第5話 銀狼(中編)
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さて、ではここからどう進むか。
オーヴァを渡らなければならないのだから、選択肢は二つである。
北に進んでヒマヤから渡るか、あるいは南に進んでリンツから渡るかである。
たぶん距離はどちらでもそう変わらない。
バルドは、リンツを目指すことにした。
リンツ伯の顔を見たいという理由が一つ。
そしてもう一つは、月魚の沢に行きたかったからである。
バルドは、パルザムの王都に滞在していたとき、一つ思っていたことがあった。
魚の味についてである。
王都ではカムラーの料理を堪能した。
それは想像もできないほど素晴らしい料理の数々だった。
ただ。
ただ、である。
魚料理についてだけは、食べ慣れるうちに一つの不満があった。
非常に料理の味はよいのだが、素材の新鮮さが足りないのである。
新鮮な魚の、新鮮なうまみ。
これは王都では得られないものだったのである。
川は流れているが、膨大な人口を養う用途に使われている。
あちこちで井戸もあるが、それでも水は不足しがちである。
うまい魚の獲れる大河はいささか遠いのである。
その新鮮な魚のうまさの代表として何度も思い出したのが、月魚である。
食べたそのときは、珍味として大いに楽しんだ。
だがあとになってみて、あれこそが新鮮な魚のうまさの極致ではないかと、何度も振り返ったのである。
むろん、フューザリオンでは魚は新鮮でうまい。
だが、月魚の味は、また格別なのである。
月魚の沢は、エグゼラ大領主領の南の端にある。
バルドたちは人里を避けながら月魚の沢のある村に向かった。
5
村に着いたバルドたちは、まず酒屋に寄った。
そこでプラン酒の澄まし酒を買おうとしたのだ。
酒屋の亭主はバルドとゴドンのことを覚えていた。
「ありゃあ、旦那さん。
ようこそまあお越しで。
この前おみえになってから、はあ七、八年にもなりますかなあ。
お元気そうなことで、何よりじゃ」
バルドもあいさつを返し、沢の店の女将は元気か、と尋ねた。
「死にましたけん。
もう五年から前んなります」
「おおう!
それは残念じゃ。
女将の気のいい話が聞けるのを、楽しみにしておったのだがのう」
とゴドンが嘆く。
バルドも驚いた。
女将は元気一杯で、まだまだ長生きしそうにみえたのだ。
だが寿命というのは分からないものだ。
今ごろは先に死んだ夫のもとに行って、仲よくしているのだろう。
ところで、女将が死んだとすると、今は月魚は誰が食わせてくれるのか。
「それがもう、おえんのです。
あの沢はホジャタいう商人が見張り人を置いとりまして。
わしらが上がっていくと、沢が荒れるゆうて、乱暴なことをしよるんです。
村長がホジャタに、あの沢の権利を売ったゆうことなんですけえどなあ」
バルドたちは村長の家を訪ねた。
「これはこれは、騎士様がた。
よくこそおみえでございます。
バルド様、ゴドン様には、その折には本当にお世話になりました。
ささ。
粗茶でございますが、どうぞお召し上がりください」
「はっはっは。
村長も息災そうで何よりじゃ。
おお!
うまい茶じゃのう。
ところで村長。
今、沢はホジャタとかいう商人が仕切っておるらしいのう。
もう月魚は食えんのか」
「いや、それが、ゴドン様。
とんだくわせ者の商人でしてな。
女将を弔ってくれた恩義もありましたから、トーガを採ることを許したのです。
そのとき、女将やその夫には、この村にトーガを売るよう約定を交わしたということは、確かに説明したのです。
ところが商人は、採取したトーガをこの村には納めず、樽に詰めて遠くに持って行って売りさばいているのです。
苦情を言うと、前の人間がそうしていたことは聞いたが、自分もそうするとは約束しなかった、と。
しかし前と同じようにするのは当たり前のことではないですかな」
そのホジャタという商人に掛け合えば、月魚は食わせてもらえるだろうか、とバルドは訊いた。
「いえ、無理でしょう。
沢に人が入ると、水が汚れたり、トーガの根を踏み荒らしたりするというので、誰も近づけようとせんのです。
ホジャタ自身は二か月か三か月に一度馬車でやって来て、いくつもの樽に一杯トーガを詰め込んでいくのですがな。
番人を沢に住まわせておりまして、これがどうにも大変な乱暴者なのです。
近づく者はいきなり突き飛ばして追い返すのでして、話にも何にもなりはしません。
やれやれ。
確かによいトーガではありますが、あんなにたくさん持ち出して、いったいどうしていることやら」
あの沢には女将のほかにも何世帯かの家族が住んでいたが、それはどうなったのか、とバルドは訊いた。
「追い出されました。
小金を渡されて」
この山の沢で採れるトーガは、とても鮮烈でよい味をしている。
前に食べたことがあるから、バルドはよく覚えていた。
トーガというのは清涼な気候で澄んだ水が豊かな場所にしか生えない。
辺境ならではの香辛料といってよい。
そしてトーガは、辺境で食べるぶんには辛くてさっぱりしたよい薬味ではあるが、その価値は野草とさして変わらない。
ところがこれを大陸中央に運べば、珍奇な香辛料としてその値は千倍にも膨れあがる。
バルドはパルザムの王都でさまざまな香辛料に出合ったが、聞いてみればそれらは遠い異国から届けられるものがほとんどで、ひどく高価なものなのだ。
その高価な香辛料を都の貴族は惜しげもなく使う。
トーガも、大した品質でもないものが、恐ろしい高値で売買されていた。
バルドは価値観の違いに大いに驚いたものだ。
この村のトーガをオーヴァの向こうに運んで売りさばいたら、いったいどれほどに値になることか。
それを話したら、この村長は目を回して倒れるだろう。
「村長ーーー!
