第七話 正常
あ、朝だ。
窓には朝日が差し込み、私を照らす。
昨日、薬を見ることはなかった。あの封筒の中身が何だったのか私は知らないし、わざわざ知ろうとも思わない。スマホを開こうかと思ったけれど、姫川さんと取り合ったメールが消えてしまっていると思うと怖かった。
一階からお母さんの声がする。
「起きなさいよ~!」
どっちだろう。不機嫌なお母さんでもたまにこんな声を出すことがあった。
私は制服に着替え、階段を降りる。
「遅いじゃない」
「ゴメン。昨日眠れなくて」
「そう……あ、そんなことより急ぎなさい。お母さんもう仕事行くから」
そう言い残してお母さんは行ってしまった。
食卓には焦げ気味になったトーストが一枚。フルーツも何もないけれど、自分以外が焼いたトーストはいつもよりキラキラとして見えた。単にバターの塗りすぎかもしれないけれど。
私はそのパンを食べながらテレビをつける。日本特殊事案省の広告が流れていき、薬を絶対に飲むよう繰り返す。飲まない人もいるのだろうけど、その人は自分が飲んでいないことにもきっと気が付かないのだろう。
私は服についてしまったパンくずを地面に落とし、髪を整える。
もちろん鏡に映る私は美少女などではなく相変わらずの陰キャ顔――こんな顔で姫川さんとおしゃべりしてたんだ。浅い笑いが急にこぼれ出てくる。髪を長くする勇気はまだ得られていないので、ざっと櫛で寝ぐせを取るだけ。顔を洗ってタオルでこする。
……カバン、筆記用具、そして私。
どれも忘れることなく、私は家を後にした。
家のドアは忘れることなく閉めてしまった。閉めなかったら今すぐにでも戻る理由として使うのに……
私と同じ制服を着た人たちがチラホラと集まってくる。もちろん彼らと接したことなどないけれど、なぜか私を見ているよな気がしてならない。お前が変えたんだと後ろ指を指されるような感覚が体を這って登ってくる。
その上、姫川さんを無意識に探してしまう自分に気が付いた。姫川さんがもし薬を飲んでいなかったら。いやいや、そんなのあり得ないよ。絶対、絶対に。
しばらく歩き、校門が見えてきた。
そして姫川さんたちのグループが楽しそうに話しているところに会ってしまった。姫川さんは変わらず明るい笑顔をグループの仲間に浮かべ、話に華を咲かせている。少し着崩した制服がおしゃれで、私との差をこれでもかと見せつけていた。
「あ、あの」
聞こえるはずがない。だって彼女たちとは十メートルも離れているのだから。
しかし、そんな私に誰かがひっそりと声を掛けた。私が振り返ると、そこには委員長がいた。彼女は勝ち誇ったように胸を突き出し、私を見下ろす。あぁ、そういうことね。委員長に何を言われなくとも分かってしまった。
私は彼女を置いてトボトボと校門へ足を進める。
そんな私に委員長は自信たっぷりに言った。
「私、先生と付き合ったよ」
「そっか、おめでと」
委員長は小走りで私の前に立ち、俯いた私の顔を覗き込んだ。
「その感じじゃ、何も願ってないんだ」
「……」
委員長は姫川さんたちに目を向けた。
――そうだよ、私は何もできない勇気のない人間だよ。悪かったね。心の中でブツブツと言い訳を呟いて、自分の望みを一つ一つ塗りつぶしていく。
私は委員長に言った。
「委員長はいいね、先生の気持ちとか考えずに勝手にできるんだから」
取り返しのつかないことを私は言った。そしてもちろん委員長は怒る。纏う空気を重たく圧縮させ、私にぶつけた。
私って変わってない。自分がつらくなったら普通に人を……あぁぁ、もう嫌だよ。初めから能力なんてなかったらよかった。そうすればこんな苦しむこともなく、ジリジリと弱火で焦がされるだけでよかったのに。
「止まって」
そう誰かが言った。
私は足を止めない。止めたら涙が止まらないと思ったから。そんな私の腕を委員長はキリきりと締めあげるように掴んだ。血管が圧迫され、指先がじんじんと痛みだす。
抵抗しようと思ったけれど、これも恥ずかしくなってやらなかった。
