第5話 銀狼(後編)
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バルドは、どきどきするような、わくわくするような、不思議な胸の高鳴りを覚えていた。
魔獣だ。
久々に、魔獣と相対する。
かつてバルドにとって魔獣とは、遭えば必ず殺さねばならないものだった。
魔獣を殺さないということは、その魔獣に人々が殺されるのを見逃すことだったからである。
だが、精霊と魔獣の真実を知った今は、できれば魔獣を殺したくない。
この古代剣こそは。
この〈神竜の宿る剣〉こそは。
魔獣を殺さずに魔獣でなくすことのできる秘宝だった。
ロードヴァン城に迫り来る二百匹の川熊の魔獣を、この剣はたった一度の攻撃で解放した。
あのとき二百匹の魔獣から精霊が解き放たれ、魔獣は魔獣でなくなったのだ。
そうではないかと思っていたが、〈大地に根を張る者〉となったモウラは言った。
あなたがあのとき解き放った精霊たちは、確かにいっとき正気に戻った。
その喜びの声を、ぼくは確かに聞いたんだ。
ああ!
それは何たる希望か。
魔獣と相争わず、精霊を解放し、しかも正気に戻すことができるとは。
それを確かめる機会を、バルドはずっと待っていた。
これはその最初の機会なのだ。
本当に魔獣から精霊を解放できるのか。
この剣で。
いや、できるはずだ。
それを確かめる最初の機会に、バルドの胸は、どきどきと高鳴っている。
ただし精霊を解放したとしても、取り憑かれていた狼は殺さねばならない。
護衛の剣士と二人の人足、そして番人の男は、殺されてしまっただろう。
しかもたぶん、食われた。
それでなければホジャタが無事に逃げ切れたわけがない。
素人が荷物運び用の馬で山道を駆け下りるのだ。
狼の魔獣にとっては、追いついて殺すことなど雑作もないことだったはずだ。
だから狼の魔獣が剣士や人足や番人を食っているあいだにホジャタは逃げられた、と考えるほかない。
精霊を解放したとして、そこに残るのは人食いの味を覚えた狼だ。
逃がすわけにはいかない。
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上から下りて来る者がいる。
二人だ。
人足のような格好をしている。
ゴドンが、ホジャタの使用人か、と声を掛けると、そうでございます、という返事だった。
「おおっ。
無事でよかったわい。
狼の魔獣に襲われたということだったが、みればけがもない様子。
運がよかったのう」
護衛の剣士はどうなったかと訊けば、狼に襲われて傷ついたものの、命に別条はない。
動かせないので沢の小屋で番人と一緒に残っているという。
狼の魔獣のいる場所に二人を残して来たのかと訊けば、魔獣はホジャタが逃げてしまうとすぐに姿を消したということだった。
一行は沢に登っていった。
女将の家があった場所には、見慣れないこぎれいな建物が建っていた。
たぶんこれは領主が建てたものだ。
女将の家の下には盗賊団の隠し金が眠っていたということで、バルドが旅立ったすぐあと、床板の下を調べたはずだ。
結局家を取り壊すことになって、領主がつぐないとしてこれを女将に建ててやったのではないか、とバルドはふんだ。
バルドたちが近づくと、番人らしき男が出て来た。
薄汚い格好をして、ひどく毛深い。
髪やひげはもじゃもじゃともつれ合っている。
野人か、と思うような男だ。
「おお。
お前が番人か。
無事なようで何より。
けがをした剣士というのは、中か?」
「あ、ああ」
「では、ちと失礼するぞ」
家の中には剣士がいた。
ゴドンがあいさつをして名乗ると、あいさつと名乗りを返してきた。
タルサという名だ。
バルドは、おや、と思った。
物腰や目の光が、そこらのごろつきとは違う。
剣も古びてはいるが立派なものだ。
もしや騎士ではないのか、と思った。
しかし相手が家名を名乗らなかったのだから、こちらとしても、それ以上訊くべきではないだろう。
ゴドンも何か感じるところがあったのか、士分扱いした物の言い方をしている。
なるほど足をけがしているが、その手当はひどくぞんざいだ。
さっそくカーラが手当を始めた。
「タルサ殿。
狼の魔獣に襲われたということじゃったが」
「いや、ザルコス卿。
あれは魔獣ではないな。
確かに体はとてつもなく大きく、恐ろしい相手だったが、魔獣ではない」
「相手は一匹だけじゃったのか。
それと、ゴドンでよい」
「うむ、ゴドン殿。
一匹だけだった。
ホジャタが人足どもに命じて、沢のトーガを採ろうとしたら、急に現れたのだ。
恥ずかしいことだが、それまで全然気配を感じることができなかった。
驚いた人足どもは腰を抜かしてしまった。
ホジャタは小屋に逃げ込んだ。
わしは沢のこちら側で狼と向き合っていたのだが、狼はふいと顔をそらし、立ち去った」
「なに?
