忘れない令嬢
「写し紙」と笑われてきた令嬢が、王宮の裁きの場で、五年前の証文を読みあげたとき。
婚約破棄、ざまぁ、そしてハッピーエンド。一話完結です。
「イーダ。お前、また掲示板の前で立ち止まっていただろう」
婚約者のフェルディナンドは、馬車に乗るなり、うんざりした顔で言った。
「町の触れ書きなど、令嬢が読むものではない。それも、一枚残らず覚えて帰ってくるなど、気味が悪い」
イーダ・ローゼンタールは、窓の外に目をやったまま、何も言わなかった。
覚えようとしたわけではなかった。目に入ったものは、勝手に頭の中に残ってしまうのだ。
一度見た字。一度見た顔。一度見た地図。五年前に読んだ本の、何ページ目の、何行目に、どんな言葉があったか。イーダの頭は、それを全部、写し取ってしまう。
子どものころは、家庭教師が驚いてほめてくれた。けれど、婚約してからは、フェルディナンドに「写し紙」と呼ばれるようになった。
「お前と話していると、自分が帳面に書きとめられているようで落ち着かない」
だからイーダは、なるべく何も見ないようにして暮らしてきた。目を伏せて、窓の外を見ないで。それでも、目に入ってしまうものは、どうしようもなかった。
*
王宮の裁きの間に呼び出されたのは、父の一周忌が過ぎたばかりの、秋の終わりだった。
正面の席には、第二王子のアルブレヒト殿下が座っていた。王都の土地や家の争いを裁く役を務めている方だ。
その前で、フェルディナンドの父、ヴァイデン伯爵が、一枚の紙を掲げていた。
「殿下。こちらが、亡きローゼンタール子爵が、五年前に私と交わした証文でございます」
イーダの胸が、ひやりとした。
「子爵は、当家から多額の金を借りておりました。返せなかった時には、ローゼンタール家の北の森を、当家に譲ると。ここに、子爵の署名と、印がございます」
伯爵は、紙を殿下の前に置いた。
「子爵が亡くなられた今、約束どおり、北の森を当家にお渡しいただきたい」
ざわめきが広がった。北の森は、ローゼンタール家の領地の半分にあたる。領民たちの薪も、木の実も、すべてあの森から取っていた。
殿下は、証文に目を落とした。
「ローゼンタール嬢。この証文に、覚えはあるか」
イーダは、首を横に振った。
「父から、そのような話を聞いたことはございません」
「聞いていないだけでしょう」
フェルディナンドが、横から口をはさんだ。
「子爵が、娘に借金の話などするものか。……殿下、ついでに申し上げます。私は、この場をもって、イーダとの婚約を解消いたします。何でも覚えている写し紙のような女は、もともと好きになれませんでした」
くすくすと、誰かが笑った。
イーダは、目を伏せかけて、やめた。
(……見なければ、分からない)
五年間、見ないようにしてきた。けれど、今は、見なければならなかった。
「殿下。その証文を、わたくしにも見せていただけますか」
*
証文は、イーダの手に渡された。
イーダは、一行ずつ、ゆっくりと目で追った。
日付。五年前の、春。
借りた金の額。返す期日。
そして、北の森を譲る条件の下に、こう書かれていた。
――引き渡しの際は、王都北門の石橋のたもとにて、立ち会いのうえ行うこと。
イーダは、顔を上げた。
「殿下。王都の北門に、石橋がかかったのは、いつのことか、ご存じですか」
「……北門の橋か」
殿下が、眉を寄せた。
「三年前の秋です」
イーダは、静かに言った。
「三年前の秋、九月の十日。町の掲示板に、触れ書きが貼り出されました。『北門の木の橋を取りこわし、石橋にかけかえる。工事は九月十五日より、翌年の春まで』。……わたくしは、その触れ書きを、見ております」
広間が、しんと静まった。
「五年前の春には、北門には、まだ古い木の橋しかございませんでした。石橋は、どこにもなかったのです」
イーダは、証文を殿下の前に戻した。
「五年前に書かれた証文に、三年前にできた石橋のことが書いてあります。……この証文は、五年前に書かれたものではありません」
