第4話 ハドル・ゾルアルス(前編)
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モウラの話は、バルドに多くの示唆を与えた。
中でも、人間に食べられた精霊も、初めのうちはちゃんと正常に復活していた、という話はバルドの心に強く残った。
かつてモウラは、人間にかじられた精霊が妖魔になる、と言った。
この場合の妖魔とは、魔獣を誕生させる狂った精霊のことだろう。
人間にかじられる、とは人間に取り込まれた精霊、つまり精霊憑きとなってしまった精霊のことだろう。
そこからバルドは、いったん精霊憑きとなってしまった精霊は、復活したとき必ず狂うのだと思っていた。
また、ザリアは、人間と一つになった精霊はそれまでの記憶を失い、知恵も心も優しさも持たない狂った精霊として復活する、と言った。
だから、人間に取り込まれた精霊は、例外なくただちに狂うのだと、バルドは思っていた。
しかし、人間と一つになった精霊も、初めのうちは正常な精霊として復活したのだとすると。
すべては違ってみえる。
今まで思っていたこととは違う何かがそこにある。
何かが起きたのだ。
精霊を狂わせる何かが。
その何かは、やはり人間が精霊を取り込んでいったことと関係があるのだろうか。
あるはずだ。
人間がこの地に降り立つまで、精霊は狂うということなどなかったのだから。
何かが起きたのだ。
この地に降りた人間が精霊たちを取り込むことを覚えたそのあとに。
精霊たちを狂わせるような何かが起きた。
それはジャン王と船長の戦いが終わったあとのことだろうか。
それともその前のことだろうか。
いったい、いつ、何が起きたのか。
モウラとの話を終えたバルドは、モウラの父に案内されて一行と合流し、霧の谷を出た。
そこから真西に向かった。
順路からいえば南西に向かうところであるが、そうすればシェサの村の付近を通ることになる。
それを嫌って西に迂回したのである。
「伯父御。
ここからほんの少し北に回れば、例の滝のほとりではありませんか。
今夜はあそこで野営をしましょう」
四日目に、ゴドン・ザルコスがそう言った。
反対する理由もなかったので、バルドはうなずいた。
そして、滝のほとりに着いた。
この前ここに来たのは七年前だった。
バルドとゴドンとカーズとジュルチャガと、そしてドリアテッサが。
あのときは秋だったが、今は春だ。
木々や草の色は違うが、しかし静かで豊かな景色はあのときと同じといってよい。
一行は、野営の準備を始めた。
「ここが、ドリアテッサ様がカーズ様の修行を受けた場所なのですね」
たきぎを集めながらタランカがそう言った。
バルドは、そうじゃ、と返事をしてから、はてなぜ知っておるのじゃ、と疑問に思った。
クインタもゴドンに質問をしている。
「ゴドン様。
カーズ様がバルド様に導かれて騎士の誓いをなさった岩棚というのは、どこですか」
「ん?
おお!
あれか。
あれは、ほら。
あそこに突き出した岩棚があるじゃろう。
あの一つ下側の場所じゃ。
よいしょ、と。
ほれ。
ここじゃ、ここ。
この辺りでこちらを向いてカーズがひざまずき、この辺りで伯父御が先達を務めたのじゃ」
「そうですか。
ありがとうございます」
「ちょっとちょっと。
ドリアテッサ様の修行とか、カーズ様の誓いとか、何の話なのよ」
「ちょっと簡単には話せない」
「あとだ、あと」
カーラの質問に、タランカとクインタが異口同音に答えた。
野営の準備が調い、食事が始まった。
食事が一段落したころ、カーラが改めて質問した。
「さっきの話、教えてよ」
「ああ、うん」
タランカとクインタは目線を交わしたが、タランカが説明することになった。
「じゃあ、ちょっと長い話をしよう。
バルド様が大陸東部辺境の、ここよりずっと南のほうにあるパクラのご出身だということは知ってるかな。
今から八年前のこと、バルド様は引退して旅に出られた。
ちょうどそのとき、パルザムの王都から勅使が訪れていた」
タランカは物語った。
バルドがジュルチャガと協力してコエンデラ家の陰謀を暴いて裏をかいたこと。
その後、ゴドンと出会い、ジュルチャガも供に加わって辺境を旅したこと。
その旅での数々の活躍。
ドリアテッサとの出会いを。
カーズの騎士の誓いを。