何もせずにかの」
「そうだ。
それでそのことをホジャタに伝えると、すっかり元気を取り戻し、人足どもをせきたててトーガを採ろうとした。
するとまたやつが現れたのだ。
狼が襲って来ないとみると、ホジャタは気が大きくなったのか、人足どもを杖でなぐってせかせた。
狼が険しい表情をして唸り声を上げたので、またもホジャタは逃げ腰になったが、狼は襲っては来なかった。
人足たちがトーガを採ろうとしないので、ホジャタは業を煮やし、自分でトーガを採ろうとした。
そのとき、狼は突然襲い掛かってきた。
わしはホジャタの前に出て剣で狼の首筋を狙った。
ところが驚いたことに、狼は首をひねって剣をかわし、わしの右足にかみついたのだ。
飛び掛かられたわしはあおむけに倒れ込んだ。
狼のやつは、わしの右手を踏みつけて剣を封じ、ホジャタに向かって吠えた。
いやいや。
そのあとのホジャタの逃げっぷりは、見事のひと言だったな。
馬に乗って逃げるホジャタを見送ったあと、やつはわしの上から下り、そのまま山の奥に消えた」
「はい。
これでいいわ。
思ったより傷は深くなかった。
でも二、三日はあまり歩かないほうがいいわね」
と、手当をしていたカーラが言った。
タルサは、
「かたじけない、カーラ殿」
と礼を言った。
9
バルドは気抜けがしていた。
魔獣ではなかった。
しかも、結局誰一人殺していないどころか、大けがさえさせていない。
脅かしただけだ。
だが、狼の振る舞いはひどく奇妙だ。
自分の縄張りを守るためにホジャタたちを威嚇した、というのでもないようだ。
トーガを採ろうとしたら吠え掛かった、というのがよく分からない。
ホジャタがトーガを採り始めたのは五年前だったというから、狼がここを縄張りとしていたというのなら、そのときから襲われなくては話が合わない。
いや、五年前までは女将がトーガを採っていたのだ。
結局のところ、この沢が狼の縄張りだったということはなかったはずだ。
バルドは、一行を引き連れて山を下りることにした。
沢に着いたころはもう夕方で、話をしているうちに日は落ちていた。
だが狭い小屋にこの人数で泊まるわけにもいかない。
またバルドたちが泊まれば、乏しいであろう食料を提供させるはめになる。
小屋を出たバルドは沢に足を運んだ。
宵闇の天空に現れた姉の月に照らされ、きらきらとさざめく光の群れが、水面に踊っている。
月魚だ。
いっそ自分で獲って食うか。
とも思ったが、手際が悪ければ月魚の味は損なわれる。
とてもあの女将のようにはいかない。
とすれば、うまかった記憶をかき消さないために、今回は食べないほうがよい。
山を下りかけてしばらくして、妹の月が空に現れた。
〈あとから来た者〉という別称にふさわしく、サーリエはスーラを追うように現れることが多い。
だがたいていは、姉と出会うことができず、せかせかと銀の馬車で銀河を横切って地平に消えてしまう。
いつぞや月魚を食べた夜は、二つの月が重なり合う〈合〉の日であり、月魚のうまさに格別の風情を加えたものだった。
二つの月に照らされて、山道は明るい。
もともとこの山は樹影が濃くない。
木々の背丈は低く、沢や草むらがうねりながら続いているのだ。
麓のほうにいくと樹木が密集して生えているのだが。
月明かりに浮かぶ風景は、ひどく浮世離れしている。
カーズが馬を止めた。
おや、と思ってカーズを見ると、剣を抜いている。
クインタも剣を抜いて、目の前の茂みをにらんでいる。
その茂みから現れたものがある。
耳長狼だ。
だが、何という巨体。
耳長狼というのは、そう大きな獣ではない。
人の膝上から腰程度の体高しかなく、体重も軽い。
だが足は速く跳躍力もすぐれており、集団での狩りが得意だ。
ところが目の前の耳長狼は、人の胸か、どうかすると顔ぐらいの高さがある。
四つんばいでその高さなのだから、体の大きさからいえば、人をはるかに上回る。
おそらく、想像もつかないほど年を経た狼なのだ。
大きさも驚くべきであるが、さらに驚くべきは、その毛皮の色である。
ふつうの耳長狼は、茶色がかった黒色をしている。
だが目の前の耳長狼の体毛は銀色だ。
姉妹の月に照らされて、美しく輝いている。
銀狼である。
耳長狼や砂狼や風狼には、時々毛皮が銀色のものが生まれる。
その毛皮は強くしなやかで、何よりその美しさからたいへんな高額で取引される。