そのせいで……委員長の声が耳に伝わる。
「私は先生のことが好きなの。こうでもしないと伝わらないの、分かってるでしょ。先生と生徒の恋愛はこの現実じゃ許されてないって。私は何も変わってないの」
「……っごめんなさい」
「ごめんなさいって、そんな……」
また私は。委員長を傷つけるつもりはなかったのに。
委員長は小さな声で言った。
「私は自分が正しいと思ってる。あなたも干渉しないって言ったでしょ」
委員長は息を吸った。
「それに私は能力を使えなかった!」
「え……?」
「だから言ってるでしょ、私は能力を使うことが出来なかった。でも先生に思いは伝えたの」
「返事はどうなった、の」
委員長の告白は、まだ私の頭で理解されていなかった。さっき付き合うことになったって言っていてたのに、能力を使えていないってどういうこと? 薬が届くことをなくせなかったってこと? え、でも……そうだったら委員長が付き合える確立は際限なく小さくなっているんじゃ。
私は委員長を見た。彼女は笑っているようにも、ほころんでいるようにも見えた。
委員長は私に顔を向けず告白した。
「だから、私が卒業するまで保留ってことになったの」
「それじゃあなんで、付き合うことになったって」
委員長は再び私に顔を向けた。
「当たり前でしょ、絶対私が付き合うんだから」
はぁ、なんだよ。自信たっぷりに言うから勘違いしちゃったじゃん。でも、その強すぎる自信が羨ましい。私にも一割でもいいから分けてくれればいいのに。私が呆れかえっていると、委員長は言い残して数ぐ去ってしまった。
――「先生に薬が届くことを私は望んでいたのよ。きっと深層では」
委員長らしいかっこつけ。
溜息しか出てこないよ。
それに委員長の言葉通りなら私は姫川さんに薬が届くことを願っていたのだろう。自分自身が決めて、私はこの現実を選んだんだ。そうやって自分自身を納得させようとしても、まだ虚しさが体の奥底には残り続けていた。
一人で校門を通り、一人で靴を履き替え、一人で教室のドアを開く。
先に教室にいた姫川さんは私をチラッと見たけれど、すぐグループの話を再開させた。委員長は相変わらず真面目一辺倒と言わんばかりに単語帳を開いている。
そして私はいつも通り本を開く。読めもしない文字をなぞり、意味もなくページをめくっていく。しかし今日はいつの間にか物語の中に入り込んでいたのか、次に気が付いた時は委員長が「起立」と言う時だった。
いつの間にか入ってきた担任の先生が、委員長に目を向けていたことを私は見逃さず、彼らの恋路をひそかに応援した。
「えー、なんだっけ。えっと、そのそうだな。今日はしっかり元気にやっていこう」と先生が言った。
「何かあったんですかせんせ~」と姫川さんが言う。
「いや、何もないよ。そんなことより姫川もしっかりやれよ。最近態度が悪いって報告来てるんだから」
姫川さんが軽口を返している間も先生はどこか挙動不審だった。あんな風じゃこれからの恋路も浮かばれないな。
そして私は姫川さんの声を聴いていると、チャイムが鳴った。
私のちょっと苦手な数学の先生が来る。変わっていてほしいと願っていたけれど、どうせいつも通りにやってくるのだろう。
教科書を出して待っていると、案の定先生は変わっていなかった。
私の苦手なとこをついてきて、わざわざクラスの晒しものにする。そしてそこから午前中四時間、それぞれの先生は何も変化していなかった。そりゃそうと言えばそうなんだけど、一抹の期待が吹き飛んだような悲しさを私は感じた。
待ちに待った昼休憩。委員長は先生に一緒に食べましょうとアタックしていたけれど、もちろんジャージ姿の先生は断ってそそくさと職員室へと逃げ帰っていった。
私もあんな風に突撃できればいいのだけど、相変わらず自分自身は変わることが出来ない。仕方なくお弁当を開けると、昨日盗られてしまった玉子焼きがきっちり二個入っていた。
「姫川さん、食べないでよ」
