のお相手をさせてもらえ。
セト殿。
この者ならセト殿にもよい練習をしていただけるでしょう」
こうしてセトとラークトの試合になった。
ラークトは三十歳前後の大柄な男で、いかにも歴戦の兵士といった風貌の男だ。
この男に対してもセトは待機戦法に出たが、相手は容易に釣り出されるような兵士ではない。
じりじりと間合いを詰め、探るような剣を放ってきた。
セトは沈着な足運びで相手の動きに合わせ、剣に剣を合わせて斜めにはじき飛ばした。
そうした攻防が何度か続いたあと、突如ラークトは正面から素早い振り下ろしの斬撃を放ってきた。
身長や体重や膂力ではラークトが勝っている。
かさにかかった攻撃で倒せる相手だと、セトの実力を見極めたのだ。
だからセトが正面からの打ち下ろしでまともに剣を合わせて斬撃を防いだとき、ラークトの表情に驚きが浮かんだ。
そしてそのままセトの剣はラークトの剣を斜めにはじき飛ばし、ラークトの頭を打ち据えた。
革の兜をかぶってはいたが、この一撃はかなりこたえたようで、ラークトは膝を突いた。
「一本!
勝負あり。
セト殿」
審判は、この一撃でセトの勝ちだと判定した。
ラークトはしばらく首を振っていたが、やがて立ち上がると、セトに一礼して下がった。
「これは驚いた。
剛剣も使われるのですな。
では次は、ドライゼンがお相手しましょう。
ドライゼン!」
壁際から一人の兵士がやって来た。
中肉中背でほとんどセトと体の大きさは変わらない。
だが兵士たちの中では際だった武威の持ち主である。
先ほどの練習のときには、指導する側に回っていた。
もしかするとこの兵士団の中で、騎士ダンガの腹心といってよい立場の男かもしれない。
剣を向け合って試合が始まったとき、これは物が違うわい、とバルドは思った。
剣の技も場数も、そして心の置き方も、まるでセトとは比較にならない。
むしろこれだけ実力の差があれば、セトにけがはさせずに済ませてくれそうなので安心した。
ところが驚いたことに、セトはなかなか善戦した。
これまでの二戦とは打って変わって、めまぐるしい足運びで左右に位置を変えながら、ドライゼンの隙をうかがった。
ドライゼンの攻撃が飛んでくると、それを完全にはかわせないのだが、セトもドライゼンに一撃を浴びせる。
審判も何度か判定をしかけてはやめて、試合を続行させている。
ダメージはセトのほうが大きいのが明らかなのだが、セトは諦めようとせずドライゼンに食らいついていった。
しかし脇腹に痛烈な一撃を受けたところで、
「参りました!」
とセトが声を発した。
それを受けて審判もドライゼンの勝利を宣言した。
騎士ダンガはと見ると、驚きの目でセトを見ていた。
「いやいや。
これは驚いた。
セト殿。
貴殿はたいしたものだ。
ううむ。
許されよ。
実のところ体格がそれほどではないし、表情もおとなしそうなので侮りがあった。
しかし貴殿は豹の子だったのだな。
いや、よいものを見せていただいた。
その闘志たるや、実によし!」
騎士ダンガはセトを大いにたたえた。
その表情は心からセトの奮闘に感心しているようだ。
武張った騎士だが、根はよい男のようだ。
後に尾を引くようなことにならず、バルドもほっとした。
それにしても。
セトがこれほどやるとは。
実のところ、普段クインタやタランカの稽古ぶりを見ていると、セトの弱さが目につく。
しかし考えてみれば、クインタやタランカは別格なのだ。
外に出せばセトも手練れといえる腕前なのだ。
バルドはうれしくなった。
カーズをふと見ると、相変わらず無表情だ。
うれしいくせに、とバルドはカーズに皮肉げな笑いを向けた。
騎士ダンガは兵士たちの訓練をもう少し続けるというので、バルドたちは訓練所を出た。
8
バルドたちは厩で馬たちの様子をみた。
そのあと館に帰ろうとして、走り込んで来た二人と行き会った。
騎士シェーマと奥方のスラーサイエナである。
騎士シェーマは奥方の手を握っている。
そして二人とも旅装であり、奥方はフードを深くかぶっている。
よほど慌てていたのだろう。
騎士シェーマはバルドたちと出くわし、目を大きく見開いて驚いている。
しかし言い逃れのできない状況である。
騎士シェーマは切迫した調子でバルドに言った。
「恋の逃避行にござる。
お見逃しあられたい!」
そのとき。
そのときバルドの心の中で何が起きたかは、言葉では説明できない。
バルド自身、自分の心がそのように動いたことに驚いた。
とにかくバルドは、右手を左胸に当て、右膝を折り、禁じられた恋人たちに深く頭を下げて、こう言ったのだ。
分かりもうした。
不肖、お二人の恋の守護騎士となりもうす。
お心のままに旅立たれよ。
これには騎士シェーマとスラーサイエナもあっけにとられた。
騎士はあるじに剣を捧げる。
また貴婦人にも剣を捧げる。
これらのほか、恋の成就に手を貸すため一時的に剣を捧げることがあり、それを恋の守護騎士という。
その恋に感動し、命に替えても助けたいと思ったとき、誓いを行う。
いったん恋の守護騎士たる誓いを立てたら、事の理非や敵対するものの多寡に関わらず、誓いの相手を守り抜かねばならない。
しかしこの場合、バルドは奥方と騎士シェーマとの間柄については何も知らないのだ。
しかも明らかにこれは領主たるクルト・アレンダス卿の奥方をさらってにげようとしているのであり、どう考えてもまともに応援してよい場面ではない。
だというのに、バルドは恋の守護騎士たる誓いを立てたのである。
やさ男の騎士シェーマは、意外に早い決断をみせ、
「ありがたくお受けもうす。
かたじけない!」
と言い置いて、厩の馬に奥方を乗せ、その後ろにまたがって飛び出して行った。
9
バルドは練習場に戻った。
幸いなことに、この館の兵士たちはここにほとんど集まっている。
バルドたちが入り口から入るなり、騎士ダンガが気付いた。
「おや?