狼は、まっすぐバルドを見ている。
バルドも、まっすぐに狼の目を見つめかえしている。
狼の目には怒りも憎しみもない。
静かな目だ。
銀色に光る目を見ていると、何かしら懐かしい気持ちになってくる。
いったいどれくらいそうして見つめあっていたか。
狼はふと体をひるがえし、草むらに消えた。
10
バルドたちはそのまま山を下りた。
下りきったところ、村がざわめいていた。
村人たちがいる。
騎士が一人と兵士たちもいる。
こんな夜だというのに。
商人ホジャタの馬車の回りで何事か騒いでいる。
「これは、バルド・ローエン卿。
ゴドン・ザルコス卿。
お久しゅうござる」
とあいさつしてきたのは、ドラノーの騎士マルガゲリ・エコラだ。
以前バルドたちがこの沢に来たとき、女将が死灰病に冒されたという嘘の訴えをもとに、沢を焼き払おうとした騎士だ。
バルドたちがその嘘を暴いたため、彼は女将を殺さずに済んだ。
そのことを彼はひどく感謝していた。
いったいこの騒ぎはどうしたことか、とバルドは騎士マルガゲリに訊いた。
「いや、それが私たちも今着いたところなのです。
ホジャタとかいう商人が殺されていました」
騎士マルガゲリから話を聞いたところ、こういうことだった。
ホジャタは馬のない馬車で休憩しながら兵士の到着を待っていた。
そこに人足二人が下りてきた。
二人が無事なことに驚いたホジャタは、いきさつを聞いた。
いきさつを聞いたホジャタは、人足二人に山に登るぞ、と言った。
狼が脅威でないというなら、今度こそ遠慮せずトーガを採ることができる、とホジャタは考えたのだ。
人足たちは嫌がった。
ホジャタは怒り、人足たちを殴りつけ、言うことを聞かせようとした。
「せっかく出来たトーガが無駄になるではないか!
あのトーガはわしのものだ。
採って採って採り尽くして、川の向こうで売りさばくのだっ」
そのとき突然狼が現れ、ホジャタの喉笛をかみ切って、姿を消した。
不思議なことに、人足二人も、馬車の番をしていた下人も、狼がどの方角に去ったかを見ていない。
忽然と姿を消してしまった。
バルドはあとのことを騎士マルガゲリに託して村長の家に引き揚げた。
騎士マルガゲリは、夜の明けるのを待って兵を連れて山に入り、狼を探すと言った。
だがこの広い山で狼一匹を探し出せるはずもない。
それはマルガゲリもよく心得ており、とにかく一日探してみますと言った。
バルドはその狼に帰り道で遭った、と話した。
だが、その時点では人を殺していないと思っていたし、凶暴な様子でもなかったから追わなかったと。
バルドたちは村長の家に行き、遅い食事を取り、就寝した。
床に就いてから、バルドは考えた。
いったいこれは、どういうことなのだろうかと。
ふと、〈ニコと銀狼〉という昔話を思い出した。
ニコという名の猟師がいた。
腕がよい猟師で、無口だったが人は良かった。
ニコの娘が結婚することになった。
ニコはお祝いの品を買うため、山に入って獲物を探した。
二週間、まったく獲物がなかったが、二週間目にすばらしい銀狼に出合った。
大きく美しい銀狼だ。
その毛皮は高く売れる。
ニコは銀狼を追い、山深くに入っていった。
三日間、ニコと銀狼は戦い、結局ニコは敗れて死んだ。
死んだニコの魂は銀狼に乗り移った。
ニコの魂が乗り移った銀狼は、山を駆け下りた。
山を駆け下り、街まで走った。
街ではニコの娘の結婚式が行われていた。
結婚式の場に現れた銀狼に、一同は騒然となった。
兵士たちが呼ばれ、銀狼は槍で突き殺された。
銀狼は抵抗もせず、じっと花嫁のほうを見ていた。
残った毛皮は、新郎新婦のものとされた。
人々は、ニコが銀狼の毛皮を送り届けたのだ、と噂し合った。
という話である。
かりにこの話に当てはめてみるとすれば、ニコに当たるのは誰だろう。
そしてなぜ銀狼は、護衛の剣士や番人や人足は殺さなかったのか。
なぜわざわざ山を下りてまで、ホジャタを殺したのか。
バルドたちが山を下りかけるとき、タランカがおもしろい話を聞かせてくれた。
タランカは、出かける前に村長からこの話を聞き出したという。
村長はホジャタが女将を弔ったと言っていたが、それはどういうことなのか、ということである。
五年前、沢で女将が死んでいたのを発見したのは商人ホジャタなのである。