長い話とタランカは言ったが、それは実によく整理された端的な物語で、さほど時間もかけず語り終えた。
「こうしてドリアテッサ様は、辺境競武会への出場資格を得て、ジュルチャガ様を伴って帰国なさった。
バルド様たち一行はその後も驚くような冒険を続け、翌年の四月にはロードヴァン城でご一行は合流されるんだ。
その辺境競武会でドリアテッサ様は総合部門で優勝という快挙を果たされる。
細剣部門の選手が重装備の騎士を抑えて総合優勝するなど、かつてなかったことだという。
それにも実は裏話があるんだけれどね。
まあ、話はここまでにしておこう」
カーラはといえば、あんぐりと口をあけて、目を見開いて話を聞いていた。
よくなじんだものだ。
もともとカーラはタランカやクインタに距離を置いていたし、タランカやクインタも怪しげな目でカーラをみていた。
実際、カーラには何か隠していることがある。
そもそもこの一行にカーラを加えたのも、目の届く所で見張っていようと考えたからだ。
だが、アギスでのカーラの様子をみて、タランカとクインタの接し方は変わった。
テンペルエイドや村人の治療をするカーラの様子をみて、バルドの見方も変わった。
このおなごは悪い人間ではない、と思うようになったのだ。
十八歳という若さにふさわしい柔軟さで、カーラは一行と親しさを増した。
こうして話を聞いている様子も、もうすっかり打ち解けたものといってよい。
それにしても。
それにしても、タランカはどうしてバルドの旅のことを、こんなにも詳しく知っているのか。
「いやいや。
驚いた。
見事じゃ。
伯父御のことを、よくもそこまで。
いったい誰に聞いたのじゃ」
「ゴドン様。
実は、本が二冊あるのです。
一冊はドリアテッサ様がお持ちなのですが、『辺境の老騎士冒険譚』という本です。
これは、ジュルチャガ様がゴリオラ皇国の皇宮前広場で語られたものを、吟遊詩人が書き取ったものが元になっているそうです。
ゴリオラ皇国のある伯爵がそれを本になさったのですね。
アーフラバーン様がこの前ドリアテッサ様にお土産にと持って来られました。
私やクインタはそれを見せていただいたのです。
もう一冊は、『バルド・ローエン卿偉績伝』という本です。
これはパルザム王国で書かれた本です。
前半部分は、辺境競武会の折にロードヴァン城で、ドリアテッサ様やジュルチャガ様や騎士マイタルプ殿が語ったものを、パルザム王国のある貴族家の家臣が書き取ったもので、後半部分はその貴族自身が見聞きしたバルド様の言行記録になっています。
クーリ司祭様が秘蔵なさっておられるのを読ませていただいたのです」
なんとあきれたことか。
バルドの伝記が二種類も出来ているというのだ。
だがジュルチャガが語った内容というのは、相当に脚色が効いていたはずだ。
ところがタランカが語った内容は、事実に即したものといってよい。
つまりタランカは物事の本質を正しく見抜く目と、それを客観的な言葉で表現できる能力を持っている。
「そうなんだ。
でも、なんていう。
なんていう英雄譚。
こんな話が現実にあるなんて。
で、続きは?」
「え?
続き」
「そうよ。
まず、その裏話っていうのを話しなさいよ。
辺境競武会で何があったの?」
結局、タランカは次から次へとバルドの物語を語った。
辺境競武会での、カーズの、ドリアテッサの物語を。
そしてバルド・ローエンが〈巡礼の騎士〉を歌い、居並ぶ騎士たちが唱和する物語を。
カーラはそれでも満足せず、その次はどうなった、それからどうなったと、物語の続きを聞きたがった。
求めに応じてタランカは語った。
パルザム王国中軍正将に任じられてからのバルドの活躍を。
コルポス砦の救援を。
シャンティリオンとの民衆救済の旅を。
そして三国合同部隊を率いてのロードヴァン城での凄絶な防衛戦を。
はて、とバルドは思った。
パルザムで出来た本というのがシャンティリオンのしわざだとは知っていたので、コルポス砦のことやそのあとの旅について書いてあるのは分かる。
しかしロードヴァン城への魔獣大侵攻のことは、なぜ知っているのか。
と考えて、すぐに気がついた。
ナッツだ。
ナッツ・カジュネルだ。
ロードヴァン城でバルドの副官を務めたナッツ・カジュネルは、シャンティリオンが貸してくれたアーゴライド家の騎士だ。
アーゴライド家に帰ったナッツは、出来事の顛末をシャンティリオンに報告したに違いない。
