第9話 試練の洞窟(中編3)
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再び闘技場に出た。
ザリアが石板の文字を読む。
「〈いまだ闘技場に上らぬ者一名が上れ〉と書いてあるね」
そう言ってザリアはバルドのほうを見た。
今度は誰を闘技場に上げるのか、と判断を仰いでいるのだ。
バルドはカーズを見た。
カーズはうなずいて、闘技場に上る三段のステップに足をかけた。
すると轟音が響き、突然辺りが真っ暗になった。
いや、真っ暗ではない。
今までが明るかったからそう思うが、月のない夜ほどの明るさはある。
見ればカーズは、もう闘技場に上がっている。
上がって、闘技場の反対側の端をにらんでいる。
今度は先ほどのように、カーズの体が大きくなるというようなことはなかった。
いつも通りのカーズである。
いつのまにか闘技場は草原に変じていた。
どこからか吹き込んでくる風に吹かれて、草原がそよそよそよいでいる。
誰かが立っている。
闘技場の向こうの端に立っている。
目が慣れるにしたがって、その姿ははっきり見えてくる。
人だ。
若い男だ。
一糸まとわぬ素裸である。
なんと美しい男か。
ほっそりとした体躯には、一つも無駄な肉はない。
ひげのないつるりとした顔。
短く刈り込まれた頭髪。
だらりとさげられた両手の指先までがしなやかで美しい。
と、段々と部屋が明るくなってきた。
次第に明るさは増し、ついに昼間のような明るさになった。
カーズはずっと前方をにらんでいる。
すでに男の姿はない。
代わりにそこには一匹の大きな狼がいた。
またもザリアがぽつりと言い当てた。
「半神半獣の英雄、スカーラー……」
スカーラーは人間の男だった。
あまりの美しさに月神サーリエが求愛した。
だが男には恋人がいたのでこの求愛を退けた。
激怒したサーリエは、男を醜い獣の姿に変えた。
サーリエが天空を支配する夜のあいだだけ、獣は男の姿に戻る。
サーリエはまんまと男を自分のものにした。
これを快く思わない者がいた。
サーリエに恋慕していた獣神ドーグである。
獣神ドーグは何度も男を殺しかけた。
サーリエは太陽神コーラマの炎の戦車を引く八匹の狼のうち最も強力な一頭を盗み、その毛皮を男に着せ、その血を男に飲ませ、その肉を男に食べさせた。
炎狼の霊力を得た男は、獣神ドーグを寄せ付けないほど強くなった。
だが太陽神コーラマが、盗まれた狼の毛皮を男が身に着けていることに気付いた。
コーラマは男に死の呪いをかけ、期限までに七つの冒険を成功させなければお前は死ぬ、と告げた。
男は七つの冒険を成功させて民衆の英雄となるとともに、強大な力を身につけた。
夜は美しき男。
昼は不死不敗のたくましき狼。
それが半獣半神の英雄スカーラーである。
カーズと狼は同時に前方に駆けだした。
すさまじい速度である。
たちまち両者は闘技場中央で互いを捉えた。
カーズは狼の爪をかわしながら、真っ赤な光を放つ魔剣で狼の首をないだ。
魔剣ヴァン・フルールは、確かに狼の首を捉えた。
見ていたバルドは、首は斬り落とされた、と思った。
だが狼は何事もなかったように動作を続けた。
首には傷一つ付いていない様子なのである。
〈炎狼の呪力を帯びた毛皮は、何物も切り裂くことができない〉
という神話の一節を、バルドは思い出した。
首を切ることができなかったということは、狼の攻撃動作を止めることができなかった、ということである。
狼はカーズの喉元に食いつこうとした。
カーズは至近距離でそれをかわしてのけたが、狼の牙は肩口を切り裂いた。
それから高速での攻防が始まった。
ほとんどバルドの目にも、両者のやりとりは見えない。
カーズは狼の攻撃をかわしながら、体のいろんな場所に斬り付けているようだ。
だがカーズの攻撃はまったく通らない。
魔剣の赤い軌跡はむなしく強靱な毛皮にはじかれるばかりである。
それにひきかえ、狼の攻撃は時々カーズに届いて、徐々に傷を増やしていく。
やがてカーズは全身血まみれになった。