お戻りか。
もう少し汗を流す気になられたか」
そう話し掛けたあとで、探るような目つきになった。
この練習場には出入り口は一つしかない。
その出入り口をふさぐように、バルドとカーズとセトは立っている。
そのことに不審を覚えたのだろう。
と、練習場に向かって走り込んできた者がいる。
小姓だ。
「たっ、大変です!
お、奥方様が。
奥方様が。
騎士シェーマ・イダール様と共に逐電なされました!」
なに! と騎士ダンガは目をむいた。
すさまじい形相だ。
そして練習場を飛び出そうとした。
がその道をバルドが阻んだ。
「ローエン卿。
そこをどけていただきたい。
ふらち者をこらしめて、奥方様を連れ戻さねばならん」
すまんな、ダンガ殿。
わしは今、奥方様と騎士シェーマに、恋の守護騎士たる誓いを立てた。
二人が安全な場所に逃げるまで、ここは通すわけにはいかん。
「なにい!
ふざけるな。
貴殿らに何が分かる。
何の関係もないことではないかっ。
そこをどけ。
どかねば斬る!」
カーズ・ローエンが、すっと進み出た。
セトも、バルドをかばうような位置に進んだ。
さすがに騎士ダンガにはカーズ・ローエンがただ者でないことが分かるのだろう。
足を止め、ぎりぎりと歯がみをしながら、カーズをにらみつけている。
剣に手をかけ、今にも抜きそうな気配を放っている。
騎士ダンガの闘志が後ろの部下たちにもうつったのか、二十人ほどの兵士たちも、号令があれば突撃せんといったふぜいである。
騎士ダンガが命令を発するか、率先して飛び出せば、彼らも全員突撃してくるだろう。
騎士ダンガが息を吸い、今にも命令を発しようとしたとき。
バルドは、くわっ、と目を見開いて、騎士ダンガと部下たちの足を縫い止めた。
老いて体力は衰えたといっても、この程度の相手を威圧するのは造作もない。
爆発しかけたところで気勢をそがれ、騎士ダンガは動くに動けなくなった。
にらみ合いは、どれほどの時間続いたろう。
出入り口に意外な人物が顔を出した。
「もう二人は逃げてしまったであろうなあ。
イダール家の領地は近い。
あの館に逃げ込まれてはしかたがないわい」
領主のクルト・アレンダス卿は、ひどくおだやかな声でそう言った。
9
アレンダス卿は、騎士ダンガと兵士たちに、別命あるまで普段の通りにせよ、と言い置いて、バルドたちを歓談室にいざなった。
そこでアレンダス卿はバルドたちに茶を勧め、事の次第を物語り始めたのだった。
シェーマとスラーサイエナは、もともと好き合っていた。
両家も二人のことを認めていたから、やがては結婚するはずだった。
ところがシェーマが騎士修業のため他家に出ているあいだに、アレンダス家に騎士ダンガが来た。
騎士ダンガの家はアレンダス家と親戚であり、近頃諸事情で騎士がいなくなってしまったアレンダス家に、練達の騎士であるダンガをよこしたのだ。
その騎士ダンガがスラーサイエナを見初めた。
見初めたことを周囲に相談してくれればよかったのだが、騎士ダンガはいきなりスラーサイエナの家に行き求婚した。
家格からいって、これは断りにくい。
騎士ダンガは今やアレンダス家の筆頭騎士なのだから、なおさらである。
シェーマとのあいだに正式の婚約でもあれば別だったが、騎士ダンガの求婚を断る理由がない。
そのとき領主のクルトが非常の手段に出た。
スラーサイエナを妻に迎えたのである。
家臣が結婚を申し込んでいる相手を横取りするのだから、これはひどいやり方だ。
だが領主の権威をもって騎士ダンガを黙らせた。
騎士となって領地に戻って来たシェーマはひどく驚いたが、今さらどうしようもなかった。
だが騎士シェーマには、スラーサイエナを思いきることなどできなかった。
スラーサイエナもそれは同じだった。
そして今日ついに二人は手に手を取って逃げたのだ。
「実のところ、妻には迎えましたが閨に呼んだことはないのです。
そのことが騎士シェーマに決断をさせたのかもしれませんな」
バルドにはいささか理解できない点があった。
騎士ダンガが求婚をしたといっても、事情を話して求婚を取り下げさせることはできたのではないか。