まさかそのためにナッツを貸してくれたわけでもあるまいが。
いや。
もしかしたら、そうだったのか。
タランカの話は続いている。
シンカイ軍の中原への侵攻。
ワジド・エントランテに任じられたバルドがこれをいかに打ち破ったかを。
騎士ゴーズ・ボアの見事な最期を。
皇王に招かれゴリオラ入りする直前でマヌーノの女王の招きを受けて姿を消し、その後クインタたち五人のみなしごを助けたこと。
フューザリオンの創設と発展。
シンカイ軍の再侵攻。
ロードヴァン城に集った二十人の勇士たちを率いての物欲将軍との決戦。
聞き続けるカーラはあぜんとして声もない。
だがひどく話の内容に引きつけられている。
話がマヌーノの女王に及んだとき、その瞳に妖しい光が浮かんだのを、バルドは見逃さなかった。
タランカが話を終えると、先ほどからうずうずしていたゴドンが口を挟んだ。
そして語った。
バルドと二人きりであったころの旅の様子を。
どんな村に行き、どんな冒険があったのか。
三人兄妹の仇討ちの話を。
月魚の沢での騒動を。
ジャミーンの勇者との出会いを。
クラースクでの悪徳商人の陰謀を。
エンザイア卿の城での出来事を。
ドリアテッサとの出会いを。
ロードヴァン城に攻め寄せたゲルカストたちとの対決を。
エングダルとの邂逅を。
メイジア領での反乱鎮圧の顛末を。
熱を込めてゴドンは語った。
タランカの、そしてゴドンの物語る様子を聞きながら、バルドは不思議な心地がしていた。
以前なら、こんな話を目の前でされるのは、たまらなくいやだった。
だが今は、それほどでもない。
それほどでもないどころか、むしろ好ましく思っている。
なぜじゃ、と考えた。
そして知った。
自分の心のうちを。
どうせバルドの余命はそう長くない。
そのうち死んでしまう老いぼれだ。
自分についてどうこういわれても、痛くもかゆくもない。
だが。
だが、である。
バルドの物語を物語るということは、彼と冒険を共にした人々のことも語る、ということである。
ザイフェルトの高潔を。
ゴーズ・ボアの雄姿を。
マイタルプ・ヤガンの奮戦を。
見事な騎士たちの戦いぶりとあざやかな生き様を物語るということである。
そしてまた、三人の兄妹の志を。
偏屈な革鎧職人の技を。
剣匠ゼンダッタの生き様を。
市井に生き、輝きを放った人々の思い出を語るということである。
そうした物語を、若い世代の者たちが語り、聞く。
それはよいことだ、とバルドは思った。
それらが人々の記憶から失われることなく語り継がれるとしたら、それはとてもよいことだ、と思った。
そしてまた、バルドは思った。
今回の旅の意味と目的をも、この若者たちに話しておくべきではないかと。
今までは、旅の理由は話していなかった。
不要な重荷を背負わせたくなかったからである。
自分が追究している問題は他の人間には理解しにくいだろうということもあった。
だがいくら理解しにくく興味を持ちにくいことであっても、話しておかなければそれだけのことだ。
話しておけば、これから出合うものを、彼らなりに受け止めることができる。
受け止め、判断し、味わうことができる。
その可能性は与えておくべきだ、と思ったのである。
だからバルドは、ゴドンが語り終えたあと、語った。
精霊と魔獣の真実を。
人間がこの大陸の先住者ではないことを。
ジャン王の願いを。
魔剣の歴史を。
物欲将軍の背後にいた何者かのことを。
マヌーノの女王からの贈り物のことを。
マヌーノを操り、魔獣の大群を侵攻させた何者かのことを。
見え隠れする竜人たちのことを。
そうした真実を明らめ、まだ見ぬ敵と戦うため、この旅に出たのだということを。
そしてまたバルドは語った。
カーズ・ローエンの出自と、狼人王の国の滅亡のいきさつを。
これは語り伝えてもらうためにではない。
ただカーズはまだまだこれから長い時を生きるのだから、その秘密を知った人間もいてよいと思ったのだ。
それにこれからクラースクに行く。
その前に事情を話しておいたほうがよい。
話し始めてカーズのほうを見たが、カーズは嫌がるふうでもなかった。
ただ静かに聞いていた。
タランカ、クインタ、カーラの三人は、食い入るようにバルドの話に聞き入った。
ゴドン・ザルコスもまた、目を閉じ静かに話を聞いた。