と呟きながら私は一人でそれを食べる。
でも、ちょっとの抵抗として一個だけお弁当箱に残しておいた。昼休憩の時間も姫川さんが来ることはなく、ガヤガヤと楽しそうな声を頭越しに聞くだけだった。
そして昼休憩は終わり、午後の授業も問題なく終わり……終わってしまった。
委員長が終礼の挨拶を――「起立、礼」
「「「ありがとうございましたー」」」
そして私は姫川さんに目を向ける。グループのお友達は、何か用事があるのか姫川さんを残して先に家路についた。
話すなら、この時間しかない。そう私の脳は教えてくれるのだけど、私はその機会をものに……待ってよ。もうちょっと決断するための時間が欲しい。もっともっと、時間が止まってほしい。けれども能力を使ってなんてしたくない。
……動いて。
体、動いて。
私はしっかり変わったじゃん。何がとは言えないけれど、何かこう大切なものが変わったじゃん。
私にしかできないんだって。
動いた、私の足は。姫川さんに向かい、そして何故か話しかける。
「あっ、あのその……」
姫川さんは私なんかが話しかけると思いもしていなかったのだろう、キョトンとした顔のまま私をじっと見つめる。
今すぐ引き返せば、きっと何とかなるのは分かってる。身の程知らずにも話しかけた私が失礼なんだって分かってる――でも、今はやる。負けてしまったとしても私はやる、やらないとあの奇跡がすべてなかったことになってしまう。
「姫川さん!」
「う、うん!?」
「私と、えっと……友達になってくれませんか」
あー、行っちゃった。進入禁止の標識を無視して進めてしまった。姫川さんはまだ私の馬鹿々々しい言葉が咀嚼しきれていないのか首をかしげるだけ。教室にまだ残っているクラスメイト達も私を見て、そして何かを背中に刺す。
恥ずかしい、今すぐにでも逃げ出したい。顔が赤くなっているのがよく分かる。それに……それに委員長も私を見てる。
チラッと視線を上げると、姫川さんと交わった。
「ちょっと逸らさないでよ」
「は、はい」
「私と友達になりたいんだよね?」と姫川さんは言った。
私は口が縫い合わされたように声を出せなかった。
姫川さんはさらに困ったような顔を浮かべ、スマホを取り出した。可愛くデコレーションされた白のスマホケースがやけにてかついて見える
「えっとね、今日は用事があるから遅くなるんだけど」
「はい」
「とりあえず連絡先だけ交換しとこ? あ、あと一時間くらい用事があって帰れないんだけど、そこまで待つって……無理だよね~」
「待ちます」
「え? いいの?」
「大丈夫、です」
「ありがと~。一人で帰るのちょっと寂しかったんだよね。なるべく、なるべく早く戻ってくるから適当に時間つぶしといて!! それじゃ、また!!」
姫川さんは教室から飛び出て行った。クラスメイト達は一部始終を見てまだ驚いているみたい。私は、何だろうな、ふわふわしてる感じ。とりあえず机に座り、さっきまでの光景を頭の中で思い返す。
どうしてあそこでできたのか、どうして姫川さんは私と連絡先を交換してくれたのか。
ははは、笑っちゃうよ。勇気なんて綺麗なものじゃないけれど、私は自分自身を賭けに出すことが出来た。
決断して、変わった。
机でじっくりと喜んでいる私に、委員長が声を掛けた。
「やっぱりバカだね」
私はあの言葉を返す。
「どうでもいいよ」
委員長は少しムッとしながら言った。
「あっそ。勝手にすればいい、私たちは互いに関わらないんだから」
そんな委員長も怒っているわけじゃないことはもう知っている。前までの私なら嫌われたんじゃないかって気に病むところだけど、委員長は徹頭徹尾あんな人間だ。
私はスマホを開いた。
姫川さんと初めて交換したまっさらな会話。四月からの積み重ねは当然なかったことになっているけれど、これからまた重ねればいいか。
どこまでが現実か誰も分からないけれど、私が今感じている喜びは、はっきりと私のものだと言えるような、そんな気がした。