同じ領主の権威に物を言わせるのなら、そのほうが妻を横取りするより、あとに残る傷が少ないのは明らかだ。
また、このままでは騎士シェーマは主君の妻を奪った男として罪を背負って生きねばならない。
そんな立場に騎士シェーマを追い込むというのが、この穏やかな領主の態度とそぐわない。
騎士シェーマとスラーサイエナのことを語る目つきは至極優しいのだからなおさらだ。
いったいこれはどういうことなのか。
考えをまとめきれないバルドに、アレンダス卿は一枚の書類を見せた。
それは神官がアレンダス卿の離婚を認めた書類であった。
ただし日付けが記入されていない。
「今日の日付を書けばよいのです。
そうすれば、騎士シェーマは主君の妻をさらったのではなくなりますな」
バルドはいよいよわけが分からなくなった。
こんな面倒なことをするぐらいなら、さっさと離婚書類を奥方に与え、騎士シェーマにも知らせてやればよかったのではないか。
そう思ったが、次の瞬間、いや、それはだめじゃ、と心の中に思いが湧いた。
それでは騎士シェーマはただ与えられるだけではないか。
おのれの恋を成就させるために、ただ受け身であってよいのか。
それで恋の成就といえるのか。
だめだ。
それではだめなのだ。
命懸けで愛しているのだと、スラーサイエナに告げなくて、どうするのか。
家をも主家をも捨てる覚悟をみせなくて、どうするのか。
それだけの思いを持って告白されてこそ、スラーサイエナもその恋に身を委ねることができる。
それでこそ恋は成就するのだ。
そもそもこの一件は、騎士シェーマがしゃんとしていれば起きなかったはずのことなのだ。
この程度の試練も与えずに妻を持って行かれては、クルト・アレンダス卿も納得できないではないか。
バルドはひどく愉快な気分になった。
そしてこの老貴族が好きになった。
そして、はっ、とした。
わしも。
わしも。
もしかしたら、そうだったのか。
そうすべきだったのか。
バルドが留守のあいだに、アイドラはコエンデラ家に嫁ぐことを決めた。
その知らせを聞いて、バルドは絶望した。
だがバルドがパクラに帰還してからアイドラが輿入れのため旅立つまでには、しばらく時間があった。
奪うべきだったのではないだろうか。
もしやアイドラ様も、ハイドラ様も、あるいはヴォーラ様も。
心の底では、それを望んでいたのではないか。
いや。
いや。
まさか。
そんなことが。
アイドラ様を盗むことなど思いもよらぬ。
また大恩あるテルシア家に泥を塗りたくって出奔したとして、その先にわしはどうやって騎士であればよい。
それは騎士を捨てることではないか。
いや。
いや。
もしや。
捨てればよかったのか。
騎士であることも何もかも。
それこそが、本当に恋に殉ずるということではなかったのか。
それはかつてのバルドには、思い浮かべることもできない可能性であった。
だが年老いて自分のたどってきた道を突き放して眺めることができるようなってみると、そういう道もあり得たのだと気付いた。
そうだ。
そういう道はあり得たのだ。
生き道を狭めたのは、わし自身だ。
世界の広さは、おのれの心によって決まるのだ。
バルドは心に浮かんだ想念に衝撃を受け、ずいぶん長いあいだ黙り込んでいた。
〈バルド・ローエン〉
〈バルド・ローエン〉
それにしても、とバルドは思った。
若いころには物事に迷ってばかりじゃった。
年を経て知識が身につき視野も広くなれば、物事がすっきりと見えるようになり、迷いは消えるのだろうと思っておった。
ところが、どうじゃ。
実際に年を取ってみると、なるほど知識も考え深さも身につきはした。
しかし迷いはなくならん。
なくならんばかりか、迷いは多くなり、深くなった。
過去を振り返ってみても、そのときは単純だと思えた出来事が、別の見方もできることに気付く。
ああするしかなかった、と思っていた身の処し方とは別の道もあったのだと気付く。
年を取れば取るほど、物事が分からなくなる。
なかなか心安らかにはなれないものなのじゃなあ。
生きていくということの理不尽さに、バルドはため息をついた。
4月16日「ミドル・ザルコス」に続く