結局、バルドの話が一番長くなった。
語り終えたときには、もう夜が明けていた。
一行は、この滝のほとりで一日休憩することにした。
昼に目を覚ましたとき、カーラが岩棚にぽつねんと膝を抱えて座っていた。
しょんぼりした様子なのが気になって、バルドは近寄り、どうかしたのか、と声を掛けた。
「だって。
だって、あんなの聞いたら。
聞かせられちゃったら。
あたしのしようとしてきたことなんか、ちっぽけすぎて。
ちっぽけすぎて、おかしくて。
いったい、あたし、何をしてるのかなあって」
バルドはしばらく滝壺の水のせせらぎを見つめたあと、こう言った。
物事に大きいことと小さいことの区別はある。
じゃが大きいことだけが尊くて、小さいことはつまらない、ということはない。
それぞれみんな尊いのだ。
それにな。
大きなことをなす人間は、小さなことを一つ一つ丁寧にするものだ。
その積み重ねが大きなものを生み出すのだ。
カーラはじっとバルドの言葉をかみしめていたようだった。
バルドはバルドで、おのれの心の内を不思議な思いでみつめていた。
どうして、わしの心はこんなにも朗らかで平静でそして満たされているのか。
それは不思議なことだった。
もうずいぶん長いこと覚えのないほどに、バルドの心は安らいでおり、静かな力であふれていた。
しばらく考えて、答えが出た。
それは、一人で抱えていた秘密を若者たちに話して聞かせたからなのだ。
バルドには、今、二つの気がかりがある。
一つは精霊の魔獣化はなぜ起きたのか、ということである。
もう一つは、悪霊の王と呼ばれる存在と、それに使役されているという竜人のことである。
この二つのことが相互に関わり合っているのかどうか、それは分からない。
分からないが、関わり合っているということは、大いにありそうなことである。
だが、それを知ってどうするのか。
魔獣化を引き起こした問題が発見できたとして、それをこの一人の老人がどうにか解決できるわけなどあるだろうか。
〈大地に根を張る者〉となったモウラは、魔獣化の謎を解き、精霊たちを助けてくれとバルドに頼んだ。
しかしこんな老いぼれに、そんな大それたことができるはずがあるだろうか。
また、悪霊の王なる存在は、かすかに知り得た断片からも、あまりに強大な敵だと分かる。
おそらく大国の総力を挙げても滅することは難しいような、そんな巨大な相手だ。
その途轍もない大敵に、徒手空拳で挑むというのか。
シャントラ・メギエリオンを持つとはいえ、この剣の力は物欲将軍にさえ通じなかったのである。
まったく戦いようなどないではないか。
だから、バルドの心は重かった。
精霊の問題と、悪霊の王の問題と、二つをただ一人で抱え、解決し打ち破らねばならないという絶望的な使命を持て余していたのだ。
けれど、それをバルドは若者たちに話した。
話すことによって解放された。
それは、若者たちと使命の責任を分け合ったということではない。
もともと誰かと分かち合えるような性質の問題ではないのだ。
そうではなく、自分は自分としての戦いを戦えばよい、と踏ん切りがついたのだ。
解決できない問題は、解決しなければいい。
戦って勝てない相手には、勝たなければいい。
ただ淡々と、知るべきことを知り、戦うべき戦いを戦うのだ。
力及ばねば、倒れて死ねばいい。
だが、バルド・ローエンがそんな戦いに向かったことを知る者がいる。
その者たちのあとには、同じ問題と向き合うことになる者たちも続くだろう。
そうしていつか魔獣化の問題が解決され、悪霊の王の脅威がなくなればいい。
それはどんな道筋になるのか、今のバルドには見当もつかない。
ただ未来を楽しみに、自分は自分の戦いを戦うまでだ。
そうだ。
若者たちに秘密を打ち明けることにより、バルドは未来と手をつないだのだ。
2
翌日、滝のほとりから旅立つとき、バルドはカーズに、クラースクに行くぞ、と言った。
カーズは黙って小さくうなずいた。
一行は西に進み、いったんボーバードに入った。
塩と酒の残りが乏しくなっていたからである。
それから南に下った。
マジュエスツ領は迂回した。
というより人の集落には近づかずに進んだ。
一行がクラースクに到着したのは、五月の中旬のことである。
フューザリオンを出てから一か月半が過ぎていた。
1月16日「ハドル・ゾルアルス(後編)」に続く