心なしか、わずかに動きも鈍ってきたようにみえる。
そのとき、草に足を取られてカーズがよろめいた。
その隙を見逃さず、狼はカーズののど笛に牙を立てた。
と見えたのは錯覚で、魔剣ヴァン・フルールは狼の喉から深々と突き入れられていた。
よろめいたのは、誘いだったのである。
毛皮は傷つけることができないとしても、口の中はそうではない。
魔剣は喉を通り、内臓にまで届いているだろう。
ヴァン・フルールを突き入れられたまま、狼は口から血を噴き出した。
しかし狼の生命力は、容易なことでは奪い尽くせない。
もがく。
もがく。
いや。
そのような状態になりながらも、狼はカーズへの攻撃を続けているのだ。
牙は封じられたが、爪は残っている。
狼はなおももがいてカーズの体に傷を付けるが、カーズはひるまない。
ぐいぐいと狼の頭めざして剣を突き入れていく。
カーズの体はみるみる傷だらけになり、狼の血とカーズの血は混ざり合い、もはや区別もつかない。
恐ろしいうなり声を上げながら、狼はあがき続けた。
けれどやがて長い時間のあと狼は動きを止め、人間の姿に戻ってから倒れた。
鐘が三度鳴り、闘技場は元の岩の台座に戻り、その奥に新たな通路が開いた。
ザリアはカーズの手当をした。
狼の魔獣であつらえた革鎧はすでにずたずたであり、革鎧に包まれていた美しい体も傷だらけとなっている。
だがカーズのまなざしには、いささかのひるみもない。
いや。
その目には、いささか得意げな光がある。
そんなふうにバルドには思われた。
バルドはかすかにほほえんだ。
カーズよ。
見事な戦いじゃった。
わしはお前を誇りに思うぞ。
バルドは、声には出さず、心の中でカーズの戦いぶりを賞賛した。
ザリアがしばらくのあいだカーズの治療をした。
傷痕はそのままだが、出血は止まった。
痛みも治まったのだろうか。
なにしろカーズは苦しんでいても表情には出さない。
しかしザリアが治療したのだから、いくぶんなりとも痛みは和らいだはずである。
一行は先に進んだ。
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今度の洞窟は青い光に満ちていた。
そこでは小型の盾蛙のような敵が襲ってきた。
体長は人間の頭ほどしかないのだが、異様に大きな足が付いており、とてつもなく大きな跳躍をする。
ぱっくり開いた口からは長く鋭い舌が伸びてくるのだが、これに刺されると体が麻痺する。
そんな敵が百あまりも一度に襲い掛かってきたのである。
敵を倒しながら、こちらも次第に麻痺していった。
カーズさえも、先の戦いのダメージが残っていたのか、ついに敵の攻撃をかわしそこねた。
ザリアは麻痺した仲間を治療していったが、悪いことにそのザリアも襲われ、麻痺してしまった。
最後に残ったイエミテが最後に残った敵を倒したので、なんとか勝てた。
やがてザリアが自分を治療し、全員を治した。
そこから少し進んだ場所で、バルドは休憩を命じ、食事を取った。
全員相当疲労している。
これまでからすれば、一度敵を倒した場所にはもう敵は現れないようだ。
じゅうぶんな休憩を取って、一行は再び進撃を再開した。
バルドは違和感を感じていた。
洞窟に現れる敵と、闘技場に現れる敵についてである。
闘技場に現れた二体の敵は、いずれも強敵ではあったが、その闘いぶりは堂々たるものであり、胸はずむものがあった。
だが通路に現れる敵は陰湿である。
通路の敵には悪意を、あるいは邪悪な何かを感じる。
戦いには何の喜びもない。
この差はいったい何を意味するのだろうか。
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次の闘技場に着いた。
「〈いまだ闘技場に上らぬ者一名が上れ〉、か。
さっきとおんなじだねえ。
ねえ、バルド。
今度はあたしに行かせておくれでないかい。
ちょっと考えてることがあるんだよ」
ザリアは戦闘要員とは考えていなかったので、この申し出には驚いた。
だが何か考えがあるのだろう。