伯爵の顔から、さっと血の気が引いた。
「そ、そんなもの、娘の思いこみだ! 掲示板の触れ書きなど、覚えているはずが――」
「北門の橋の工事なら、王宮にも記録がある」
殿下が、静かに言った。
「それから、もうひとつ聞こう。ローゼンタール嬢。お父上の字を、覚えているか」
「はい」
イーダは、少しだけ、目を閉じた。
父の書斎の机。父がくれた誕生日の手紙。毎年の、領地の帳面。何百回も見た、父の字。
「父は、署名の最後の『ル』の字の、はらいを、かならず上に跳ねさせました。若いころ、剣の稽古で右手の指を痛めてから、そうなったと聞いております」
イーダは、証文の署名を指さした。
「この署名は、はらいが、まっすぐ下に流れています。……父の字では、ございません」
*
王宮の文書庫から、北門の工事の記録が運ばれてきた。三年前の秋、九月十五日、着工。
ローゼンタール家に残されていた父の書きつけと、証文の署名も、並べて比べられた。最後の一文字のはらいは、どれも上に跳ねていた。証文のものだけが、ちがっていた。
ヴァイデン伯爵の家の書記が呼ばれた。証文と北門の記録を並べて見せられると、書記は、その場にへたりこんで話しはじめた。子爵が亡くなったあとに、伯爵に命じられて書いたこと。古い紙を手に入れるのに苦労したこと。けれど、文面は、伯爵が自分で考えたこと。
「森の引き渡しの場所に、見栄えのいい石橋を選んだのが、運の尽きだったな」
殿下は、あきれたように言った。
「この王都で、触れ書きを一枚残らず覚えている娘がいるとは、思わなかったのだろう」
ヴァイデン伯爵は、偽の証文を作った罪で、爵位を預かりとされた。フェルディナンドは、イーダのほうを一度も見ないまま、父親と同じ馬車で、裁きの間から連れ出されていった。
北の森は、ローゼンタール家のものとして、正式に記録された。
*
裁きの間の人がいなくなったあと、イーダは、殿下に呼び止められた。
「ローゼンタール嬢。三年前の触れ書きを、本当に一字一句覚えていたのか」
「はい。……覚えてしまうのです。見たものは、全部」
「全部、か」
殿下は、少し考えるように黙った。
「王宮の文書庫には、何十年ぶんもの記録がある。だが、どこに何があるのか、すぐに分かる者がいない。今日のように、古い記録一枚を探すのに、半日かかることもある」
殿下は、イーダをまっすぐに見た。
「文書庫を、手伝ってもらえないだろうか」
イーダは、目をまばたかせた。
「わたくしが覚えているのは、見たものだけです。見ていない棚のことは、分かりません」
「では、全部見ればいい。棚は、逃げない」
イーダは、思わず笑ってしまった。
それから、ふと、殿下の顔を見上げた。
「殿下。実は、わたくし、殿下に、前にもお会いしたことがございます。七年前の冬、父と一緒に王宮の図書室へまいった時に。殿下は、窓辺で、星の本を読んでいらっしゃいました。……三百十二ページを」
殿下が、目を丸くした。
それから、少しだけ、耳の下を赤くした。
「……覚えていない、とは言えないな。あの時、本を貸してくれと言ってきた小さな子がいた。断ってしまって、あとで悪かったと思っていた」
「はい。断られました」
「それも、覚えているのか」
「全部、覚えております」
殿下は、困ったように、けれどうれしそうに笑った。
「では、今度は、断らない。……図書室の星の本、明日、一緒に読まないか」
イーダは、うなずいた。
明日のことも、きっと全部、覚えているだろうと思った。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
今回の令嬢の力は「記憶」です。一度見たものを忘れない目が、五年前の証文に紛れこんだ、三年前の石橋を見つけました。
忘れられないことは、つらいことも多いはずです。だから最後は、忘れたくない明日の話にしました。
シリーズ「ふしぎな力を持つ令嬢たち」の一作です。ほかの令嬢たちのお話も、よろしければどうぞ。