村長はいるかーーーっ。
魔獣だ。
魔獣が出たーー!」
けたたましい騒ぎ声がする。
何かが起きたようだ。
6
なんと、やって来たのは噂の商人ホジャタその人だった。
ホジャタは許しも得ず、ずかずかと家の中に入り込んで来た。
うるさく騒ぎながら。
そしてバルドたちの存在に気が付いた。
とたんに尊大な目つきを卑屈なそれへと変えた。
「こ、これは、騎士様がた。
おいでとは存ぜず、無礼をいたしました。
お許しを。
へへへ。
まことに失礼をしますが、村長をしばらくお借りしますです。
一刻を争う大事でございましてな。
村長。
こちらに」
と言い、村長を連れ出した。
外にはバルドたちの馬が停めてある。
入って来たとき、それには気付かなかったようだ。
商人としては、いささか目端が利かなすぎる。
また、村長を借りると言いながら、こちらの反応も確かめずに連れ出すのも、あまりうまくないやり方だ。
尊大な態度から卑屈な態度への切り替えも、小者臭さが充満している。
要するに、大した商人ではない。
ごろつき同然の商人だ。
だが、そういう手合いは厄介である場合もある。
家の外でホジャタと村長が話をしている。
大声なので、内容は筒抜けだ。
商人は、魔獣が出たからすぐに領主様に兵を派遣してもらってくれ、と騒ぐばかりだ。
事情が分からねばそれはできませんと村長が返し、事情を聞いていった。
ホジャタは山の上がり口に馬車を置いて、馬を外し、沢に登って行った。
馬車では山道を通れないからである。
一行はホジャタと、護衛の剣士が一人と、人足が二人。
二頭の馬に空樽を積んで行った。
沢には番人がいて、一行を迎えてくれた。
いざトーガを収穫しようとすると、巨大な狼の魔獣が出た。
魔獣はうなり声を上げて襲い掛かってきた。
護衛が食い止めているあいだにホジャタは馬に飛び乗って逃げてきたというのだ。
「話は聞かせてもらった!」
戸を開けて大声を出したのはゴドン・ザルコスである。
「魔獣が出たというのが本当なら一大事っ。
すぐにこの村も襲われるかもしれん。
領主にはすぐに使いを出したほうがよいが、それだけでは間に合うまい。
ちょうどこの場に居あわせたのも何かの縁。
わしらが沢に行ってみよう」
例によってゴドンの先走りである。
年を取って落ち着いてきたようにみえるが、やはりこういうところは変わっていない。
が、これは具合がよい。
本当に魔獣なら、田舎領主の兵では大被害が出るかもしれない。
それ以上に、魔獣の正体を知ってしまった今は、殺さずに魔獣を魔獣でなくできるのか、試してみたい。
この古代剣があれば、それは可能であるらしい。
まずバルドが現場に行って、その魔獣とやらの正体を見定め、それを試してみなければならない。
これほど直截なゴドンの申し出を、商人ホジャタも断れないだろう。
「そ、そうしてくださるなら、まことにありがとうございます。
なんとお優しいお武家様」
ゴドンを拝み始めたホジャタに、バルドは訊いた。
それは確かに魔獣じゃったか。
その目は赤く輝いていたか、と。
ホジャタは、間違いなく魔獣でございました、目は赤く輝いておりました、恐ろしいほどの大きさの狼で、あれは魔獣以外などではあり得ません、と答えた。
ゴドンとバルドが商人ホジャタと話しているあいだ、タランカは村長と言葉を交わしていた。
村長は、馬で領主の館がある街まで走るという。
バルドたち一行は、馬に乗って沢の登り口に向かった。
ホジャタがついてきた。
馬を外した馬車の所まで戻るのだという。
財産の近くにいないと落ち着かないのだろう。
一人の下人が馬車の守をしていた。
ホジャタに見送られて、一行は沢に向かって山道を登って行った。
1月25日「銀狼(後編)」に続く