バルドはうなずいてザリアに許可を与えた。
今度は闘技場が沼地に変じた。
沼とそれを取り巻く背丈の高い草地だ。
だが敵の姿がいない。
草の陰にでも隠れているのかと見回したが、見当たらない。
ザリアは、といえば上空を見上げている。
いた。
敵がいた。
はるか高空にぽつんと浮かんでいる。
女だ。
薄衣をまとい、長い明るい栗色の髪をなびかせた美しい女だ。
女はにこにことほほえんでいる。
女の服を、髪をはためかせる風は、どこから来ているのだろう。
女自身だ。
この四方八方に乱れねじれて吹きすさぶ風は、女から発している。
風神ソーシエラ。
時に優しき成長の守り手であり、時に無慈悲な破壊の女神。
疲れ切った人間にソーシエラが吹き寄せる風は、その者のつらい記憶を奪い去り、忘却を与える。
あらゆる物を切り裂く霊力を持つが、その体は切ることも突くこともできない。
そのソーシエラが笑いながら虚空に浮かんでいる。
空にあるものをいったいどのようにして攻撃せよというのか。
しかも神話の通りであるなら、剣も槍も槌も、ソーシエラには傷を与えられない。
ソーシエラは、殺せない神であり、不滅の神なのだ。
その姿は消えることがあるけれども、いつのまにか復活して天空を吹き抜けて行く。
ソーシエラはそうした神である。
いったいこの相手と、どうやって戦えというのか。
ザリアは沼地のほとりまで進み、杖を突き刺した。
ソーシエラはふうっと息を吹き掛けた。
その息は風の刃となってザリアの左手の肩口を吹き抜ける。
ザリアの左手が肩口から切れて、ぽとり、と地に落ちた。
ザリアは右手で左手を拾うと、切れた場所に付け、何事か呪言をつぶやく。
切れたはずの左手は元の通りにつながった。
ザリアはなおも目を閉じ呪言をつぶやく。
杖が赤く輝き始め、ザリア自身の体もやわらかく発光する。
ソーシエラが、またもふうっと息を吹き掛けた。
風の刃がザリアの首に迫る。
と、風の刃は杖に当たって、あらぬ方向にそれていった。
女神は少し驚いた顔をして、もう一度息を吹き掛けた。
またも風の刃は杖に当たってそれていく。
女神の顔から笑みが消えた。
ザリアはなおも呪言をつぶやいている。
女神は両手を広げ、あおるしぐさをした。
左の袖から五つの、右の袖から五つの風の刃が生まれ、ザリアに迫る。
十個の風の刃はいずれも杖にそらされるが、そのうちのいくつかがザリアの両の腕をかすめて切り裂いた。
それて飛んだ風の刃は辺りの草を刈り取っていく。
が見守るバルドたちの所には届かない。
闘技場の外には飛び出ないようになっているようだ。
なおもザリアの呪言は続く。
女神は両の手の指を大きく開いて伸ばし、その十本の指から続けざまに風の刃を放つ。
乱れ打ちといってよい密度の濃い攻撃である。
そのほとんどは杖にはじかれるが、いくぶんはザリアの体を削っていく。
もはやザリアの顔も体も血まみれである。
だが、ザリアは目を閉じたまま呪言をつぶやいている。
激しく打ち付けられる風の刃をはじいていた杖が、ついに耐えきれなくなった。
ばきんと音を立てて折れ飛んでしまったのである。
女神は風の刃を放つのをやめ、にこりと笑った。
そして両の手を突き出したまま一つに重ねた。
来る。
来る。
とどめとなるべき攻撃が来る。
そのときザリアはかっと目を見開き、何事かを叫んだ。
するとザリアの周囲に風の渦巻きが起き、今まで女神の攻撃が斬り落とした草が宙にらせんを描く。
草の渦は激しい勢いで上空に伸び上がり、女神の所にまで迫る。
ザリアは懐から何かを出して打ち合わせた。
火の粉が飛んだ。
ということは火打ち石だったのだろう。
火の粉はあり得ない燃え広がりかたをみせ、渦巻く草に燃え移り、あっというまに女神を包んで燃えさかる。
燃える草の端切れは媒介に過ぎない。
それを種として何百倍何千倍の炎をザリアは起こしたのだ。
激しい悲鳴が響き渡った。
業火は一瞬で鎮まったが、もう虚空には女神の姿はない。
鐘が三度鳴り響いた。
3月7日「試練の洞窟(中編4)」に続く