ホジャタは葬送の礼拝をして、女将を地に埋めてくれたのだという。
それからホジャタは村に下りて村長にその報告をして、自分もトーガを採りたいのだがいいだろうか、と持ちかけた。
村長は、女将やその夫は、この村でトーガを売ることを条件に沢に住み着いてトーガを採ることを許した、と説明した。
ホジャタはなるほどなるほどとうなずきながら、よろしく頼むと手土産を差し出したのだ。
ところがそれからトーガが村には来なくなった。
また、村の酒屋が言うことには、沢に住み着いていた家族がすべて、山を下りて来てどこかに立ち去ったという。
立ち退きの金はホジャタにもらったというが、何かを恐れているような様子だったという。
村長に何のあいさつもなく村を出ていったというのが、どうにも妙ではあるが、もともと流れ者だった家族だから、そう不審にも思わなかったのだ。
つまり、女将がどういう原因で死んだのか、誰も知らない。
ホジャタは知っているかもしれない。
いや、それどころか、もしかすると。
だが、それ以上のことは臆測でしかない。
賢明にもタランカは、ホジャタが女将を殺したのかもしれない、とは言わなかった。
それでよい。
不確実なことを臆測で口にするのは、よくないことだ。
それは知恵の働きを妨げ、思い込みを育ててしまう行いだからだ。
あの銀狼は、ずっと前から山にいたのだろう。
あれだけの狼だ。
さぞ齢を経ているに違いない。
女将やその夫は、銀狼のことを知っていたのだろうか。
知っていて守り神として敬っていたのだろうか。
それとも恐ろしい怪物として恐れていたのだろうか。
銀狼のほうは、どうだったのだろう。
山に住み着いた女将と夫。
自然の恵みに感謝しながら、すばらしいトーガを採り、月魚に舌鼓を打ち。
たまに月魚を求めて来る人があれば温かくもてなし。
沢の暮らしにすっかり満足しながら心豊かに生きて。
そして静かに死んでいった人たち。
その女将と夫を、銀狼は、どうみていたのだろう。
そういえば。
今年は女将が死んで五年目だ。
死んで一年、五年、十年にあたる魂には、恩恵が与えられることがあるという。
現世に心残りがあれば、それを見に地上に降りてくることが許されるのだ。
人間以外のものの姿を借りて。
もしや、あの銀狼は。
そうだ。
それにだ。
たしか七年前に女将と会ったとき、夫が死んだのは三年前だと言っていなかったか。
とすると今年は夫が死んで十年目だ。
二人に気がかりがあったとすれば、何か。
あの狼は、剣士にも人足にも番人にも、攻撃は加えなかった。
それどころか、ホジャタにさえ、いよいよトーガを採ろうとするまでは、攻撃は加えなかった。
ついにトーガに手を伸ばしたとき襲い懸かり、結果として剣士を傷つけたが、殺しはしなかった。
その狼がわざわざ村に現れた。
そしてホジャタがなおもトーガを採ろうとするのを諦めない態度をみせたとき。
狼はホジャタの命を奪ったのだ。
ホジャタが生きたままだったら、どうなったか。
ホジャタは一度にトーガを採りすぎないようにしていたようだ。
時々やって来ては馬車一杯の樽にトーガを詰め込み、そして川の向こうに売りに行った。
その手間を補って余りあるもうけを得ていたろう。
だがある程度金がたまれば、今度はもっと大きな商売をしたくなるだろう。
そのときトーガは採り尽くされ、沢は荒れ果てたかもしれない。
狼は、そんな未来が許せなかったのか。
あるいは。
それは仇討ちであったのか。
分からない。
今となっては、それは分からないことだ。
だから口に出してこの臆測を述べることはない。
それでも。
女将の死を知り、あんな不思議な銀狼に出合った今夜は。
山の恵みに感謝し、山の安寧を祈り。
女将の思い出を心に思い浮かべながら。
静かに眠りに就くことにしよう。
眠りに落ちる最後の瞬間。
バルドの心をある考えがよぎった。
あと二年で、アイドラが死んで十年目だ、ということである。
十年目の年には、アイドラは何かの姿を取って自分の前に現れるだろうかと。
そう自分に訊いて、自分で答えた。
いや。
それは、ない。
気になることはあったかもしれないが、アイドラは自分の命を生ききった。
あとは残された者がどう生きるかを、神々の園で優しく見下ろしているに違いない。
今こうしている瞬間も。
1月28日「竜人(前編)」に続く